僕たちのための新曲を作ると決めてから一週間、演奏の骨組みは順調に整っていた。
創が考えたベースのフレーズを中心に、つばめのドラムと僕のギターを重ね、律がそこにメロディーをつける。放課後の防音室で何度も演奏するうちに、最初は一分にも満たなかった音が、どうにか一曲分の長さまで形になった。
残る大きな課題は、歌詞だった。
日曜日の午後、僕は律の部屋で、完成したばかりのデモ音源を聞いていた。
机の上には創がまとめたコード進行と、律が歌詞を書くためのノートが広げられている。音源はすでに五周目に入っているのに、白いページには題名さえ書かれていなかった。
律の部屋には、彼が何を好んでいるのかをうかがわせる物がほとんどない。
僕の部屋なら、壁には好きなバンドのポスターがあり、本棚には漫画が並び、ギター用品やゲーム機が決まった場所を奪い合っている。ところが律の棚にあるのは、三十年以上前のロックバンドのCDや音楽雑誌、古い東京の地図ばかりで、どれも美紀さんを探すために集めた物だった。
歌詞のノートも同じだった。どのページにも前世の思い出や、美紀さんにしか理解できない言葉が書かれている。
律は前世の記憶を思い出してから、ずっとそのことばかりを考えてきた。
歌うのも自分を見つけてもらうため、バンドで有名になりたいのも彼女に声を届けるため、アルバイトをするのもライブ代や東京までの交通費を稼ぐためだ。
音楽が趣味に見えても、律にとっては目的地へ進むための手段なのだと思う。
だから、誰か一人に向けた歌ではなく、今の僕らを表す歌詞を書こうとした途端、何も浮かばなくなったらしい。
律は床に座ってベッドに背中を預け、シャープペンシルの先で白いページを何度も叩いていた。
「めぐ、俺っていつも美紀を探す以外に何してる?」
「いきなり自分の人生を他人に確認しないでよ」
「だってさぁ、俺よりめぐのほうが俺のこと知ってそうなんだもん」
「それは律が自分に興味なさすぎるんだって」
僕も隣に座り、ノートをのぞき込んだ。肩が触れた瞬間、ちょっとドキッとするけど、今は作詞のほうが大事だと自分に言い聞かせる。
「歌詞にしたいこと、本当に何もないの? 好きなものとか、楽しいこととか」
「好きなもの……」
律はしばらく考えてから、困ったように僕を見た。
「めぐのギターは好き」
「そういうの、本人の前でさらっと言わないでくれる?」
「なんでだよ? 本当のことだけど」
「僕の心臓には処理できる量が決まってるんだよ」
律には意味がわからなかったらしく、首を傾げた。
僕のギターが好きというだけで、その演奏者まで好きだと言われたわけじゃない。そんなことはわかっているのに、律の口から出た「好き」っていう言葉が、胸の中でこだましている。
「ほかには? 食べ物でも、休みの日にしたいことでもいいから」
「食べられれば、だいたいなんでもいい」
「趣味は?」
「特にない。休みなら美紀を探しに行きたい」
「将来の夢は?」
「有名になって、美紀に見つけてもらうこと」
「質問が全部、美紀さんのところに戻ってくるじゃん」
まるで、どの道を選んでも同じ目的地にたどり着く地図だ。
その地図から美紀さんを消したら、律はどこへ向かえばいいのかわからなくなるんじゃないだろうか。
そう考えると、彼女が見つかるのが怖いはずの僕まで、その存在を簡単には否定できなかった。
「じゃあ、前世の記憶を思い出す前に好きだったものは?」
「どこにでもいる普通の子供だったんじゃね? 友達と遊ぶのが好きで、勉強するのは嫌いでさ。これといった趣味はなかったなぁ。何か面白いことないかなーって毎日考えてたような気がするわ」
そんな、とりわけ何の趣味も目標もなく、物足りなさを感じていた時期に、律のお母さんが突然亡くなった。
そのショックで、律の中に前世の記憶が蘇ったのだという。
三十年前、若くして交通事故死した律と美紀さん。
そのことを思い出して以来、律の頭の中は美紀さんでいっぱいになった。
「それでも、律は美紀さんのことだけでできてるわけじゃないよ」
「そうなのか?」
「そうだよ。律には律のいいところがちゃんとある」
僕の思い出の中には、今でもはっきり残っている律の姿がある。
