写真に撮れば少しは爽やかに見える夏も、現実ではただ暑いだけだった。ようやく訪れた昼休み、隣でデカいおにぎりを頬張っている男を見ていると、余計にそう思う。最近の朝陽は、なぜか弁当派になったようだった。僕は食べ終わった自分の弁当箱を片付けて、物欲しげな視線がそれ以上こっちに向かないようにした。
ベランダに面した僕の席の周りは、すっかり便利な溜まり場になっていた。颯太や理央が窓の前に座り込み、調査ノートをぱらぱらとめくっていた夏帆が、一枚のプリント写真を僕に差し出してくる。
「この場所写真、あたし三年のCクラスだと思ってて」
写真は、朝陽の家の写真を破った後に出てきた、どこかのクラスが映り込んだ場所写真だった。あれから朝陽がしばらくおかしくなってたり、体育祭があったりしたから、ずいぶん久しぶりに見た気がする。
「体育祭の片付けしてて気付いたんだけど、この位置に机がない配置って、三のCだけなのよ」
「さすが夏帆。これなら、全クラス回ってやらなくても良さそうだね」
「なんだ、つまんねえの」
ほっとする僕に、颯太が鼻を鳴らした。
「せっかくネタがいっぱいできると思ったのに。まあ、晴のジゴロ写真で我慢するか」
「そういえばそうだな。晴、あっちはやんないのか?」
「やらないよ。場所写真優先しようって決めたじゃん。とりあえず、それ終わってからだよ」
「じゃあ、終わったらやる?」
「なんでそんなに前向きなわけ?」
身を乗り出してくる朝陽の顎を、雑につかんだ。朝陽が〈わかった〉と僕の手首を軽く握る。でも、僕が手を引こうとしても、朝陽は僕を離さなかった。……また、これだった。
「……何? 長いんだけど」
「意味は同じだろ」
「そうだけどさ」
体育倉庫の裏でもしたようなやりとりを、最近毎日繰り返している。たしかに、通じてはいるんだけど……。今の朝陽のしぐさ語は、なんか前とはちょっと違う気がする。
探るように見つめ合ってる僕たちから、理央が最初に視線を逸らした。
「そうだ、おれ今日早く帰んないといけないんだ。もし今日再現やるなら、明日結果教えてよ」
「あたしも今日は部活。颯太はいける?」
「オレは暇……あ、さっき佐伯たちとカラオケいく約束したな。明日にするか?」
「いや、明日は俺が部活。まあそれなら、今日あとでちょろっと挑戦してみればよくね? 無理だったら、また今度颯太にディレクション頼むから」
「お、そうしよ。いいよな、晴?」
「みんな、なんで最初に僕の都合を聞かないの? まあ、いいけどさ……」
ため息をつきながら、朝陽をじろりと見る。朝陽は笑って、ようやく僕の手を放した。
◇
放課後、僕たちはしばらく時間を潰したあと、三年生のCクラスに向かった。でも、せっかく下校時刻近くまで待ったのに、教室にはまだ意外と人が残っている。三年生は受験だから、さっさと塾とか行くと思ったんだけどなあ。
「うーん、これじゃできないね。別の日に出直した方が良さそう」
「そうか? 今やればよくね?」
あっさりと言う朝陽に、僕は目をむいた。
「正気? あれを、見ず知らずの先輩たちのど真ん前で?」
「あれぐらい普通にできるだろ。単なる〈待てよ〉だぞ」
「それを公開処刑状態でやるのはわけが違うでしょ。お前は風呂で全裸になれるなら横断歩道でも全裸になれる人間なわけ? 僕は絶対――」
「あれ」
その時、教室に戻ろうとしていた先輩の一人が、朝陽に気づいて声をあげた。
「お前、あの赤のアンカーじゃなかったっけ?」
一人が気づくと、次々に声がかかる。
「ほんとだ! 二年の立花だろ?」
「ははっ、やってくれたよなこの野郎!」
「なに、三年に用事?」
「あ、はい。実は、写真で……うぐ、」
朝陽が余計なことを喋りだす前に、僕はとっさに奴の顎を掴んだ。先輩を見上げて、にこやかに言う。
「すみません、たいした用事じゃなくて。この教室で写真でも撮りたいなと思ってたんですけど、今は先輩方の邪魔になると思うんでまた出直します」
そう言って退散しようとしたのに、三年生たちはますます興味津々で食いついてきてしまった。
「写真って、お前らの? なんでこの教室で?」
「それは、えーと……罰ゲームみたいなもので」
「何それ、面白そうじゃん! いいよ、今撮りなよ」
「えっ、それは」
「遠慮すんなって。なんなら、俺らが撮ってやるから」
「あ、いや、ほんとお気遣いなく……!」
抵抗も虚しく、あれよあれよという間に教室の中へ連れ込まれる。え、受験ってそんなに暇なの? それとも、こうやって赤の他人の不幸を笑わないとやってられないぐらい過酷なの……?
