【完結】写真の中だけ、もうキスしてる

 わかってはいたけど、オオカミ狩りはそう簡単にはいかない。

 前日準備は、思った以上に忙しかった。あっちこっちで作業が遅れ、使えるはずの備品がまだ戻されていなかったり、先生と三年生からの指示が食い違ったりする。
 でも最大の理由は、朝陽のバカが人たらしを発揮して、他の担当の手伝いにさっさと教室を離れたせいだった。僕はひとまず、できるだけ急いで得点室の設営をあらかた終わらせると、次の雑用が降ってくる前に、朝陽を捕まえに出た。

「あ、理央。朝陽どっかで見なかった?」
「さっき、校庭で鉄骨担いでたけど。テントの設営でも手伝ってるんじゃないかな?」
「わかった、ありがと」

 そう言われて校庭に出てみたけど、忙しそうにしている生徒たちの中に、朝陽の姿はない。

「あっ、高瀬! 悪いんだけど、教室から養生テープと油性ペン持ってきてくれないか?」
「わかった、予備も一緒に持ってきてあげるよ。ところで、さっきまでここに朝陽いなかった?」
「ああ、めっちゃ助けてくれたよ。はは、あいつ、体育委員じゃないとか嘘だよな」
「今どこいるかわかる?」
「途中で海老原に呼ばれてったぞ。応援幕がどうとか」
「了解」

 校舎を見上げると、四階の窓の辺りで何やら作業してる集団がいる。あそこは、三年のCクラスあたりだ。
 頼まれたテープとペンを届けてから三年Cクラスに行くと、作業はほとんど終わっていた。ぞろぞろと引き上げようとしてる生徒の中に、知り合いを見つけて肩を叩く。

「ねえごめん、ここに朝陽いなかった? どこ行ったかわかるかな?」
「いたけど、どこ行ったかはわかんないや。腹減ってそうな顔はしてたけど……」
「あはは、ありがとう」

 一カ所空振りするごとに、僕の拳にどんどん力が入っていく。やばい。なんかもう、ぶん殴りたい。でも、そろそろいったん得点室の方にも戻らないと、一緒に手伝ってくれてる本間くんたちがかわいそうだ。

 そう思って教室に戻った僕は、ようやくそこで宿敵の姿を見つけた。得点ボードの準備をしてる本間くんたちと喋りながら、何食わぬ顔で余分な机を運び出そうとしている。

 僕は三歩で奴の背後に近づくと、その腰にいきなり両腕を回した。朝陽が、はっと小さく息を呑んだ。

「……おい、なんだよ高瀬ー。離せって」

 本間くんたちの手前、さすがの朝陽も無視せず、友達の悪ふざけをたしなめるみたいに僕の腕へ手をかける。僕は負けじと腕に力をこめた。

「筒井先生が体育館に来てくれってさ。割り振り変更だって」
「そうなのか? ここ終わったら行くから、先行っててくれよ」
「いや、今すぐ来てほしいみたいだった。こっちの作業は、本間くんたちが工芸部でプロだから、任せて大丈夫だろうって」
「おう、プロの俺らに任しとけ!」
「行ってこいよ二人とも」
「ほんと? 助かるよ、ありがとう!」

 忘れてるなら教えてあげるけどさ、朝陽。人たらしって言われてんのは、お前だけじゃないんだよ。

 僕は笑顔で奴の肘をがっちり捕まえたまま、ほとんど引きずるみたいにして教室を出た。

 ◇

 体育館の扉は、開け放たれていた。倉庫や校舎に続く道には、得点板やライン引きなんかの機材が、運び途中のまま放置されている。近くには、誰もいなかった。

「筒井先生は?」
「いないよ」

 そのまま体育館裏に回りながら、僕は平然と言った。

「は?」
「だって、普通に呼んだらお前来ないじゃん」
「……タチ悪。そこまでして、俺を追い回したかったのかよ」
「そこまでして僕から逃げた奴に、言われたくないよ」

 ふてくされたみたいに壁へ寄りかかる朝陽に、僕は眉を吊り上げた。

「何の話かわかってるだろ?」
「わかんないな。心当たりが多すぎて」
「ふざけんなよ」

 ここにきてまだ微妙に冗談へかわそうとする朝陽に、僕はぴしゃりと言った。今、そういうのいらないから。僕が聞きたいのは、それじゃない。

「いきなり人にキスしておいて、いきなり人のこと避け始めて。お前、何がしたいの?」
「……知らない。前も言っただろ」
「知らないじゃないよ。自分のことじゃん。ちゃんと説明して」