四年前、僕が初めて出会った遠野律だ。
---------
律と僕が初めて同じクラスになったのは、中学一年の春だった。
入学して一週間も経たないうちに、僕はクラスで不良として恐れられていた二人組に目をつけられた。
きっかけは、昼休みの購買だった。
二人が長い列の先頭に割り込もうとしたので、僕が最後尾は後ろだと教えた。
それだけだったのに、向こうにとっては大勢の前で恥をかかされたことになったらしい。
その日の放課後、階段の踊り場で待ち伏せされ、胸ぐらをつかまれた。
「おい、テメェ、昼休みはよくも恥かかせてくれたな」
「僕は並ぶ場所を教えただけだけど」
「その言い方がムカつくんだよ。先輩でもねぇくせに、いい子ぶってんじゃねえぞ」
もう一人が僕の鞄を奪い、床に落とした。閉め方が甘かったファスナーが開き、中から筆箱や教科書が滑り出す。
怖くなかったと言えば嘘になる。それでも、ここで謝ったら、自分が間違っていることにされてしまう気がして、嫌だった。
だから僕は、謝らなかった。
「割り込んだほうが悪いだろ。僕に怒るのはおかしいよ」
「まだ生意気なこと言う気かよ?」
制服の胸元をつかみあげられ、背中が壁に当たった。
二人は同じ一年生でも僕より体が大きくて、まともに喧嘩をしたこともない僕に勝てる相手じゃなかった。
だけど大声で助けを呼ぶのは情けない気がして、できなかった。
誰かが通りかかってくれないかと願いながら、力の入らない指で相手の手首をつかんだときだった。
「おまえら、こんなとこで何してんの?」
上の階から降りてきた律が、階段の途中で足を止めていた。
僕と同じクラスだということは知ってたけど、それまでまともに話したことはなかった。
入学してからずっと、休み時間には窓の外を眺めるか、机に伏せて眠っているようなやつだった。
「お前には関係ねえだろ。さっさと行けよ」
「関係はないけど、見ててムカつく」
「はあ?」
律は苛立つ二人を気にする様子もなく、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「今の会話、途中から録音した。篠宮の鞄を落とした音も入ってる」
「ふざけんな。消せよ」
「嫌だ。これ以上続けるなら、これを先生に聞かせる」
一人が律のスマートフォンを奪おうと手を伸ばしたけど、律が素早く避けたので届かなかった。
「そんなことしたら、ただじゃおかねぇぞ」
「好きにすれば? 暴力振るうなら警察に言うよ」
「お前、頭おかしいんじゃねえの」
「よく言われる」
律が平然と認めてしまったせいで、それ以上脅す言葉が思いつかなかったらしい。
二人は悔し紛れに僕の鞄を蹴ってから、その場を離れていった。
姿が見えなくなると、律は床に散らばった教科書を拾い、鞄に戻してくれる。
「助かったよ。ありがとう」
僕が礼を言うと、律は筆箱についた埃を手で払いながら答えた。
「別にいいよ。俺があいつらにムカついただけだから」
僕に恩を売るつもりも、正義の味方になったつもりもないらしい。
律は拾った鞄を僕に渡すと、そのまま階段を下りていった。
翌日の昼休み、僕は一人でパンを食べていた律の前に座った。
別に恩返しがしたかったわけじゃない。
あんなふうに人を助けておきながら、自分には関係ないという顔をしている彼のことを、もっと知りたくなったんだ。
それから僕たちは毎日一緒に昼食をとるようになり、気づけば親友になっていた。
---------
「覚えてる?」
僕が尋ねると、律は何度か考えてから、ようやく思い出したらしい。
「購買に割り込んだやつらか。あいつら、二年になってから学校に来なくなったよな」
「そこまで覚えてるのに、僕を助けたことは忘れてたの?」
「助けたっていうか、本当にムカついただけだから」
律は自分の行動を親切だと思っていない。
困っている人がいれば放っておけず、卑怯なことを見れば腹を立てる。誰かを助けても見返りを求めないから、本人の記憶には大した出来事として残らないのだ。
あの時だけじゃない。重いアンプを運んでいる一年生がいれば何も言わずに手を貸すし、バイト先で新人が失敗すれば、自分にも責任があったと言って店長のお説教を一緒に受ける。
