死にたがり

 夏休みまで、あと四日。黒板の隅に書かれた数字が、一つまた一つと減るごとに教室のテンションもこの猛暑に負けないくらいに暑くなる。
「あと四日かー。」
教室の前のほうから、そんな声が聞こえる。
「やっぱり海行きたい。」
「この暑さで?正気?」
「じゃあ夜とかならどう?」
「夜の海って怖くない?」
「誰かいるって。」
「それが怖いんだよ。」
笑い声で溢れる。いつもと変わらない、夏休みを楽しみにしている人たちの歓喜の声。私も笑っていた。友達の話に相槌を打って、くだらないことで笑って、先生が入ってくれば静かにして。全部いつも通り、そのはずだった。
「西本。」
後ろから声をかけられた。
「ん?」
振り返ると、青柳くんがいた。
「今日、放課後暇?」
「なんで?」
「みんなでカラオケ行くから。」
「ああ……」
青柳くんの後ろには、いつものメンバーがいた。じゃれ合っている男子。楽しそうに話している女子。誰が見ても、そこだけ少し違う世界みたいだった。
「西本も来る?」
「私も?」
「うん。」
「え、…どうしようかな。」
「来ればいいじゃん。」
青柳くんが笑う。その笑顔は、いつも通り明るくて、人懐っこくて、何も考えていなさそうで。だから私の答えるしかなかった。
「じゃあ、行こうかな。」
「よっしゃ。決まりな。」
青柳くんはそう言って、みんなのところへ戻っていった。その背中を見ながら、私は思った。やっぱり、何も変わっていない。あの日のことなんて、もう過ぎたことなのだ。そう思った。でも、その後だった。教室の後ろの方から、聞き慣れない声がした。
「ねえ、青柳って中学のとき」
私は顔を上げた。
「…何?」
青柳くんが振り返る。その瞬間だけ、笑顔が消えていた。
「いや、なんか聞いたんだけど、」
「何を?」
「なんかさ、中学のとき結構大変だったって。今の青柳見てると考えられないよな。」
教室の空気が、ほんの少し変わった。視線が青柳くんに集まる。誰かが小さく笑う。誰かの動揺の声が聞こえる。たったそれだけなのに。青柳くんの顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「…誰から聞いた?」
「え?」
「誰から聞いたの。」
「いや、別に。」
「誰?」
声が低かった。いつもの青柳くんとは違う。教室が静かになった。
「別に…。」
「あ、…ごめん。なんか変なこと言った。」
ふと、青柳くんは誤魔化すように笑った。
「そんなの、ただの噂だから。」
いつも通りの笑顔、いつも通りの声、いつも通りの青柳くんに戻っていた。
「気にすんなよ。」
そう言って笑っていた。でも、私は知っている。その笑い方を。だって、同じだから。私の何かを隠すときの笑い方とまったく。

 放課後、みんなが帰っていく中、私は教室に残っていた。理由なんてない。ただ、帰れなかった。窓の外を見る。空は薄いオレンジ色だった。蝉の声がする。遠くから運動部の掛け声も聞こえる。教室には私一人、ではなかった。
「西本」
後ろから声がして、振り返る。青柳くんが立っていた。
「まだいたんだ。」
「うん。」
「何してんの?」
「別に」
「そっか」
青柳くんは私の隣の席に座った。鞄を机の横に置く。しばらく、何も話さなかった。
「…今日のことさ、」
先に口を開いたのは私だった。青柳くんの肩が、ほんの少し動いた。
「何?」
「中学のときの話。」
「…ああ。」
「本当なの?」
青柳くんは黙っていた。窓の外を見ていた。遠くの何かを見つめるように。あの時と同じような目をしていた。
「…忘れて。」
「また?どうして?」
「どうしてって…。」
青柳くんは笑う。
「別に、話すようなことじゃないから。」
「でも、」
「西本。」
声が遮った。
「忘れてよ。」
必死だった。その声は、お願いというより。それよりもうんと深い何かで。
「…青柳くん、」
「俺、普通だから。普通に学校来てるし、普通に友達いるし、」
また少しだけ笑う。
「…普通に楽しいし。」
そこで少しだけ、声が震えていた。
「だから、いいんだよ。俺のこと、可哀想とか思わなくていいから。」
「思ってないよ。」
「じゃあ、忘れて。」
「…できない。」
青柳くんが顔を上げた。
「なんで?」
「だって、忘れてって言われたからって、聞かなかったことにはできないよ。」
青柳くんは黙って俯いてた。
「私、あの日のことも覚えてる。」
「忘れてって言ったじゃん。」
「うん、言われた。」
「だったら、」
青柳くんの声が途切れる。拳を強く握りしめているのが見えた。
「…なんで、なんで、みんな勝手に決めるんだよ」
小さくて、でも鋭い声だった。
「俺がどう思ってるかなんて、俺が一番知ってるのに。」
声が少しずつ大きくなる。
「大丈夫なのかって聞かれて、大丈夫じゃないって言ったら、今度はどうするんだよ。」
私は黙っていた。
「心配する?」
青柳くんは笑う。でも、その笑顔はもういつもの楽しそうな笑顔じゃなかった。
「話聞く? 先生に相談する? 親に言う? 誰かに連絡する?」
息を大きく吸ってから吐く。
「…結局さ、俺の知らないところで、俺の話するんだろ。『青柳、こう言ってた』って。『あいつ大丈夫かな』って、『何かしてあげたほうがいいんじゃない?』って。」
声が震えている。教室中の空気が一斉に重たくなる。
「……俺、そういうのが嫌だったんだよ。みんな悪くなかった」
ぽつりと。
「誰も悪くなかったんだよ。」
それでも。
「…でも、嫌だった」
