死にたがり

 あの日から、青柳裕也と話す機会が少しだけ増えた。本当に、少しだけ。朝、教室に入った時に「おはよう」と言う。授業でプリントを配る時に「ありがとう」と言う。移動教室の時、たまたま隣を歩いていたら、「先生の話が長い」だとか、「次の授業は眠そう」だとか。そんなくだらないこと。その程度。友達と呼ぶには、まだ遠くて、でも、以前よりは近い。そんな感じ。そんな曖昧な距離。
 「西本、数学の宿題やった?」
ある日の朝、青柳くんが私の机の横に立っていた。
「やったけど。」
「見せて。」
「自分でやりなよ。」
「二問だけ。」
「昨日も同じようなこと言ってたじゃん。」
「いや、昨日は一問だった。」
「増えてるじゃん。」
私が笑うと、青柳くんも笑う。
「西本、ツッコミ冴えてるね。」
「誰のせいだと。」
そんな会話をしていると、教室に由香が入ってきた。
「美海、何話してるの?」
「数学の宿題。」
「え、美海、青柳くんに見せてるの?」
「見せてないよ。」
「今から見せてもらおうとしてた。」
青柳くんがすかさず会話に割り込む。
「いや、見せないから。」
「裏切り者!」
「裏切った覚えないから。」
青柳くんはそう言い、自分の席へと戻っていった。由香が前の席に座る。
「珍しいね、美海が青柳と話してるの。」
「そう?」
「うん、あんまり喋ってるイメージがなかった。」
「最近ちょっと話すようになっただけ。」
「ふーん。」
由香はそれ以上何も言ってこなかった。私も何も言わなかった。もちろん、あの日のことも。あの時聞いた言葉が、本当に彼のものだったのか自信がなくなってきていた。でも、聞いてはいけないような気がして、ずっと胸の奥にしまっていた。
「大丈夫。」
私は何度もそう思った。青柳くんは普通に笑っている。普通に授業を受けて、いつも通り寝落ちしている。普通に宿題を忘れて、いつも通り先生に怒られている。だから、きっと大丈夫。そういうことにしておけばいい。けれど、私たちの、人間の「普通」ってなんだろうか。そんなことを時々考えるようになっていた。

 七月半ば、雨が朝から降っていた。窓ガラスを、細かな雨粒がこつこつと叩き、流れていく。昼休みになっても雨は止まず、教室の中はいつもよりも静かだった。
「今日、部活どうしようかな。」
誰かが言う。
「この雨じゃ無理じゃね?」
「でも、大会近いんだよ。」
そんな声を聞きながら、私は窓の外を眺めていた。雨の日は嫌いじゃない。外の音が教室の中の音をかき消してくれるから。みんなの声が少しだけ遠くなる気がするから。
「西本。」
「ん?」
名前が呼ばれ、声の先を見ると青柳くんがいた。
「一緒に購買行かね?」
「なんで?」
「パン買いたい。」
「一人で行けばいいじゃん。」
「一人だと寂しいじゃん。」
「意味わかんない。」
そう言いながら、私は立ち上がった。廊下に出ると、雨の音が少しだけ大きくなったように感じた。
「何買うの?」
「焼きそばパン」
「また?昨日も食べてなかった?」
「好きだから。」
「飽きないの?」
「飽きない。…西本は何が好きなの?」
「私は…」
何が好きだったっけ。そう思って、少し考える。
「甘いもの。」
「ざっくりしてるな。」
「だって甘いものは甘いものでしょ。」
「じゃあ、例えばコンビニ行ったら何買う?」
「…プリン。」
「いいじゃん。」
「別に。」
くだらない会話だった。本当にくだらない。でも、そのくだらなさが心地よく感じたのは、何故だろうか。
 購買は思ったより人が並んでいた。雨の日は、みんな外に出ないから、購買が混むらしい。
「すご」
「最後尾こっちだって。」
「無理だ。絶対昼休み終わる。」
「まだ十五分あるから、多分大丈夫だよ。」
「十五分しかないじゃん。俺、昼飯無しは耐えられない。」
「大丈夫だって。」
項垂れながら、青柳くんは列に並んだ。しばらくして、何を思ったか、前の男子が振り返った。
「あれ、青柳じゃん。」
「おう、筒井先輩。」
「女子と一緒じゃん。いいな。」
「たまたまですよ。」
「へえ、たまたまねぇ。」
筒井と呼ばれた男子が私を見る。私は軽く頭を下げた。少し気まずい。青柳くんもそれに気づいたのだろう。
「そういうのじゃないですから。」
「俺、何も言ってないけど。」
「顔に書いてありました。」
「書いてないよ。」
「いや、書いてありました。」
「青柳って、意外とめんどくさいな。」
「よく言われます。」
「自認なんだ。」
「今認識しました。」
そう言って、また笑う。それだけのことだった。その後、青柳くんは無事に焼きそばパンを手に入れ、それは一瞬で彼の胃袋へと消えていった。

