同い年の人の上手い演奏を見て、希望が湧く人もいると思う。あれだけ上手いやつがいるなら、自分もそうなれるかもしれないってさ。
だけど、僕の場合は逆だった。
同じ年齢という事実に、逃げ道を全部塞がれた気がしたんだ。
今回僕たちが出演したのは、地元のイベント会社が主催する若手バンドの対バンライブだった。
会場は名古屋の中心街にあるライブハウスで、普段出ている箱よりステージも客席も広い。照明や音響のスタッフも多く、出演者の知り合いだけでなく、目当てのバンドを見るためにチケットを買った客も集まっていた。
そして僕たちの一つ前に出演した四人組が、会場の客をほとんど自分たちのファンに変えてしまった。
ボーカル兼ギターのメンバーがステージの中央に立つと、前方から名前を呼ぶ声がいくつも上がった。
青いメッシュの入った短い黒髪と、右耳の小さなリングピアス。細身の体に黒いギターを下げ、騒ぐ客を見て余裕の笑みを浮かべる。
その笑顔まで計算されているように見えるのは、演奏があまりにも完璧だからかもしれない。
彼が弾くギターには、余計な音が一つもなかった。
歌っている最中もリズムは乱れず、声を聞かせたい部分では演奏を抑え、客を煽るところでは一気に音を厚くする。どこでステージの前に出て、いつマイクに戻るかまで、一曲の中に組み込まれているみたいだった。
曲そのものもよくできている。
初めて聞いてもサビの旋律を覚えられるほどキャッチーなのに、単純すぎるわけじゃない。二番では展開を少し変え、客が慣れた頃に予想を外してから、最後は全員が待っていた音に戻ってくる。
彼がマイクから顔を離すと、客席が代わりに歌った。
ライブが始まる前には別々の方向を向いていた人たちが、今は同じ歌詞を口にして、同じタイミングで腕を上げている。
律の歌は、たった一人に届くように作られている。
律とは違って、あの彼の歌は、最初から大勢に届くように作られているんだ。
どっちが正しいとは言えない。でも、人気という目に見える結果を突きつけられたら、圧倒されないほうが難しいだろ。
「鷹取蒼士。隣の高校の二年生だ。ボーカルとギター、作曲も担当してる」
僕の隣でステージを見ていた創が教えてくれた。
「あれで僕たちと同い年なの?」
「バンドのメンバーは全員高校生だ。別の高校生バンド大会で入賞してるし、SNSにも固定のファンがいる。今度の全国高校生軽音楽コンクールにも出るだろうな」
つばめがステージから目を離さないまま言う。
「絶対に勝ちたいです」
「頼もしいけど、今の演奏を見た直後によく言えるね」
僕なんて、ギターを持つ前から指が重くなっている。
鷹取と同じステージに立つだけならまだしも、コンクールでは同じ基準で点数をつけられる。そんな相手の演奏を、僕らの出番直前に見せられるなんて聞いてないよ。
「めぐ、あいつのギターばっかり見るなよ」
反対側にいた律が、僕の首に腕を回して引き寄せてきた。
「上手いんだから、見るじゃんね」
「めぐのほうがいい」
「僕を励ますために言ってくれてんの?」
「違う。俺は、めぐのギターのほうが好き」
「そういう主観だけでコンクールの審査もしてくれたら助かるんだけどね」
「俺が審査員なら、めぐを一位にする」
「遠野に審査員をさせたら、公平性に重大な問題が生じるな」
創に指摘されても、律は僕の肩から腕を外さなかった。
ステージでは鷹取たちが最後の曲を終え、大きな拍手と歓声を浴びている。その音を聞きながら、律は僕の耳元に口を寄せた。
「次は俺たちの番だ。ステージではあいつの音じゃなくて、俺の声を聞けよ」
「いつも聞いてるよ」
「なら大丈夫」
何が大丈夫なのか、具体的な説明はない。
でも律にそう言われると、本当に弾けるような気がしてしまうから不思議だ。
僕たちはステージ袖に戻り、入れ替えのために機材を運んだ。
鷹取たちと狭い通路ですれ違う。間近で見る鷹取は、あれだけ激しい演奏をしたあとでも呼吸を乱していなかった。
僕のギターケースを見た彼と、一瞬だけ目が合った。
ステージに出ると、さっきまでの熱がまだ会場に残っていた。