 言ってるうちに、どんどんイライラしてくる。

「お前がおかしくなってから、僕がどれだけ迷惑してるかわかる? 肝心な時にいないし、会話もまともにしようとしないし……」

「喋るのは普通に喋ってただろ。勝手なこと言うな」
「口はね? 僕は、こっちの話してんの!」

 考えるより先に、手が出た。朝陽の顎を掴んで、無理やり僕の方へ向けさせる。

 揺れる瞳を真っ直ぐに見つめて、僕は激しい口調で言った。

「僕ら、ずっとこっちで喋ってたじゃん。口で話すより、よっぽど便利で使いやすかったじゃん。なのに、何でお前が不機嫌になったからって、僕まで合わせなきゃいけないの? せっかく二人で作ったのに、勝手に全部やめて、勝手に全部なかったことにするなよ!」

 見開かれていた朝陽の瞳が、奇妙に歪んだ。顎を掴む僕の手首に、朝陽の手がゆっくりとかかる。

「……お前さ。本当に、何もわかってないのかよ」

 息を荒げる僕を、朝陽はぎゅっと眉を寄せて見ていた。

「俺はもう、しぐさ語は使えない。……前と同じ意味じゃ、使えないんだよ」
「は?」

 なに言ってんだこいつは。僕は朝陽の顎から手を離して、右手の甲を二回つついた。

「意味なら、わかってるだろ。これは?」
「……〈ありがとう〉」

「じゃあこれ」
「〈何してるんだ〉」

「こっちは?」
「〈早く来い〉」
「使えんじゃん」

 僕は眉を上げた。

「これの何が不満なの? 前と同じ意味で使えてるじゃん。意味変えたいしぐさがあるなら、ちゃんと言えよ。お前がなんにも言わない限り、悪いけど僕はこれからもこうやって話しかけるから」

 朝陽は、しばらく黙って僕をじっと見つめていた。それから、目を閉じて、ふー……とため息をついた。長い、長いため息だった。

「……わかったよ」

 再び、朝陽が僕を見た。何か、吹っ切れたような顔だった。

「そこまで言うなら、やってやる。もう、後悔しても知らないからな」

 〈いいな?〉の代わりに、朝陽が久しぶりに僕の肩をぐっと掴む。僕が朝陽の胸を軽くたたくと、朝陽は頷いて手を離した。

 僕は、ゆっくりと息を吐き出した。中間テストのあたりから朝陽との間にあった見えない壁が、ようやくすうっと消えたのを感じる。相変わらずあのキスの意味はよくわからないけど、僕にとってはしぐさ語が戻ったことの方が百倍大事だった。試しに自分の右肩をさっと払ってみると、朝陽がすぐに気づいて、ちょっと舌を出しながら自分の肩についていた糸くずを払い落とす。ほら。やっぱり、喋るよりこっちの方がずっといい。ずっと楽だし、ずっと楽しい……

 その時、校舎の方から何人かの足音が近づいてきた。それと同時に、はっとする。やばい、いま何時だ? さっさと準備に戻らないと……!

 駆け出そうとした僕の腰を、後ろから朝陽が片腕で引き戻した。

〈落ち着けよ〉
〈でも、準備急がないと〉
〈まだそんなに時間経ってないから〉

 見せられた腕時計のデジタル数字に、少し安心する。よかった。思ったよりも時間たってなかった。僕は朝陽の手の甲を二回叩いて、歩き出そうとした。

 でも、朝陽は離してくれなかった。

「……何? もう離していいから」
「やだよ」

 朝陽がちょっと笑った。腰に巻きつく腕に、なぜかさらに力がこもった。それどころか、もう片方の腕も回してきて、ぎゅうと抱きしめられる。
 耳元で、低い声が囁いた。

「お前がしぐさ語戻せって言ったんだろ。だから、こうして落ち着けって言ってるんだけど?」
「いや、それは伝わってるんだけど……」

 たしかにこれは〈落ち着け〉のしぐさ語だ。朝陽の悪戯な口調も、元通りに戻っている。でもそれにしては、肩越しに僕を見つめる朝陽の目が、なんか、前よりも、なんとなく……

「ここまでしなくていいって」
「へえ、ここまでってどこまで?」
「長いんだよ! あと力加減! 前に僕が腕折ろうとした仕返し?」
「ああ、それ忘れてたな。ちゃんと倍返ししてやらないと」
「必要ないからね? 返すならロールケーキの方にしろって言っただろ!」

 もみ合っているうちに妙な空気が薄れていき、僕らのいつもが戻ってくる。僕が強めにぐいっと押し退けると、朝陽は笑いながら僕を離した。
 ただし、体育館の裏から出る前に、朝陽がもう一度だけ僕を引っ張った。

「晴」

 振り向くと、朝陽が僕をじっと見ていた。僕も、つられて動きを止めた。

「明日の体育祭。ちゃんと、見てろよ」
「……何を?」

 朝陽の目がすっと細くなり、オオカミがニッと笑う。久しぶりに見る、いつもの朝陽の笑みだった。

「もちろん、俺をだよ」