僕は君の運命じゃない

 律が僕の家に泊まることに、特別な理由はない。
 水曜日の昼休みに「今週の土曜、めぐんち泊まっていい?」と聞かれ、僕が「いいよ」と答えた。それだけで決まった、ごく普通の親友同士のお泊まり会だ。
 中学の頃から何度も繰り返しているため、今では僕の家族も慣れたものだ。玄関には律が使うスリッパがあり、洗面所には名前の書かれた歯ブラシまで置かれている。

「律くん、いらっしゃい。今日はカレーでいい?」

 玄関まで出てきた母が、嬉しそうに律に声をかける。

「何でも食べます。大盛りでお願いします」
「はいはい。巡より多くしておくから」
「僕の家なのに、扱いに差がない?」
「巡は自分でよそえるでしょ」

 律は当然のように母についていき、買ってきた菓子を台所に置いた。
 その中には僕が選んだポテトチップスと、律が籠に入れたチョコレート、それから二リットルの炭酸飲料がある。健康に悪そうな物ばかりだけど、お泊まり会の飲食に栄養バランスを求める高校生なんて、たぶんいないだろう。
 僕たちは階段を上がり、二階の僕の部屋に入った。
 律は鞄を壁際に置くと、自分の家みたいにベッドの上に寝転がる。
 長い脚が端からはみ出したけれど、本人は気にせず、枕元に置いてあったゲーム機を手に取った。

「めぐ、この前の続きやろう」
「その前に、ライブの映像を確認するんじゃなかったの?」
「あとでいいよ」
「そう言って、絶対忘れるじゃん」
「じゃあ、めぐが覚えてて」
「そんなことまで僕に任せるなよ」

 結局、先にライブ映像を見ることになった。
 僕は机の上のノートパソコンをベッドに運び、律と並んで画面をのぞき込む。
 再生したのは、鷹取たちと出演したライブを主催者が撮影してくれた映像だ。
 客席の後ろから撮ったものなので、会場で聞いたときより音質は良くない。
 それでも、演奏中には気づかなかった癖やずれを確認するには十分だった。
 創からは、各自で気になった箇所をまとめておくように言われている。
 文化祭のライブで新曲『現在地』を披露し、その反応も踏まえてビデオ予選用の演奏を仕上げる予定だからだ。
 ところが律は、自分の歌を確認するより、僕のギターソロばかり巻き戻していた。

「またそこ? 今ので四回目だよ」
「ここが一番格好いい」
「自分の歌もちゃんと聞けよ」
「自分の声は聞き飽きた。めぐのギターは何回聞いても飽きない」
「そういうことを本人の隣で言わないでくれる?」
「なんで? 褒めてるのに」

 律は僕が困る理由を本気で理解していないらしい。まあ、理解されても困るけど。
 五回目のギターソロが終わったところで、律が映像を止めた。

「鷹取は、まためぐを誘うと思う?」
「どうかな? この前ちゃんと断ったし、しばらくは誘わないんじゃない?」
「しばらくってことは、そのうちまた誘うんじゃないか」
「僕に聞かれてもわかんないよ。律はどうしてそんなに気にしてるの?」
「嫌だから」

 律の指が、停止した画面の中にいる僕のギターをなぞる。

「めぐが、あいつの隣でギターを弾くのは嫌だ」
「鷹取のバンドに入るつもりはないって言ったじゃん」
「サポートでも嫌だ」
「ずいぶん我儘だね」
「わかってる。でも、めぐには俺の隣にいてほしい」

 昨日までなら、それもバンドのボーカルとしての発言だと思えた。
 でも、律は演奏している僕ではなく、すぐ隣にいる僕の顔を見ている。
 画面を指していた手も、いつの間にか僕の手首をつかんでいた。
 胸の奥に、小さな期待が入り込む。
 入れてはいけないと何度も追い出したはずなのに、律が自分から扉を開けてしまうんだから防ぎようがない。

「コンクールだけじゃなくて、その先も?」
「その先も」
「高校を卒業しても?」
「卒業しても。俺が歌うなら、めぐに弾いてほしい」

 律は大事なギタリストを手放したくないだけだ。そこに恋愛感情は微塵もない。
 わかっているのに、永遠に近い言葉をもらった僕の心臓は、都合のいい意味ばかり拾おうとする。