前方には鷹取目当てらしい客が大勢いる。出演が終わったから帰る人もいるだろうと思っていたのに、ほとんどがその場に残っていた。
僕らの演奏を聞きたいからではなく、単に出口が混んでいるだけかもしれない。
そんな情けないことを考えていると、律が僕の手を取った。
「指、冷たい」
「出番前に人の手を握らないでくれる?」
「温めてやってんじゃん」
律は僕の指先を両手で包み、何度か擦った。
これからギターを弾くための大事な指だから扱いが丁寧なだけで、特別な意味なんてない。わかっていても、好きな人の手の中に自分の指がある状況で平然としていられるほど、僕は修行を積んでいないんだ。
「もう平気だから」
「本当に?」
「これ以上やられると、別の意味で演奏できなくなるわ」
「別の意味って?」
「知らなくていいし」
僕が手を引くと、律は納得していない顔のままマイクの前に立った。
創がベースを構え、つばめが椅子の高さを確かめる。僕もギターを肩に掛け、アンプから返ってくる音を鳴らした。
最初の曲が始まれば、鷹取の演奏を意識する余裕なんてなくなった。
創のベースが作った流れに、つばめのドラムが力を加える。僕がその上にギターを重ねると、律の低く掠れた声が客席まで伸びていく。
一曲目を終えたときの拍手は、さっきより小さかった。
それでも、前方で僕たちを初めて見るらしい人が手を叩いてくれている。
二曲目は、美紀さんに向けた歌だった。
五つ葉のクローバーも、煙草の銘柄も、ニンニクを入れすぎたペペロンチーノも、律と彼女しか本当の意味を知らない。
律はいつものように客席を見渡しながら歌った。
僕もいつものように、彼の声が少しでも遠くまで届くようにギターを弾いた。
ステージの後ろに近い場所で、鷹取が腕を組んで見ていることに気づいたのは、曲が半分を過ぎた頃だった。
自分より上手いギタリストに演奏を観察されていると思うと、ピックを持つ指に力が入りそうになる。
そのとき律が僕を見た。
客席の誰かを探していた目が、今だけはまっすぐ僕に向けられてる。
「あいつの音じゃなくて、俺の声を聞け」
出番前の言葉を思い出し、僕は鷹取の存在を頭から追い出した。
律の声だけを聞く。
言葉の終わりが掠れる場所も、高い音に入る前にわずかに溜める癖も、僕は知っている。律が声を強く出すところではギターを引き、息を継ぐ隙間に短い音を入れる。
そうしているうちに、僕の指はいつもの動きを取り戻していた。
最後に演奏するのは、完成したばかりの新曲『現在地』だ。
人前で披露するのは今日が初めてだった。
創のベースから始まり、つばめの細かなリズムが加わる。僕のギターが二人と同じ旋律をたどり、途中から別の道に分かれたところで、律が歌い始めた。
「君の声が 僕の現在地を教えてくれる」
その「君」が、今は僕を指している。
律本人からそう聞いたはずなのに、ステージの上で歌われると、改めてとんでもないことを言われている気がした。
僕の音が、律のいる場所を教えている。
たとえ恋愛とは何の関係もなくても、それだけで指先に力が戻ってくる。
曲の後半、つばめのドラムが一気に広がり、創のベースが僕をギターソロに送り出した。
僕はステージの前に出る。
客席を見るつもりだったのに、律が僕の隣まで来た。腕が触れそうな距離で、歌わずに僕のギターを聞いている。
前なら近すぎる顔に動揺して、簡単に音を外していただろう。
でも今日は、律が聞きたいなら一音も間違えたくなかった。
創のベースと掛け合い、同じ旋律を違う高さで重ねる。つばめの音が最も大きくなったところで、僕は最後のフレーズを弾き切った。
客席から歓声が上がる。
さっきまで鷹取の名前を呼んでいた誰かが、今度は「ギター、格好いい」と叫んでくれた。
律はそれを聞いて、自分が褒められたみたいに笑った。
最後の音が消えると、会場から拍手が返ってきた。
鷹取たちのときほど大きくはない。それでも、自分たちの知り合いだけで埋められる音ではなかった。
僕たちはさっきの演奏に負けなかったわけじゃない。
でも、比較される前に切り捨てられるような演奏でもなかったと思う。
ステージを下りたあと、僕は機材を片づけながら何度も自分のギターソロを思い返していた。
