四月の二週目ともなれば、桜もいい加減に新緑へ変わってきていた。新学年のそわそわした空気も落ち着いてきて、だんだんいつもの日常に戻り始めている。
だというのに、あのサイテーサイアクの写真ときたら。
「まだ写真のこと考えてんの?」
朝から八回目ぐらいのため息をついた僕の顔を、並んで登校していた颯太がひょいと覗き込んできた。
「考えるよ。颯太だってあんな写真、いつまでも持ってたくないでしょ」
「いや、別に? 晴が中間のノート見せてくれなかったら、あれをクラスLINEに流すだけだから」
「最悪だ……」
九回目のため息が、朝の風に重く溶けていく。落ちてきた花びらが横に流れて、颯太の肩に音もなく乗った。手で払ってやると、颯太が露骨にニヤッとする。
「オレにこういうことしてたら、キスまでした立花に怒られるんじゃ――?」
「そろそろ殴るよ?」
にこやかに拳を振り上げたところで、反対側から校門へ合流してくる生徒の一人が目に留まった。眼鏡をかけた、やわらかな雰囲気の男子が、僕らの前を行く誰かに手を振っている。
「朝陽ー!」
「あ、理央じゃん!」
目を戻すと、ガードレールの内側をぞろぞろと歩く生徒たちの少し先に、立花朝陽の横顔があった。合流してきた眼鏡の子の肩へ、無造作に腕を回している。
「風邪、もう治ったのか? ずっとお前いなくてつまんなかったわ」
「はいはい、またすぐそういうこと言うんだから。それより、LINE返してよ。結局、今日って地図帳必要なの?」
「あ、悪い。忘れてた……」
「はあ。朝陽に聞いたおれが悪かったよ。持ってきてなかったら怒られるかなあ……」
「――あはは、心配しなくて大丈夫だよ!」
僕は、思わず笑い声を上げていた。ほらやっぱり、立花の雑さには欠点がある。周りのことをちゃんと見てあげないと、友達がかわいそうだ。
振り返った二人に数歩で追いついて、僕は眼鏡の子に向かってにこりとした。
「地図帳使うのは来週からだって。前回の授業で言ってたよ」
「あ、よかった」
ほっとした顔で、その子が僕にちょっと笑ってくれた。垂れ目の優しそうな瞳の奥には、新学年に出遅れた不安が揺れているようだった。
「ありがとう。えーと……」
「あ。いきなりごめんね。高瀬晴です。もしかして、久保田理央くん?」
「……なんで知ってんの? って、最初の一週間休んでたら目につくか……」
「ううん、いつ会えるのかなって思ってたよ。これからよろしくね」
久保田くんと頷き合って、立花の方を見る。奴はいつもみたいに、面白がってるような、バカにしてるような顔で、久保田くんと話す僕を見ていた。
「立花」
僕は完璧な笑顔を作った。
「今日の放課後、時間ある?」
「まあ、部活はないけど」
「よかった。じゃあ、写真の続き、付き合ってくれないかな?」
「いいけどさ。なら、教室じゃなくて体育倉庫でやろうぜ」
「え……なんで?」
首を傾げる僕を、腹の立つオオカミみたいな笑顔が見下ろした。
「教室だと、誰かに見られたらお前は逃げそうじゃん?」
「……そっちこそ、絶対逃げんなよ!」
奥歯が、ぎりっと音を立てる。大笑いしてる颯太と、不思議そうな顔の久保田くんを置いて、僕はさっさと教室へ向かった。
◇
体育倉庫は、ひんやりした床と、埃っぽいマットのにおいがしていた。跳び箱の上にあぐらをかいた颯太と、若干引き気味の久保田くんに見守られながら、一番やりたくない奴と一番やりたくないことをしている。これって、なんの罰ゲームだろう……。
「あ、三枚目戻った」
颯太の声で、後ろから僕の肩に顎を乗せていた立花が姿勢を解いた。
「ようやくか。理央、次は?」
「朝陽が高瀬くんを……顎クイ、してるやつ」
「はいよ」
流れ作業のように体勢を変えながら、僕は小さくため息をついた。写真はすぐに戻る時もあれば、なかなか合格判定にならない時もあった。今みたいに十分間も密着していると、立花の高い体温のせいで、かなりイライラしてくる。しかも……