「なら、僕がほかのバンドに目移りしないように、ちゃんと格好よく歌えよな」
「任せろ。鷹取より格好よく歌う」
「そこは相手にしなくていいって」
「嫌だ。あいつには負けたくない」

 律がようやく僕の手首を放し、映像を最初から再生する。
 さっきまで気にしていなかったくせに、今度は自分の歌い方にまで細かく文句をつけ始めた。
 鷹取の名前を出すだけでこんなに競争心を見せるなんて、よほど勧誘されたのが気に入らなかったらしい。
 僕としては、少しくらいならまた誘ってもらってもいい。
 断るつもりは変わらなくても、そのたびに律が僕を引き留めてくれるなら、鷹取には申し訳ないけれど、悪い話ではないと思ってしまう。


 夕食後はゲームで対戦し、交代で風呂に入り、買ってきたお菓子を食べながら文化祭で演奏する曲順を考えた。
 日付が変わる頃、僕は床に散らばった袋やペットボトルを片づける。律は紺色のスウェットに着替え、歯を磨いて戻ってきた。
 その服も、律が泊まるときのためにうちに置いてある物だ。

「そろそろ寝る?」
「うん。明日は昼まで寝たい」
「せめて朝ご飯には起きてよ。母さんが律の分まで用意するから」
「めぐが起こして」
「起こしても律、全然起きないじゃん」
「今日は近くにいるから起きる」

 近くどころか、僕たちは同じベッドで眠る。
 来客用の布団はあるけど、僕の部屋に敷くには机やギターを動かさなければならない。面倒だからという理由で、いつの間にか床に布団を敷くことはなくなった。
 昔は何も考えずに隣で眠れたのに、僕が自分の気持ちを自覚してからは、横になるだけで無駄に緊張する。
 律にとっては今でも、親友と一つのベッドを分けるだけなんだろう。
 片側の布団を持ち上げると、迷いもなく僕の隣に入ってきた。

「律、もっとそっちに寄れよ。狭い」
「めぐのほうが場所取ってる」
「僕のベッドなんだからいいじゃん」
「半分は俺の場所なんだから空けろよ」
「いつから半分は律のものになったの?」
「最初に泊まった日から」

 持ち主の許可もなく、僕のベッドは何年も前から律との共有物になっていたらしい。
 照明を消すと、常夜灯のオレンジがかった薄明かりだけが室内をぼんやりと照らす。
 律の髪から、僕が普段使っているのと同じシャンプーの匂いがする。
 すぐ隣から律の呼吸が聞こえる。それだけで眠れる気がしなかった。

「めぐ」
「何?」
「文化祭でも、ライブと同じソロを弾く?」
「少し変えるつもりだよ。体育館だと音の響き方も違うだろうし」
「今日のも好きだけど」
「もっと格好よくするよ。鷹取が悔しがるくらいに」
「あいつはどうせ文化祭に来ないだろ」
「律が対抗したがってるから言ったんじゃん」

 暗闇の中で、律がこっちを向いた気配がした。
 顔までは見えない。それでも、伸びてきた指が僕の髪に触れ、寝癖を直すみたいに毛先を軽く梳いていく。

「鷹取に見せたいんじゃなくて、俺に聞かせて」
「律には練習で何度も聞かせるじゃんか」
「本番のめぐは違うから。客がいると、いつもより格好いい」
「それ、普段は格好よくないって意味?」
「普段も格好いい。でも、本番はもっと格好いい。誰にも渡したくなくなるぐらい」

 これ以上話していたら、眠れないどころか朝まで勝手な期待を育ててしまいそうだった。
 僕は律に背を向け、布団を顎まで引き上げる。

「もう寝よう。律の言葉をいちいち真面目に聞いてたら、僕の心臓がもたない」
「またそれ言ってる。めぐって心臓、悪いの?」
「原因はだいたい律だから、気にしなくていいよ」
「俺が原因なら気にする」
「だったら、今日は大人しく寝ろよ」