細かな失敗はいくつもある。それでも今までのライブで一番よく弾けたという手応えがあった。
シールドをまとめてケースに入れていると、視界に黒いブーツが止まった。
顔を上げると、目の前に鷹取が立っていた。
ステージ衣装の黒いシャツのままだ。
「おまえ、名前なんて言うの?」
「……は? 何、いきなり」
「俺は鷹取蒼士」
「知ってるよ。さっき演奏を見たし」
「なら、話が早いわ」
鷹取は僕の足元に置かれたギターケースを見た。
「三曲目のギター、よかったわ。二回目のサビに入る前、ベースと同じフレーズを弾きながら、最後だけ音を残したじゃんね」
「うん。律の声が入る場所を空けたかったから」
「二曲目でも同じことをしてた。ボーカルが高い音を出す前に伴奏を抑えて、声が掠れたらすぐ音を足してる」
そこまで細かく聞かれていたとは思わなかった。
自分でも意識している部分と、律に合わせ続けるうちに自然と身についた部分がある。
「歌を聞きながら弾くギタリストは多い。でも、歌い手が次にどう歌うかまで読んで弾けるやつは少ない。それに、ソロで前に出てもバンドの流れを壊さない。かなり使えるギタリストだと思った」
「ありがとう」
鷹取から見れば、僕はまだ褒めるところのあるギタリストだったらしい。
あれだけの演奏をした相手に評価されて、嬉しくないわけがない。顔に出さないようにしたつもりだけど、たぶん口元は緩んでいたと思う。
「ただ、二曲目は歌というより、公開された私信だな」
「私信?」
「わかる人にだけわかればいいって感じで、大勢の観客に届ける気がないだろ。俺なら、あんな作り方はしない」
近くで機材を片づけていた律が、鷹取の言葉を聞いて振り返った。
「悪い?」
「悪いとは言ってない。俺は不特定多数に届く曲を作りたいってだけだ。三曲目はよかった。あれなら、初めて聞いた客も引き込まれる」
「俺たちの新曲だからな」
「特にギターがいい。あの音を、私信の伴奏に使うのはもったいない」
律の表情から、さっきまで演奏が上手くいったことを喜んでいた様子が消えた。
鷹取は気にせず、僕に向き直る。
「今、うちのバンドでギタリストを探してるんだ。ツインギターにしたくてさ。おまえ、うちのバンドで弾かないか?」
「僕が?」
「今のバンドをすぐ抜けろとは言わないけど、うちのほうがおまえのギターを前に出せる」
想像していなかった誘いに、答えがすぐには出てこなかった。
鷹取のバンドで弾いてみたいと思ったわけじゃない。ただ、あれほど完成度の高い演奏をする人から、自分の音が必要だと言われた。その事実を頭の中で受け止めるのに時間がかかったんだ。
僕が口を開くより先に、律が二人の間に入った。
そのまま僕の肩をつかみ、自分の側に引き寄せる。
「行かない。めぐは俺のギタリストだ」
「おまえには聞いてない」
「わかってる。でも、めぐはお前のところには行かない」
「どうしてお前が決めるんだよ?」
「めぐのギターに歌を乗せるのは俺だけだから」
律はいつもより低い声で言い切った。
鷹取の誘いを断っているだけなのに、僕の肩をつかむ指には妙に力が入っている。
好きな人から「俺のギタリスト」と呼ばれて、平常心でいられる人がいたら紹介してほしい。今後の参考にするから。
もっとも、僕が何も言わずに律の後ろに隠れていたら、本当に所有物みたいになってしまう。
「誘ってくれたのは嬉しい。でも、ごめん。できないよ」
「サポートとしてでもダメか?」
「うん。今はこのバンドの新曲に集中したい」
「そうか」
鷹取はあっさり引き下がった。
断られる可能性も、最初から計算に入っていたのかもしれない。
だけど、「念のため」と言って連絡先を書いたメモの切れ端を渡してきた。
「なら、コンクールでまた聞かせてくれ。今日の三曲目、まだ完成じゃないだろ」
「わかるの?」
「ドラムが広がったあとの展開を、全員が探りながら演奏してた。完成したら、もっとよくなる」
「そっちも出るんだな」
律が確認すると、鷹取は右耳のリングに触れながら笑った。
「当然だ。一次予選で落ちるなよ。彼のギターをもう一度聞きたいから」