その一言だけが、鉛玉のように妙に重かった。
「心配してくれてるのも分かってる。助けようとしてくれてるのも分かってる。先生だって、親だって、友達だって、俺のこと考えてくれてる。」
そこまで言って、青柳くんは頭を抱えた。
「俺の言葉なのに、」
彼の声が掠れる。
「なんで俺の口から零れた瞬間、みんなのものになるんだよ。」
少し黙ってから、彼はまた歪んだ笑みを作る。
「話したら楽になるって言うけどさ、話したあと、どうなるかなんて誰も教えてくれなかった。」
鉛玉がゴンッと転がり落ちた。
「話さなかったら、『なんで言ってくれなかったの』って言われる。」
机を見つめる。
「話したら話したで、『そんなこと思ってたんだ』って顔される。」
息を吸う。
「じゃあ俺は、どうすればよかったんだよ。」
声が震えている。
「黙ってても駄目で、話しても駄目で、」
顔を上げる。
「…じゃあ、どうすればいいんだよ。」
その目には、怒りがあった。悲しさも、悔しさも。それから、ずっと隠してきた疲れも。
「俺だって分かんないんだよ。」
もう、何も取り繕う余裕なんてなかった。
「何が正しいのかなんて、俺にも分かんない。誰かに話したほうがいいのかもしれない。黙ってたほうがいいのかもしれない。助けてって言えばいいのかもしれない。」
一気に言葉が溢れていく。
「でも、それが簡単にできるなら、とっくにやってる。」
頭を掻いた。
「俺だって、ちゃんと考えてるんだよ。何も考えてないみたいに言うなよ。」
「言ってないよ。」
「分かってる。」
「西本は言ってない。」
少しだけ間が空いた。重たい空気が肺にこびりつくような感覚がする。
「だから、」
青柳くんは唇を噛んだ。
「だから余計に困るんだよ。」
「え?」
「西本は、知ってるから。」
目が合う。
「俺が何でもないって言っても、何でもない顔してくれないから。大丈夫って言っても、信じたふりしてくれないから。」
私は何も言えなかった。
「でも、何一つ問い詰めてこない」
青柳くんは、少しだけ優しく微笑む。
「そこが一番、困る。」
「…ごめん。」
「なんで西本が謝るんだよ。」
「分からない、けど。」
「俺も分からない。」
沈黙が下りた。窓の外で、蝉の声が暑苦しさを一段と増す。さっきまで聞こえていた運動部の声は、もう聞こえなくなっていた。
「…俺さ、」
青柳くんが口を開いた。
「別に、毎日が嫌なわけじゃないんだよ。」
「うん。」
「普通に楽しい日もあるし、友達と馬鹿やるのも好きだし、カラオケも楽しいし。…明日が楽しみな日だってある。」
私は頷いた。
「だからさ、」
彼は少しだけ困ったように笑う。
「本当に笑ってるんだよ。」
「…うん。」
「全部が全部嘘ってわけじゃない。でも、笑ってるからって、全部が全部平気なわけでもない。」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が少しだけ痛くなった。たぶん、同じだから。それは私にも分かることだから。だから。
「…私も、」
口から、勝手に言葉が出た。
「私も、分からない。」
青柳くんをまっすぐ見る。
「青柳くんがどうしたらいいのか、私にも分からない。今、私が何て言えばいいのかも分からない。」
自分でも驚くくらい、何一つ飾りなんてない、正直な言葉だった。
「だから、何一つ正しいことは言えない。」
一度、息を吸う。
「でも、聞いたことを、なかったことにはできないよ。」
彼は黙って俯いていた。
「忘れてって言われても、多分無理だと思う。」
「…なんで?」
「青柳くんが、本気で言ってたから。本気で苦しそうだったことまで、忘れたことにはできないよ。」
青柳くんは俯いている。しばらく何も言わなかった。
「…そっか。」
やがて、その一言だけ溢れるように落ちた。
「じゃあ、」
青柳くんが顔を上げる。
「忘れなくていいから、今日のことは、誰にも言わないで。」
「分かった。」
「絶対?」
「もちろん。」
「…ありがとう。」
彼は優しい微笑みを浮かべた。いつもとは違うけど、どこか穏やかで安心したような。
「でも、西本。」
「ん?」
「俺、たぶんまた『何でもない』とか『大丈夫』とか言うと思う。」
「うん。」
「そのときは…、」
言葉が止まった。
「…まあ、別にいっか。」
「何それ。」
「よく分からなくなっちゃった。」
思わず笑いが零れた。青柳くんも笑っていた。今度の笑顔は、さっきまでのものとは少し違った。
「じゃあ、今日は帰ろうか。」
「そうだね。」
鞄を持つ。二人で教室を出る。夕方の光で赤く染まっていた廊下を歩く。黒い影が床に映る。
「西本。」
「ん?」
「さっきの、忘れないで。」
私は少し驚いた。
「忘れてって言ったり、忘れないでって言ったり、忙しい人だね。」
「うるさい。」
「ふふ」
「…でも、」
青柳くんが前を向いたまま言った。
「忘れられるのは、ちょっと嫌だから。勝手だよな、俺。」
「そうかも。」
「そこは否定してよ。」
「…じゃあ、否定する。」
「遅い。」
笑っていた。今度は二人ともちゃんと笑っていた。駅へ向かう道を歩く。夏の夕方は、まだ明るい。蝉の声がする。影が伸びる。遠くで自転車のベルが鳴った。何も解決していない。青柳くんが抱えているものが消えたわけでもない。私だって、自分のことを全部分かっているわけじゃない。それでも、少しだけ知っていることが増えた。 それだけだった。それだけのことなのに、なぜか、昨日より少しだけ。明日が近く感じた気がした。