高速バスの車輪がガタンと段差を越えた衝撃で、僕ははっと目を覚ました。慌ててあたりを見回すと、隣で窓際に頬杖をついているオオカミと目が合う。
「……僕、寝てた?」
「ああ。爆睡」
「やば。いま何時? 集合時間のアナウンスしないと――」
「もう済んだ。俺が盛り上げてやったから」
「あ……よかった」
ただのアナウンスでなんで「盛り上げる」必要があったのかわからないけど、こいつの言動に関してはもう深く考えるだけ無駄だ。とにかく、情報が伝わってればなんでもいい。〈さんきゅ〉の代わりに手の甲をぽんぽんと叩くと、朝陽が眉を上げた。
「もうちょっと申し訳なさそうにしてもいいんだぞ?」
「必要ある? お前も学級委員でしょ」
「まあ、そうだけど」
やれやれと首を振る朝陽を背に、僕は通路を覗き込んだ。向こうの席では、颯太と理央が何かの攻略本を見ながら喋っている。その後ろでは夏帆が、綺麗に髪を巻いた七瀬さんの膝に、上着をかけてあげていた。後ろをざっと眺めると、他にも上着を羽織っている女子がちらほらいる。どうせ朝陽は、こういうところには気づいてないだろう。
「あ、晴くん。起きたの?」
「うん。みんな、ちょっと寒いかな? 温度上げてもらおうか」
「うーん……でも、もうすぐ着いちゃうよね」
「大丈夫だよ。どうせ今から先生とスケジュールの相談するし。降りて最初の目的地がトイレとか、嫌じゃない?」
「あはは、たしかに。ありがと、晴くん」
窓際の方から膝を軽く叩かれて、僕は姿勢を戻した。朝陽がわざとらしく、手でパタパタと顔をあおぐ。
「俺は、暑いんだけど?」
「知らないよ。勝手に上裸になってれば?」
「ははっ、お前、人たらしはどこいったんだよ」
なぜか笑い始めた朝陽を無視して、僕は先生と話そうと、前の席へ身を乗り出した。
◇
美術館の見学は、一時間しかなかった。チケットオフィスの小さな建物と、ゆるくカーブした大きな展示棟の間に、芝生の手入れされた中庭が広がっている。写真で見た逆さピラミッドのモニュメントは、そのど真ん中にあった。嬉しくないことに、なかなかに目立つ位置だ。
「まあ……腕組むぐらいなら、もはや見られても許容範囲な気がしてきたんだけど」
「そうだな。一昨日しぐさ語で〈何してるんだ?〉になったところだし」
「君ら、だんだん感覚麻痺してきてない……?」
キス写真と同じように、このポーズだけ再現しても写真が戻らないことは、すでに学校で試し済みだった。僕は展示棟の中にぞろぞろと入っていくみんなをじっと眺めて、タイミングをうかがっていた。最後の中野くんの靴が、角を曲がって消える……今だ。
「チャンス。やるよ!」
芝生の上を急いで走って行って、思ったより大きいピラミッドの前に、朝陽と二人並んで立つ。朝陽の左腕に自分の右腕を絡めると、朝陽がふっと笑って、さらに僕を引き寄せるように脇を少しだけ締めた。いや時間ないんだから、今は余計なことしないでほしい。
「二人とも、もうちょい左行って。ピラミッドにちょっと被るぐらい……いや、このサイズで写ってるなら、もうちょい前かもな……」
背景が増えたから、颯太の指示も複雑だ。建物の方を気にしながら何度か位置を調整した挙句、運よく人が来る前に、颯太が完了の声をあげた。
「おっけー。写真、戻った!」
「よかった!」
僕はほっとして、すぐに朝陽から腕をほどいた。芝生に置いておいたスクールバッグを拾って草を払っていると、理央たちが話しながら近づいてくる。
「やっぱりこれ、この場所に来てやる必要があったってことだよね。おれ思ったんだけど、写真は未来の二人を写してるってことはない? だから、再現して現実にすれば戻る、みたいな」
「あたしも最初はそう思ってたんだけど、それだとキス写真が例外になるのよね。むしろ未来っていうより、その時点のあんたたちに一番ありえない構図が写ってるだけとか?」