そんなところまで美紀さんからの影響だとは、僕には思えなかった。
「律は、自分が許せないことを書けばいいんじゃないかな」
「好きなものじゃなくて?」
「何が好きかだけで人となりが決まるわけじゃないじゃん。何を見過ごせないかとか、誰のためなら動けるかとか、そういうのも今の律を作ってると思う」
「俺がムカついたことを並べたら、ただの文句ばかりの歌にならないか?」
「そこは作詞担当の腕で、格好よくしてよ」
律は納得したのか、ノートにいくつか言葉を書き始めた。
前世で誰だったかじゃなく、今ここで何を選ぶのか。
どこから来たかじゃなく、現在は誰の隣にいるのか。
書かれた言葉を読みながら、律はシャープペンシルの先を止める。
「現在地、ってどう思う?」
「曲のタイトル?」
「うん。俺たちが今いる場所から始める曲だからさ」
「いいと思う。前世じゃなく、今の僕たちの曲だってわかるし」
律はページの一番上に『現在地』と書き、その下に最初の一行を加えた。
『君の声が 僕の現在地を教えてくれる』
その「君」は誰なのか、僕はしばらく考えた。
美紀さんのための歌にはしないって決めたばかりなのに、律が使うと、たった一文字でも彼女のことに見えてしまう。
「ねえ、この『君』は誰?」
聞かずに悩み続けるよりはましだと思い、僕はノートを指さした。
律は何を尋ねられたのかわからないような顔で、僕を見る。
「今は、めぐ」
「僕?」
「めぐが昔の俺のことを話してくれたから、浮かんだ。俺は自分が今どこにいるのか、めぐに教えてもらわないとわからないみたいだな」
律はそれだけ言うと、続きを考えるためにノートに目を戻した。
本人にとっては、作詞中に浮かんだ言葉の説明をしただけなんだろう。
律が歌詞の中の「君」を、美紀さん以外の誰かにしたのは初めてだ。
前世の律のことを一番知っているのは美紀さんかもしれない。
でも、中学一年の教室で窓の外ばかり見ていた律も、誰かが困っていれば自分から厄介事に首を突っ込む律も、僕のギターを格好よく聞かせたいと言ってくれる今の律も、僕はずっと隣で見てきた。
運命の相手にはなれなくても、君の現在地なら、僕がちゃんと知っている。
創が考えたベースのフレーズを中心に、つばめのドラムと僕のギターを重ね、律がそこにメロディーをつける。放課後の防音室で何度も演奏するうちに、最初は一分にも満たなかった音が、どうにか一曲分の長さまで形になった。
残る大きな課題は、歌詞だった。
日曜日の午後、僕は律の部屋で、完成したばかりのデモ音源を聞いていた。
机の上には創がまとめたコード進行と、律が歌詞を書くためのノートが広げられている。音源はすでに五周目に入っているのに、白いページには題名さえ書かれていなかった。
律の部屋には、彼が何を好んでいるのかをうかがわせる物がほとんどない。
僕の部屋なら、壁には好きなバンドのポスターがあり、本棚には漫画が並び、ギター用品やゲーム機が決まった場所を奪い合っている。ところが律の棚にあるのは、三十年以上前のロックバンドのCDや音楽雑誌、古い東京の地図ばかりで、どれも美紀さんを探すために集めた物だった。
歌詞のノートも同じだった。どのページにも前世の思い出や、美紀さんにしか理解できない言葉が書かれている。
律は前世の記憶を思い出してから、ずっとそのことばかりを考えてきた。
歌うのも自分を見つけてもらうため、バンドで有名になりたいのも彼女に声を届けるため、アルバイトをするのもライブ代や東京までの交通費を稼ぐためだ。
音楽が趣味に見えても、律にとっては目的地へ進むための手段なのだと思う。
だから、誰か一人に向けた歌ではなく、今の僕らを表す歌詞を書こうとした途端、何も浮かばなくなったらしい。
律は床に座ってベッドに背中を預け、シャープペンシルの先で白いページを何度も叩いていた。
「めぐ、俺っていつも美紀を探す以外に何してる?」
「いきなり自分の人生を他人に確認しないでよ」
「だってさぁ、俺よりめぐのほうが俺のこと知ってそうなんだもん」
「それは律が自分に興味なさすぎるんだって」
僕も隣に座り、ノートをのぞき込んだ。肩が触れた瞬間、ちょっとドキッとするけど、今は作詞のほうが大事だと自分に言い聞かせる。
