【完結】写真の中だけ、もうキスしてる

 僕みたいな帰宅部にとって、二学期の学校生活で一番大きな山は、文化祭でのクラス企画だった。前回のロングホームルームで投票した結果、いま黒板には「実験室カフェ」の文字が大きく書かれている。その横で、企画担当委員の夏帆が、チョークを片手に僕たちを振り返った。

「それじゃ、アイデア出しだけやっちゃおうか。こんな装飾にしたいとか、こんなメニュー出したいとか、なんか希望ある人言って」

「はい! 俺、白衣着たいっす!」
「ドリンク、ビーカーとか試験管に入れて出したら映えそうじゃね?」
「なんなら五回に一回ぐらい爆発するとかどう? マッドサイエンティスト的な」
「だったら、内装もそれっぽく凝りたいな!」
「えー私あんまり放課後残ったりできないよ」
「売り上げもちゃんと出したいよな」
「待って、書くの追いつかない」

 みんなが好き勝手に主張を始めて、夏帆が慌ただしく黒板に書いていく。僕はそれを眺めながら、みんなの勢いが少し落ち着いたあたりで、すっと手を上げた。

「だったら、飲み物は見た目重視で、内装はむしろ真っ白とか超シンプルにするのどうかな? それなら実験室っぽいけどそんなに手間もかからなそうだし、どうせみんなが写真撮るの飲み物でしょ」
「あ、それいいじゃん!」
「さすが晴」

 みんなが頷いてくれる中、朝陽が身を乗り出した。

「なら、飲み物でもっと遊べるようにしようぜ。なんか混ぜると色変わるやつとか、見た目と全然違う味するやつとか」
「あはは、それ面白そう!」
「俺、それ客として来たいわ」

 夏帆が僕らを順に見て、頷いた。

「今の、両方いいね。じゃあ、残りの時間は担当班に分かれて、いま出た方向で作業進めてくれる? 代表者は、最後にスケジュールと進捗報告してね。じゃ、いったん解散!」

 みんなが立ち上がって、それぞれ机をくっつけたり、作業スペースを確保したりし始める。僕は、同じ運営班の佐伯くんを見つけて、軽く手を上げた。

「机、このあたりでやる?」
「そうだな。でも、今日ってもう――」
「晴」

 振り返ると、装飾班に配置されているはずの朝陽がいた。物品リストのような紙をひらひらと振っている。

「備品室からの運び出し、ちょっと手伝ってくれないか?」
「いいけど、他の人たちは……?」

 教室を見回そうとした僕の手首を、朝陽がふいに掴んだ。僕を見つめたまま、鋭い瞳がすうっと狭まる。朝陽の長い小指が、僕の指の間を、すり、と撫でた。

 僕は、小さく唇を引き結んだ。

「……ごめん、佐伯くん。ちょっと行ってきてもいい?」
「お、全然いいぞ。もうアンケートの集計ぐらいしかやることないし」
「ありがとう」

 朝陽が僕の手首を離し、すたすたと教室を出ていく。それを追う僕の背中に、夏帆のため息がとんできた。

「まーた着いてった。今日は何分で戻ってくるかしらね」
「……夏帆、二人を同じ班にしなかったの、わざとでしょ」
「当たり前じゃない。他の子たちに余計な気遣いさせるわけにはいかないんだから」
「気遣い? だってあいつら、揃ってた方が効率よくね?」
「……それは、そうなんだよね……」
「だから困ってんのよ……」

 背後の会話を聞かなかったことにして、僕はそそくさと廊下に出た。

◇

 備品室の内鍵をかけたのは僕だった。その間も、朝陽が頬や髪をついばんでくる。〈さっさとしろ〉だ。僕は鼻を鳴らした。

「お前と違って、僕にはTPOをわきまえる常識があるんだよ」
「へえ。運営係の仕事投げ出して俺についてきたくせに?」
「投げ出してないから! こっちは前回でほぼ終わってて、お前が手伝えって言うから――」
「もう、いいから」