「あ、たしかに……でもそうすると、戻る条件って何なんだろうね?」
理央と夏帆が面白そうな推理をしている横で、朝陽がひょいと首をかしげた。
「とりあえず、学校戻ってからにしないか? 俺、あの窓から見えてる意味わかんない形のオブジェめっちゃ気になってるんだけど」
「え、朝陽どれ? ……うわほんとだ、何あの戦闘力高そうなトゲ。オレも興味ある、行こうぜ!」
「待って颯太、せっかくだし、ここで班写真撮ってから中入ろうよ!」
そう言って、僕は手を伸ばして自分のスマホを構えた。五月の青空をバックに、逆さピラミッドと美術館の建物、そして笑顔の五人がインカメにおさまる。うん。いい感じ。
何枚か撮って、僕は立ち上がった。
「よし、それじゃこれ、グループに送る――って、うわー、まただよ……」
「え、なになに?」
僕はうんざりして、四人に画面を突き出した。いま撮ったばかりの、五人の集合写真。みんなが笑顔でカメラを見ていたはずなのに、なぜか前列にしゃがんでいる僕と朝陽は、お互いのことしか見ていなかった。しかも、後ろに軽く手をついた僕の上に朝陽が乗り上げていて、ほとんど押し倒そうとしているような構図だ。
「……うわあ。これはまた――」
「理央、それ以上言わないで。あと朝陽、それ以上拡大しないで」
「いや、ピラミッドのこの面見てみろよ。なんか写ってないか?」
「あ、ほんとね。ケーブルとパソコンっぽい……視聴覚室?」
「ってことは、お前ら次は視聴覚室でこれやんの? やべえじゃん、映像撮ったら売れるんじゃ――」
「絶対にやめてね!」
僕は笑顔で颯太を遮った。この僕が、よりによって朝陽に押し倒される姿が世に流れるなんて冗談じゃない。まあ、しぐさ語では〈ふざけんな〉とかになるんだろうけど、それにしたって人前で使いたくない構図だ。
「どっちにしろ、この写真のことは後で考えるしかないでしょ。とにかく、中に入ろうよ! 見学時間終わっちゃうから」
強制的にスマホの画面を消すと、僕は先頭に立ってずんずん歩き出した。
◇
白い壁と床に囲まれた展示室は、静かで、靴音がよく響いていた。
入り口で配られた水色のクリップボードに、僕はもう一度目を落とした。挟まれているワークシートの項目はだいたい埋まっていて、あとは「一番好きだった作品」を書くだけだ。
横から、腕を軽く引っ張られた。目が合った朝陽が、壁に掛けられた大きな絵の方を顎で示し、薦めるみたいに首を傾げる。僕は首を振って、こめかみをとんとんと叩いてみせた。朝陽が鼻を鳴らして、僕の頭を軽く小突く。
「あんたら、うるさいんだけど」
展示室を反対回りに見ていた夏帆が、僕らの正面に来るなりため息をついた。
「えっ。僕、しゃべってないよ?」
「動きがじゅうぶんうるさいのよ。ねえ、あたしお手洗い行ってきていい? 先生に聞かれたらそう言っといて」
「了解。女子トイレなら、一個前の展示室の横が一番近いと思うよ」
「ありがと」
夏帆を見送っていると、今度は颯太が寄ってきた。
「晴。見ーせて」
「いいけど、これ写してもしょうがなくない? 僕まだ最後のやつ選んでないし」
「いいんだよ。前半の穴埋めの答え知りたいだけだから」
「二階に上がる階段前のキャプションに、全部書いてあったよ……」
クリップボードごと取られた僕は、ため息をついて白い展示室を見渡した。一面が灰色で塗りつぶされた巨大なキャンバス。ピンクのドーナツがたくさん床にぶちまけられているだけの区画。現代美術は自由すぎて、あそこで眼鏡をかけなおしてる理央の姿にもタイトルとキャプションを付けたら、それだってアートになるんじゃないかと思えてくる。
