青春18きっぷ、文学少女の乱読旅行記

 山陰本線を西へ西へと揺られ、松江駅に降り立ったのは、空が深い藍色と茜色の混じり合う黄昏時だった。

 宍道湖の夕日は「日本一美しい」と誰かが言っていたけれど、なるほど、湖面一面がまるで赤ワインをこぼしたように妖しく波打っている。

 湖畔の遊歩道を歩きながら、私は火照った身体を夜風に晒していた。

 昼間の海の暴力的な熱気とは打って変わって、湖を渡る風には湿り気と、どこか物悲しい静寂が混ざり合っている。

「……はぁ。さすがに、ちょっと疲れたかも」

 独り言は、素の大阪弁。
 歩き慣れないサンダルで痛む足を休めようと、湖に突き出た突堤の石段に腰を下ろした。

 ふと視線を横にやると、数メートル離れたベンチに、先客がいた。
 三十代半ばだろうか。

 洗いざらしの麻の白シャツに、黒の細身のスラックス。無造作に伸ばされた少し長めの髪が風に揺れ、手元には文庫本が一冊。けれど彼は、本を読んでいるというより、暮れなずむ湖面をただ虚ろに見つめていた。

 整った横顔には、深い憂いと、隠しきれない疲労感が刻まれている。

(……あ、いい匂いがする)

 それは香水ではなく、古いインクと、少しの煙草、そして「人生に挫折した男」特有の、甘美な硝煙の匂い。

 私はバッグから文庫本を取り出し、あえて彼の視界に入るようにページをめくるふりをした。
 選んだのは、太宰治の『斜陽』。

 カサリ、と紙を鳴らすと、男の視線がゆっくりとこちらへ動いた。

「……こんな薄暗いところで読むと、目が悪くなりますよ」

 低く、よく通る、けれど少し掠れた声。
 私は驚いたように顔を上げ、すぐに恥じらうような、完璧な「文学少女」の笑みを浮かべた。

「あ……すみません。夕焼けがあまりに綺麗で、つい、物語の続きが気になってしまって」

 標準語のイントネーションは、完璧に計算された柔らかさ。

「太宰、ですか」
「はい。旅のお供に。……ご迷惑でしたか?」

「いえ」男は小さく自嘲するように笑った。「僕も昔、その本ばかり読んでいた時期があったから。懐かしくてね」
「昔……ですか?」
「高校で現代文を教えていたんです。去年の春まで、ですが」

 男は手にした文庫本を閉じ、ベンチの端を軽く叩いた。

「石段、冷えるでしょう。良かったら、こちらへどうぞ」
 罠にかかったのは、どちらか。

 私は「ありがとうございます」と淑やかに会釈をし、彼の隣へと滑り込んだ。
 近づくと、彼から漂う香りがさらに濃くなる。上質なリネンと、どこか乾いた孤独の香り。

「私、シィカと言います。大阪の大学で、文学を専攻していて」
「……慎平(しんぺい)です。無職の、ただの元教師ですよ」
「慎平さん」

 名前を呼ぶと、彼の肩がわずかに揺れた。
 宍道湖の向こう、最後の太陽が沈み、世界が急速に闇へと沈んでいく。

 薄暮の時間帯。昼と夜のあわい、善と悪のあわい。
 私はわざと、風で寒そうに両腕を抱きしめ、自分の肩を彼の麻シャツの袖へと触れさせた。

「一人旅ですか? 慎平さん」
「……ええ。少し、東京に疲れましてね。逃げてきたんです、この街に」
「逃げるの、悪いことじゃありませんよ」

 私は上目遣いに彼を見つめ、そっと声を落とした。

「私も、逃げてきたんです。都会の、騒がしくて嘘ばかりの毎日から。……ねえ、慎平さん。今夜、どこにお泊まりなんですか?」

 私の指先が、ベンチに置かれた彼の手の甲に、重なるか重ならないかの距離で触れた。
 慎平の呼吸が、微かに乱れる。大人の男の、理性の皮膜が音を立てて軋むのが聞こえた。