写真の中だけ、もうキスしてる

 この世の誰も望んでないキスなんて、さっさと済ませてしまうに限る。

 次の日の放課後、朝陽の部活が休みだというので、僕たちはすぐに手近な空き教室へ向かった。僕たち、というのは、僕と朝陽だけじゃない。ワクワク顔の颯太、生温かい目の理央、そして――

「榎本さん、本当に来るの? 野郎二人のキスなんて、あんまり見たいものじゃないと思うけど……」 
「だって、気になるじゃない」

 榎本さんはあっさりと言いながら、重そうなスポーツバッグをどさりと教壇の端に下ろした。

「どういう原理でそれが起こるのかとか、なんで高瀬と立花なのかとか。むしろ、あんたらはそこを知りたいとは思わないわけ?」
「あ……おれもそれは気になってる。だって、原因がわかんないままだったら、この先も朝陽と晴は写真を撮るたびに警戒しなきゃいけないよ?」
「たしかに。頭いいなお前ら」

 傍観者三人は勝手になにやら話しながら、窓際から机をどかして、ご丁寧にスペースを作ってくれている。こっちは今から人生の黒歴史を作ろうとしてるのに、まったく他人事だと思って……!

「ほんと、原因が謎ね。あんたら、始業式前になんか呪われるようなことでもした?」
「するわけないよ! なんなら僕は『今年もいい感じに平和にしてください』って神社にお参りしてきたぐらいなのに」
「あ。それは俺も行ったわ」
「嘘だろ。なんでお前は全部僕にかぶせてくるわけ?」
「晴、意外とざっくりしたお願いするんだね。ちょっと朝陽みたい」
「え、高瀬が行ったところって、もしかして立花と同じ神社――」
「とにかく!」

 僕は教卓をバンと叩いた。

「これさえ終われば全部片付くんだから、さっさとやろうよ。颯太、構図は?」
「えーと、まず向かい合わせで立って。晴は右手を朝陽の胸に置く。朝陽は左腕を晴の腰に回して、右手を晴の頭」

 これまでさんざん他の写真を再現した時と同じように、僕らは窓際できびきびと向かい合った。校庭の方から、運動部の掛け声が遠くに聞こえてくる。

「こう?」
「そう。朝陽、右手の親指で晴の耳さわれる?」
「こんな感じか?」
「ナイス。晴、もうちょい前……なに、どうした?」
「……いや。なんか、思ったより……」

 奇妙な感覚だった。散々しぐさ語でお互いに触れてはいたけど、さすがにキスだけはなんとなくダメな気がしていた。でも、朝陽と向かい合った時、僕は少しのくすぐったさ以外、湧き上がるような緊張も吐き気も、何も感じなかった。試しにシャツの胸元を、くん、と引っ張ってみると、朝陽の指が僕の後頭部をゆっくりとなぞる。その微妙な力加減で、朝陽も同じなんだとわかった。

「なんか……普通だな」

 呟くと、朝陽が頷いた。

「俺も。全然できるわ」

 この状態から、顔を少しだけ近づけて、一瞬さわって、すぐに離れる。それぐらいなら、まあ、別に……。

「……オッケー。構図は完璧!」

 写真を確認していた颯太の声に頷いて、ゆっくり息を吸う。教室の中が、急に静かになった。固唾を飲んで見守る三人の前で、僕と朝陽だけがいつも通りに、でもほんの少し微妙な顔で、お互いを探り合っている。この距離で顔を合わせようとすると、僕が朝陽を見上げる形になってしまって、やっぱり少し悔しかった。

 見つめていると、オオカミみたいな顔が、小さく首を傾げた。

「一応聞くけど、初めてじゃないよな?」

 僕は瞬きした。

「彼女いたって、昨日話さなかったっけ?」
「知ってる。でもお前なら、『君のペースに合わせるよ』とかなんとか言って、キスすらしてない可能性もあるなって」

 揶揄うような口調に、僕はかっとなった。

「バカにしてんの? それぐらい、僕だって――ん、」

 朝陽の笑った顔が、急に傾いた。半分閉じた瞳が、すぐ目の前にあった。

 湿っても乾いてもない朝陽の唇を、僕は自分の唇で受け止めた。朝陽の鼻先が、僕の頬に少しだけ当たっている。僕は、思わず眉を寄せた。とっさに目を閉じちゃったけど、これ写真はどっちが正解なんだっけ……?

 薄く目を開けると、朝陽はまだ目を閉じていた。僕が動いたのを感じたのか、重なった唇が笑いを堪えるように吊り上がり、親指がわざとらしい優しさで僕の耳をくすぐる。こんな時まで、こいつは。僕は眉を寄せて小さく唸り、胸元に添えた手の指にぐっと力をこめた。ふざけていた親指がようやく大人しくなり、腰に回された腕にもう一度だけ軽く力がこもる。それから朝陽が顔を離し、僕も朝陽のシャツから手を放した。

 しばらく、僕たちは無言で互いをじっと観察していた。口元をぬぐう必要すらないほどの接触だった。朝陽の眉が、くいっと上がった。

「どうだった?」
「どうって……別に何も」

 僕は、小さく首を横に振った。そう。別に何も。少なくとも、僕が恐れていたようなことは、何も起きなかった。キスって、一度したら後戻りできなくなってしまうような、もっと特別な行為だと思ってたのに。こんなの、いつものしぐさ語で話してる間に、ただ顔がちょっとぶつかったようなものだ。

「だよな。普通にできたわ。遠慮して損した」
「そうだね。最初からやってればよかった」
「なんだー」

 がっかりしたような颯太の声で、僕らは振り返った。理央と榎本さんまで、なんとも言えない顔をしている。

「もっと面白い画が見られるかと思ったのに」
「ね。あんたら、恥ずかしがったりとかないの?」
「そう言われてもな」

 朝陽が鼻を鳴らす。

「もっと情熱的な感じで演技した方がよかったか、颯太監督?」
「おっ、やっちゃう? 朝陽お前、ほんとはもっとえげつないキスするタイプだろ?」
「見てみたいならやってやろうか? 『晴、いいから、俺だけ見てろよ……』」
「やめろって」

 ふざけて寄ってきた朝陽の頭を、僕は半笑いでぐいっと押しのけた。

「もうじゅうぶんだろ。テイク2とか、マジでやめてよ」
「まあ、そうだな。俺も、もう一回はごめんだ」

 遠くに戻ってきた運動部の掛け声を聞きながら、朝陽と目を合わせて軽く頷きあう。平気だったからと言って、またやりたいとはまったく思わない。しぐさ語のレパートリーにも、これは入れないでおいていいだろう。

 とにかく、最大の山場は、これで超えたんだ! あとは榎本さんの言うように、そもそもの原因をつきとめたら万事解決――

「……あの、朝陽」

 ――と思っていたのに、写真はそう簡単に僕らを解放してくれなかった。僕に掴まれたシャツの胸元を適当に直している朝陽を、理央がおずおずと呼んだ。

「写真……戻らない、みたいなんだけど」

 一瞬、しんとなった。僕と朝陽は、すごい勢いで同時に振り返った。

「……は?」