ぶらぶらと歩いているうちに、一つの展示の前で足が止まった。大きな鏡の前に、青い傘が一つ置いてある。ただし、鏡の向こうに映っている傘は、なぜか青ではなく赤色をしていた。タイトルは「姿見」で、キャプションはなかった。
「それが気に入ったのか?」
ふと気づくと、朝陽が横にいた。僕は肩をすくめた。
「気に入ったっていうか、どうなってるのか気になるじゃん? 鏡に見せかけてほんとはガラスで、向こうに実物があるんだろうけど……でも、それにしては僕の姿も普通に映ってるし」
鏡に映る僕は、見慣れた自分の姿だった。きちんとアイロンをかけた制服のシャツに、折り目のついた濃いグレーのズボン。一か所だけ逆方向に流れていた前髪を、僕はささっと整えた。
そのとき、腰のあたりに、軽い感触があった。
鏡に目を戻すと、朝陽が後ろから僕の腰に片腕を回していた。初めて客観的に見る自分たちの距離感に、なぜかちょっと目が離せなくなる。でも、映っている朝陽は鏡を見ずに、ただ僕の顔をじっと見つめていた。その視線で、ようやく我に返る。ええと、腰抱きは〈落ち着け〉だから……いや、なんで今? 別に僕、なにも焦ってないんだけど……
「理由じゃなくて」
朝陽の声は、珍しく静かだった。
「それが好きかって、聞いたんだけど?」
僕は、ちょっと黙った。
こういう時、自分が好きかどうかなんて、正直あんまり考えたことがなかった。どういう仕掛けなのかとか、何を書けばいい点をもらえそうかとか、そういうことはいくらでも考えられるのに……。
僕は、もう一度展示を見た。現実にある青い傘と、鏡に映っている赤い傘。それから、鏡に映っている、現実と変わらない自分たちの姿をじっと見て、ようやくゆっくりと首を縦に振る。
「うん。たぶん……好き、かな」
「それじゃ、書くもの決まったな」
満足そうに言って、朝陽が僕を放し、自分のクリップボードを軽く叩く。コツ、コツ、と控えめな足音を立てて遠ざかっていく奴を、僕はしばらく眺めていた。朝陽が「一番好きだった作品」に何を選んだのか、僕は少しだけ見てみたい気がした。
「……僕、寝てた?」
「ああ。爆睡」
「やば。いま何時? 集合時間のアナウンスしないと――」
「もう済んだ。俺が盛り上げてやったから」
「あ……よかった」
ただのアナウンスでなんで「盛り上げる」必要があったのかわからないけど、こいつの言動に関してはもう深く考えるだけ無駄だ。とにかく、情報が伝わってればなんでもいい。〈さんきゅ〉の代わりに手の甲をぽんぽんと叩くと、朝陽が眉を上げた。
「もうちょっと申し訳なさそうにしてもいいんだぞ?」
「必要ある? お前も学級委員でしょ」
「まあ、そうだけど」
やれやれと首を振る朝陽を背に、僕は通路を覗き込んだ。向こうの席では、颯太と理央が何かの攻略本を見ながら喋っている。その後ろでは夏帆が、綺麗に髪を巻いた七瀬さんの膝に、上着をかけてあげていた。後ろをざっと眺めると、他にも上着を羽織っている女子がちらほらいる。どうせ朝陽は、こういうところには気づいてないだろう。
「あ、晴くん。起きたの?」
「うん。みんな、ちょっと寒いかな? 温度上げてもらおうか」
「うーん……でも、もうすぐ着いちゃうよね」
「大丈夫だよ。どうせ今から先生とスケジュールの相談するし。降りて最初の目的地がトイレとか、嫌じゃない?」
「あはは、たしかに。ありがと、晴くん」
窓際の方から膝を軽く叩かれて、僕は姿勢を戻した。朝陽がわざとらしく、手でパタパタと顔をあおぐ。
「俺は、暑いんだけど?」
「知らないよ。勝手に上裸になってれば?」
「ははっ、お前、人たらしはどこいったんだよ」
なぜか笑い始めた朝陽を無視して、僕は先生と話そうと、前の席へ身を乗り出した。
◇
美術館の見学は、一時間しかなかった。チケットオフィスの小さな建物と、ゆるくカーブした大きな展示棟の間に、芝生の手入れされた中庭が広がっている。写真で見た逆さピラミッドのモニュメントは、そのど真ん中にあった。嬉しくないことに、なかなかに目立つ位置だ。