「めぐだけじゃなくて、俺たちの演奏を聞け」
「それは出来を見て決める」
最後まで律を苛立たせる言葉を残し、鷹取は自分のバンドのメンバーのところに戻っていった。
隣では、創が片づけの手を止めたまま僕たちを見ている。
「鷹取から誘われるなんて、ギタリストとして高く評価された証拠だ」
「めぐは行かない」
「本人がすでに断った。遠野が何度も主張する必要はない」
「念のためだ」
「何の念ですか?」
つばめに尋ねられても、律は答えなかった。
僕の肩をつかんだまま、鷹取が去った方向を見ている。
「律、もう行ったよ」
「わかってる」
「だったら、そろそろ離してくれない?」
「嫌だ」
「どうして?」
「めぐが連れていかれそうだから」
「ちゃんと断ったじゃん」
「それでも嫌だった」
律は僕を抱き寄せたまま、今度は僕のギターケースまで自分の足元に引き寄せた。
本体だけじゃなく付属品まで確保しているつもりなのだろうか。
「創やつばめが別のバンドに誘われても、同じことするの?」
「二人がいなくなるのも困る。でも、めぐが他のボーカルの隣で弾くのは、もっと嫌だ」
「何で僕だけ?」
「俺の歌を一番わかってるのが、めぐだから」
その答えに迷いはなかった。
「俺が次にどう歌うか、めぐはわかる。俺も、めぐが次にどんな音を出すかならわかる。そんなギタリスト、ほかにいない」
「だから、鷹取のバンドには行かせたくなかったの?」
「うん。めぐは俺の隣で弾くのが一番いい」
「それ、律の好みじゃんね」
「俺のギタリストなんだから、俺の好みでいいじゃん」
よくないと思う。
バンドは律一人のものじゃないし、僕だって彼の所有物じゃない。
でも、律が必要としているのは、彼の声を聞き、次に出す音を理解できるバンド仲間としての僕だ。
鷹取に取られたくなかったのも、大事なギタリストを失えば自分が困るから。
それ以上の意味なんてない。
わかってる。ちゃんとわかってるんだ。
それでも、好きな人から「俺の」と言われたんだから、今日くらいは、その後ろにある「ギタリスト」の五文字を聞かなかったことにしてもいいと思わない?
だけど、僕の場合は逆だった。
同じ年齢という事実に、逃げ道を全部塞がれた気がしたんだ。
今回僕たちが出演したのは、地元のイベント会社が主催する若手バンドの対バンライブだった。
会場は名古屋の中心街にあるライブハウスで、普段出ている箱よりステージも客席も広い。照明や音響のスタッフも多く、出演者の知り合いだけでなく、目当てのバンドを見るためにチケットを買った客も集まっていた。
そして僕たちの一つ前に出演した四人組が、会場の客をほとんど自分たちのファンに変えてしまった。
ボーカル兼ギターのメンバーがステージの中央に立つと、前方から名前を呼ぶ声がいくつも上がった。
青いメッシュの入った短い黒髪と、右耳の小さなリングピアス。細身の体に黒いギターを下げ、騒ぐ客を見て余裕の笑みを浮かべる。
その笑顔まで計算されているように見えるのは、演奏があまりにも完璧だからかもしれない。
彼が弾くギターには、余計な音が一つもなかった。
歌っている最中もリズムは乱れず、声を聞かせたい部分では演奏を抑え、客を煽るところでは一気に音を厚くする。どこでステージの前に出て、いつマイクに戻るかまで、一曲の中に組み込まれているみたいだった。
曲そのものもよくできている。
初めて聞いてもサビの旋律を覚えられるほどキャッチーなのに、単純すぎるわけじゃない。二番では展開を少し変え、客が慣れた頃に予想を外してから、最後は全員が待っていた音に戻ってくる。
彼がマイクから顔を離すと、客席が代わりに歌った。
ライブが始まる前には別々の方向を向いていた人たちが、今は同じ歌詞を口にして、同じタイミングで腕を上げている。
律の歌は、たった一人に届くように作られている。
律とは違って、あの彼の歌は、最初から大勢に届くように作られているんだ。
どっちが正しいとは言えない。でも、人気という目に見える結果を突きつけられたら、圧倒されないほうが難しいだろ。
「鷹取蒼士。隣の高校の二年生だ。ボーカルとギター、作曲も担当してる」