「なんでいつも、お前がやる側なわけ?」
写真の中で、たいていかっこつけてリードしてるのは立花だった。僕は、それに身をゆだねているだけだ。立花はニヤッとした。
「さあな。文句があるなら写真に言えよ。それで、手どっちだっけ?」
「えーと、顎持つ方が右手。あと朝陽の左腕で、高瀬くんの肩を抱く感じで」
「こう? あ、おい高瀬、動くなよ」
「ならお前も一回こっちやってみろよ! 僕がどれだけ屈辱的な気持ちかわかるから!」
「朝陽、もう半歩前……高瀬くん、ちょっと朝陽から逃げないでいられる?」
「僕は逃げてないよ、朝陽が必要以上に嫌がらせして――」
ふいに立花が、声をあげて笑った。
「お前、いま俺のこと、朝陽って呼んだだろ」
「……あ」
一拍遅れて、僕はやらかしに気がついた。かっと熱くなった頬をごまかすように、巻いて立ててあった体育マットをばしんと叩く。
「しょうがないだろ! 久保田くんがずっとそう呼ぶから!」
「なら俺もそうしよっと。いいよな、晴?」
「勝手にすれば? じゃあ僕も、久保田くんのこと理央って呼ぶから!」
「あの、なんでおれが……?」
「ほら晴、続き」
身長と同じく無駄に長い指で、顔を奴の方に向けさせられる。逆の手で、余裕たっぷりに肩も抱き寄せられて、僕はぐっと唇を噛んだ。もし僕のことが羨ましい女子がいたら、今すぐにここを代わるから名乗り出てほしい。軽く伏せられた瞳が、笑みをたたえて僕を見つめて――
「……あんたら、何やってんの?」
急に響いた声に、全員が振り返った。逆光になった体育倉庫の入り口に、スポーツバッグを引っかけた、背の高い女子が立っていた。バレー部の榎本さんだ。いつも明るく笑ってるイメージだったのに、今は珍獣でも見たようにこめかみを引き攣らせている。その視線をたどると……
「待って、誤解だ」
すごい勢いで、僕は立花を突き飛ばした。平均台に突っ込みかけた立花が、顔をしかめて、脱げかけたスニーカーを履き直す。
「でも、いま」
「ただ話してただけだよ」
「顎さわってなかった?」
「それは、えーと……!」
いくら僕らの間に何もなくても、客観的に見てヤバい体勢だったことはわかってる。でも、あんな写真が溢れてることはもっと言いたくないし、僕も立花も、本当にそういうつもりじゃなくて……!
「――そう、〈黙れ〉! さっきのは〈黙れ〉って意味のしぐさだから!」
体育倉庫が、沈黙した。不審そうな四人分の視線が、僕に突き刺さってくる。
「……顎クイするのが?」
「ま、まあ。僕らの間ではそうなの」
「へえ。俺、初耳なんだけど」
「うるさいよ立花」
あからさまにニヤニヤし始めた立花が、僕の頭へぽんと手を置く。
「じゃあ、これは?」
「えーと……〈仕方ないな〉とか?」
「高瀬、絶対いま考えてるでしょ」
やれやれと首を振った榎本さんが、パンと手を叩いて、妙な空気を断ち切った。
「ていうかあんたら、遊んでるんなら手伝ってくれない? あと五分で用具全部運ばなきゃいけなくて」
「あ、もちろんだよ! どれ運べばいいかな?」
榎本さんが指定したものの中では、二つ折りの得点板がかなり大きくて、一人で運ぶには大変そうだった。颯太……を目で探したけど、すでに理央と一緒にボールかごを押している。となると、残ってるのは……一番話の通じない奴か。
僕は仕方なく、向こう側に回った立花と一緒に、得点板を持ち上げた。背丈も筋肉もある立花は、重労働要員としては悪くないけど、問題は狭い入り口を通る瞬間だ。二人で息を合わせないといけないのに、僕とこいつでうまくいくはずがない。
「そっち、もう少し下に降ろせよ」
「いや、お前が左に回ったほうが早いぞ」
「無理だよ、ぶつかるから」
「ぶつからないって。ほら」
「えっ――うわ!」
ガン、と音がして、得点板の脚がドアにぶつかった。奥の棚の方から、榎本さんのため息が聞こえる。もう、本当にやりにくい……!
