彼が逗留していたのは、大橋川沿いに佇む、築百年の小さな古民家宿だった。
磨き上げられた黒光りする廊下を歩くたび、ギイ、ギイと控えめな軋み音が響く。通された二階の部屋は、六畳一間の純和風。薄暗い行灯の光が、障子に柔らかな影を落としていた。
窓の外からは、夜の川のせせらぎと、時折降る小雨の音が聞こえてくる。
「何もない部屋ですみません。お茶くらいしか出せませんが」
慎平は湯呑みを差し出しながら、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
私は畳の上に正座し、湯呑みを受け取ると、両手で包み込んでふぅと息を吹きかけた。
「ううん、すごく落ち着きます。……誰かの生活の匂いがする場所、好きです」
私のサマードレスは、小雨で少しだけ濡れていた。
薄い生地が鎖骨から胸元にかけて透け、インナーのレースの輪郭が浮き上がっている。慎平はそれを見ないようにしながら、けれど抗えない重力のように、視線を私の襟元へと引き戻されていた。
「濡れてしまったね。風邪を引くといけないから、羽織るものを……」
立ち上がろうとする彼の麻シャツの裾を、私はそっと掴んだ。
「慎平さん」
「……はい?」
「私、寒くありません」
私は彼を見上げ、ゆっくりと立ち上がった。
畳の冷たさが足裏に心地いい。至近距離で見つめ合うと、彼の瞳の奥にある、深い孤独と、長らく抑え込まれていたであろう男の渇望が、生々しく渦巻いているのが見えた。
「先生って、生徒に本を読むとき、どんな声を出していたんですか?」
「……そんなこと、もう忘れましたよ」
「教えてください。……言葉じゃなくて、声で」
私は彼の手を取り、自分の胸元へと導いた。
コットンの布地越しに、私の柔らかな乳房の膨らみと、トクトクと速まる鼓動が彼の手のひらに伝わる。
「シィカさん、君は……」
「シィカ、って呼んでください。……先生」
その瞬間、慎平の腕が私の腰を引き寄せた。
抱きしめられた胸の熱さに、息が止まりそうになる。昼間の青年の強引さとは違う、壊れ物を扱うような、けれど絶対に逃がさないという執着に満ちた腕の力。
唇が重なる。
それは、驚くほど静かで、甘美な口づけだった。
慎平の舌は、哀しいほど丁寧に私の口内を巡り、震える吐息を分け合っていく。彼の乾いた唇が、私の熱を吸い取ろうとするかのように貪欲に重なる。
「……ずっと、寂しかったんだ」
唇を離した慎平が、私の首筋に顔を埋め、掠れた声で囁いた。
「誰かに触れてほしかった。自分の存在を、確かめたかった……」
彼の熱い涙が一滴、私の鎖骨の上にこぼれ落ちた。
(……あぁ、ずるい。男の人の涙ほど、甘くてエロいもんはないわ)
私は母のような手つきで彼の髪を撫でながら、もう一方の手で彼のシャツのボタンを一つずつ外していった。
障子の向こうで雨脚が強くなる。
畳の上に倒れ込み、薄いドレスが脱ぎ捨てられる。行灯の淡い光の下で、白く浮かび上がる私の身体を、慎平の指先が、まるで聖典の余白をなぞるように震えながら辿っていった。
太宰治の私小説のような、湿度九十パーセントの夜。
彼の吐息と、私の甘い喘ぎ声が、古い木造の梁に吸い込まれては消えていく。
激しい結合の中で、慎平は何度も私の名を呼んだ。
「シィカ……シィカ……行かないでくれ、僕を置いていかないでくれ……」
愛の告白というよりは、溺れる者の悲鳴。
私は彼の背中に爪を立て、その哀しい文体を全身で受け止めながら、快感の絶頂へと昇りつめていった。
けれど、私の心の一番奥底は――月明かりに照らされた鏡のように、どこまでも冷徹で、透明だった。
