「安藤さん、安藤さん」
受付の女性が身を乗り出した。
少し考え込んでいた為、名前が呼ばれたのに気がつかなかった。
診察室で大泣きしていたであろう「サノさん」が、俯きがちに立っている。
巨漢が一人で座席の一列を占拠している為、会計待ちの間、座れないのだ。
私は、慌てて荷物を持って、診察室へと向った。
そして新しい世界へと、足を踏み入れた。
どうか漢字が帰ってきますように。
先生は、壮年の男性だった。
親しげに細められた際に出来た、目尻の皺に好感を持てる。
それなのに私の足は竦んでしまってそこから動かない。
どうすれば良いのだ。
先生は籐で出来たかごに荷物を置いてと言う。
ああ、そうだ。
普通そうだ。
心の中で何度も頷きながら、私は荷物を置いてから丸い椅子に座った。
「それで、どうしたのかな?」
喉の奥が、引き攣れたように、答えた私の声は掠れていた。
「漢字が、突然理解できなくなりました」
「いつから?」
「三日前突然に、です」
「その前に何か、大きな変化とかありましたか?」
カルテに何かを書きつけながら問う。
大きな変化。
ああ、あの日の朝から小説が読めなくなったのだ。
「その日の朝に、小説が読めないなあと思ったんですけど……疲れているのかと思って。でも、学校に行って教科書を開いたら、書かれてある漢字が、ぜんぶ真っ黒く塗りつぶされて見えたんです」
「ひらがなとかカタカナは判る?」
「はい。あと数字も。漢字以外は書く事ができます」
先生はうんうん、と言いながらペンを走らせる。
私は先生の書く文字がとても細かいのが気になり、手元をじっとみつめていた。
「他に何かあるかな、例えばやる気が出ないとか、直ぐ泣きたくなるとか」
すぐ泣きたくなる。
「夜、なかなか眠れないとか、寝ても直ぐ起きてしまうとか」
すぐ起きてしまう。
「最近すぐ泣いてしまいます。すぐ起きてしまいますし、ベッドに入ってから進路の事とか色々考えてしまって、なかなか寝付けません」
「色々って悩みとかかな?」
「いえ……」



