抜けるような秋空の下、文化祭の開場を待つばかりの校舎は、心地いい緊張感に包まれていた。僕たちのクラスも、最後の確認でバタバタ走り回っている。
「ホール係の人、早く着替えて!」
「カップの予備どこ? これ二日目分なんだけど!」
「え、この看板、中野のデザイン? すげえ」
「ありがとう。ここ運ぶね!」
ドアの前には、黒板ボード風に装飾された「実験室カフェ」の看板が出ていた。それを見ながら、僕は密かに拳を握りしめる。
なぜって……今日は、僕にとっても「実験」の日だからだ。
◇
三日前、とうとう気づいてしまったその感情に、もしかしたら違う名前がつけられるんじゃないかと、僕はまだ足掻いていた。だって、あの時は僕もダメージ受けてたし……あの野生の人たらしが、たまたまタイミングよくクリティカルヒットしただけかもしれない。
だから僕は、単純な実験を考えた。今日一日、わざと朝陽をそういう目で見てみる。それでもしドキドキしなかったら、やっぱり僕にとってあいつは「そう」じゃないってことだ。
最初の実験状況は、さっそく朝から発生した。シフト最初のホール担当たちが白衣姿に着替え、野次や熱い視線が飛び交っている。その中で、一際黄色い歓声を浴びている男を、僕はゆっくりと振り返った。もし僕が朝陽を意識してるなら、きっとこういう姿にもドキドキして――
「あ、晴。どうだ?」
「……もうちょっと丈長い方がバランスいいんじゃない?」
「なんだよ、それだけ?」
うーん。確かに似合ってはいるけど、別に全くときめかない。
次の実験は、ホールにヘルプで入ったときに起きた。混雑してきた中で、無理やり前に進もうとしたお客さんが、危うく僕にぶつかりかける。とっさに腕を伸ばした朝陽が、僕を抱き寄せて庇ってくれた。
「大丈夫か、晴?」
「……うん。全然……」
全然……ときめかない。こんなふうにさらっと守られたら、もう少しドキッとしてもいいだろうに。こんなの、ただのしぐさ語の延長だ。
今度は、自分から行動を起こした。今まで恋人に期待するものといえば、癒しと安心感だった。午前中の人波が一息つき、バックヤードへ休憩に戻ったところで、僕は恥を忍んで朝陽に甘えてみた。
「ねえ。僕、足疲れちゃったんだけど」
「ならしばらく寝てるか? 昼前に起こしてやるから」
「いや、そうじゃなくて……ほら、マッサージとかしてくれても痛い痛い痛い! 急に押すなよ!」
「ちゃんとコーチに習ったやり方だぞ。これで痛いならほんとに疲れてるってことだ」
「今そういう整体知識は求めてないんだよ!」
え、お前まさか、今までの彼女にもそういう対応だったの? 恋愛になると、人たらしはログアウトするの?
「おーい晴、朝陽!」
バックヤードの入り口から、颯太に呼ばれた。理央と夏帆も一緒だ。
「お前らも十二時上がりっしょ? 昼ついでに、他んとこ回りに行こうぜ」
「いいね、そうしよう! もう少し待ってて」
白衣の裾を整えて、もうひと働きしに動き出す。ついてくる朝陽を背に感じながら、僕は首をひねっていた。
いろいろやってみたけど、今のところこいつにドキドキできたことは一度もない。やっぱり、あれは勘違いだったんだろうか……?