「歌詞にしたいこと、本当に何もないの? 好きなものとか、楽しいこととか」
「好きなもの……」
律はしばらく考えてから、困ったように僕を見た。
「めぐのギターは好き」
「そういうの、本人の前でさらっと言わないでくれる?」
「なんでだよ? 本当のことだけど」
「僕の心臓には処理できる量が決まってるんだよ」
律には意味がわからなかったらしく、首を傾げた。
僕のギターが好きというだけで、その演奏者まで好きだと言われたわけじゃない。そんなことはわかっているのに、律の口から出た「好き」っていう言葉が、胸の中でこだましている。
「ほかには? 食べ物でも、休みの日にしたいことでもいいから」
「食べられれば、だいたいなんでもいい」
「趣味は?」
「特にない。休みなら美紀を探しに行きたい」
「将来の夢は?」
「有名になって、美紀に見つけてもらうこと」
「質問が全部、美紀さんのところに戻ってくるじゃん」
まるで、どの道を選んでも同じ目的地にたどり着く地図だ。
その地図から美紀さんを消したら、律はどこへ向かえばいいのかわからなくなるんじゃないだろうか。
そう考えると、彼女が見つかるのが怖いはずの僕まで、その存在を簡単には否定できなかった。
「じゃあ、前世の記憶を思い出す前に好きだったものは?」
「どこにでもいる普通の子供だったんじゃね? 友達と遊ぶのが好きで、勉強するのは嫌いでさ。これといった趣味はなかったなぁ。何か面白いことないかなーって毎日考えてたような気がするわ」
そんな、とりわけ何の趣味も目標もなく、物足りなさを感じていた時期に、律のお母さんが突然亡くなった。
そのショックで、律の中に前世の記憶が蘇ったのだという。
三十年前、若くして交通事故死した律と美紀さん。
そのことを思い出して以来、律の頭の中は美紀さんでいっぱいになった。
「それでも、律は美紀さんのことだけでできてるわけじゃないよ」
「そうなのか?」
「そうだよ。律には律のいいところがちゃんとある」
僕の思い出の中には、今でもはっきり残っている律の姿がある。
四年前、僕が初めて出会った遠野律だ。
---------
律と僕が初めて同じクラスになったのは、中学一年の春だった。
入学して一週間も経たないうちに、僕はクラスで不良として恐れられていた二人組に目をつけられた。
きっかけは、昼休みの購買だった。
二人が長い列の先頭に割り込もうとしたので、僕が最後尾は後ろだと教えた。
それだけだったのに、向こうにとっては大勢の前で恥をかかされたことになったらしい。
その日の放課後、階段の踊り場で待ち伏せされ、胸ぐらをつかまれた。
「おい、テメェ、昼休みはよくも恥かかせてくれたな」
「僕は並ぶ場所を教えただけだけど」
「その言い方がムカつくんだよ。先輩でもねぇくせに、いい子ぶってんじゃねえぞ」
もう一人が僕の鞄を奪い、床に落とした。閉め方が甘かったファスナーが開き、中から筆箱や教科書が滑り出す。
怖くなかったと言えば嘘になる。それでも、ここで謝ったら、自分が間違っていることにされてしまう気がして、嫌だった。
だから僕は、謝らなかった。
「割り込んだほうが悪いだろ。僕に怒るのはおかしいよ」
「まだ生意気なこと言う気かよ?」
制服の胸元をつかみあげられ、背中が壁に当たった。
二人は同じ一年生でも僕より体が大きくて、まともに喧嘩をしたこともない僕に勝てる相手じゃなかった。
だけど大声で助けを呼ぶのは情けない気がして、できなかった。
誰かが通りかかってくれないかと願いながら、力の入らない指で相手の手首をつかんだときだった。
「おまえら、こんなとこで何してんの?」
上の階から降りてきた律が、階段の途中で足を止めていた。
僕と同じクラスだということは知ってたけど、それまでまともに話したことはなかった。
入学してからずっと、休み時間には窓の外を眺めるか、机に伏せて眠っているようなやつだった。
「お前には関係ねえだろ。さっさと行けよ」
「関係はないけど、見ててムカつく」
「はあ?」
律は苛立つ二人を気にする様子もなく、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「今の会話、途中から録音した。篠宮の鞄を落とした音も入ってる」
