死にたがり

 高校二年生になって、四カ月。高校生と言う言葉には慣れ、プリントの記名も「一年三組」と間違えなくなってきた。新しいクラスにも少しずつ馴染み、廊下ですれ違う先生の担当科目も、購買で人気のパンも、一、五限目が一番眠くなることも、だいたい分かっている。朝は早い。授業は長いしつまらない。テスト前になると、誰もが口を揃えて「勉強していない」と言う。放課後になれば友達と寄り道をしたり、部活をやったり、塾に行ったり、まっすぐ家に帰ったりする。きっと、どこにでもある高校生の日常なのだろう。私もその中の一人だ。
「美海、今日駅前寄っていかない?」
昼休み、前の席から声をかけられて、私は顔を上げた。由香だった。
「ごめん、今日はちょっと用事があって…。」
「また?」
「うん。」
「最近、忙しくない?」
「そうかな?」
少しはにかみながら答える。
「男だな?」
「だったら、良かったのにね。」
「じゃあ今度、絶対だよ。」
それだけで会話は終わった。別に嘘をついたわけじゃない。本当に用事がある。ただ、その用事というのが、家に帰って、制服を脱いで、ベッドに寝転がりながら、スマホと向かい合う。何も考えずに、ただただ時間を浪費することだとは言わなかった。そんなことを言ったら、不快な顔をされるだろう。だから言わない。敢えて言う必要はない。言わなければ大抵のことに波を立てなくて済むから。
 「西本。」
昼休みが終わりかけた時、教室の後ろから先生に呼ばれた。
「はい。」
「このプリント、進路室まで持っていってくれないか?」
「分かりました。」
プリントの束を受け取り、教室を出る。廊下には、昼休みのざわめきがまだ残っていた。笑い声。誰かの名前を呼ぶ声。上履きが廊下を掠る音。私はその中を通り過ぎながら、階段へ向かう。二階から一階へ降りる途中、踊り場の窓から空が見えた。青かった。雲が少しだけ浮かんでいる。綺麗だな、そう思った。でも、それだけ。国語の授業で今日の空について思ったことを具体的に書け、という課題が出たら、私はなんて書くのだろうか。最近は何を見ても、綺麗だな、とか面白いとか、かわいいとか、そう思うだけで終わることが増えた気がする。以前なら、写真を撮りたくなって、友達に話したくなって、投稿したりしたくなった。今は、そういうことが少なくなった。でも、それもきっと、疲れてるだけだ。高校生なんて、そんなものだ。きらきらした高校生活は、いわゆるフィクションの中だけ。そうやって私は、自分の中にある小さな違和感を、いつも見ないふりをして来た。進路室が見えた。その少し先の窓の前に人影が見えた。青柳裕也。同じクラスの男子。クラスの中では目立つ方で、いつも周りと楽しそうに騒いでいる。いわゆる一軍男子。授業中、先生によく当てられ絡まれている。それも全部、彼が寝ているのが悪いのであるが、周りはそれを見て笑っている。だいたいそんな奴だ。だから、私は彼について詳しいことは何も知らない。そもそも住んでいる次元が違うのだ。いわゆる二、三軍女子の私が、一軍の彼と接点があるわけがない。好きなものも、嫌いなものも、得意なことも、何も知らない。興味すらない。ただのクラスの騒がしいやつ。それだけ。彼は窓際に立って、空を見上げている。けれど、何か違和感を感じた。窓の外を見つめているのに、景色を見ているようには感じない。ただ、ぼんやりとそこに立っているだけ、そんな感じだった。私は一度通り過ぎようとした。その時だった。
「…死にたい。」
小さな声が聞こえ、思わず足が止まってしまった。振り返ると、彼はまだ窓の外をぼうっと眺めていた。独り言だったのかもしれない。だから、声をかけるべきか迷った。
「青柳くん?」
結局、名前を読んでしまった。青柳くんが振り返った。
「あ…西本。」
「何してるの?」
「なんかめっちゃ空が青くて、綺麗だなって見てた。」
いつもの声だった。でも、少しだけ青柳くんの笑顔が遅れた気がした。
「そっちは何してんの?」
「私は進路室にプリントを。」
「そっか。」
そう言って、彼はまた窓の外を眺めようとした。
「…青柳くん、もう予鈴なってるけど、大丈夫?」
「まじか!気づかなかった。」
「そろそろ教室戻ったほうがいいよ。」
「そうだな。じゃあ、先戻るわ。」
彼は教室の方向に早足で駆けていった。私は進路室にプリントを置き、さっきまでの道を引き返す。最悪、授業に間に合わなかったら、先生からの頼まれごとをしてて、で済まそう。そう思いながら階段を上がる。何かが頭の奥で引っかかっている、そんな気がした。さっきの声。あまりにも小さくて。まるで、意思とは関係なく、ぽつりとこぼれ落ちてしまったかのような言葉。妙に頭の中に張り付いて離れなかった。自分でも不思議なくらいに、その声と言葉と顔がフラッシュバックする。青柳くんとは、ほとんど話したことなんてない。友達というわけじゃない。だたのクラスメイト。それなのに、なんとなく気になった。なんとなく放っておけなかった。でも、それ以上の理由は分からなかった。チャイムが鳴る。授業が始まった。
「…先生のせいにしよう。」

 放課後、私は帰る準備をしていた。
「美海、途中まで一緒に帰ろ。」
由香に呼ばれる。
「うん。」
鞄を持つ。いつものように教室を出ようとして、ふと後ろを見た。青柳くんがいた。友達に囲まれて、いつものように騒いでいた。
「美海、どしたの?」
由香に覗き込まれてはっと我に返る。
「ごめん、ぼうっとしてた。」
いつも通りの青柳裕也だった。昼休み、私が見た彼は一体誰だったのだろうか、そんな疑問が湧いてきた。私は教室を出て、階段を下りる。昼休みと同じ場所で足が止まる。
「美海、大丈夫?」
「うん。なんか、空が青いなって。」
「なにそれ?ポエム下手くそ?」
「ポエムじゃないし。」
由香が隣で笑ってる。そのまま昇降口へ向かい、靴を履き替え、いつも通りの帰り道を歩く。いつも通りのはずなのに、いつもとは違う。どうしても気になって仕方がなかった。
 家に着き、予定通りベッドに寝転がる。でも、何も考えずに時間を浪費するはずだったのに、私の頭の中は彼で埋め尽くされていた。

 翌朝、私はいつもより少し早く学校へ着いた。扉を開けると、誰もいないがらんとした教室が広がっていた。窓際を見る。青柳くんの席は、まだ空いている。私は自分の席に鞄を置き、昨日のことを考える。「死にたい」その一言。
「…なんだろ。」
小さく呟いたその時だった。
「おっはよー!」
「あ、おはよう。」
教室の扉が開いた。青柳くんだった。
「早いね。」
「たまたまだよ。」
青柳くんは笑った。いつも友達と笑い合ってる時の笑顔。その笑顔を見た瞬間、私は少しだけ安心した。でも、それが正しいのか分からなかった。人は、笑える。苦しいときでも、疲れているときでも、何も言いたくないときでも。人の「大丈夫」は本当の大丈夫とは限らない。でも、だったら私はどうすればいいんだろうか。窓の外を見ると、今日も空は青かった。昨日と同じくらい青くて、まるで何も知らない顔をしているようで。それでも、なんだか笑われているような気もして。私はまだ知らなかった。私の中にある「大丈夫」という言葉の意味が、少しずつ変わっていくことを。