夏帆が言っていた通り、この教室では窓際の列の一番前だけ、机がなかった。仕方なくそこへ移動した僕は、先輩に自分のスマホを渡して必ずこれだけで撮るようにお願いした。万が一にも、先輩たちのスマホに異常写真が出てほしくない。
「それで、何が罰ゲームなんだ? 変顔でもすんのか?」
「いいえ」
僕は覚悟を決めて、朝陽の腕を掴んだ。
「ここで、こいつが……僕を、こうします」
場所写真の構図のように、朝陽が僕の肩を後ろから抱きしめる体勢になる。先輩たちは一瞬黙ったけど、すぐに思いきり笑い始めた。
「いいぞー、立花! その彼氏しっかりつかまえとけ!」
「もっと右手をこう回した方がいいんじゃないか?」
「なるほど、こうですか?」
「あははっ、いいねいいね! 彼氏、もっと笑って!」
「……朝陽お前、ほんと後で覚えてろよ」
笑顔のまま、小声で呪詛を吐く。先輩たちの指示に悪ノリするふりをして、これみよがしに顔を寄せてきた朝陽が、僕の耳元で楽しげに笑った。
「なんで? これで二度手間にならないで済んだんだから、結果オーライじゃん」
「手間のかわりに、もっと大事なものいろいろ失ってんだよ……!」
僕は構図の通り、胸元に回った朝陽の腕に自分の手を添えて、力任せに握りつぶした。
◇
これだけ大恥をかいて写真を戻したのに、それからしばらく場所写真は出なかった。その間、僕らは仕方なく、残りの構図を消化していた。そのほとんどが、僕主導のもの……の、はずなんだけど。
「おお。大胆だな、晴様」
教室で、壁を背にして座りこんだ朝陽が、僕を見上げてニヤリとする。膝立ちで朝陽に覆い被さり、顔の横へ手をつきながら、僕は歯をむきだして威嚇した。
「余計な煽り方すんなよ。前にお前がやった時、これもしぐさ語にしたじゃん」
「でも、晴が俺にやってくれたことないよな?」
朝陽の手がゆっくりと上がり、僕の首にそっとかかった。〈違うか?〉だ。ついでにそのまま指先が襟足に潜り込んできて、なぜか顔を引き寄せられる。
「晴。返事は?」
「……近い! こんなの写真にないだろ」
「俺は普通に話そうとしてるだけだけど?」
「ああもう、わかったよ。僕もこれ使えばいいんでしょ!」
おかしい。構図上リードしてるのは僕のはずなのに、何か負けてる気がする。この日だけじゃなく、二枚目、三枚目になっても、朝陽が余計なしぐさ語を足す癖はおさまらず、だんだん僕は突っ込むのをあきらめていった。こいつに常識を説いたって、時間の無駄だ。
体育祭で増えた分も含め、残っていた写真を一枚ずつ戻していくうちに、学期末が迫っていた。夏休みが近づき、学校全体がどこか浮ついた雰囲気になっている。天気もそれを見てるみたいに、暑くなったり涼しくなったりめちゃくちゃだ。
朝陽と並んで帰り道を歩きながら、僕はうーんと伸びをした。
「あー長かった。これで写真、ほぼ全部消化したよね?」
「ああ。最初の、お前のキス以外はな」
「……あれは、もういいでしょ。お前がやって戻らなかったんだから」
「まあ……そうだな。でも、最近新しいの出てなくないか?」
「それなんだよね。このままおさまってくれるならいいんだけど、そうじゃないなら手がかりも増えないってことだから困るよなあ……ん?」
ぼやく僕の鼻先に、ぬるい雫が一滴落ちた。見上げると、いつのまにか灰色になっていた空から、ぽつり、ぽつりと雨が落ち、一気に激しくなってくる。
「うわ、雨だ。やばい、折りたたみ傘置いてきちゃった」
「俺も持ってないな。よし、駅まで走るぞ!」
返事も聞かずに走り出した朝陽を、僕は慌てて追いかけた。
「ちょっと! この距離なら学校戻ろうよ! どうせゲリラ豪雨ですぐにやむから!」
「駅までだって大した距離じゃないだろ! トラック三周もないって!」
「お前の速さと一緒にすんなよ!」