磨き上げられた黒光りする廊下を歩くたび、ギイ、ギイと控えめな軋み音が響く。通された二階の部屋は、六畳一間の純和風。薄暗い行灯の光が、障子に柔らかな影を落としていた。
窓の外からは、夜の川のせせらぎと、時折降る小雨の音が聞こえてくる。
「何もない部屋ですみません。お茶くらいしか出せませんが」
慎平は湯呑みを差し出しながら、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
私は畳の上に正座し、湯呑みを受け取ると、両手で包み込んでふぅと息を吹きかけた。
「ううん、すごく落ち着きます。……誰かの生活の匂いがする場所、好きです」
私のサマードレスは、小雨で少しだけ濡れていた。
薄い生地が鎖骨から胸元にかけて透け、インナーのレースの輪郭が浮き上がっている。慎平はそれを見ないようにしながら、けれど抗えない重力のように、視線を私の襟元へと引き戻されていた。
「濡れてしまったね。風邪を引くといけないから、羽織るものを……」
立ち上がろうとする彼の麻シャツの裾を、私はそっと掴んだ。
「慎平さん」
「……はい?」
「私、寒くありません」
私は彼を見上げ、ゆっくりと立ち上がった。
畳の冷たさが足裏に心地いい。至近距離で見つめ合うと、彼の瞳の奥にある、深い孤独と、長らく抑え込まれていたであろう男の渇望が、生々しく渦巻いているのが見えた。
「先生って、生徒に本を読むとき、どんな声を出していたんですか?」
「……そんなこと、もう忘れましたよ」
「教えてください。……言葉じゃなくて、声で」
私は彼の手を取り、自分の胸元へと導いた。
コットンの布地越しに、私の柔らかな乳房の膨らみと、トクトクと速まる鼓動が彼の手のひらに伝わる。
「シィカさん、君は……」
「シィカ、って呼んでください。……先生」
その瞬間、慎平の腕が私の腰を引き寄せた。
抱きしめられた胸の熱さに、息が止まりそうになる。昼間の青年の強引さとは違う、壊れ物を扱うような、けれど絶対に逃がさないという執着に満ちた腕の力。
唇が重なる。
それは、驚くほど静かで、甘美な口づけだった。
慎平の舌は、哀しいほど丁寧に私の口内を巡り、震える吐息を分け合っていく。彼の乾いた唇が、私の熱を吸い取ろうとするかのように貪欲に重なる。
「……ずっと、寂しかったんだ」
唇を離した慎平が、私の首筋に顔を埋め、掠れた声で囁いた。
「誰かに触れてほしかった。自分の存在を、確かめたかった……」
彼の熱い涙が一滴、私の鎖骨の上にこぼれ落ちた。
(……あぁ、ずるい。男の人の涙ほど、甘くてエロいもんはないわ)
私は母のような手つきで彼の髪を撫でながら、もう一方の手で彼のシャツのボタンを一つずつ外していった。
障子の向こうで雨脚が強くなる。
畳の上に倒れ込み、薄いドレスが脱ぎ捨てられる。行灯の淡い光の下で、白く浮かび上がる私の身体を、慎平の指先が、まるで聖典の余白をなぞるように震えながら辿っていった。
太宰治の私小説のような、湿度九十パーセントの夜。
彼の吐息と、私の甘い喘ぎ声が、古い木造の梁に吸い込まれては消えていく。
激しい結合の中で、慎平は何度も私の名を呼んだ。
「シィカ……シィカ……行かないでくれ、僕を置いていかないでくれ……」
愛の告白というよりは、溺れる者の悲鳴。
私は彼の背中に爪を立て、その哀しい文体を全身で受け止めながら、快感の絶頂へと昇りつめていった。
けれど、私の心の一番奥底は――月明かりに照らされた鏡のように、どこまでも冷徹で、透明だった。


