私×0.5+わたし×0.5=◎


 私にとってメンタルクリニックとはいわば、異世界である。
 三階で降りると、狭いエレベーターホールの横に鉄製の扉があった。
 恐る恐るドアノブに手を伸ばした瞬間、扉が開いた。
 思わず小さな声を上げて仰け反る。
 眼鏡を掛けスーツを着たサラリーマン風の男だった。
 男は謝りもせず、カバンをごそごそとさせ、エレベーターに消えていく。

 暫し呆然としていた私は、我に返り、今度こそ扉を開いた。

 中はすぐ受付になっていた。
 左手が三席繋がった椅子が二列ある小さな待合室らしく、お婆さんが一人。
 流行の服を着た、私と同じくらいの年の女の子が一人居た。

「すいません、先ほど連絡した安藤です」

 受付の女性は、電話の印象どおり、優しそうな中年女性だった。

「お待ちしておりました」

 私は、保険証を差し出す。
 そして反対に渡された問診表を片手に、ぴしりと固まってしまった。

「すいません……」

 小声になる。

「漢字が読めないんです……」

 識字率が百パーセント近い現代日本で、しかも進学校の高校生が、こんな事を言うなんて、屈辱である。
 日本に留学しに来て間もない、外国人じゃあるまいし。
 私は言い訳がましく続ける。

「いや、なんか急に漢字だけ認識できなくなってしまって、それで診てもらいたくて」

 私の言葉に、女性は納得したような顔をし「それでは質問しますので口頭で答えてください」と言った。
 やけに慣れている反応だ。
 これはやはりよくある事なのだろうか。
 永遠にもつづくゲシュタルト崩壊現象みたいなのは。

 読み上げて貰った問診表の質問にYESNOで答え、待合室に座る。
 椅子に座った私は、何をして待っていようかと悩み、ただ、きょろきょろと室内を見回した。
 診察室の中からはノロウィルスにかかって大変だったとか、インフルエンザの予防接種を受けても大丈夫かだとか、男性の大きな声が聞こえてきた。
 あまり普通の病院と変わらない。
 サイズ的には歯医者みたいな。
 あの特徴的な刺激臭がしない点以外は、待合室に居る人間も、静かに順番を待っているし、沈黙を埋めるように、クラッシックの音楽が流れている。

 もの凄い偏見を持って、私はここに来たのだと思った。
 心療内科はごく一般的なもので、そこに居る人間も、みなまともに見える。
 私同様、どこかに壊れた部分を持っているのかもしれないが、傍から見れば判らない。

 ありがとうございました。と声がし、私の父親と同じくらいの男性と、その奥さんだろうか。二人が出てくる。
 その二人も街を歩いていれば、ごく普通に街並みに溶け込んでしまうだろう。

「ヨシカワさん、どうぞ」と受付の女性が声をあげる。

 私の前に座っていたお婆さんが、ゆっくりとした動きで立ち上がり、診察室に消えていった。
 四時半に予約を入れていたにも関わらず、時間は少しずつ押して、いまや五時になろうかと言うところだ。
「サノさん」という若い女の子は、同世代で結構しっかりしていそうだったのに、先ほどから診察室からは、しくしく泣き声が聞こえてくる。
 その声に、予約時間に間に合わないとパニックを起こしかけたことを思い出して、こちらまで、泣きたくなってきた。

 私の後に受付を済ませた人間も二人ほどやってきて、あまり広くない待合室の空気がどんどん希薄なる気がする。
 それも、一人はかなりの巨漢の男性で、冬に差し掛かったこの時期だと云うのに、だらだらと汗を掻いているからだ。
 いや、あれはもう汗では無くて、体液の域だ。
 半袖のTシャツは、背中がびっしょりだし、段々になった首の後ろに、汗が溜まっている。
 それがたらーっと、背凭れに向って落ちていく瞬間を見てしまって、私は気分が悪くなった。

 隣に座っているのは親子連れだ。
 少年の域を脱した青年と、母親だろう。
 お互いに雑誌や漫画に視線を落として静かに時間を待っているのだが、頁を捲る音が嫌に耳について、落ち込んでしまう。

 試しにテーブルの上に置かれてあった漫画雑誌を眺めてみたが、直ぐに頭が痛くなってテーブルに戻した。
 世界には私が考えている以上に漢字が溢れている。