写真の中だけ、もうキスしてる

 高速バスの車輪がガタンと道路の段差を超えた衝撃で、僕ははっと目を覚ました。隣に目をやるなり、オオカミ顔の男と目が合う。

「……僕、寝てた?」
「うん。爆睡」
「やば。いま何時? 集合時間のアナウンスしないと――」
「もう済んだ。俺がやったから」
「……そっか」

 〈ありがとう〉の代わりに手の甲をぽんぽんと叩くと、朝陽が眉を上げた。

「もうちょっと申し訳なさそうにしてもいいんだぞ?」
「必要ある? お前も学級委員でしょ」 
「まあ、そうだけど」

 やれやれと首を振る朝陽を背に、僕は通路を覗き込んだ。向こうの席で、颯太と理央が何かの攻略本を見ながら喋っている。その後ろでは夏帆が、綺麗に髪を巻いた七瀬さんの膝に上着をかけてあげていた。後ろをざっと眺めると、他にも上着を羽織っている女子がちらほらいる。

「あ、晴くん。起きたの?」
「うん。みんな、ちょっと寒い? 温度上げてもらおうか」 
「うーん……でも、もうすぐ着いちゃうよね」 
「大丈夫だよ、どうせ今から先生とスケジュールの相談するし。降りて最初の目的地がトイレとか嫌じゃない?」
「あはは、たしかに。ありがと、晴くん」
「ううん」

 横から膝を軽く叩かれて、僕は姿勢を戻した。朝陽がわざとらしく、手でパタパタと顔を仰ぐ。

「俺は、暑いんだけど?」
「知らないよ。勝手に上裸になってれば?」
「お前、人たらしどこいったんだよ」

 なぜか笑いはじめた朝陽を無視して、僕は先生と話そうと、前の席へ身を乗り出した。



 美術館の見学は、一時間しかなかった。しかも、あの逆さピラミッドのある中庭は、なかなか目立つ場所にある。

「まあ……腕組みぐらいなら、もはや見られても許容範囲な気がしてきたんだけど」
「そうだな。一昨日しぐさ語で〈何してるんだ?〉になったところだし」
「君ら、だんだん感覚麻痺してきてない……?」
「そんなことないよ。理央だって前に似たようなこと朝陽にされてたじゃん?」

 キス写真と同じように、このポーズだけ再現しても写真が戻らなかったことは、すでに学校で試し済みだった。僕は建物の中にぞろぞろと入っていくみんなをじっと眺めて、タイミングをうかがっていた。最後の中野くんの靴が、角を曲がって消える……今だ。

「チャンス。やるよ!」

 近くで見ても、逆さピラミッドのオブジェは、どうやって地面にくっついてるのかよくわからなかった。でも、とりあえず観察は後だ。

「二人とも、もうちょい左行って。ピラミッドにちょっと被るぐらい……いや、このサイズで写ってるなら、もうちょい前かもな……」

 背景が増えたから、颯太の指示も複雑だ。建物の方を気にしながら何度か位置を調整した挙句、運良く人が来る前に、颯太が完了の声をあげた。

「おっけー。写真、戻った!」
「ほんとだ。やっぱり、場所が写り込んでるときは、そこで再現しなきゃいけないってことなのかな」
「うーん、どうかしらね。なんでそうなるのか、ちょっとちゃんと考えたいんだけど……今は時間ないし、学校戻ってからだわ」
「そうだね。なら、せっかくだし、班写真撮ってから中入ろうよ!」 

 僕は三人を手招きした。青空をバックに手を伸ばして、逆さピラミッドと美術館の建物、そして笑顔の五人がインカメにおさまる。うん。いい感じ。何枚か撮って、僕は立ち上がった。

「よし、撮れた。って、うわー、まただよ……」
「え、なになに?」

 僕はうんざりして、四人に画面を突き出した。いま撮ったばかりの、五人の集合写真。みんなが笑顔でカメラを見ていたはずなのに、なぜか僕と朝陽だけが手を繋いで内緒話をするようにお互いの耳元へ口を寄せている。

「……うわあ。これはまた――」
「理央、それ以上言わないで。あと朝陽、それ以上拡大しないで」
「いや、ピラミッドのこの面見てみろよ。なんか写ってないか?」
「あ、ほんとね。ケーブルとパソコンっぽい……視聴覚室?」
「……まあ、どっちにしろ今は何もできないでしょ。とにかく、早く中に入ろうよ! 見学時間終わっちゃうし、みんな本命はその後の自由行動でしょ?」

 僕は強制的に画面を消すと、建物に向かって歩き出した。



 靴音の響く静かな展示室を、五人でゆっくりと巡る。

 僕は、クリップボードに留めたワークシートに目を落とした。だいたいの項目は埋まっていて、あとは「一番好きだった作品」を書くだけだ。

 横から、腕を軽く引っ張られた。目が合った朝陽が、壁にかけられた大きな絵を薦めるように、首を傾げてくる。僕は首を振って、こめかみをとんとんと叩いてみせた。朝陽が鼻を鳴らして、僕の頭を小突く。

「あんたら、うるさいんだけど」

 展示室を反対回りに見ていた夏帆が、僕らの正面に来るなりため息をついた。

「えっ。僕、しゃべってないよ?」
「動きが十分うるさいのよ。ねえ、あたしお手洗い行ってきていい? 先生になんか聞かれたらそう言っといて」
「了解。一個前の展示室の横が一番近いと思うよ」
「ありがと」

 夏帆を見送っていると、今度は颯太が寄ってきた。

「晴。見ーせて」
「いいけど、これ写してもしょうがなくない? 僕まだ最後のやつ選んでないし」
「いいんだよ。前半の穴埋めの答え知りたいだけだから」
「二階に上がる階段のところのキャプションに、全部書いてあったよ……」

 クリップボードを取られた僕は、ため息をついて白い展示室を見渡した。一面が灰色で塗りつぶされた巨大なキャンバス。ピンクのドーナツがたくさん床にぶちまけられているだけの区画。現代美術は自由すぎて、タイトルとキャプションをつけたら何でもアートになるんじゃないかと思えてくる。

 ぶらぶらと歩いてるうちに、一つの展示の前で足が止まった。分厚い鏡の前に青い傘が一つ置いてあるのに、鏡に映っている傘の色は赤だ。展示名は「姿見」になっていた。

「それが気に入ったのか?」

 ふと気づくと、朝陽が横にいた。僕は肩をすくめた。

「気に入ったっていうか、普通に気になるじゃん? 鏡に見せかけて、ほんとはガラスで向こうに実物があるんだろうけど……それにしても、僕の姿も映ってるし――」

 不意に後ろから、腰に腕を回された。これは、〈落ち着け〉だ。いや、なんで今? 別に僕、焦ってないし……

「理由じゃなくて」

 朝陽の声は、珍しく静かだった。

「それが好きかって、聞いたんだけど?」

 僕はちょっと黙った。もう一度、赤い傘を見て、ゆっくりと頷く。

「うん。たぶん……好きかな」
「それじゃ、書くもの決まったな」

 自分のクリップボードを軽くたたいて、朝陽が満足そうに笑う。

 朝陽が「一番好きだった作品」に何を選んだのか、僕は少しだけ見てみたい気がした。