「だから僕の言うとおりにしろって言っただろ!」
「でも、一番でかいところは抜けたぞ?」
「そうだけど……あーもう!」
業を煮やした僕は、脚を乱暴に持ち直した。そっちが何も考える気がないんなら、僕だってお前のことなんか考えずにやってやる。僕は奴を顎で使うみたいに、右の方へくいっと頭を傾けながら得点板を引っ張った。
――とたんに、絶妙なタイミングで得点板が右に回り、すっとドアを通過した。
得点板のワイヤーフレーム越しに立花を見ると、奴も意外そうな顔をしていた。今……僕は、なにも言わなかったのに。あの適当な合図が、通じたんだろうか。
短い通路を進んでいく間、二人とも無言だった。体育館の入り口で、僕は試しに、得点板を軽く揺らして、ドアの方に頭を傾けてみせた。立花がすぐに頷いて、先に背中からドアへ入る。……通じた。
今度は立花がボードをコンコンと叩き、上を指さしてみせた。このままだと、こっちがひっかかるってこと? 僕は反射的に、ちょっと膝を曲げた。同時に立花が向こう側を少し上げ、得点板はするりとドアを抜けた。
「ありがとう。助かったわ」
ウォーミングアップを始めている部員たちを背に、榎本さんがきびきびとお礼を言った。
「ううん。倉庫、邪魔しちゃっててごめんね」
「鍵、どうする? 職員室に返しとくか?」
「あ、じゃあ今もらっちゃうわ。ありがと」
榎本さんに手を振って、僕らは四人でぞろぞろと体育館から出た。
いつの間に意気投合したのか、颯太と理央は廊下の少し前を歩きながら、先週発売されたばかりのゲームについて興奮気味に喋り続けていた。立花とは違う意味で垣根のない颯太は、大人しそうな理央とも相性が良かったらしい。
なんとなくそれを聞きながら、僕は隣の立花をちらりと見た。立花も、僕を見ていた。廊下を曲がる手前で、二人とも自然と足が止まる。窓から入ってきた風が、奴のくしゃりとした茶髪をそよそよと揺らしていた。
「思ったんだけどさ」
「ああ」
「僕ら……喋らない方が、上手くいくんじゃない?」
自分がこんなことを言う日が来るとは、思ってもみなかった。だって僕は今まで、相手がほしい正解を言葉で届けて好かれてきたんだ。でも……こいつにだけは、正解なんか届けてやる必要がない。
「俺も、そう思った」
素直に頷いてから、立花はニッと笑った。
「せっかく名前で呼べると思ったのに。残念だな、晴?」
〈黙れ〉よ。
僕は無言で立花を睨みつけ、少しだけ高い位置にある顎を引っ掴んだ。奴は笑みを深くして、〈仕方ないな〉と僕の頭へ手を置いた。廊下の端でしばらく見つめ合って、それからお互いにゆっくりと手を下ろす。
この日から、僕は朝陽とだけ通じる、とんでもない言語を手に入れてしまった。
だというのに、あのサイテーサイアクの写真ときたら。
「まだ写真のこと考えてんの?」
朝から八回目ぐらいのため息をついた僕の顔を、並んで登校していた颯太がひょいと覗き込んできた。
「考えるよ。颯太だってあんな写真、いつまでも持ってたくないでしょ」
「いや、別に? 晴が中間のノート見せてくれなかったら、あれをクラスLINEに流すだけだから」
「最悪だ……」
九回目のため息が、朝の風に重く溶けていく。落ちてきた花びらが横に流れて、颯太の肩に音もなく乗った。手で払ってやると、颯太が露骨にニヤッとする。
「オレにこういうことしてたら、キスまでした立花に怒られるんじゃ――?」
「そろそろ殴るよ?」
にこやかに拳を振り上げたところで、反対側から校門へ合流してくる生徒の一人が目に留まった。眼鏡をかけた、やわらかな雰囲気の男子が、僕らの前を行く誰かに手を振っている。
「朝陽ー!」
「あ、理央じゃん!」
目を戻すと、ガードレールの内側をぞろぞろと歩く生徒たちの少し先に、立花朝陽の横顔があった。合流してきた眼鏡の子の肩へ、無造作に腕を回している。
「風邪、もう治ったのか? ずっとお前いなくてつまんなかったわ」
「はいはい、またすぐそういうこと言うんだから。それより、LINE返してよ。結局、今日って地図帳必要なの?」
「あ、悪い。忘れてた……」
「はあ。朝陽に聞いたおれが悪かったよ。持ってきてなかったら怒られるかなあ……」
「――あはは、心配しなくて大丈夫だよ!」
僕は、思わず笑い声を上げていた。ほらやっぱり、立花の雑さには欠点がある。周りのことをちゃんと見てあげないと、友達がかわいそうだ。