罵り合いながら走っていたけど、雨はどんどん強くなっていく。とうとう僕は朝陽の腕を叩き、手近なコインパーキングを指した。精算機のところにだけ、申し訳程度に小さな屋根がついている。朝陽が頷き、僕たちはそこに逃げ込んだ。
「あーあ」
ハンカチで鞄を拭いた僕は、シャツをぎゅっと絞って、朝陽をジロリと見た。
「お前のせいで、めっちゃ濡れたじゃん。見てよ、教科書もしなしなだ」
「ははっ、ボッサボサの頭みたい」
「笑い事じゃないだろ。あとお前、もっと向こう行けよ。僕が濡れる」
精算機の屋根も、まさかこんな使い方をされるとは思ってなかっただろう。朝陽を肩で押しのけて、僕はくしゃみをした。濡れた服が身体に張り付いて気持ち悪いし、普通に寒い。このまま電車の冷房に当たったら風邪ひきそうだな……。
その時、僕の上半身に腕が回った。先輩たちに冷やかされた時みたいに、朝陽が後ろから抱きしめてくる。〈待てよ〉?
「……何? 僕、別にどこにも行こうとしてないんだけど」
「知ってる。でも、濡れたくないんだろ?」
「うるさいな。そうやって、ああ言えばこう言うの――」
「あと、寒いって顔してる」
朝陽の無駄に高い体温が、僕の背中を静かに覆っていた。最近よくある勝手な接触に、最近よくある、ちょっと意味のわからないしぐさ語。でも……
「……別に」
でも、僕はそれを特に振り払わなかった。僕を覆う腕の外側に、雨が少しだけ当たっている。精算機の投入口のカバーが、僕たちに興味をなくしたみたいに、ウィーンと上がって元の位置に戻った。
頭の上では、雨が薄い屋根を絶え間なく叩いていた。胸のあたりにある朝陽の腕に目を落として、また雨の向こうをぼんやりと見つめる。
夏って、こんなにうるさかったっけ。
少しずつ雨が弱くなり、夕暮れに変わっていく空を、僕らはそのままじっと眺めていた。
ベランダに面した僕の席の周りは、すっかり便利な溜まり場になっていた。颯太や理央が窓の前に座り込み、調査ノートをぱらぱらとめくっていた夏帆が、一枚のプリント写真を僕に差し出してくる。
「この場所写真、あたし三年のCクラスだと思ってて」
写真は、朝陽の家の写真を破った後に出てきた、どこかのクラスが映り込んだ場所写真だった。あれから朝陽がしばらくおかしくなってたり、体育祭があったりしたから、ずいぶん久しぶりに見た気がする。
「体育祭の片付けしてて気付いたんだけど、この位置に机がない配置って、三のCだけなのよ」
「さすが夏帆。これなら、全クラス回ってやらなくても良さそうだね」
「なんだ、つまんねえの」
ほっとする僕に、颯太が鼻を鳴らした。
「せっかくネタがいっぱいできると思ったのに。まあ、晴のジゴロ写真で我慢するか」
「そういえばそうだな。晴、あっちはやんないのか?」
「やらないよ。場所写真優先しようって決めたじゃん。とりあえず、それ終わってからだよ」
「じゃあ、終わったらやる?」
「なんでそんなに前向きなわけ?」
身を乗り出してくる朝陽の顎を、雑につかんだ。朝陽が〈わかった〉と僕の手首を軽く握る。でも、僕が手を引こうとしても、朝陽は僕を離さなかった。……また、これだった。
「……何? 長いんだけど」
「意味は同じだろ」
「そうだけどさ」
体育倉庫の裏でもしたようなやりとりを、最近毎日繰り返している。たしかに、通じてはいるんだけど……。今の朝陽のしぐさ語は、なんか前とはちょっと違う気がする。
探るように見つめ合ってる僕たちから、理央が最初に視線を逸らした。
「そうだ、おれ今日早く帰んないといけないんだ。もし今日再現やるなら、明日結果教えてよ」
「あたしも今日は部活。颯太はいける?」
「オレは暇……あ、さっき佐伯たちとカラオケいく約束したな。明日にするか?」
「いや、明日は俺が部活。まあそれなら、今日あとでちょろっと挑戦してみればよくね? 無理だったら、また今度颯太にディレクション頼むから」
「お、そうしよ。いいよな、晴?」