 〈黙れ〉の合図に顎を掴まれ、そのまま深くキスされる。一度始まってしまえば、それ以上言葉は必要なかった。舌を絡ませ、腕を回し、いつものように全身で無言の会話をする。
 これが普通の友達とすることじゃないなんて、とっくに気づいていた。でも、僕らの場合は、始まりからそもそも普通じゃなかったんだ。しゃべれば一文字ごとにムカつくのに、しぐさ語だけはこの上なくかみ合う。その心地よさの最上級が、今のところこれなだけ。それはきっと、朝陽も同じだ。

 そう、思っていたのに。

「……晴」
「うわっ」

 押されるようにして尻餅をついた僕は、恨みを込めて朝陽を見上げ、太ももをぎゅっとつねった。でも、朝陽は気にした様子もなく、僕の脚の上に乗り上げてきて、そのまま両手のひらで僕の顔をはさんだ。

「やめてほしいのか?」
「今、そう伝えただろ」
「ふーん」

 中途半端に顔を寄せたまま、朝陽がわざとらしく動きを止める。

「それなら、キスするのやめる」
「は? そうは言ってないじゃん。力加減覚えろってことだよ」
「じゃあ、晴は俺にキスしてほしいの?」
「……知らないよ」

 ふいっと顔を背けようとしたのに、朝陽は逃してくれなかった。そのまま肩が押されて、背中が床につく。

「晴。答えろよ」

 覆いかぶさってきた朝陽が、僕の両手をとって、指を絡めて床へ押し付けた。手の動きを封じられて、僕は唇を噛んだ。

「しぐさ語じゃなくて、ちゃんと口で。お前はどうしたいんだ?」

 耳元に朝陽の息が触れ、茶色い前髪がこめかみをくすぐる。まるで犬が遊んでほしい時みたいに、ちょん、ちょん、と鼻先で僕の顔中に触れながら、肝心のそこだけは絶対に触れ合わない。とうとう僕はぎゅっと目をつぶると、やけくそに言った。

「もう、わかったよ! だから早くしろよ、キス――」

 言い終わる前に、口を塞がれた。ようやく手が自由になった僕は、腹いせに朝陽の背中へ腕を回して、シャツにぐしゃりとシワをつけた。朝陽が僕を抱きしめて、なだめるみたいに頭を撫でてくる。ムカつく。

「なんで最近、そうやって言わせようとすんの」
「聞きたいじゃん。だめ?」
「それだと、これで会話してる意味なくなるんだけど」
「いいだろ、俺は両方聞きたいんだから――」

 その時、廊下に足音が聞こえて、僕はぱっと顔を離した。ドアノブが一回まわりかけて、続いて何回かガチャガチャと動く。

「あれ? 鍵閉まってる」
「でも、さっき立花たち行ってなかったっけ。おーい、中いる?」
「あ、いるよ!」

 僕は声を上げながら、急いで上から朝陽をどかした。制服をさっと点検してから、何食わぬ顔でドアを開けて、前に立っていた二人のクラスメイトを引き入れる。足の速さは朝陽ほどじゃなくても、切り替えの速さには自信があるんだ。

「ごめん。間違えて鍵かけちゃってたみたい」
「おお、良かった。なあ、デカめのダンボールある? 校内宣伝の看板出そうと思って」
「あ、それならあの辺りに……」

 二人を案内して、朝陽の横を抜ける。一瞬だけ目が合った朝陽は、悪びれない顔でぺろっと唇を舐めた。

◇

 夏帆がいるんだから、クラス企画に学級委員の仕事はほぼないはずだった。
 なのに、どうして僕は、こんなに忙しいんだろう。

「あ、高瀬。ちょっとこのメニュー表確認してくんね?」
「晴くん、これ試作なんだ。どうかな?」
「なあ高瀬、朝陽どこいったか知って――?」
「――ちょっと待って、それはなんで僕に聞くの?」

 最後のだけ、僕は聞き返してしまった。バスケ部のクラスメイトは、屈託なく笑った。

「だってお前ら、だいたい一緒にいるじゃん。だから、知ってるかと思って」
「それは、被る仕事が多いだけだよ……」

 実際、僕らは四六時中一緒にいるわけじゃなかった。朝陽は平日だいたい部活だし、僕も颯太や理央といる時間の方が長い。昨日だって理央に付き合って、怪しげな大盛りラーメン屋に行った。あれも、もし朝陽がいたら具の押し付け合いになったんだろうけど……。
 僕は急に背筋を伸ばした。いや。いやいや。今、朝陽は関係ないはずだ。