◇
お昼を済ませたあと、颯太が「さっき目つけててさ」とまっすぐ向かったのは、三年生のお化け屋敷だった。見覚えのある先輩たちが、僕と朝陽をニヤニヤと見ながら説明してくれる。
「中は二つに分かれてるから、各チームでそれぞれお札を拾いながら進んでくれ。途中に合流地点があるから、チーム組み替えもできるけど……俊足くんは、もちろんずっと彼氏と一緒だよな?」
「……え? あんた、彼氏って――」
「前にそういう誤解があったんだよ」
素早く口を挟んで、僕は拳を掲げた。
「チーム分けは、公平にぐっぱーしよう。せーのっ!」
グーを出したのは、僕と理央だった。これで朝陽と別チームだ。せっかくのお化け屋敷っていう定番シチュエーションだけど、ここは実験じゃなくて平和に楽しもう。
右側の入り口から入ると、急に静かになった。薄暗い空間を、理央と二人で歩いていく。
「あれ? 行き止まりだ」
「ほんとだ。でも、ここまでに分岐ってなかったような――?」
そう言いかけたとたん、いきなり大きな音がして、行き止まりの壁から爪の長い手が出てきた。理央がびくりとするのが、意外だけどちょっと可愛い。まあ、朝陽がこの反応してたら煽りまくるけど。
壁を引っ掻いている手に、僕はにこやかに声をかけた。
「そこ、釘が出てるので、怪我しないように気をつけてください」
「……晴って、お化けまでたらしこもうとするんだ……」
ぶつぶつ言ってる理央の前で、手が壁をドアのように引いて、その向こうへの通路が現れた。
次の部屋は、少し広い空間だった。壁に書かれた文字に目を凝らすと、ここに三枚お札があるらしい。
「このゴミ箱とかあやしくない?」
「貸して。おれ、脱出ゲームでこういうのやったことある……ほら」
「さすが理央。この調子で残りも――」
壁の向こうから足音が聞こえてきて、僕らは口をつぐんだ。切れ切れに何かを叫んでいる声も聞こえてくる。
「うおあーっ、無理! マジ無理!」
「あんた正気? 女子に抱きつくとか頭おかしいんじゃないの?! あっ朝陽、そっちじゃないでしょ!」
「でも、なんかありそうじゃね? 俺見てくるわ」
「ちょっと、勝手に行かないの!」
僕と理央は顔を見合わせた。あっちのチームにならなくて、心底よかった……。
スムーズに謎解きを終わらせて、合流地点で待っていると、しばらくして向こうの三人がやってきた。疲れ切った顔の夏帆が、朝陽の背中をぐいと押しやる。
「晴。交換」
「え?」
「あんたなら扱えるでしょ。代わりに理央ちょうだい」
「そう言われても……」
「これ、制限時間あるのよ。さ、早く行こ」
颯太を引きずっていく夏帆の言葉で、少しはっとする。そうだ。確かに、早く出ないといけないんだった。まあ、所詮はただの遊びだし、さっきから見てる限りそんなにワクワクするほどの仕掛けもない。とりあえず、順当に分担して探せば――
「なんでこっち来るの? あっち見てきてって言ったじゃん」
「だって、こっちの方がなんかありそうだから」
「なら僕がそっち行く――って、うわ。仕掛けあるなら言っとけよ!」
「だって、どうせお前、怖がらないだろ?」
「怖くないけど驚きはするんだよ!」
お化けそっちのけで、開始十秒で罵声が飛び交う。くそ。暗くて位置関係が取りにくいから、しぐさ語が使えないのが致命的すぎる。しかも、お札があったのは朝陽の選んだ通路の方で、僕は舌打ちしながら次の部屋に進んだ。
前半とは違って、そこはめちゃくちゃ細かく仕切られた迷路みたいになっていた。うわ……これ、難しくもないのにやたら時間がかかる、一番めんどくさい作業ゲーのパターンだ。もう機械的に、端からルート潰しながらやるしかないか……。
「晴」
そのとき、朝陽が僕の袖をぐっと引いた。見ると、奴は屈んで、床に腹ばいになっている。
僕は目を丸くした。迷路の壁は足元が少し浮いてるから、確かにそうすれば通路関係なく動き回れるけど……。
「それ、反則じゃないの?」
「そうか?」
朝陽がニヤッとした。
「道のとおりにたどれなんて、一言も言われてないだろ。来いよ、晴。絶対、面白いって」
その誘惑は、すごかった。僕は思わず、つられてニヤッとしてしまった。
「――じゃあ、連れてってよ」
床に手をついた瞬間、世界が十倍面白くなった。壁も行き止まりもものともせず、教室の中を自在に這い回りながら、かすかな赤い光の中でお札を探す。
