【完結】写真の中だけ、もうキスしてる

 チャイムが鳴って、筆記用具を置くと同時に、教室のあちこちから歓声が上がった。最終科目だった数学の解答用紙を回し始めながら、わっとお喋りが噴き出す。

「終わったー! いろんな意味で終わったー!」
「大問六、反則じゃね? あれ去年の範囲じゃん! 解き方覚えてるわけねーし」
「晴」

 呼ばれて振り向くと、朝陽が解答用紙を回そうとしていた。後ろから僕の解答用紙をちょっと盗み見て、ニヤリと笑う。

「時間、足りなかったみたいだな?」
「残念でした。途中式書ききれなそうだと思ったから、裏に書いただけだよ」

 べえと舌を出して、手渡された紙の束に自分のを重ねてきっちり揃える。ちらりと見えた朝陽の大問六の答えは、僕のと違う気がした……いや、もういい。終わったことは考えない。

 先週気になっていた朝陽の挙動不審は、テストに集中しているうちにまあまあ気にならなくなっていた。いつも通り軽口を叩くし、いつも通りうるさい身振り手振りも使ってくる。
 ただしそれは、表面上のことだけだった。しぐさ語の中でも、お互いを触るやつだけは、なぜかほとんどやってこない。……なんか僕、気づいてないだけで、すごい臭ったりしてるんだろうか。もしそれを言わないのがあいつなりの気遣いだとしたら、かなり気まずい。おかげで最近、風呂の時間が五分のびた。

「高瀬、立花。ちょっといいか」

 帰りのホームルームが終わり、みんなが解放感に溢れた顔で部活や家に向かっていく中、僕らは揃って先生に呼び出された。教卓の横には大きな段ボール箱が二つあり、一つには掲示板に貼るプリント類と文具、もう一つには大量のゼッケンが入っている。

「体育祭近いから、掲示物の貼り替えを頼んでいいか?」
「わかりました。剥がしたものはここに入れればいいですか?」
「ああ。それと、もし余裕があったらゼッケンの並べ替えも。まあ、こっちは体育委員でもいいんだが……」
「いや、あいつらもう部活行っちゃったから、俺らでやりますよ」
「悪いな。じゃあよろしく、二人とも」

 名簿を上に乗っけた書類箱を持って、先生が教室を出ていく。入れ違いに、スクールバッグを引っかけた颯太と理央がやって来た。

「なあ、帰らねえの? 久しぶりにゲーセン行くかって、理央と話してたんだけど」
「あー……いいね」

 ゲーセンという言葉に、僕は思わず朝陽を見た。奴は段ボールの横にしゃがんで、ゼッケンを数えるので急に忙しそうにしていた。

「けど、学級委員の仕事頼まれちゃってさ。これ終わらせたら行くから、先行っててよ」
「え、じゃあ手伝うぜ。四人でやったらさっさと終わるだろ」
「……それ、おれも手伝うってことだよね。というか颯太、晴の手伝いなんて珍しいね?」
「わかってないな理央。オレはまたしばらく晴に恩を売っとかなきゃいけないんだよ」

 僕は思わずニヤリとした。

「なら、四人でやろう。理央もありがとうね」
「うん」

 ようやく顔を上げた朝陽とも頷き合って、僕らは段ボールを持ち上げた。

  ◇

 すぐ終わると思ったのに、掲示板の貼り替えは案外めんどくさかった。剥がした掲示物は紙やテープを材料別に分けなきゃいけないし、新しく貼るものは追加でラミネートする必要がある。しばらく上ばかり向いていた僕は、腰に手を当ててゆっくり伸びをした。うーん。地味に疲れる。

 朝陽と理央は、ゼッケンの整理を担当していた。慣れた手つきでゼッケンを並べ替える朝陽を見ながら、理央が名簿と照らし合わせている。

「二十三、二十四……うん? 理央、二十五番がないぞ」
「あれ、名簿にはあるんだけどな。晴、そっちの箱に紛れてたりしない?」
「えーと……いや、ないよ。先生に確認した方がいいかも」
「そうだな。行こうぜ、晴」
「え」

 なんでそこで僕が出てくるんだ。無意識に〈却下〉の壁ドンをしようとして、僕はちょっと思いとどまった。口では誘いつつも、朝陽は僕と目を合わせない。相変わらず、僕らの間には見えない壁みたいなものがあった。

「それぐらい一人で行けるでしょ。僕、掲示板の方で忙しいんだけど」
「いいからこっち手伝えよ。この箱、意外と重いんだぞ」
「お前の筋肉でそれ言うの? 今までさんざん――」
「あ、朝陽、じゃあおれが行くよ」

