青春18きっぷ、文学少女の乱読旅行記

 翌日。正午過ぎの大阪・千日前。

 道具屋筋の喧騒を一本折れた先にある、小さな古書店。

 カビと古い紙の匂いが満ちる店内で、私は脚立に登り、黙々と文庫本の背表紙の埃を払っていた。

 首元には、蓮見の噛み跡を隠すための、ファンデーションと薄手のスカーフ。

「おーい、シィカちゃん。無事に戻ったか」

 帳場の奥から、源さんが老眼鏡を外して顔を出した。

「はい、源さん。昨日、最終で戻ってきました」

 私は脚立から降り、お淑やかに会釈した。声は、清楚で丁寧な標準語。

「えらい遠くまで行ってたみたいやけど、どうやった? 面白い『本』は読めたんかいな」
「ええ、とても」

 私はエプロンのポケットから、ボロボロになった一枚の青いきっぷを取り出した。

 五つのスタンプが、乱暴に、けれど誇らしげに並んでいる。

 リクルートスーツの就活生。

 砂丘の漁師青年。
 宍道湖の元教師。
 尾道の冷徹なカメラマン。
 そして、播州赤穂の無垢な少年。

「全部、最後まで綺麗に読み終えましたよ。……でも、どれも読み捨てのペーパーバックみたいなものでしたから」
「なんや、贅沢なこっちゃな」

 源さんが笑いながら、新しい古書の山を指差した。

「ほなら、また日常の仕事に戻ってもらおか。新しく買い取った文学全集、値付け頼むわ」
「はい、分かりました」

 源さんが奥の茶の間に引っ込むのを見届け、私は店のガラス戸へと歩み寄った。
 外のミナミの街は、今日も茹だるような熱気に満ちている。

 すれ違う男たち。スーツの男、学生、観光客。

 彼らは誰も知らない。

 このガラス戸の向こうにいる、清楚な文学少女が、五人の男の人生をめちゃくちゃに乱読し、その体液と執着を背負ったまま、平然と笑っていることを。

 今頃、あの男たちはどうしているだろう。

 就活生は面接の最中に私の太ももを思い出しているだろうか。
 漁師は海を見るたびに解けたビキニの紐を探しているだろうか。
 元教師はあの栞を抱いて、一生私の亡霊に苛まれるのだろうか。

 透は、二度と戻らない私の温もりを探して、街行く女の中に私の面影を追い続けるのだろうか。

(……ほんま、男って哀れで、可愛らしい生き物やわ)

 五つのスタンプが押された『青春18きっぷ』を、ゴミ箱の上にかざす。

 躊躇いなく指を離すと、それは丸められたレシートの山の中へと、音もなく落ちていった。

 利用価値のなくなったテキストは、古紙回収に出すのが礼儀。

 ガラス戸に映る自分の顔を見る。

 唇を紅く塗り直し、私は心の中で、誰に向けてでもなく呟いた。

「読後感、最悪。……でも、やめられないでしょ?」

 夏の終わりを告げる風が、道頓堀のネオンを揺らしていた。
 次は、冬の18きっぷ。

 雪の降る北国で、どんな男(テキスト)を凍えさせ、溶かしてやろうか。

「……知らんけど」
 少女は静かに本を開き、新しい獲物が迷い込んでくるのを、天使のような笑みで待ち続けた。

(了)