「晴、こっちだ! なんか鍵かかってる」
「それぐらい開けられないの? 僕こっちで忙しいんだけど!」
手元の箱を開けてから、朝陽の声がした方に行こうと再び腹這いになる。
「朝陽、どこ? 鍵ってどれ?」
「あ、もう開いたわ」
「早く言えよ! せっかく苦労してここまで来たのに!」
「ははっ、悪い悪い!」
無駄足をさせられた腹いせに、狭い空間の中で向きを変えるどさくさに紛れて、頭をごちんとぶつけてやる。
「痛って! 晴、いまの絶対わざとだろ!」
「あはは、気のせいじゃない? お化け役の人にぶつけたなら謝りなよ?」
「すみませーん、高瀬晴のせいでご迷惑おかけしてまーす!」
「なっ、このやり方言い出したのはお前だろ!」
罵り合う。逃げ回る。立ち上がろうとして、また引き戻される。お札を探すのは目的半分に、暗い室内で全力でふざけ合う。理央の時とは、全然違った。夏祭りの時みたいに、作業が噛み合う気持ちよさも全くない。
それなのに……なんでこいつとだと、こんなにも全部が楽しいんだろう。
「朝陽! あそこ、ゴールだ!」
「よっしゃ!」
暗幕を押しのけて、二人一緒に光の中へ飛び出す。鳴り響くストップウォッチの音と、間一髪で間に合ったことを喜ぶ颯太たちの前で、僕と朝陽はずっとけらけら笑っていた。
◇
一日目の閉場アナウンスが鳴って、あちこちからお疲れ様の声が上がった。教室では、それぞれの班の人たちが、今日の片付けをしたり、落ちた装飾を付け直したり、明日に向けた打ち合わせをしている。
シフトの調整を終えた僕は、ぼんやりと窓際を眺めていた。窓に貼り付けた装飾の活字を、朝陽の長身がもくもくと貼り直している。
結局、実験の結果はよくわからなかった。ときめくはずのところでは何も感じないのに、ルールを破って一緒に怒られるのは悪くない。いったいこれって、どういうことなんだろう……。
「よっ」
気がつくと、朝陽が横に来ていた。いつもみたいに僕のジュースを取り上げて、勝手に一口飲む。
「どうだった? 一日目は」
「順調、かな。思ったより人多かったけど、なんとか回しきれてたし」
「まあな。お化け屋敷行く余裕もあったし」
「あれは……まあ、楽しかったけどね」
あきれ返った先輩たちの顔を思い出して、二人でちょっと笑いあう。そのまま僕らは少しの間、片付けをしているみんなを黙って眺めていた。
改めて見ると、いいクラスだな、と思う。カーテンのかかった準備スペースでは、理央と七瀬さんが在庫の点検をしている。ロッカーを覆う白いパネルを本間くんたちが直していて、その横では佐伯くんと宮地くんがシフトの相談をしている。一年の時みたいに、僕がただいい人というだけじゃなくて、僕が朝陽と喧嘩してるのも、僕が回すのに失敗するのも、全部見られちゃったクラス。それでも僕が焦らずに、この方がいいんだって思えるのは……。
入り口の方から中野くんが顔を出して、きょろきょろと教室を見渡した。朝陽が手を上げて合図すると、すぐに笑顔で頷いて、外の片付けに戻っていく。そろそろ、朝陽の出番みたいだ。
「お化け屋敷、明日もやりに行くか?」
朝陽が投げて返してきたジュースのパックを、僕はあわててキャッチした。
「行かないよ! だいたい、タイムのリベンジするなら理央か夏帆とじゃないと――」
「そう?」
朝陽はもう、入り口の方へ歩き出そうとしていた。無造作に振り返ったオオカミが、僕を見つめてさらりと言う。
「――俺は、またお前とがいいけど」
瞬間、言い返そうとしていた全ての言葉が、頭の中から消し飛んだ。
「……僕は、」
言い終わるより先に、手が勝手に動いていた。
離れようとしていた朝陽の、袖を掴んで引き寄せた。背が高くて筋肉質なはずの朝陽が、意外なほど軽い力だけで、僕の元に留まってくれる。でも、これは〈待てよ〉じゃない。〈何してんの〉でもない。夕日に照らされた朝陽の顔が、驚いたみたいにかたまっていた。そのまま、黙って見つめ合う。一秒。二秒。三秒……。
ふいに、夕日みたいな何かが、 僕の中にもぽとん、と沈んだ。
……ああ。これは。
「晴?」
眉をひそめる朝陽は、確かに顔はいい。でも、そこにときめいたわけじゃない。守られてもドキドキしないし、甘えてみようとしても小競り合いにしかならない。出会った時からしぐさ語なら最高に噛み合うくせに、普通に喋れば今でも絶望的に噛み合わない。
