誰とでも話せばうまくいく僕が、こいつとだけは話さない方がうまくいく。
それからの一週間は、驚くほど快適だった。しぐさ語のおかげで、立花朝陽は「大嫌いな奴」から「黙ってれば便利な奴」へ大幅に修正された。こいつの雑な言葉はいちいちムカつくけど、しぐさならどう読むかは僕しだいだ。それに、なんだか推理ゲームみたいで、ちょっと楽しい。
昼休みの食堂は、人で混み合っていた。颯太に付き添って職員室に行っていたせいで出遅れた僕は、ちょうど入り口で理央と朝陽、その少し後ろに並んでいた榎本さんを見つけて、明るく手をあげた。
「あ! 一緒に食べる?」
「うん。じゃあ、そうしようかな」
僕はさっと見渡して、端の方に六人がけの空いてるテーブルを見つけた。朝陽にそれを示して首元をとんとんと叩き、ついでに手でコップを持つようなしぐさをする。朝陽が頷いて、首にかけていたタオルを僕に投げると、軽く胸を叩いて食堂の列へ消えていく。弁当組の僕と理央が先にテーブルへついて数分後、戻ってきた朝陽のトレーには水を入れた五人分のコップがあり、三人の席は朝陽の長いタオルで確保されていた。うん。これ、ほんと使える。
「そういえば昨日、バレー部の友達に聞かれたんだけどさ」
スプーンでカレーを綺麗にくるりと混ぜながら、榎本さんが僕を見た。ちなみに僕は結局榎本さんに、異常写真のことはぜんぶ白状していた。僕の知らないところで「昨日さ、高瀬と立花が――」とか余計なことを言いふらされるより、そっちの方が二百倍もマシだ。
「高瀬って、いま彼女いるの?」
「いないよ。なんで?」
「え、意外。普通にモテそうなのに」
「それは褒めてるの? 貶してるの?」
苦笑しながら、斜め前に手を伸ばして、朝陽のカツ丼を乗せたトレーのふちを軽く叩く。朝陽が僕を見もせずに、トレーの脇にあったテーブルふきんを放ってよこした。
颯太が首を傾げた。
「でも晴、去年はいたよな?」
「うん。夏前に別れちゃったけどね」
「そういえば、朝陽もそれぐらいに別れてなかった?」
「あー、そんな時期だっけ。記憶力いいな理央」
「じゃあ二人ともいまフリーなんだ……咲希に教えてあげよ。あ、というか二人は、そもそもいま彼女ほしい?」
「うーん……」
テーブルの下で、くるぶしを軽くつつかれた。朝陽の視線の先にある塩の瓶を渡しながら、僕はちょっと考えこんだ。
「別に、明日にでも付き合いたい! ってわけじゃないけど。いい人がいたらほしいかな」
「俺も。いたらいたで、絶対楽しいもんな」
「そっか。……ってか、ねえ、その会話してる横で、それやるのやめてくれる?」
「何が?」
「彼女ほしいとか言ってるあんたらが、一番夫婦みたいなんだけど」
「……え?」
榎本さんの視線の先では、ちょうど〈さんきゅ〉を伝えるために、朝陽が僕の手の甲をぽんぽんと二回叩いたところだった。
僕らは顔を見合わせた。
「どこが?」
「これぐらい、犬だって人間にやるでしょ」
「おい。いまお前、俺を犬の方にあてはめただろ」
「悪い? サルの方が良かった?」
ほら。平穏なのはしぐさだけで、口を開けばすぐこうなる。こんなので夫婦認定されるなら、僕は明日にでも結婚できそうだ。
◇
その週、ロングホームルームの議題は、春の校外学習の行動班決めだった。高二の行き先は大緑文化地区で、午前中に現代美術館を見学して、午後は文化地区探索という名の自由行動だ。「あとは学級委員でよろしくな」とさっさと職員室に戻っていった先生に代わって、僕は教壇からゆるい空気のクラスを見渡した。
「それじゃ、とりあえず五、六人で適当に固まってみてくれるかな? 制限時間は今から五分ね、はいスタート」
僕の指示で、教室がガヤガヤと動き始める。でも、いざ五分後に確認してみたら、七人班ができてたり、まだ班に入ってない人もいた。まあ、そう簡単にいくわけがない。
「今こんな感じか?」
朝陽が黒板の上に、みんなの名前が書かれたマグネットを貼っていく。僕はその手をぽんぽんと二回叩いてから、改めて状況を見渡した。
「B班、四人しかいないね。E班多いから、誰か移れる?」
「えー、あたし咲希と一緒がいい」
「あ、じゃあ二人で移ったらどうかな? そしたら六人と五人になるから」
「晴、頭いい。それならいいよ!」
「あとは、本間くんたちは? どこか入りたい班ある?」
「うーん、俺は別にどこでも……」