「みんな、なんで最初に僕の都合を聞かないの? まあ、いいけどさ……」
ため息をつきながら、朝陽をじろりと見る。朝陽は笑って、ようやく僕の手を放した。
◇
放課後、僕たちはしばらく時間を潰したあと、三年生のCクラスに向かった。でも、せっかく下校時刻近くまで待ったのに、教室にはまだ意外と人が残っている。三年生は受験だから、さっさと塾とか行くと思ったんだけどなあ。
「うーん、これじゃできないね。別の日に出直した方が良さそう」
「そうか? 今やればよくね?」
あっさりと言う朝陽に、僕は目をむいた。
「正気? あれを、見ず知らずの先輩たちのど真ん前で?」
「あれぐらい普通にできるだろ。単なる〈待てよ〉だぞ」
「それを公開処刑状態でやるのはわけが違うでしょ。お前は風呂で全裸になれるなら横断歩道でも全裸になれる人間なわけ? 僕は絶対――」
「あれ」
その時、教室に戻ろうとしていた先輩の一人が、朝陽に気づいて声をあげた。
「お前、あの赤のアンカーじゃなかったっけ?」
一人が気づくと、次々に声がかかる。
「ほんとだ! 二年の立花だろ?」
「ははっ、やってくれたよなこの野郎!」
「なに、三年に用事?」
「あ、はい。実は、写真で……うぐ、」
朝陽が余計なことを喋りだす前に、僕はとっさに奴の顎を掴んだ。先輩を見上げて、にこやかに言う。
「すみません、たいした用事じゃなくて。この教室で写真でも撮りたいなと思ってたんですけど、今は先輩方の邪魔になると思うんでまた出直します」
そう言って退散しようとしたのに、三年生たちはますます興味津々で食いついてきてしまった。
「写真って、お前らの? なんでこの教室で?」
「それは、えーと……罰ゲームみたいなもので」
「何それ、面白そうじゃん! いいよ、今撮りなよ」
「えっ、それは」
「遠慮すんなって。なんなら、俺らが撮ってやるから」
「あ、いや、ほんとお気遣いなく……!」
抵抗も虚しく、あれよあれよという間に教室の中へ連れ込まれる。え、受験ってそんなに暇なの? それとも、こうやって赤の他人の不幸を笑わないとやってられないぐらい過酷なの……?
夏帆が言っていた通り、この教室では窓際の列の一番前だけ、机がなかった。仕方なくそこへ移動した僕は、先輩に自分のスマホを渡して必ずこれだけで撮るようにお願いした。万が一にも、先輩たちのスマホに異常写真が出てほしくない。
「それで、何が罰ゲームなんだ? 変顔でもすんのか?」
「いいえ」
僕は覚悟を決めて、朝陽の腕を掴んだ。
「ここで、こいつが……僕を、こうします」
場所写真の構図のように、朝陽が僕の肩を後ろから抱きしめる体勢になる。先輩たちは一瞬黙ったけど、すぐに思いきり笑い始めた。
「いいぞー、立花! その彼氏しっかりつかまえとけ!」
「もっと右手をこう回した方がいいんじゃないか?」
「なるほど、こうですか?」
「あははっ、いいねいいね! 彼氏、もっと笑って!」
「……朝陽お前、ほんと後で覚えてろよ」
笑顔のまま、小声で呪詛を吐く。先輩たちの指示に悪ノリするふりをして、これみよがしに顔を寄せてきた朝陽が、僕の耳元で楽しげに笑った。
「なんで? これで二度手間にならないで済んだんだから、結果オーライじゃん」
「手間のかわりに、もっと大事なものいろいろ失ってんだよ……!」
僕は構図の通り、胸元に回った朝陽の腕に自分の手を添えて、力任せに握りつぶした。
◇
これだけ大恥をかいて写真を戻したのに、それからしばらく場所写真は出なかった。その間、僕らは仕方なく、残りの構図を消化していた。そのほとんどが、僕主導のもの……の、はずなんだけど。
「おお。大胆だな、晴様」
教室で、壁を背にして座りこんだ朝陽が、僕を見上げてニヤリとする。膝立ちで朝陽に覆い被さり、顔の横へ手をつきながら、僕は歯をむきだして威嚇した。
「余計な煽り方すんなよ。前にお前がやった時、これもしぐさ語にしたじゃん」