「まあ……腕組むぐらいなら、もはや見られても許容範囲な気がしてきたんだけど」
「そうだな。一昨日しぐさ語で〈何してるんだ?〉になったところだし」
「君ら、だんだん感覚麻痺してきてない……?」
キス写真と同じように、このポーズだけ再現しても写真が戻らないことは、すでに学校で試し済みだった。僕は展示棟の中にぞろぞろと入っていくみんなをじっと眺めて、タイミングをうかがっていた。最後の中野くんの靴が、角を曲がって消える……今だ。
「チャンス。やるよ!」
芝生の上を急いで走って行って、思ったより大きいピラミッドの前に、朝陽と二人並んで立つ。朝陽の左腕に自分の右腕を絡めると、朝陽がふっと笑って、さらに僕を引き寄せるように脇を少しだけ締めた。いや時間ないんだから、今は余計なことしないでほしい。
「二人とも、もうちょい左行って。ピラミッドにちょっと被るぐらい……いや、このサイズで写ってるなら、もうちょい前かもな……」
背景が増えたから、颯太の指示も複雑だ。建物の方を気にしながら何度か位置を調整した挙句、運よく人が来る前に、颯太が完了の声をあげた。
「おっけー。写真、戻った!」
「よかった!」
僕はほっとして、すぐに朝陽から腕をほどいた。芝生に置いておいたスクールバッグを拾って草を払っていると、理央たちが話しながら近づいてくる。
「やっぱりこれ、この場所に来てやる必要があったってことだよね。おれ思ったんだけど、写真は未来の二人を写してるってことはない? だから、再現して現実にすれば戻る、みたいな」
「あたしも最初はそう思ってたんだけど、それだとキス写真が例外になるのよね。むしろ未来っていうより、その時点のあんたたちに一番ありえない構図が写ってるだけとか?」
「あ、たしかに……でもそうすると、戻る条件って何なんだろうね?」
理央と夏帆が面白そうな推理をしている横で、朝陽がひょいと首をかしげた。
「とりあえず、学校戻ってからにしないか? 俺、あの窓から見えてる意味わかんない形のオブジェめっちゃ気になってるんだけど」
「え、朝陽どれ? ……うわほんとだ、何あの戦闘力高そうなトゲ。オレも興味ある、行こうぜ!」
「待って颯太、せっかくだし、ここで班写真撮ってから中入ろうよ!」
そう言って、僕は手を伸ばして自分のスマホを構えた。五月の青空をバックに、逆さピラミッドと美術館の建物、そして笑顔の五人がインカメにおさまる。うん。いい感じ。
何枚か撮って、僕は立ち上がった。
「よし、それじゃこれ、グループに送る――って、うわー、まただよ……」
「え、なになに?」
僕はうんざりして、四人に画面を突き出した。いま撮ったばかりの、五人の集合写真。みんなが笑顔でカメラを見ていたはずなのに、なぜか前列にしゃがんでいる僕と朝陽は、お互いのことしか見ていなかった。しかも、後ろに軽く手をついた僕の上に朝陽が乗り上げていて、ほとんど押し倒そうとしているような構図だ。
「……うわあ。これはまた――」
「理央、それ以上言わないで。あと朝陽、それ以上拡大しないで」
「いや、ピラミッドのこの面見てみろよ。なんか写ってないか?」
「あ、ほんとね。ケーブルとパソコンっぽい……視聴覚室?」
「ってことは、お前ら次は視聴覚室でこれやんの? やべえじゃん、映像撮ったら売れるんじゃ――」
「絶対にやめてね!」
僕は笑顔で颯太を遮った。この僕が、よりによって朝陽に押し倒される姿が世に流れるなんて冗談じゃない。まあ、しぐさ語では〈ふざけんな〉とかになるんだろうけど、それにしたって人前で使いたくない構図だ。
「どっちにしろ、この写真のことは後で考えるしかないでしょ。とにかく、中に入ろうよ! 見学時間終わっちゃうから」