「なら、俺そっち入ろうかな。先週貸した漫画、まだ感想聞いてないし?」
「えっ、朝陽がそっちいくなら俺も行く!」
「俺も! あ、でも人数オーバーか?」
「えーと、待って、ちょっと待ってね……」
みんながわいわいと言い始めて、僕は名簿を睨みながらこめかみを揉んだ。本間くんたちをそこへ入れると、今度はD班が足りなくなる。かといって仲のいい人たちを離すわけにもいかないし……。
その時、ふいに後ろから、片腕で腰を軽く抱かれた。
無言の体温が、背中に当たった。僕は反射的に体を固くして、さっとみんなの方を見渡した。でも、みんな班分けに夢中で、誰もこっちなんて見ていない。振り返ると、肩越しに朝陽と目が合った。朝陽がひょいと眉を上げ、腰に回した腕にもう一度軽く力をこめる。〈落ち着けよ〉って? はいはい、わかったよ。
僕は小さく息を吸って、パンパンと手を叩いた。朝陽が、自然なしぐさで、僕を放した。
「ちょっと、一回静かにしてもらっていいかな? 思ったんだけど、こっちをこうして、この三人にまとめて移ってもらったら……」
「佐伯も、本間と一緒でもいいよな? スニーカーの紐ぎらぎらしたのに変えてんの、お前ら二人ぐらいだし」
「ふはっ、なんだそれ」
マグネットを動かしていく僕と、その間に笑いを取って和ませていく朝陽。おかげで、なんとか班分けは完成した。
「よし、これで決まり! みんないいよね?」
「いいじゃん、楽しみ!」
「ってか、めっちゃ早く決まったな。さすが人たらしコンビ」
「ねえ、日直だれー? 早く帰ろうよ」
ぞろぞろとみんなが席を立って、帰り支度を始める。僕が教卓で、決まった班分けを名簿に書き込んでいると、朝陽が横から覗き込んできた。
「で、結局俺らは同じ班なわけ?」
「……え」
僕は急いで名簿を見直した。A班。榎本夏帆、木崎颯太、久保田理央、高瀬晴、そして――
「え? お前、最初違う班じゃなかった?」
「そうだったんだけど。なんか人数合わせで転々としてたら、こうなったな」
「そこは学級委員はかたまらないようにするとこじゃないの?」
「いいじゃん別に。それに、この方がいろいろと便利だろ?」
ニヤリと笑った朝陽が、僕のおでこをちょんとつつく。この野郎。
「あ、朝陽! これ見てよ」
帰りの挨拶が終わって先生がいなくなった後、荷物をまとめている僕たちのところに、理央と颯太がやってきた。颯太がスマホの画面を向けて、星マークのついた写真の一覧を見せてくる。二週間前は、僕と朝陽の異常写真でいっぱいだったフォルダだ。
「昨日だいぶ消化したから、残り二枚になってただろ。でも、今見たら一枚戻ってたんだよ」
「……それ、どんな写真だったか覚えてる?」
ちなみに僕は、意図的に記憶から抹殺している。
「たしか、朝陽がお前を後ろからこうしてるやつじゃなかったっけ」
「……あ。もしかして、さっきの〈落ち着け〉で戻った?」
班分け中に交わしたしぐさ語を思い出して、朝陽と顔を見合わせる。そういえば、異常写真にもそんな構図があったような気がした。
「ラッキー。あんな適当でも判定してくれるんだ」
「だな。てか、前もそれで戻ったパターンあったし」
「なんか、あんまり身構える必要なかったのかも。しぐさ語さまさまだね」
「さっきのは俺がやったからだけど?」
「調子乗るなよお前」
ひとしきり罵り合ってから、颯太が持つスマホに目を向ける。星マークのついた写真の中で、一番ありえない最初の構図だけが、いまだにしぶとく残っていた。
「じゃあ……あとは、それだけだね」
「……ああ」
朝陽が、ゆっくりと頷く。表情を読もうとしたわけじゃないけど、なんとなく朝陽も僕と同じことを考えているような気がした。
「ねえ。なんかもう……ここまできたらさ」
「な。案外、何でもないかもしれないぞ……?」
最初は、それだけは絶対に無理だと思っていた。でも、しぐさ語にしても他の構図の再現にしても、ここまでいろいろやって、本当に何も感じなかったんだ。だから、もしかしたら……。
「え……晴、マジ?」
「いや、わかんない。やっぱ無理かも。でも……」
無意識に、僕は朝陽の顔を見つめていた。朝陽も、僕をじっと見ていた。よく女子の視線を浴びている、僕にとっては何の興味もない、鋭く整った顔立ち。その顔がちょっと傾いて、薄い唇が無造作に開く。
「じゃあ――キスしてみる?」