僕の隣でステージを見ていた創が教えてくれた。
「あれで僕たちと同い年なの?」
「バンドのメンバーは全員高校生だ。別の高校生バンド大会で入賞してるし、SNSにも固定のファンがいる。今度の全国高校生軽音楽コンクールにも出るだろうな」
つばめがステージから目を離さないまま言う。
「絶対に勝ちたいです」
「頼もしいけど、今の演奏を見た直後によく言えるね」
僕なんて、ギターを持つ前から指が重くなっている。
鷹取と同じステージに立つだけならまだしも、コンクールでは同じ基準で点数をつけられる。そんな相手の演奏を、僕らの出番直前に見せられるなんて聞いてないよ。
「めぐ、あいつのギターばっかり見るなよ」
反対側にいた律が、僕の首に腕を回して引き寄せてきた。
「上手いんだから、見るじゃんね」
「めぐのほうがいい」
「僕を励ますために言ってくれてんの?」
「違う。俺は、めぐのギターのほうが好き」
「そういう主観だけでコンクールの審査もしてくれたら助かるんだけどね」
「俺が審査員なら、めぐを一位にする」
「遠野に審査員をさせたら、公平性に重大な問題が生じるな」
創に指摘されても、律は僕の肩から腕を外さなかった。
ステージでは鷹取たちが最後の曲を終え、大きな拍手と歓声を浴びている。その音を聞きながら、律は僕の耳元に口を寄せた。
「次は俺たちの番だ。ステージではあいつの音じゃなくて、俺の声を聞けよ」
「いつも聞いてるよ」
「なら大丈夫」
何が大丈夫なのか、具体的な説明はない。
でも律にそう言われると、本当に弾けるような気がしてしまうから不思議だ。
僕たちはステージ袖に戻り、入れ替えのために機材を運んだ。
鷹取たちと狭い通路ですれ違う。間近で見る鷹取は、あれだけ激しい演奏をしたあとでも呼吸を乱していなかった。
僕のギターケースを見た彼と、一瞬だけ目が合った。
ステージに出ると、さっきまでの熱がまだ会場に残っていた。
前方には鷹取目当てらしい客が大勢いる。出演が終わったから帰る人もいるだろうと思っていたのに、ほとんどがその場に残っていた。
僕らの演奏を聞きたいからではなく、単に出口が混んでいるだけかもしれない。
そんな情けないことを考えていると、律が僕の手を取った。
「指、冷たい」
「出番前に人の手を握らないでくれる?」
「温めてやってんじゃん」
律は僕の指先を両手で包み、何度か擦った。
これからギターを弾くための大事な指だから扱いが丁寧なだけで、特別な意味なんてない。わかっていても、好きな人の手の中に自分の指がある状況で平然としていられるほど、僕は修行を積んでいないんだ。
「もう平気だから」
「本当に?」
「これ以上やられると、別の意味で演奏できなくなるわ」
「別の意味って?」
「知らなくていいし」
僕が手を引くと、律は納得していない顔のままマイクの前に立った。
創がベースを構え、つばめが椅子の高さを確かめる。僕もギターを肩に掛け、アンプから返ってくる音を鳴らした。
最初の曲が始まれば、鷹取の演奏を意識する余裕なんてなくなった。
創のベースが作った流れに、つばめのドラムが力を加える。僕がその上にギターを重ねると、律の低く掠れた声が客席まで伸びていく。
一曲目を終えたときの拍手は、さっきより小さかった。
それでも、前方で僕たちを初めて見るらしい人が手を叩いてくれている。
二曲目は、美紀さんに向けた歌だった。
五つ葉のクローバーも、煙草の銘柄も、ニンニクを入れすぎたペペロンチーノも、律と彼女しか本当の意味を知らない。
律はいつものように客席を見渡しながら歌った。
僕もいつものように、彼の声が少しでも遠くまで届くようにギターを弾いた。
ステージの後ろに近い場所で、鷹取が腕を組んで見ていることに気づいたのは、曲が半分を過ぎた頃だった。
自分より上手いギタリストに演奏を観察されていると思うと、ピックを持つ指に力が入りそうになる。
そのとき律が僕を見た。
客席の誰かを探していた目が、今だけはまっすぐ僕に向けられてる。
「あいつの音じゃなくて、俺の声を聞け」
出番前の言葉を思い出し、僕は鷹取の存在を頭から追い出した。