強制的にスマホの画面を消すと、僕は先頭に立ってずんずん歩き出した。
◇
白い壁と床に囲まれた展示室は、静かで、靴音がよく響いていた。
入り口で配られた水色のクリップボードに、僕はもう一度目を落とした。挟まれているワークシートの項目はだいたい埋まっていて、あとは「一番好きだった作品」を書くだけだ。
横から、腕を軽く引っ張られた。目が合った朝陽が、壁に掛けられた大きな絵の方を顎で示し、薦めるみたいに首を傾げる。僕は首を振って、こめかみをとんとんと叩いてみせた。朝陽が鼻を鳴らして、僕の頭を軽く小突く。
「あんたら、うるさいんだけど」
展示室を反対回りに見ていた夏帆が、僕らの正面に来るなりため息をついた。
「えっ。僕、しゃべってないよ?」
「動きがじゅうぶんうるさいのよ。ねえ、あたしお手洗い行ってきていい? 先生に聞かれたらそう言っといて」
「了解。女子トイレなら、一個前の展示室の横が一番近いと思うよ」
「ありがと」
夏帆を見送っていると、今度は颯太が寄ってきた。
「晴。見ーせて」
「いいけど、これ写してもしょうがなくない? 僕まだ最後のやつ選んでないし」
「いいんだよ。前半の穴埋めの答え知りたいだけだから」
「二階に上がる階段前のキャプションに、全部書いてあったよ……」
クリップボードごと取られた僕は、ため息をついて白い展示室を見渡した。一面が灰色で塗りつぶされた巨大なキャンバス。ピンクのドーナツがたくさん床にぶちまけられているだけの区画。現代美術は自由すぎて、あそこで眼鏡をかけなおしてる理央の姿にもタイトルとキャプションを付けたら、それだってアートになるんじゃないかと思えてくる。
ぶらぶらと歩いているうちに、一つの展示の前で足が止まった。大きな鏡の前に、青い傘が一つ置いてある。ただし、鏡の向こうに映っている傘は、なぜか青ではなく赤色をしていた。タイトルは「姿見」で、キャプションはなかった。
「それが気に入ったのか?」
ふと気づくと、朝陽が横にいた。僕は肩をすくめた。
「気に入ったっていうか、どうなってるのか気になるじゃん? 鏡に見せかけてほんとはガラスで、向こうに実物があるんだろうけど……でも、それにしては僕の姿も普通に映ってるし」
鏡に映る僕は、見慣れた自分の姿だった。きちんとアイロンをかけた制服のシャツに、折り目のついた濃いグレーのズボン。一か所だけ逆方向に流れていた前髪を、僕はささっと整えた。
そのとき、腰のあたりに、軽い感触があった。
鏡に目を戻すと、朝陽が後ろから僕の腰に片腕を回していた。初めて客観的に見る自分たちの距離感に、なぜかちょっと目が離せなくなる。でも、映っている朝陽は鏡を見ずに、ただ僕の顔をじっと見つめていた。その視線で、ようやく我に返る。ええと、腰抱きは〈落ち着け〉だから……いや、なんで今? 別に僕、なにも焦ってないんだけど……
「理由じゃなくて」
朝陽の声は、珍しく静かだった。
「それが好きかって、聞いたんだけど?」
僕は、ちょっと黙った。
こういう時、自分が好きかどうかなんて、正直あんまり考えたことがなかった。どういう仕掛けなのかとか、何を書けばいい点をもらえそうかとか、そういうことはいくらでも考えられるのに……。
僕は、もう一度展示を見た。現実にある青い傘と、鏡に映っている赤い傘。それから、鏡に映っている、現実と変わらない自分たちの姿をじっと見て、ようやくゆっくりと首を縦に振る。
「うん。たぶん……好き、かな」
「それじゃ、書くもの決まったな」
満足そうに言って、朝陽が僕を放し、自分のクリップボードを軽く叩く。コツ、コツ、と控えめな足音を立てて遠ざかっていく奴を、僕はしばらく眺めていた。朝陽が「一番好きだった作品」に何を選んだのか、僕は少しだけ見てみたい気がした。