いつの間にか、僕の真正面に、立花朝陽が立っていた。
それからの一週間は、驚くほど快適だった。しぐさ語のおかげで、立花朝陽は「大嫌いな奴」から「黙ってれば便利な奴」へ大幅に修正された。こいつの雑な言葉はいちいちムカつくけど、しぐさならどう読むかは僕しだいだ。それに、なんだか推理ゲームみたいで、ちょっと楽しい。
昼休みの食堂は、人で混み合っていた。颯太に付き添って職員室に行っていたせいで出遅れた僕は、ちょうど入り口で理央と朝陽、その少し後ろに並んでいた榎本さんを見つけて、明るく手をあげた。
「あ! 一緒に食べる?」
「うん。じゃあ、そうしようかな」
僕はさっと見渡して、端の方に六人がけの空いてるテーブルを見つけた。朝陽にそれを示して首元をとんとんと叩き、ついでに手でコップを持つようなしぐさをする。朝陽が頷いて、首にかけていたタオルを僕に投げると、軽く胸を叩いて食堂の列へ消えていく。弁当組の僕と理央が先にテーブルへついて数分後、戻ってきた朝陽のトレーには水を入れた五人分のコップがあり、三人の席は朝陽の長いタオルで確保されていた。うん。これ、ほんと使える。
「そういえば昨日、バレー部の友達に聞かれたんだけどさ」
スプーンでカレーを綺麗にくるりと混ぜながら、榎本さんが僕を見た。ちなみに僕は結局榎本さんに、異常写真のことはぜんぶ白状していた。僕の知らないところで「昨日さ、高瀬と立花が――」とか余計なことを言いふらされるより、そっちの方が二百倍もマシだ。
「高瀬って、いま彼女いるの?」
「いないよ。なんで?」
「え、意外。普通にモテそうなのに」
「それは褒めてるの? 貶してるの?」
苦笑しながら、斜め前に手を伸ばして、朝陽のカツ丼を乗せたトレーのふちを軽く叩く。朝陽が僕を見もせずに、トレーの脇にあったテーブルふきんを放ってよこした。
颯太が首を傾げた。
「でも晴、去年はいたよな?」
「うん。夏前に別れちゃったけどね」
「そういえば、朝陽もそれぐらいに別れてなかった?」
「あー、そんな時期だっけ。記憶力いいな理央」
「じゃあ二人ともいまフリーなんだ……咲希に教えてあげよ。あ、というか二人は、そもそもいま彼女ほしい?」
「うーん……」
テーブルの下で、くるぶしを軽くつつかれた。朝陽の視線の先にある塩の瓶を渡しながら、僕はちょっと考えこんだ。
「別に、明日にでも付き合いたい! ってわけじゃないけど。いい人がいたらほしいかな」
「俺も。いたらいたで、絶対楽しいもんな」
「そっか。……ってか、ねえ、その会話してる横で、それやるのやめてくれる?」
「何が?」
「彼女ほしいとか言ってるあんたらが、一番夫婦みたいなんだけど」
「……え?」
榎本さんの視線の先では、ちょうど〈さんきゅ〉を伝えるために、朝陽が僕の手の甲をぽんぽんと二回叩いたところだった。
僕らは顔を見合わせた。
「どこが?」
「これぐらい、犬だって人間にやるでしょ」
「おい。いまお前、俺を犬の方にあてはめただろ」
「悪い? サルの方が良かった?」
ほら。平穏なのはしぐさだけで、口を開けばすぐこうなる。こんなので夫婦認定されるなら、僕は明日にでも結婚できそうだ。
◇
その週、ロングホームルームの議題は、春の校外学習の行動班決めだった。高二の行き先は大緑文化地区で、午前中に現代美術館を見学して、午後は文化地区探索という名の自由行動だ。「あとは学級委員でよろしくな」とさっさと職員室に戻っていった先生に代わって、僕は教壇からゆるい空気のクラスを見渡した。
「それじゃ、とりあえず五、六人で適当に固まってみてくれるかな? 制限時間は今から五分ね、はいスタート」
僕の指示で、教室がガヤガヤと動き始める。でも、いざ五分後に確認してみたら、七人班ができてたり、まだ班に入ってない人もいた。まあ、そう簡単にいくわけがない。
「今こんな感じか?」
朝陽が黒板の上に、みんなの名前が書かれたマグネットを貼っていく。僕はその手をぽんぽんと二回叩いてから、改めて状況を見渡した。
「B班、四人しかいないね。E班多いから、誰か移れる?」
「えー、あたし咲希と一緒がいい」
「あ、じゃあ二人で移ったらどうかな? そしたら六人と五人になるから」
「晴、頭いい。それならいいよ!」
「あとは、本間くんたちは? どこか入りたい班ある?」
「うーん、俺は別にどこでも……」
「なら、俺そっち入ろうかな。先週貸した漫画、まだ感想聞いてないし?」