 返事がない。
 もう眠ったのだろうか。
 しばらくすると、背後から規則正しい呼吸が聞こえてきた。
 人の心臓を散々働かせておいて、自分だけ先に眠るなんて不公平だ。
 僕も目を閉じ、明日の朝まで何も考えないようにした。


 どれくらい経った頃だろう。
 腕に触れた腕の重さで、浅い眠りから引き戻された。
 律が寝返りを打ち、後ろから僕の体を抱き込んでいる。腰に回った腕に引き寄せられ、背中が彼の胸に触れた。
 昔から寝相はよくなかったけど、ここまで密着されたことはなかった。
 離れようと少し体を動かすと、腕の力が強くなる。耳の近くに律の顔があり、柔らかな髪が首筋にかかった。
 心臓の音まで聞かれてしまいそうだった。
 眠っている相手に意識するほうがおかしい。律は寝ぼけているんだ。
 そう言い聞かせても、体温は言葉よりずっと簡単に僕を期待させる。
 僕は彼の腕を外せなかった。
 そのままでいい。
 朝までのあいだだけなら、律の腕の中にいても許されるんじゃないか。
 そんな都合のいいことを考えたとき、耳元で低い声がした。

「……美紀」

 聞き間違えるはずのない名前だった。
 律の腕は僕を抱きしめている。
 けれど、夢の中で抱きしめているのは僕じゃない。
 背中に伝わる体温も、腰に回された腕も、さっきまで嬉しかった重さのすべてが、急に僕のものではなくなった。
 律は夢の中で、ずっと探していた人に会えたのだろうか。
 今ここにいる僕の体を通して、前世の恋人を抱きしめているのだろうか。
 腕を外してベッドから降りればよかった。
 それなのに僕は動けなかった。たとえ誰かと間違えられていても、好きな人の腕を自分から振りほどけるほど、僕は潔くない。
 目を閉じたまま、朝が来るのを待った。


 カーテン越しの光で部屋が白くなり始めた頃、律が身じろぎした。
 腰に回っていた腕がようやく緩む。僕が振り返ると、律は眠そうな顔で僕を見ていた。

「めぐ、もう起きてたの?」
「だいぶ前からね」
「眠れなかった?」
「途中までは寝てたよ。誰かさんに抱き枕にされるまでは」
「……俺、めぐを抱き枕にしてた?」
「現在進行形でね」

 律は自分の腕を見て、ようやく僕を抱えたままだと気づいたらしい。
 それでも慌てて離れることはなく、確かめるようにもう一度だけ僕を引き寄せた。

「めぐ、温かい」
「感想はいいから放して」
「もう少し」
「僕は枕じゃないんだけど」
「いいじゃん。温かいんだから」

 何がいいじゃんなんだろう。ちっともよくない。
 起きてる状態でこんなことされたら、勘違いしてしまう。深い意味なんてないに決まってるのに。
 昨夜だって、律が寝言で美紀さんの名前を呼ばなかったら、僕は自分に都合の良いように勘違いしてた。

「律、夢を見た?」
「見た気はするけど……うーん、覚えてないわ。俺、何か寝言言ってた?」

 僕は答える前に、律の腕から抜け出した。
 本当のことを伝えたくはなかった。
 伝えれば、律は自分が無意識の夢の中でも美紀さんを想っているって、改めて知ることになる。
 そうじゃなくて、無意識に僕のことを抱きしめていたってことにしておきたい。そんなことぐらいで今更意識してもらえるなんて、思っちゃいないけどさ。

「言ってたけど、なんて言ってたかは聞き取れなかったよ」
「そっかぁ……俺、もう少し寝るわ」

 律はもう一度枕に顔を埋めた。
 僕が嘘をついたことにも、昨夜から一睡もできていないことにも気づかず、すぐに目を閉じる。
 昨夜、律は僕に隣にいてほしいと言った。
 眠ってからは、僕を抱きしめて美紀さんの名前を呼んだ。
 どちらも律の本音なんだと思う。僕は律にとって必要な親友で、大事なギタリストで、それでも夢の中で抱きしめたい相手じゃない。
 好きな人の腕の中で失恋できるなんて、親友枠には思っていたより豪華で、ちっとも嬉しくない特典がついているらしい。