律の声だけを聞く。
言葉の終わりが掠れる場所も、高い音に入る前にわずかに溜める癖も、僕は知っている。律が声を強く出すところではギターを引き、息を継ぐ隙間に短い音を入れる。
そうしているうちに、僕の指はいつもの動きを取り戻していた。
最後に演奏するのは、完成したばかりの新曲『現在地』だ。
人前で披露するのは今日が初めてだった。
創のベースから始まり、つばめの細かなリズムが加わる。僕のギターが二人と同じ旋律をたどり、途中から別の道に分かれたところで、律が歌い始めた。
「君の声が 僕の現在地を教えてくれる」
その「君」が、今は僕を指している。
律本人からそう聞いたはずなのに、ステージの上で歌われると、改めてとんでもないことを言われている気がした。
僕の音が、律のいる場所を教えている。
たとえ恋愛とは何の関係もなくても、それだけで指先に力が戻ってくる。
曲の後半、つばめのドラムが一気に広がり、創のベースが僕をギターソロに送り出した。
僕はステージの前に出る。
客席を見るつもりだったのに、律が僕の隣まで来た。腕が触れそうな距離で、歌わずに僕のギターを聞いている。
前なら近すぎる顔に動揺して、簡単に音を外していただろう。
でも今日は、律が聞きたいなら一音も間違えたくなかった。
創のベースと掛け合い、同じ旋律を違う高さで重ねる。つばめの音が最も大きくなったところで、僕は最後のフレーズを弾き切った。
客席から歓声が上がる。
さっきまで鷹取の名前を呼んでいた誰かが、今度は「ギター、格好いい」と叫んでくれた。
律はそれを聞いて、自分が褒められたみたいに笑った。
最後の音が消えると、会場から拍手が返ってきた。
鷹取たちのときほど大きくはない。それでも、自分たちの知り合いだけで埋められる音ではなかった。
僕たちはさっきの演奏に負けなかったわけじゃない。
でも、比較される前に切り捨てられるような演奏でもなかったと思う。
ステージを下りたあと、僕は機材を片づけながら何度も自分のギターソロを思い返していた。
細かな失敗はいくつもある。それでも今までのライブで一番よく弾けたという手応えがあった。
シールドをまとめてケースに入れていると、視界に黒いブーツが止まった。
顔を上げると、目の前に鷹取が立っていた。
ステージ衣装の黒いシャツのままだ。
「おまえ、名前なんて言うの?」
「……は? 何、いきなり」
「俺は鷹取蒼士」
「知ってるよ。さっき演奏を見たし」
「なら、話が早いわ」
鷹取は僕の足元に置かれたギターケースを見た。
「三曲目のギター、よかったわ。二回目のサビに入る前、ベースと同じフレーズを弾きながら、最後だけ音を残したじゃんね」
「うん。律の声が入る場所を空けたかったから」
「二曲目でも同じことをしてた。ボーカルが高い音を出す前に伴奏を抑えて、声が掠れたらすぐ音を足してる」
そこまで細かく聞かれていたとは思わなかった。
自分でも意識している部分と、律に合わせ続けるうちに自然と身についた部分がある。
「歌を聞きながら弾くギタリストは多い。でも、歌い手が次にどう歌うかまで読んで弾けるやつは少ない。それに、ソロで前に出てもバンドの流れを壊さない。かなり使えるギタリストだと思った」
「ありがとう」
鷹取から見れば、僕はまだ褒めるところのあるギタリストだったらしい。
あれだけの演奏をした相手に評価されて、嬉しくないわけがない。顔に出さないようにしたつもりだけど、たぶん口元は緩んでいたと思う。
「ただ、二曲目は歌というより、公開された私信だな」
「私信?」
「わかる人にだけわかればいいって感じで、大勢の観客に届ける気がないだろ。俺なら、あんな作り方はしない」
近くで機材を片づけていた律が、鷹取の言葉を聞いて振り返った。
「悪い?」
「悪いとは言ってない。俺は不特定多数に届く曲を作りたいってだけだ。三曲目はよかった。あれなら、初めて聞いた客も引き込まれる」
「俺たちの新曲だからな」
「特にギターがいい。あの音を、私信の伴奏に使うのはもったいない」
律の表情から、さっきまで演奏が上手くいったことを喜んでいた様子が消えた。
鷹取は気にせず、僕に向き直る。