それでも僕は、朝陽がいいんだ。
なんだ。これって、もうさ。
「……僕の、負けじゃん」
僕は、静かに笑った。もうこれ以上、言い訳できそうになかった。
「なんだよ。負けって、何が?」
「ううん、こっちの話」
はぐらかすと、〈教えろよ〉と腕が肩に絡んでくる。僕はその手首を、いつもよりほんの少しだけやわらかく握った。
(なんでもないってば)
(嘘だ。ケチ)
(子供かよ)
しぐさ語でやりとりしながら、ふとキスしたいな、なんて思う。
どうやら、顔に出ていたらしかった。朝陽が、静かに動きを止めた。周りではクラスメイトが忙しく動いてるし、こんなところじゃキスはできない。それでも、見つめ合ったまま、少しだけ距離が近づいて……
カシャッ。
「晴ー! 朝陽もお疲れ!」
白衣を脱いだ颯太が、さっぱりした顔でやってくる。夏帆と、スマホでクラスの写真を撮ってる理央も一緒だ。
颯太は僕らの肩を順に小突いた。
「今日どうする? カラオケいく?」
「あんた、これだけ働いたのに、まだ歌うの?」
呆れる夏帆に、流石の朝陽も同調する。
「たしかに、明日もあるしな。行くなら明後日行かね? 振替休日だし」
「え、それっておれたち、一日じゅう颯太の熱唱地獄に――」
「おっ、そうしよ! さすが朝陽、わかってるぅー!」
ハイタッチする二人の横で、僕は夏帆と顔を見合わせてため息をついた。
そのとき、クラスLINEに写真を共有しようとしていた理央が、あっと小さく声をあげた。
「ねえ、見て。これ……背景変わってる!」
画面に切り取られているのは、ついさっき、向かい合って話していた僕と朝陽。ただし、その背後には教室で作業するみんなじゃなくて――ここにあるはずがない、赤い鳥居が写っていた。
久しぶりの、場所写真だった。
「ホール係の人、早く着替えて!」
「カップの予備どこ? これ二日目分なんだけど!」
「え、この看板、中野のデザイン? すげえ」
「ありがとう。ここ運ぶね!」
ドアの前には、黒板ボード風に装飾された「実験室カフェ」の看板が出ていた。それを見ながら、僕は密かに拳を握りしめる。
なぜって……今日は、僕にとっても「実験」の日だからだ。
◇
三日前、とうとう気づいてしまったその感情に、もしかしたら違う名前がつけられるんじゃないかと、僕はまだ足掻いていた。だって、あの時は僕もダメージ受けてたし……あの野生の人たらしが、たまたまタイミングよくクリティカルヒットしただけかもしれない。
だから僕は、単純な実験を考えた。今日一日、わざと朝陽をそういう目で見てみる。それでもしドキドキしなかったら、やっぱり僕にとってあいつは「そう」じゃないってことだ。
最初の実験状況は、さっそく朝から発生した。シフト最初のホール担当たちが白衣姿に着替え、野次や熱い視線が飛び交っている。その中で、一際黄色い歓声を浴びている男を、僕はゆっくりと振り返った。もし僕が朝陽を意識してるなら、きっとこういう姿にもドキドキして――
「あ、晴。どうだ?」
「……もうちょっと丈長い方がバランスいいんじゃない?」
「なんだよ、それだけ?」
うーん。確かに似合ってはいるけど、別に全くときめかない。
次の実験は、ホールにヘルプで入ったときに起きた。混雑してきた中で、無理やり前に進もうとしたお客さんが、危うく僕にぶつかりかける。とっさに腕を伸ばした朝陽が、僕を抱き寄せて庇ってくれた。
「大丈夫か、晴?」
「……うん。全然……」
全然……ときめかない。こんなふうにさらっと守られたら、もう少しドキッとしてもいいだろうに。こんなの、ただのしぐさ語の延長だ。
今度は、自分から行動を起こした。今まで恋人に期待するものといえば、癒しと安心感だった。午前中の人波が一息つき、バックヤードへ休憩に戻ったところで、僕は恥を忍んで朝陽に甘えてみた。
「ねえ。僕、足疲れちゃったんだけど」
「ならしばらく寝てるか? 昼前に起こしてやるから」
「いや、そうじゃなくて……ほら、マッサージとかしてくれても痛い痛い痛い! 急に押すなよ!」
「ちゃんとコーチに習ったやり方だぞ。これで痛いならほんとに疲れてるってことだ」
「今そういう整体知識は求めてないんだよ!」
え、お前まさか、今までの彼女にもそういう対応だったの? 恋愛になると、人たらしはログアウトするの?