 放課後。雨はまだ降っていた。昇降口で靴を履き替えながら、鞄の中を探り傘を引っ張り出す。ふと先を見ると、青柳くんがぼうっと突っ立っていた。
「どうしたの?」
「あ、いや、傘忘れただけ。」
「え、どうするの?」
「走る。」
彼はそう言ってにかっと笑った。
「風邪ひくよ。」
「俺、馬鹿だから風邪ひかないらしい。」
私は少し考えた。
「…駅までなら、入れてあげる。」
「え、いいの?」
「その代わり、絶対に目立たないようにして。クラスの人とかに勘違いされたら、面倒くさいから。」
「分かった。ありがとう。」
そう言って二人で歩き出す。肩がぶつからないように、青柳くんは少し離れて歩いていた。
「…もっと入ってくれない?」
「いい。」
「いや、私が濡れる。」
「そっか。」
雨音が傘を叩いている。周りの音が少し遠くなるように感じた。ただ歩いているだけなのに、不思議だった。妙に安心するような、それでも気になるようなそんな距離。
「西本。」
「ん?」
「ありがとう。」
「別にいいよ。」
少ししてから、青柳くんが口を開いた。
「あのさ、この前のこと…。」
彼の言いたいことが分かった。きっと、私に聞かれていたことに気づいている。だから私は敢えて問う。
「この前って?」
「いや」
青柳くんは少し黙った。
「やっぱ何でもない。」
私は歩く速度を少しだけ落とした。
「そっか…。」
敢えて聞かない。敢えて踏み込まない。だって、それがいいから。その方がいいから。でも、本当は忘れられるわけなかった。

 七月が終わる頃。この時期には異様のテストが近づいていた。他の学校にはない。自称進学校のうちだけ。教室の空気が少し変わっていた。
「やばい」
「無理」
「範囲広すぎ」
誰もがそんなことを言っている。毎回毎回、定番の文句。そんな言葉を私も例外ではなく唱えていた。家に帰ってから机に向かう。問題集とにらめっこをする。十分、十五分。気づけばスマホを触っている。また机に戻る。けど、集中できない。
「…もういいや。」
呻きながら、ベッドに倒れ込んだ。天井を見る。明日も学校。明後日も学校。休みを挟んで、もうテスト。その先は夏休み。夏休みが終われば、二学期が始まる。体育祭があって、冬になる。そして三年生。進路、卒業、大学。先のことを考えるだけで、息が詰まる。私はゆっくり目を閉じた。別に、特別つらいことがあるわけじゃない。友達も家族もいる。学校も嫌いではない。だからこそ、「疲れた」と言うのが難しかった。何に疲れたのか分からなかったから。一般的に言えば恵まれている私が、そんな言葉を吐いてもいいのか分からなかったから。

 翌日の放課後。私は一人で教室に残っていた。委員会の仕事があったから。窓の外は、燃えるようなオレンジ色の夕焼けが広がり、教室の中もオレンジ色に染めていた。机の上に長い影が伸びていた。仕事を終え帰ろうとしたとき、教室の扉が開いた。青柳くんだった。
「まだいたんだ。」
「青柳くんこそ。」
「俺は忘れ物。」
「また?大丈夫?」
何気なく投げた言葉に、青柳くんの動きが止まった。ほんの一瞬。
「うん」
いつも通りににかっと笑う。
「大丈夫。」
その笑顔を見て、今度は私が止まってしまった。その言葉を信じていいのか。信じない方がいいのか。よく分からなかった。だから私はただ一言、「そっか」とだけ答えた。青柳くんは何事もなかったように、自分の机から何かを取り出して、鞄の中にしまった。
「もう帰るの?」
「うん。」
二人で教室を出る。廊下も、階段も、昇降口もオレンジ色。
「西本ってさ、」
青柳くんがぽつりと口を開いた。
「うん?」
「人に心配されるの、嫌?」
「え?」
「いや、なんとなく聞いてみただけ。」
私は少し考えてから口を開いた。
「…あまり好きじゃない、かな。」
「なんで?」
「迷惑かけたくないから。」
「迷惑?」
「心配されるのって、相手の時間取るじゃん?」
「それくらいで…」
「でも、私は嫌なの。」
「そっか。」
青柳くんはそれ以上何も言わなかった。少し歩いてから、今度は私が口を開く。
「青柳くんは?」
「俺?…俺も、嫌かも。」
「同じだね。」
そう言って二人で少し笑う。その会話が終わってから、私はずっと考えていた。心配されるのが嫌なのは、本当に迷惑をかけたくないからなのか。本音を言わないのは、弱い自分を知られたくないからじゃないのか。何も言わなければ、何も知られることなんてない。でも、それって本当に正しいのだろうか。駅に着く。
「じゃあ、また明日。」
「うん。またね。」
青柳くんが手を挙げる。私は反対側のホームに向かった。電車を待ちながら、スマホを見る。メッセージが来ていた。青柳くんからだった。
「今日はありがとう。」
それともう一つ。
「ごめん、今日のことも忘れて。」
私は画面を見つめた。何を忘れてほしいのか、よく分からなかった。少し迷ってたから「分かった」とだけ送る。電車がホームに入ってくる。風が吹く。私はスマホを鞄に入れた。忘れようと思った。でも、忘れようとすればするほど、青柳くんの声だけが、頭の中に響いていた。