「えっ、朝陽がそっちいくなら俺も行く!」
「俺も! あ、でも人数オーバーか?」
「えーと、待って、ちょっと待ってね……」
みんながわいわいと言い始めて、僕は名簿を睨みながらこめかみを揉んだ。本間くんたちをそこへ入れると、今度はD班が足りなくなる。かといって仲のいい人たちを離すわけにもいかないし……。
その時、ふいに後ろから、片腕で腰を軽く抱かれた。
無言の体温が、背中に当たった。僕は反射的に体を固くして、さっとみんなの方を見渡した。でも、みんな班分けに夢中で、誰もこっちなんて見ていない。振り返ると、肩越しに朝陽と目が合った。朝陽がひょいと眉を上げ、腰に回した腕にもう一度軽く力をこめる。〈落ち着けよ〉って? はいはい、わかったよ。
僕は小さく息を吸って、パンパンと手を叩いた。朝陽が、自然なしぐさで、僕を放した。
「ちょっと、一回静かにしてもらっていいかな? 思ったんだけど、こっちをこうして、この三人にまとめて移ってもらったら……」
「佐伯も、本間と一緒でもいいよな? スニーカーの紐ぎらぎらしたのに変えてんの、お前ら二人ぐらいだし」
「ふはっ、なんだそれ」
マグネットを動かしていく僕と、その間に笑いを取って和ませていく朝陽。おかげで、なんとか班分けは完成した。
「よし、これで決まり! みんないいよね?」
「いいじゃん、楽しみ!」
「ってか、めっちゃ早く決まったな。さすが人たらしコンビ」
「ねえ、日直だれー? 早く帰ろうよ」
ぞろぞろとみんなが席を立って、帰り支度を始める。僕が教卓で、決まった班分けを名簿に書き込んでいると、朝陽が横から覗き込んできた。
「で、結局俺らは同じ班なわけ?」
「……え」
僕は急いで名簿を見直した。A班。榎本夏帆、木崎颯太、久保田理央、高瀬晴、そして――
「え? お前、最初違う班じゃなかった?」
「そうだったんだけど。なんか人数合わせで転々としてたら、こうなったな」
「そこは学級委員はかたまらないようにするとこじゃないの?」
「いいじゃん別に。それに、この方がいろいろと便利だろ?」
ニヤリと笑った朝陽が、僕のおでこをちょんとつつく。この野郎。
「あ、朝陽! これ見てよ」
帰りの挨拶が終わって先生がいなくなった後、荷物をまとめている僕たちのところに、理央と颯太がやってきた。颯太がスマホの画面を向けて、星マークのついた写真の一覧を見せてくる。二週間前は、僕と朝陽の異常写真でいっぱいだったフォルダだ。
「昨日だいぶ消化したから、残り二枚になってただろ。でも、今見たら一枚戻ってたんだよ」
「……それ、どんな写真だったか覚えてる?」
ちなみに僕は、意図的に記憶から抹殺している。
「たしか、朝陽がお前を後ろからこうしてるやつじゃなかったっけ」
「……あ。もしかして、さっきの〈落ち着け〉で戻った?」
班分け中に交わしたしぐさ語を思い出して、朝陽と顔を見合わせる。そういえば、異常写真にもそんな構図があったような気がした。
「ラッキー。あんな適当でも判定してくれるんだ」
「だな。てか、前もそれで戻ったパターンあったし」
「なんか、あんまり身構える必要なかったのかも。しぐさ語さまさまだね」
「さっきのは俺がやったからだけど?」
「調子乗るなよお前」
ひとしきり罵り合ってから、颯太が持つスマホに目を向ける。星マークのついた写真の中で、一番ありえない最初の構図だけが、いまだにしぶとく残っていた。
「じゃあ……あとは、それだけだね」
「……ああ」
朝陽が、ゆっくりと頷く。表情を読もうとしたわけじゃないけど、なんとなく朝陽も僕と同じことを考えているような気がした。
「ねえ。なんかもう……ここまできたらさ」
「な。案外、何でもないかもしれないぞ……?」
最初は、それだけは絶対に無理だと思っていた。でも、しぐさ語にしても他の構図の再現にしても、ここまでいろいろやって、本当に何も感じなかったんだ。だから、もしかしたら……。
「え……晴、マジ?」
「いや、わかんない。やっぱ無理かも。でも……」
無意識に、僕は朝陽の顔を見つめていた。朝陽も、僕をじっと見ていた。よく女子の視線を浴びている、僕にとっては何の興味もない、鋭く整った顔立ち。その顔がちょっと傾いて、薄い唇が無造作に開く。
「じゃあ――キスしてみる?」
いつの間にか、僕の真正面に、立花朝陽が立っていた。