「ねえ高瀬くん。ちょっと相談あるんだけど、いいかな?」

 図書館の前の勉強スペースで宿題を広げていた僕は、呼ばれてすぐに顔を上げた。宣伝班の女子たちだ。

「もちろん。どうしたの?」
「あのね、カフェのことなんだけど。SNSの宣伝用に、誰かに白衣着てもらって写真撮ろうと思ってて」
「うん、いいね」
「それで、ぜひ高瀬くんと立花くんの写真を――」
「無理かな」
「えっ」
「あ、いや……!」

 思わず即答してしまって、僕は慌ててにっこりした。たしかに最近出るのは喧嘩写真ばかりで、勘違いされそうな構図はしばらく出てないけど、万が一ってこともある。

 僕は、さっとあたりを見渡した。窓際の席にいる、同じクラスの宮地くんが目に留まった。体育祭で朝陽に補欠に誘われたとき、嬉しそうに頷いてくれた人だ。普段は物静かだけど、実はみんなに頼られるのが好きなのかもしれない。

「僕らなんかより、宮地くんとかの方が適任だと思うよ。ちょっと話してみようか?」

 そう言って、僕は席を立った。怪訝そうな顔をしている宮地くんに、今の話を説明する。
 宮地くんは、ちょっと黙った。

「……それで、俺?」
「うん。宮地くん絶対白衣似合いそうだし、SNSにあげてる小物の写真とかもセンスよすぎてさ。そう思わない?」
「いやマジ、あたしもそれは思ってた」
「ってか、普通にイケメンだからね? 銀縁メガネとかかけてほしいんだけど」
「……あはは。じゃあ、引き受けようかな」

 ようやく宮地くんが笑って、頷いてくれた。

「ほんと? 無理しないでね。嫌なら断っていいから」
「ううん、大丈夫。俺でいいならやるよ」
「マジ? やば、ありがと! それじゃ、撮影のスケジュールなんだけど……」

 僕は小さく息をついて、みんなの輪から抜けた。どうやら、無事に役目は果たせたみたいだ。

 でも、席に戻ると、なぜかノートがなくなっていた。そしてなぜか、朝陽が僕の席に座っていた。

「……何やってんの?」
「うーん。待ち伏せ?」

 朝陽の目が、ちらりと窓際を見た。

「宮地たちと話してたのか?」
「うん。宣伝の話でさ……」

 一部始終を話すと、朝陽は少しだけ眉を上げた。

「あいつ、よく引き受けたな」
「ね、意外と。でも、確認したけど大丈夫だって」
「へえ」

 朝陽は肩をすくめて、それ以上は何も言わなかった。代わりに、そのまま流れるように、僕を膝の上に乗せようとする。ちょっと待ってほしい。

「お前、馬鹿なの?」
「なにが? 遠慮しないで早く座れよ」
「遠慮してるんじゃなくて、ドン引きしてるんだよ」
「なんだよ、つまんないの」

 朝陽は笑って、立ち上がった。床に落としていたカバンを拾って、中から僕のノートを返してくれる。

「まあ、冗談だ。んじゃ、俺は行くから――」
「え」

 ……考えるより先に、僕は朝陽の服を掴んでいた。

 くん、と引き留められた朝陽が、驚いた顔で振り返った。でも、僕の行動に、一番驚いてるのは僕自身だった。なんで。どうして僕は、朝陽を引き留めたんだ……?

「あ……えーと」
「なに?」

 朝陽が急に真剣な顔になって、僕を覗き込んできた。

「晴。俺、ここにいた方がいい?」

 言い訳を探しきれていなかった僕は、馬鹿みたいに正直に頷いた。

「うん……まあ。なに、急いでんの?」
「いや。……じゃあ、ちょうどいいから、前日準備の段取り詰めていいか?」
「あ、うん」

 朝陽が椅子を引いて、僕の隣に座る。理由ができてほっとしている自分に気づかないふりをしながら、僕はファイルを出そうとカバンに手を伸ばした。