振り返った二人に数歩で追いついて、僕は眼鏡の子に向かってにこりとした。
「地図帳使うのは来週からだって。前回の授業で言ってたよ」
「あ、よかった」
ほっとした顔で、その子が僕にちょっと笑ってくれた。垂れ目の優しそうな瞳の奥には、新学年に出遅れた不安が揺れているようだった。
「ありがとう。えーと……」
「あ。いきなりごめんね。高瀬晴です。もしかして、久保田理央くん?」
「……なんで知ってんの? って、最初の一週間休んでたら目につくか……」
「ううん、いつ会えるのかなって思ってたよ。これからよろしくね」
久保田くんと頷き合って、立花の方を見る。奴はいつもみたいに、面白がってるような、バカにしてるような顔で、久保田くんと話す僕を見ていた。
「立花」
僕は完璧な笑顔を作った。
「今日の放課後、時間ある?」
「まあ、部活はないけど」
「よかった。じゃあ、写真の続き、付き合ってくれないかな?」
「いいけどさ。なら、教室じゃなくて体育倉庫でやろうぜ」
「え……なんで?」
首を傾げる僕を、腹の立つオオカミみたいな笑顔が見下ろした。
「教室だと、誰かに見られたらお前は逃げそうじゃん?」
「……そっちこそ、絶対逃げんなよ!」
奥歯が、ぎりっと音を立てる。大笑いしてる颯太と、不思議そうな顔の久保田くんを置いて、僕はさっさと教室へ向かった。
◇
体育倉庫は、ひんやりした床と、埃っぽいマットのにおいがしていた。跳び箱の上にあぐらをかいた颯太と、若干引き気味の久保田くんに見守られながら、一番やりたくない奴と一番やりたくないことをしている。これって、なんの罰ゲームだろう……。
「あ、三枚目戻った」
颯太の声で、後ろから僕の肩に顎を乗せていた立花が姿勢を解いた。
「ようやくか。理央、次は?」
「朝陽が高瀬くんを……顎クイ、してるやつ」
「はいよ」
流れ作業のように体勢を変えながら、僕は小さくため息をついた。写真はすぐに戻る時もあれば、なかなか合格判定にならない時もあった。今みたいに十分間も密着していると、立花の高い体温のせいで、かなりイライラしてくる。しかも……
「なんでいつも、お前がやる側なわけ?」
写真の中で、たいていかっこつけてリードしてるのは立花だった。僕は、それに身をゆだねているだけだ。立花はニヤッとした。
「さあな。文句があるなら写真に言えよ。それで、手どっちだっけ?」
「えーと、顎持つ方が右手。あと朝陽の左腕で、高瀬くんの肩を抱く感じで」
「こう? あ、おい高瀬、動くなよ」
「ならお前も一回こっちやってみろよ! 僕がどれだけ屈辱的な気持ちかわかるから!」
「朝陽、もう半歩前……高瀬くん、ちょっと朝陽から逃げないでいられる?」
「僕は逃げてないよ、朝陽が必要以上に嫌がらせして――」
ふいに立花が、声をあげて笑った。
「お前、いま俺のこと、朝陽って呼んだだろ」
「……あ」
一拍遅れて、僕はやらかしに気がついた。かっと熱くなった頬をごまかすように、巻いて立ててあった体育マットをばしんと叩く。
「しょうがないだろ! 久保田くんがずっとそう呼ぶから!」
「なら俺もそうしよっと。いいよな、晴?」
「勝手にすれば? じゃあ僕も、久保田くんのこと理央って呼ぶから!」
「あの、なんでおれが……?」
「ほら晴、続き」
身長と同じく無駄に長い指で、顔を奴の方に向けさせられる。逆の手で、余裕たっぷりに肩も抱き寄せられて、僕はぐっと唇を噛んだ。もし僕のことが羨ましい女子がいたら、今すぐにここを代わるから名乗り出てほしい。軽く伏せられた瞳が、笑みをたたえて僕を見つめて――
「……あんたら、何やってんの?」
急に響いた声に、全員が振り返った。逆光になった体育倉庫の入り口に、スポーツバッグを引っかけた、背の高い女子が立っていた。バレー部の榎本さんだ。いつも明るく笑ってるイメージだったのに、今は珍獣でも見たようにこめかみを引き攣らせている。その視線をたどると……
「待って、誤解だ」
すごい勢いで、僕は立花を突き飛ばした。平均台に突っ込みかけた立花が、顔をしかめて、脱げかけたスニーカーを履き直す。
「でも、いま」
「ただ話してただけだよ」
「顎さわってなかった?」
「それは、えーと……!」
いくら僕らの間に何もなくても、客観的に見てヤバい体勢だったことはわかってる。でも、あんな写真が溢れてることはもっと言いたくないし、僕も立花も、本当にそういうつもりじゃなくて……!