「おーい晴、朝陽!」
バックヤードの入り口から、颯太に呼ばれた。理央と夏帆も一緒だ。
「お前らも十二時上がりっしょ? 昼ついでに、他んとこ回りに行こうぜ」
「いいね、そうしよう! もう少し待ってて」
白衣の裾を整えて、もうひと働きしに動き出す。ついてくる朝陽を背に感じながら、僕は首をひねっていた。
いろいろやってみたけど、今のところこいつにドキドキできたことは一度もない。やっぱり、あれは勘違いだったんだろうか……?
◇
お昼を済ませたあと、颯太が「さっき目つけててさ」とまっすぐ向かったのは、三年生のお化け屋敷だった。見覚えのある先輩たちが、僕と朝陽をニヤニヤと見ながら説明してくれる。
「中は二つに分かれてるから、各チームでそれぞれお札を拾いながら進んでくれ。途中に合流地点があるから、チーム組み替えもできるけど……俊足くんは、もちろんずっと彼氏と一緒だよな?」
「……え? あんた、彼氏って――」
「前にそういう誤解があったんだよ」
素早く口を挟んで、僕は拳を掲げた。
「チーム分けは、公平にぐっぱーしよう。せーのっ!」
グーを出したのは、僕と理央だった。これで朝陽と別チームだ。せっかくのお化け屋敷っていう定番シチュエーションだけど、ここは実験じゃなくて平和に楽しもう。
右側の入り口から入ると、急に静かになった。薄暗い空間を、理央と二人で歩いていく。
「あれ? 行き止まりだ」
「ほんとだ。でも、ここまでに分岐ってなかったような――?」
そう言いかけたとたん、いきなり大きな音がして、行き止まりの壁から爪の長い手が出てきた。理央がびくりとするのが、意外だけどちょっと可愛い。まあ、朝陽がこの反応してたら煽りまくるけど。
壁を引っ掻いている手に、僕はにこやかに声をかけた。
「そこ、釘が出てるので、怪我しないように気をつけてください」
「……晴って、お化けまでたらしこもうとするんだ……」
ぶつぶつ言ってる理央の前で、手が壁をドアのように引いて、その向こうへの通路が現れた。
次の部屋は、少し広い空間だった。壁に書かれた文字に目を凝らすと、ここに三枚お札があるらしい。
「このゴミ箱とかあやしくない?」
「貸して。おれ、脱出ゲームでこういうのやったことある……ほら」
「さすが理央。この調子で残りも――」
壁の向こうから足音が聞こえてきて、僕らは口をつぐんだ。切れ切れに何かを叫んでいる声も聞こえてくる。
「うおあーっ、無理! マジ無理!」
「あんた正気? 女子に抱きつくとか頭おかしいんじゃないの?! あっ朝陽、そっちじゃないでしょ!」
「でも、なんかありそうじゃね? 俺見てくるわ」
「ちょっと、勝手に行かないの!」
僕と理央は顔を見合わせた。あっちのチームにならなくて、心底よかった……。
スムーズに謎解きを終わらせて、合流地点で待っていると、しばらくして向こうの三人がやってきた。疲れ切った顔の夏帆が、朝陽の背中をぐいと押しやる。
「晴。交換」
「え?」
「あんたなら扱えるでしょ。代わりに理央ちょうだい」
「そう言われても……」
「これ、制限時間あるのよ。さ、早く行こ」
颯太を引きずっていく夏帆の言葉で、少しはっとする。そうだ。確かに、早く出ないといけないんだった。まあ、所詮はただの遊びだし、さっきから見てる限りそんなにワクワクするほどの仕掛けもない。とりあえず、順当に分担して探せば――
「なんでこっち来るの? あっち見てきてって言ったじゃん」
「だって、こっちの方がなんかありそうだから」
「なら僕がそっち行く――って、うわ。仕掛けあるなら言っとけよ!」
「だって、どうせお前、怖がらないだろ?」
「怖くないけど驚きはするんだよ!」