「今、うちのバンドでギタリストを探してるんだ。ツインギターにしたくてさ。おまえ、うちのバンドで弾かないか?」
「僕が?」
「今のバンドをすぐ抜けろとは言わないけど、うちのほうがおまえのギターを前に出せる」
想像していなかった誘いに、答えがすぐには出てこなかった。
鷹取のバンドで弾いてみたいと思ったわけじゃない。ただ、あれほど完成度の高い演奏をする人から、自分の音が必要だと言われた。その事実を頭の中で受け止めるのに時間がかかったんだ。
僕が口を開くより先に、律が二人の間に入った。
そのまま僕の肩をつかみ、自分の側に引き寄せる。
「行かない。めぐは俺のギタリストだ」
「おまえには聞いてない」
「わかってる。でも、めぐはお前のところには行かない」
「どうしてお前が決めるんだよ?」
「めぐのギターに歌を乗せるのは俺だけだから」
律はいつもより低い声で言い切った。
鷹取の誘いを断っているだけなのに、僕の肩をつかむ指には妙に力が入っている。
好きな人から「俺のギタリスト」と呼ばれて、平常心でいられる人がいたら紹介してほしい。今後の参考にするから。
もっとも、僕が何も言わずに律の後ろに隠れていたら、本当に所有物みたいになってしまう。
「誘ってくれたのは嬉しい。でも、ごめん。できないよ」
「サポートとしてでもダメか?」
「うん。今はこのバンドの新曲に集中したい」
「そうか」
鷹取はあっさり引き下がった。
断られる可能性も、最初から計算に入っていたのかもしれない。
だけど、「念のため」と言って連絡先を書いたメモの切れ端を渡してきた。
「なら、コンクールでまた聞かせてくれ。今日の三曲目、まだ完成じゃないだろ」
「わかるの?」
「ドラムが広がったあとの展開を、全員が探りながら演奏してた。完成したら、もっとよくなる」
「そっちも出るんだな」
律が確認すると、鷹取は右耳のリングに触れながら笑った。
「当然だ。一次予選で落ちるなよ。彼のギターをもう一度聞きたいから」
「めぐだけじゃなくて、俺たちの演奏を聞け」
「それは出来を見て決める」
最後まで律を苛立たせる言葉を残し、鷹取は自分のバンドのメンバーのところに戻っていった。
隣では、創が片づけの手を止めたまま僕たちを見ている。
「鷹取から誘われるなんて、ギタリストとして高く評価された証拠だ」
「めぐは行かない」
「本人がすでに断った。遠野が何度も主張する必要はない」
「念のためだ」
「何の念ですか?」
つばめに尋ねられても、律は答えなかった。
僕の肩をつかんだまま、鷹取が去った方向を見ている。
「律、もう行ったよ」
「わかってる」
「だったら、そろそろ離してくれない?」
「嫌だ」
「どうして?」
「めぐが連れていかれそうだから」
「ちゃんと断ったじゃん」
「それでも嫌だった」
律は僕を抱き寄せたまま、今度は僕のギターケースまで自分の足元に引き寄せた。
本体だけじゃなく付属品まで確保しているつもりなのだろうか。
「創やつばめが別のバンドに誘われても、同じことするの?」
「二人がいなくなるのも困る。でも、めぐが他のボーカルの隣で弾くのは、もっと嫌だ」
「何で僕だけ?」
「俺の歌を一番わかってるのが、めぐだから」
その答えに迷いはなかった。
「俺が次にどう歌うか、めぐはわかる。俺も、めぐが次にどんな音を出すかならわかる。そんなギタリスト、ほかにいない」
「だから、鷹取のバンドには行かせたくなかったの?」
「うん。めぐは俺の隣で弾くのが一番いい」
「それ、律の好みじゃんね」
「俺のギタリストなんだから、俺の好みでいいじゃん」
よくないと思う。
バンドは律一人のものじゃないし、僕だって彼の所有物じゃない。
でも、律が必要としているのは、彼の声を聞き、次に出す音を理解できるバンド仲間としての僕だ。
鷹取に取られたくなかったのも、大事なギタリストを失えば自分が困るから。
それ以上の意味なんてない。
わかってる。ちゃんとわかってるんだ。
それでも、好きな人から「俺の」と言われたんだから、今日くらいは、その後ろにある「ギタリスト」の五文字を聞かなかったことにしてもいいと思わない?

