青春18きっぷ、文学少女の乱読旅行記

 陽が傾き始め、日本海が黄金色の鱗を散らしたように輝いていた。
 敷物の上に並んで座り、私たちは缶入りの冷たいお茶を分け合って飲んでいた。

 拓海は、さっきまでの獣のような激しさが嘘のように、どこか所在なさげに、けれど愛おしそうに私の肩を抱き寄せている。彼の荒れた指先が、私の乱れた髪を優しく梳いていた。

「なあ……」
「はい?」
「俺、今までこんな……都会の女の子と、こんなふうになったことなんかなくてさ」

 彼の言葉はぽつりぽつりと途切れがちで、不器用な誠実さに満ちていた。

「お前、明日も鳥取にいるのか? もし泊まるなら、俺の家に来いよ。親父もおふくろも、今は別棟にいるし……美味い魚、食わせてやるからさ」

 彼の瞳は、まっすぐに私を射抜いていた。

 そこにあるのは、ひと夏の行きずりの情事ではなく、もっと深く、重い感情の芽生え。男が女に「本気」になったときの、あの甘くて重苦しい光の反射。

 私の胸の奥が、ほんの少しだけ、ちくりと痛んだ。

 こんなにまっすぐ見つめられたら、普通の女の子なら恋に落ちてしまうのかもしれない。夕暮れの海、逞しい青年、甘い囁き。まるで少女小説のクライマックスみたいに完璧な舞台立て。

 けれど――私の心は、冷房の効いた書庫のように静まり返っていた。

(……あかんわ。もう、この頁はおしまい)

 私はふっと柔らかく微笑むと、彼の腕をそっと外して立ち上がった。
 砂を払い、シワになったサマードレスの裾を下ろす。胸元を整え、ポニーテールをきゅっと結び直す。それだけで、私は先ほどまで波打ち際で喘いでいた裸の女から、上品な女子大生へと瞬時に戻っていた。

「嬉しい。ありがとう、拓海さん」

 声音は、どこまでも澄んだ標準語。

「でも、私、もう行かなきゃ」
「え……? なんでだよ、さっきあんなに……」
「次の列車が、もうすぐ来ちゃうから」

 拓海が困惑して立ち上がる。彼の足元には、私が脱ぎ捨てていたビキニの切れ端が落ちていた。彼はそれを拾い上げ、すがるように私を見た。

「連絡先だけでも教えてくれよ! 名前も、大学も、まだちゃんと聞いてねえ!」
「ふふ、名前なら、旅の思い出の中に置いてきました」

 私はボストンバッグを肩にかけ、小さく手を振った。

「とても素敵な時間でした。あなたの海、一生忘れません」
「おい! 待てよ……っ!」

 砂を蹴って追いかけてこようとする彼を背に、私は一度も振り返らずに道路へと歩き出した。
 遠くから、山陰本線のディーゼルカーの、低く野太い汽笛が聞こえてくる。

 無人駅のホームに滑り込んできた一両編成の気動車に乗り込むと、車内はガラガラだった。
 冷房の風が、潮と汗でべたついた私の肌を容赦なく冷やしていく。

 ボックス席に腰を下ろし、カバンから『青春18きっぷ』を取り出した。
 二つ目の余白に、駅員の手で押されたスタンプがある。

 私は手帳を開き、万年筆を走らせた。

『二章・読了。潮風と砂粒の摩擦係数。彼の文体は力強く、初版の勢いに満ちていたけれど――少し、重版に耐えうる奥行きには欠けていたかしら』

 手帳をパタンと閉じると、車窓の外を赤く染まる日本海が後ろへと流れていく。

「……さてと」

 私はシートに深く背中を預け、誰にも聞こえない声で小さく呟いた。

「本気配られると、急に興ざめするんよね。……知らんけど」

 冷酷な笑みが、私の口元を三日月のように歪めた。列車は、夕闇の迫る島根県へと向かって加速していく。