お化けそっちのけで、開始十秒で罵声が飛び交う。くそ。暗くて位置関係が取りにくいから、しぐさ語が使えないのが致命的すぎる。しかも、お札があったのは朝陽の選んだ通路の方で、僕は舌打ちしながら次の部屋に進んだ。
前半とは違って、そこはめちゃくちゃ細かく仕切られた迷路みたいになっていた。うわ……これ、難しくもないのにやたら時間がかかる、一番めんどくさい作業ゲーのパターンだ。もう機械的に、端からルート潰しながらやるしかないか……。
「晴」
そのとき、朝陽が僕の袖をぐっと引いた。見ると、奴は屈んで、床に腹ばいになっている。
僕は目を丸くした。迷路の壁は足元が少し浮いてるから、確かにそうすれば通路関係なく動き回れるけど……。
「それ、反則じゃないの?」
「そうか?」
朝陽がニヤッとした。
「道のとおりにたどれなんて、一言も言われてないだろ。来いよ、晴。絶対、面白いって」
その誘惑は、すごかった。僕は思わず、つられてニヤッとしてしまった。
「――じゃあ、連れてってよ」
床に手をついた瞬間、世界が十倍面白くなった。壁も行き止まりもものともせず、教室の中を自在に這い回りながら、かすかな赤い光の中でお札を探す。
「晴、こっちだ! なんか鍵かかってる」
「それぐらい開けられないの? 僕こっちで忙しいんだけど!」
手元の箱を開けてから、朝陽の声がした方に行こうと再び腹這いになる。
「朝陽、どこ? 鍵ってどれ?」
「あ、もう開いたわ」
「早く言えよ! せっかく苦労してここまで来たのに!」
「ははっ、悪い悪い!」
無駄足をさせられた腹いせに、狭い空間の中で向きを変えるどさくさに紛れて、頭をごちんとぶつけてやる。
「痛って! 晴、いまの絶対わざとだろ!」
「あはは、気のせいじゃない? お化け役の人にぶつけたなら謝りなよ?」
「すみませーん、高瀬晴のせいでご迷惑おかけしてまーす!」
「なっ、このやり方言い出したのはお前だろ!」
罵り合う。逃げ回る。立ち上がろうとして、また引き戻される。お札を探すのは目的半分に、暗い室内で全力でふざけ合う。理央の時とは、全然違った。夏祭りの時みたいに、作業が噛み合う気持ちよさも全くない。
それなのに……なんでこいつとだと、こんなにも全部が楽しいんだろう。
「朝陽! あそこ、ゴールだ!」
「よっしゃ!」
暗幕を押しのけて、二人一緒に光の中へ飛び出す。鳴り響くストップウォッチの音と、間一髪で間に合ったことを喜ぶ颯太たちの前で、僕と朝陽はずっとけらけら笑っていた。
◇
一日目の閉場アナウンスが鳴って、あちこちからお疲れ様の声が上がった。教室では、それぞれの班の人たちが、今日の片付けをしたり、落ちた装飾を付け直したり、明日に向けた打ち合わせをしている。
シフトの調整を終えた僕は、ぼんやりと窓際を眺めていた。窓に貼り付けた装飾の活字を、朝陽の長身がもくもくと貼り直している。
結局、実験の結果はよくわからなかった。ときめくはずのところでは何も感じないのに、ルールを破って一緒に怒られるのは悪くない。いったいこれって、どういうことなんだろう……。
「よっ」
気がつくと、朝陽が横に来ていた。いつもみたいに僕のジュースを取り上げて、勝手に一口飲む。
「どうだった? 一日目は」
「順調、かな。思ったより人多かったけど、なんとか回しきれてたし」
「まあな。お化け屋敷行く余裕もあったし」
「あれは……まあ、楽しかったけどね」
あきれ返った先輩たちの顔を思い出して、二人でちょっと笑いあう。そのまま僕らは少しの間、片付けをしているみんなを黙って眺めていた。
