かなり早く帰宅した私に母が驚いた顔をした。
玄関のドアが、背中で閉じた瞬間に涙が出てきた。
理由は判らないけれど、ぼたぼたと涙がこぼれ、私はその場に蹲った。
「どうしたの、エリ? 具合悪いの?」
「わかんない」
慌てて駆け寄る母親に、私はすがり付いてわあわあ泣いた。
「よく、わからない。わからないけど。漢字が読めない」
母も私の言う事が良く判らないのだろう。
「漢字が読めないって、どういう事? 学校で何かあったの?」
「何も無いよ! 何も無いのに、漢字が読めなくなっちゃった!」
まるで癇癪を起こしたように私は叫んだ。
母はただ背中を撫で「ともかく上にあがりなさい」と言った。
翌日から、私の世界が一変した。
ともかく漢字が読めない世界と言うというのは、なんとも言えない。
なぜなら日本語は漢字無くして成り立たないからだ。
もちろんひらがなだけカタカナだけでも、表現する事は可能だ。
しかし大陸から渡ってきた漢字は、千年単位で日本文化と上手く融合し、そこら中に漢字は溢れている。
例えばペットボトルのラベルだってお茶なら『茶』と書いてあるし、テレビやエアコンのリモコンにも漢字は使用されている。
一変したと言いながらも、日常生活に支障が出たわけでは無い。
記憶が無くなって徘徊するでもなし、そこらへんは至って普通なのだが、ともかく私が見ている世界は、いびつになった。
自分の世界から漢字を失った日から三日。
これ以上、謎の理由で、学校を休むわけにも行かない。
皆は今頃、当たり前のように授業を受けて、「普通」に大学受験への準備を進めている。
私だけが、そこから転げ落ちてしまった。
今日はこれから心療内科に、突撃するのである。
ともかく漢字が読めないことには勉強が出来ない。
これは私の目ではなくて脳に起きた異変なのだと、結論を出している。
それならば専門家に原因を解明してもらった方が手っ取り早い。
近所の大学病院に朝一で向った。
内科や眼科には散々お世話になっていたのだが、心療内科や精神科の類は初めての体験だった。
保険証を出し「初診ですか?」と問われ、そうだと答えると、初診は必ず予約を取って貰わないといけないのだと言われた。
そんなことなど知らなかったし、ともかく今日見てもらいたい旨を告げる。
しかし、受付は頑として譲らず、仕方なしに予約を取ることにした。
「一番早くて、来週の金曜日の十一時からですね」
「――え……?」
「ですから、来週の金曜日の午前十一時です」
「来週ですか……」
一週間も、先である。
そんなに心に何かを抱えている人が居るのかと驚かされた。
ペンを持っている指先がゆらゆらと揺れ、答えを急かされていた。
「どうしますか?」
「あ、じゃあいいです……」
反射的に断ってしまい、受付を後にしたものの酷く、気落ちしてしまった。
帰宅した私を母が待ち受けていた。
落ち込んでいる様子を見て、心配そうに、私の顔を覗く。
「なんかね、一週間後まで予約で一杯らしいよ。だから診てもらってないの。どうしよう……」
そう呟いた瞬間、また泣きそうになる。
たった何日かで、涙腺が緩みきってしまったようで、私の目はよく涙を零すようになった。
「大丈夫よ大丈夫」
何が大丈夫なものか。
漢字を認識できない17歳の高校生。
そんな人間のどこが大丈夫なのだ。
ともかく病院に行けば、このいびつな世界を元に戻す方法が判ると勇んでいた為、一気に奈落に突き落とされた。