「でも、晴が俺にやってくれたことないよな?」
朝陽の手がゆっくりと上がり、僕の首にそっとかかった。〈違うか?〉だ。ついでにそのまま指先が襟足に潜り込んできて、なぜか顔を引き寄せられる。
「晴。返事は?」
「……近い! こんなの写真にないだろ」
「俺は普通に話そうとしてるだけだけど?」
「ああもう、わかったよ。僕もこれ使えばいいんでしょ!」
おかしい。構図上リードしてるのは僕のはずなのに、何か負けてる気がする。この日だけじゃなく、二枚目、三枚目になっても、朝陽が余計なしぐさ語を足す癖はおさまらず、だんだん僕は突っ込むのをあきらめていった。こいつに常識を説いたって、時間の無駄だ。
体育祭で増えた分も含め、残っていた写真を一枚ずつ戻していくうちに、学期末が迫っていた。夏休みが近づき、学校全体がどこか浮ついた雰囲気になっている。天気もそれを見てるみたいに、暑くなったり涼しくなったりめちゃくちゃだ。
朝陽と並んで帰り道を歩きながら、僕はうーんと伸びをした。
「あー長かった。これで写真、ほぼ全部消化したよね?」
「ああ。最初の、お前のキス以外はな」
「……あれは、もういいでしょ。お前がやって戻らなかったんだから」
「まあ……そうだな。でも、最近新しいの出てなくないか?」
「それなんだよね。このままおさまってくれるならいいんだけど、そうじゃないなら手がかりも増えないってことだから困るよなあ……ん?」
ぼやく僕の鼻先に、ぬるい雫が一滴落ちた。見上げると、いつのまにか灰色になっていた空から、ぽつり、ぽつりと雨が落ち、一気に激しくなってくる。
「うわ、雨だ。やばい、折りたたみ傘置いてきちゃった」
「俺も持ってないな。よし、駅まで走るぞ!」
返事も聞かずに走り出した朝陽を、僕は慌てて追いかけた。
「ちょっと! この距離なら学校戻ろうよ! どうせゲリラ豪雨ですぐにやむから!」
「駅までだって大した距離じゃないだろ! トラック三周もないって!」
「お前の速さと一緒にすんなよ!」
罵り合いながら走っていたけど、雨はどんどん強くなっていく。とうとう僕は朝陽の腕を叩き、手近なコインパーキングを指した。精算機のところにだけ、申し訳程度に小さな屋根がついている。朝陽が頷き、僕たちはそこに逃げ込んだ。
「あーあ」
ハンカチで鞄を拭いた僕は、シャツをぎゅっと絞って、朝陽をジロリと見た。
「お前のせいで、めっちゃ濡れたじゃん。見てよ、教科書もしなしなだ」
「ははっ、ボッサボサの頭みたい」
「笑い事じゃないだろ。あとお前、もっと向こう行けよ。僕が濡れる」
精算機の屋根も、まさかこんな使い方をされるとは思ってなかっただろう。朝陽を肩で押しのけて、僕はくしゃみをした。濡れた服が身体に張り付いて気持ち悪いし、普通に寒い。このまま電車の冷房に当たったら風邪ひきそうだな……。
その時、僕の上半身に腕が回った。先輩たちに冷やかされた時みたいに、朝陽が後ろから抱きしめてくる。〈待てよ〉?
「……何? 僕、別にどこにも行こうとしてないんだけど」
「知ってる。でも、濡れたくないんだろ?」
「うるさいな。そうやって、ああ言えばこう言うの――」
「あと、寒いって顔してる」
朝陽の無駄に高い体温が、僕の背中を静かに覆っていた。最近よくある勝手な接触に、最近よくある、ちょっと意味のわからないしぐさ語。でも……
「……別に」
でも、僕はそれを特に振り払わなかった。僕を覆う腕の外側に、雨が少しだけ当たっている。精算機の投入口のカバーが、僕たちに興味をなくしたみたいに、ウィーンと上がって元の位置に戻った。
頭の上では、雨が薄い屋根を絶え間なく叩いていた。胸のあたりにある朝陽の腕に目を落として、また雨の向こうをぼんやりと見つめる。
夏って、こんなにうるさかったっけ。
少しずつ雨が弱くなり、夕暮れに変わっていく空を、僕らはそのままじっと眺めていた。