改めて見ると、いいクラスだな、と思う。カーテンのかかった準備スペースでは、理央と七瀬さんが在庫の点検をしている。ロッカーを覆う白いパネルを本間くんたちが直していて、その横では佐伯くんと宮地くんがシフトの相談をしている。一年の時みたいに、僕がただいい人というだけじゃなくて、僕が朝陽と喧嘩してるのも、僕が回すのに失敗するのも、全部見られちゃったクラス。それでも僕が焦らずに、この方がいいんだって思えるのは……。
入り口の方から中野くんが顔を出して、きょろきょろと教室を見渡した。朝陽が手を上げて合図すると、すぐに笑顔で頷いて、外の片付けに戻っていく。そろそろ、朝陽の出番みたいだ。
「お化け屋敷、明日もやりに行くか?」
朝陽が投げて返してきたジュースのパックを、僕はあわててキャッチした。
「行かないよ! だいたい、タイムのリベンジするなら理央か夏帆とじゃないと――」
「そう?」
朝陽はもう、入り口の方へ歩き出そうとしていた。無造作に振り返ったオオカミが、僕を見つめてさらりと言う。
「――俺は、またお前とがいいけど」
瞬間、言い返そうとしていた全ての言葉が、頭の中から消し飛んだ。
「……僕は、」
言い終わるより先に、手が勝手に動いていた。
離れようとしていた朝陽の、袖を掴んで引き寄せた。背が高くて筋肉質なはずの朝陽が、意外なほど軽い力だけで、僕の元に留まってくれる。でも、これは〈待てよ〉じゃない。〈何してんの〉でもない。夕日に照らされた朝陽の顔が、驚いたみたいにかたまっていた。そのまま、黙って見つめ合う。一秒。二秒。三秒……。
ふいに、夕日みたいな何かが、 僕の中にもぽとん、と沈んだ。
……ああ。これは。
「晴?」
眉をひそめる朝陽は、確かに顔はいい。でも、そこにときめいたわけじゃない。守られてもドキドキしないし、甘えてみようとしても小競り合いにしかならない。出会った時からしぐさ語なら最高に噛み合うくせに、普通に喋れば今でも絶望的に噛み合わない。
それでも僕は、朝陽がいいんだ。
なんだ。これって、もうさ。
「……僕の、負けじゃん」
僕は、静かに笑った。もうこれ以上、言い訳できそうになかった。
「なんだよ。負けって、何が?」
「ううん、こっちの話」
はぐらかすと、〈教えろよ〉と腕が肩に絡んでくる。僕はその手首を、いつもよりほんの少しだけやわらかく握った。
(なんでもないってば)
(嘘だ。ケチ)
(子供かよ)
しぐさ語でやりとりしながら、ふとキスしたいな、なんて思う。
どうやら、顔に出ていたらしかった。朝陽が、静かに動きを止めた。周りではクラスメイトが忙しく動いてるし、こんなところじゃキスはできない。それでも、見つめ合ったまま、少しだけ距離が近づいて……
カシャッ。
「晴ー! 朝陽もお疲れ!」
白衣を脱いだ颯太が、さっぱりした顔でやってくる。夏帆と、スマホでクラスの写真を撮ってる理央も一緒だ。
颯太は僕らの肩を順に小突いた。
「今日どうする? カラオケいく?」
「あんた、これだけ働いたのに、まだ歌うの?」
呆れる夏帆に、流石の朝陽も同調する。
「たしかに、明日もあるしな。行くなら明後日行かね? 振替休日だし」
「え、それっておれたち、一日じゅう颯太の熱唱地獄に――」
「おっ、そうしよ! さすが朝陽、わかってるぅー!」
ハイタッチする二人の横で、僕は夏帆と顔を見合わせてため息をついた。
そのとき、クラスLINEに写真を共有しようとしていた理央が、あっと小さく声をあげた。
「ねえ、見て。これ……背景変わってる!」
画面に切り取られているのは、ついさっき、向かい合って話していた僕と朝陽。ただし、その背後には教室で作業するみんなじゃなくて――ここにあるはずがない、赤い鳥居が写っていた。
久しぶりの、場所写真だった。