 見かねた理央が割って入ってくれて、朝陽は不満そうに教室を出ていった。なんだあいつ。

 朝陽が消えると、教室が少し涼しくなったみたいだった。僕は全部の掲示物をきっちり分別し終わると、ラミネート機と格闘している颯太を振り返った。

「こっち、剥がし終わったよ。そっちで終わったやつ貼っていい?」
「おう。なんかめっちゃ空気入っちゃったけど、文字は読めるからいいだろ。ってか、貼るのオレやるぜ」
「あ、じゃあ僕が画鋲渡す係やるよ」

 熱中症注意のつるつるした大きなポスターを、颯太が片手で固定しながら、もう片方の手で角に画鋲を刺す。僕が次の画鋲を差し出すと、颯太はそれでもう一つの角を刺してから、僕を振り返って、ぽんぽんと手の甲を叩いてみせた。

「ありがとな、だっけ?」
「そうそう。よく覚えてるね」
「だってお前ら、えんえんとこれやってるじゃん。あ、でも、最近そうでもないか」
「……うん、まあ」

 僕はあいまいに言ってから、すぐに笑顔に戻って、颯太の腕を自分の腕で軽く引いた。

「ちなみにこれは、〈何やってんの?〉だから」
「へえ。あっ、もしかして今オレ、さっさと作業に戻れって急かされてる?」
「大正解」

 颯太が、また掲示板に向き直る。僕はその二の腕を、後ろから軽く掴んだ。

「なんだよ晴――あ。もう少し右?」
「そう」
「次は、えーと……もっと下げろ?」
「惜しい。左上がりの斜めになってる」
「ははっ、細かっ。でもこれ、たしかに慣れれば意外と――」

「――おい」

 どさり、と何かを乱暴に下ろす音が、入口の方から聞こえた。振り向くと、朝陽と理央が戻ってきたところだった。ゼッケンの箱を置いた朝陽がつかつかと近づいてきて、僕と颯太を交互に見る。

「いま、何やってたんだ?」
「オレも朝陽語できそうって話」

 颯太が胸を張った。

「晴がちょっとだけ教えてくれたんだよ。オレ、わりとあってたよな?」
「うん」

 僕は笑いながら、なぜか黙り込んだ朝陽から颯太に目を移した。

「けっこういい線いってたよ。まあ、考えてみたら、颯太は朝陽より付き合い長いしね。練習したら、ちゃんと使えるようになると――」

 その時だった。朝陽の右手が、久しぶりに僕の顎をむんずと掴んだ。

「晴」

 目を合わせた僕は、ちょっと驚いて、ほんとに黙った。

 朝陽は、今までに見たことがないほど、きつい目をしていた。

「先生に、お前に話したいことがあるって言われたんだ。ちょっと来い」
「……あれ? さっき先生、そんなこと――」
「理央、いいから」
「あ、ちょっと……!」

 朝陽が僕の手首をつかんで、ずんずんと教室を出ていく。引きずられるようにして歩きながら、僕はわけがわからずに朝陽の後頭部を見つめた。何なんだよ、いきなり。僕に触りたくないのかと思ってたのに、急に強引になったじゃん。

 でも、階段を降りた朝陽が向かったのは、職員室じゃなかった。途中でそれに気づいた僕は、右手首を人質に取られたまま、反対の手で朝陽の肩を叩いた。でも、朝陽は短く首を振っただけで、特別室の並ぶ廊下をそのまま歩いていく。

 最初に見つけた空き部屋は、音楽室だった。黒いカバーのかかったグランドピアノの横で、朝陽はようやく僕に向き直った。

「……なんだよ、さっきの」

 唸るような、低い声だった。僕は眉を寄せた。

「さっきのって?」
「颯太と。しぐさ語教えてたじゃん」
「うん。そうだけど……」
「あれ、俺らだけのもんじゃないの。今まで使えるの、俺たちだけだったじゃん」
「別に……誰が使ってもよくない? 意味と動作が対応してれば通じるんだし――」
「それが、嫌だっつってんだろ」
「……は?」

 朝陽の声が、ますます不機嫌になっていく。僕は、本気でわけがわからなかった。

「なんで? 僕がお前以外に使うのが嫌だったってこと?」
「知らない。そうなんじゃね」
「え、ちょっと意味わかんないんだけど。最近、あんまり使わないようにしてたのお前じゃん。なのに、僕が誰に使うかを、お前が決めるわけ?」
「……そうだよ。文句あるか?」
「ふはっ、何それ」

 僕は、思わず笑ってしまった。めちゃくちゃなことをムキになって言う朝陽が、もはや一周回って面白くなっていた。

「何を遠慮してるのか、知らないけどさ」

 〈落ち着け〉の意味を込めて、朝陽の腰に腕を回そうとする。

「そんなに気になるなら、お前だって前みたいに使えばいいじゃん。僕は今まで通り、何も気にしてないから――」

 言葉が途切れたのは、両手で頬をぐいっと挟まれたからだった。

 強い力で引っ張られて、体が前に傾いた。朝陽の顔が、ありえないぐらい近くにあった。唇に、一度だけ覚えのある妙な感触があった。


 写真もないのに、朝陽が僕にキスしていた。