死にたがり

 夏休みが近づいていた。教室の黒板の隅には、誰かが書いた落書きみたいなカウントダウンが数字を減らしていた。八日、七日、六日。数字が減っていくたびに、クラスの空気を少しづつ浮かれていく。
「夏休み、何する?」
「海行きたい。」
「暑い。却下。」
「じゃあ、プール。」
「それも暑いじゃん。」
そんな会話が、教室のあちこちから聞こえてくる。私はその声を聞きながら、机の上のプリントを眺めていた。夏休み、本来なら楽しみなものだろう。けれど、私は少し苦手だった。宿題、補習、部活。家にいる時間。そして何より、「夏休みが終わったら、どうすればいいのか」そんなことを考えてしまう。まだ始まってすらないのに。先のことを考えると息が詰まる。それは夏休みも例外ではなかった。
「西本。」
「ん?」
顔を上げると、青柳くんがこちらを見ていた。
「この問題分かる?」
「どれ?」
「これ。」
青柳くんが数学のプリントを机の上に置く。
「これは、公式使うんだよ。」
「どの?」
「この前の授業でやったやつ。」
「寝てた。」
「堂々と言うことじゃない。」
私は笑いながら、問題の途中まで説明した。
「ここまで来たら、後はできるでしょ?」
「多分。ありがとう、西本先生。」
「先生じゃないから。」
そう言って笑うと、青柳くんも笑っていた。そのままプリントを返した、その時だった。
「青柳、帰りカラオケ行く?」
教室の前の方にいる男子から、急に声が飛んできた。
「あー、行く行く」
青柳くんはすぐに返事をした。
「じゃあ駅前集合な!」
「了解」
そのやり取りを聞いて、私は少しだけ頬が緩んだ。やっぱり、青柳くんはこういう人だ。いつも教室の中心にいる人。いつも誰かに囲まれていて、休み時間になれば自然と人が集まる人。男子からも女子からも名前を呼ばれて、冗談を言われて、笑っている人。私とは、いる場所が違う人。
「西本も来る?」
「え?」
突然振り返ったの青柳くんの質問に理解ができず、固まった。
「カラオケ。」
「私?」
「うん。」
「いや、いいよ。」
「なんで?」
「なんでって……。」
私は教室の前を見る。青柳くんの周りには、もう何人もの友達が集まっていた。
「私が行ったら、なんか気まずいでしょ。」
「何が?」
「ほら……。」
言葉に詰まる。青柳くんは少しだけ首を傾げた。
「別にいいじゃん。」
「いや、」
「俺が誘ってるんだからいいでしょ。」
「え、どういう問題?」
「そういう問題。」
あっさり言われて、私は思わず笑った。
「…じゃあ、今日はやめとく。」
「そっか。」
「ごめんね。」
「なんで謝るの?」
「なんとなく。」
「変なの。」
青柳くんも笑う。
「じゃあ、また明日な。」
「また明日。」
そう言って、青柳くんは友達の輪の中へ戻っていった。
「青柳、お前いつの間に付き合ったん?」
「違うって。」
そんな声が聞こえてくる。私は聞こえないふりをしながら、机の上のプリントを片づけた。別に、何かが気になるわけではない。ただ、少し遠いな、と思っただけだ。私と青柳くんは、同じ教室にいる。同じ授業を受けて。同じテストを受けている。それなのに、放課後になれば、青柳くんには一緒に遊ぶ友達がたくさんいる。たったそれだけの違いなのに。どうしてか、生きている世界が違うように見えた。

 その日の帰り道。私は一人、駅へ向かっていた。スマホの画面をつけると、友達から、夏休みの予定についてメッセージが来ていた。
「八月○日空いてる?」
「空いてるよ」
そう返信してから、画面を閉じる。少し歩いてから、またスマートフォンを見る。返事はない。この間なら当たり前だ。なのに、どうしてか、少しだけ寂しく感じた気がした。私は何を期待しているんだろう。友達から連絡が来ること?それとも、青柳くんからの…。そんなことを考えてから、すぐに首を振った。そんなわけない。私は、そんなに弱くない。彼以外の友達だっている。今まで通り、普通に過ごしている。だから何も変わらない。大丈夫、ただの勘違い。そう思うことにした。

 翌朝。教室に入ると、青柳くんの周りにはすでに何人か集まっていた。
「昨日のカラオケ、マジで楽しかった。」
「青柳、歌うますぎ。」
「いや、お前の選曲古すぎだろ。」
「うるせえ」
教室中に笑い声が響く。その中をかき分けるようにして、私は自分の席に座った。鞄から教科書を出していた。
「西本、おはよ。」
青柳くんがこちらを向いて、声をかけてきた。
「おはよう。」
「昨日、何してた?」
「家帰ったよ。」
「それだけ?」
「うん。」
「暇じゃん。」
「余計なお世話。」
青柳くんが笑う。その後ろから声がかかった。
「青柳、今日放課後どうする?」
「んー、部活ないし、どっか行く?」
「決まり。」
また、青柳くんは輪の中へ戻っていく。 私はその背中を見ていた。昨日と同じ、いつもの青柳くん。誰とでも話せて、誰とでも笑えて、いつも誰かに囲まれている。それなのに、あの日、私が聞いた声だけが、どうやっても、あの輪の中にいる青柳くんと結びつかなかった。あんなに明るい人が、どうして、あんな顔をしていたんだろう。どうして、私に「忘れて」なんて言ったんだろう。考えても、答えは出なかった。
「美海?」
「え?」
突然、由香に名前を呼ばれて、顔を上げる。
「何ぼーっとしてるの?」
「何でもない」
また、その言葉。
「そっか」
由香は、それ以上何も聞いてこなかった。これでいい。聞かれなければ、答えなくていい。答えなくていいなら、困らせなくていい。それでいいはず、なのに。胸の奥に、ほんの小さな違和感が残った。