「ふざけんな。消せよ」
「嫌だ。これ以上続けるなら、これを先生に聞かせる」
一人が律のスマートフォンを奪おうと手を伸ばしたけど、律が素早く避けたので届かなかった。
「そんなことしたら、ただじゃおかねぇぞ」
「好きにすれば? 暴力振るうなら警察に言うよ」
「お前、頭おかしいんじゃねえの」
「よく言われる」
律が平然と認めてしまったせいで、それ以上脅す言葉が思いつかなかったらしい。
二人は悔し紛れに僕の鞄を蹴ってから、その場を離れていった。
姿が見えなくなると、律は床に散らばった教科書を拾い、鞄に戻してくれる。
「助かったよ。ありがとう」
僕が礼を言うと、律は筆箱についた埃を手で払いながら答えた。
「別にいいよ。俺があいつらにムカついただけだから」
僕に恩を売るつもりも、正義の味方になったつもりもないらしい。
律は拾った鞄を僕に渡すと、そのまま階段を下りていった。
翌日の昼休み、僕は一人でパンを食べていた律の前に座った。
別に恩返しがしたかったわけじゃない。
あんなふうに人を助けておきながら、自分には関係ないという顔をしている彼のことを、もっと知りたくなったんだ。
それから僕たちは毎日一緒に昼食をとるようになり、気づけば親友になっていた。
---------
「覚えてる?」
僕が尋ねると、律は何度か考えてから、ようやく思い出したらしい。
「購買に割り込んだやつらか。あいつら、二年になってから学校に来なくなったよな」
「そこまで覚えてるのに、僕を助けたことは忘れてたの?」
「助けたっていうか、本当にムカついただけだから」
律は自分の行動を親切だと思っていない。
困っている人がいれば放っておけず、卑怯なことを見れば腹を立てる。誰かを助けても見返りを求めないから、本人の記憶には大した出来事として残らないのだ。
あの時だけじゃない。重いアンプを運んでいる一年生がいれば何も言わずに手を貸すし、バイト先で新人が失敗すれば、自分にも責任があったと言って店長のお説教を一緒に受ける。
そんなところまで美紀さんからの影響だとは、僕には思えなかった。
「律は、自分が許せないことを書けばいいんじゃないかな」
「好きなものじゃなくて?」
「何が好きかだけで人となりが決まるわけじゃないじゃん。何を見過ごせないかとか、誰のためなら動けるかとか、そういうのも今の律を作ってると思う」
「俺がムカついたことを並べたら、ただの文句ばかりの歌にならないか?」
「そこは作詞担当の腕で、格好よくしてよ」
律は納得したのか、ノートにいくつか言葉を書き始めた。
前世で誰だったかじゃなく、今ここで何を選ぶのか。
どこから来たかじゃなく、現在は誰の隣にいるのか。
書かれた言葉を読みながら、律はシャープペンシルの先を止める。
「現在地、ってどう思う?」
「曲のタイトル?」
「うん。俺たちが今いる場所から始める曲だからさ」
「いいと思う。前世じゃなく、今の僕たちの曲だってわかるし」
律はページの一番上に『現在地』と書き、その下に最初の一行を加えた。
『君の声が 僕の現在地を教えてくれる』
その「君」は誰なのか、僕はしばらく考えた。
美紀さんのための歌にはしないって決めたばかりなのに、律が使うと、たった一文字でも彼女のことに見えてしまう。
「ねえ、この『君』は誰?」
聞かずに悩み続けるよりはましだと思い、僕はノートを指さした。
律は何を尋ねられたのかわからないような顔で、僕を見る。
「今は、めぐ」
「僕?」
「めぐが昔の俺のことを話してくれたから、浮かんだ。俺は自分が今どこにいるのか、めぐに教えてもらわないとわからないみたいだな」
律はそれだけ言うと、続きを考えるためにノートに目を戻した。
本人にとっては、作詞中に浮かんだ言葉の説明をしただけなんだろう。
律が歌詞の中の「君」を、美紀さん以外の誰かにしたのは初めてだ。
前世の律のことを一番知っているのは美紀さんかもしれない。
でも、中学一年の教室で窓の外ばかり見ていた律も、誰かが困っていれば自分から厄介事に首を突っ込む律も、僕のギターを格好よく聞かせたいと言ってくれる今の律も、僕はずっと隣で見てきた。
運命の相手にはなれなくても、君の現在地なら、僕がちゃんと知っている。