「――そう、〈黙れ〉! さっきのは〈黙れ〉って意味のしぐさだから!」
体育倉庫が、沈黙した。不審そうな四人分の視線が、僕に突き刺さってくる。
「……顎クイするのが?」
「ま、まあ。僕らの間ではそうなの」
「へえ。俺、初耳なんだけど」
「うるさいよ立花」
あからさまにニヤニヤし始めた立花が、僕の頭へぽんと手を置く。
「じゃあ、これは?」
「えーと……〈仕方ないな〉とか?」
「高瀬、絶対いま考えてるでしょ」
やれやれと首を振った榎本さんが、パンと手を叩いて、妙な空気を断ち切った。
「ていうかあんたら、遊んでるんなら手伝ってくれない? あと五分で用具全部運ばなきゃいけなくて」
「あ、もちろんだよ! どれ運べばいいかな?」
榎本さんが指定したものの中では、二つ折りの得点板がかなり大きくて、一人で運ぶには大変そうだった。颯太……を目で探したけど、すでに理央と一緒にボールかごを押している。となると、残ってるのは……一番話の通じない奴か。
僕は仕方なく、向こう側に回った立花と一緒に、得点板を持ち上げた。背丈も筋肉もある立花は、重労働要員としては悪くないけど、問題は狭い入り口を通る瞬間だ。二人で息を合わせないといけないのに、僕とこいつでうまくいくはずがない。
「そっち、もう少し下に降ろせよ」
「いや、お前が左に回ったほうが早いぞ」
「無理だよ、ぶつかるから」
「ぶつからないって。ほら」
「えっ――うわ!」
ガン、と音がして、得点板の脚がドアにぶつかった。奥の棚の方から、榎本さんのため息が聞こえる。もう、本当にやりにくい……!
「だから僕の言うとおりにしろって言っただろ!」
「でも、一番でかいところは抜けたぞ?」
「そうだけど……あーもう!」
業を煮やした僕は、脚を乱暴に持ち直した。そっちが何も考える気がないんなら、僕だってお前のことなんか考えずにやってやる。僕は奴を顎で使うみたいに、右の方へくいっと頭を傾けながら得点板を引っ張った。
――とたんに、絶妙なタイミングで得点板が右に回り、すっとドアを通過した。
得点板のワイヤーフレーム越しに立花を見ると、奴も意外そうな顔をしていた。今……僕は、なにも言わなかったのに。あの適当な合図が、通じたんだろうか。
短い通路を進んでいく間、二人とも無言だった。体育館の入り口で、僕は試しに、得点板を軽く揺らして、ドアの方に頭を傾けてみせた。立花がすぐに頷いて、先に背中からドアへ入る。……通じた。
今度は立花がボードをコンコンと叩き、上を指さしてみせた。このままだと、こっちがひっかかるってこと? 僕は反射的に、ちょっと膝を曲げた。同時に立花が向こう側を少し上げ、得点板はするりとドアを抜けた。
「ありがとう。助かったわ」
ウォーミングアップを始めている部員たちを背に、榎本さんがきびきびとお礼を言った。
「ううん。倉庫、邪魔しちゃっててごめんね」
「鍵、どうする? 職員室に返しとくか?」
「あ、じゃあ今もらっちゃうわ。ありがと」
榎本さんに手を振って、僕らは四人でぞろぞろと体育館から出た。
いつの間に意気投合したのか、颯太と理央は廊下の少し前を歩きながら、先週発売されたばかりのゲームについて興奮気味に喋り続けていた。立花とは違う意味で垣根のない颯太は、大人しそうな理央とも相性が良かったらしい。
なんとなくそれを聞きながら、僕は隣の立花をちらりと見た。立花も、僕を見ていた。廊下を曲がる手前で、二人とも自然と足が止まる。窓から入ってきた風が、奴のくしゃりとした茶髪をそよそよと揺らしていた。
「思ったんだけどさ」
「ああ」
「僕ら……喋らない方が、上手くいくんじゃない?」
自分がこんなことを言う日が来るとは、思ってもみなかった。だって僕は今まで、相手がほしい正解を言葉で届けて好かれてきたんだ。でも……こいつにだけは、正解なんか届けてやる必要がない。
「俺も、そう思った」
素直に頷いてから、立花はニッと笑った。
「せっかく名前で呼べると思ったのに。残念だな、晴?」
〈黙れ〉よ。
僕は無言で立花を睨みつけ、少しだけ高い位置にある顎を引っ掴んだ。奴は笑みを深くして、〈仕方ないな〉と僕の頭へ手を置いた。廊下の端でしばらく見つめ合って、それからお互いにゆっくりと手を下ろす。
この日から、僕は朝陽とだけ通じる、とんでもない言語を手に入れてしまった。
