全国本選から二週間後の土曜日、僕たちリーインカーネーションは、駅から歩いて十分ほどのライブハウスに出演していた。
全国優勝後、初めてのライブだった。
僕たちを目当てに来た客がどれくらいいるのかはわからないけど、フロアは以前ここで演奏したときより明らかに混んでいる。
対バン相手の知り合いだけではなさそうな人たちが、開演前からステージを撮影し、壁に貼られた出演者一覧を見ながらリーインカーネーションの文字を指差していた。
注目されるのはうれしい。でも、見てくれる人数が増えた分だけ、失敗できないという緊張も大きくなる。
僕たちの出番は三番目だった。
創とつばめは控室で機材の最終確認をしている。
律は、さっきまで僕と一緒にフロアにいたけど、ドリンクを取ってくると言ってカウンターに向かった。
僕は後方の壁際に立ち、二番目のバンドの演奏を見ていた。
四人組のロックバンドで、ボーカルの高い声と歪ませたギターが狭いフロアを満たしている。
ギタリストが曲の途中で何度も客席の近くまで出てくるたび、前列に集まった女の子たちが腕を上げた。
演奏を聞きながら、僕は無意識にコード進行を追っていた。
自分なら間奏をもう少し長くするとか、二番では音を抑えたほうが最後の盛り上がりが強くなるとか、そんなことばかり考えてしまう。
「相変わらず、ほかのバンドを見てるときまで難しい顔してるな」
大音量の中でも聞き覚えのある声がして、僕は横を向いた。
鷹取が立っていた。
「鷹取? 今日、出演するんだっけ?」
「今日は客。めぐちゃんのギター、聴きに来た」
鷹取はステージを一度見たあと、僕に向き直った。
「全国優勝、おめでとう。直接言ってなかったから」
「ありがとう」
「決勝の配信も見た。前に対バンしたときより、また上手くなってた」
「そんなに褒められると、なんか落ち着かないな」
ステージでは最後の曲が終わり、ボーカルがメンバーの名前を紹介していた。
ステージが暗転すると、フロアの照明は逆に少し明るくなり、観客が次の転換に備えて動き始める。
鷹取はその流れに逆らうように、僕の正面に立った。
そして、まっすぐに僕を見つめる。
「前に告白したあと、断られちゃったけどさ。俺、やっぱりめぐちゃんのこと、諦められない。俺と付き合うこと、もう一回考え直してもらえないかな?」
以前告白されたときとは違って、もう心は揺れなかった。
「鷹取、僕は――」
「もう俺と付き合ってるから」
僕が答えるより早く、背後から律の声がした。
振り向くと、律は両手に一つずつ透明なカップを持ち、僕たちを見ていた。右手には自分用のコーラ、左手には僕がいつも選ぶレモンスカッシュが入っている。
鷹取が律を見る。
「遠野には聞いてない」
「でも、めぐは俺の恋人だから」
律は譲る気のない声で言い、左手のレモンソスカッシュを僕に差し出した。
「はい。めぐの分」
「ありがとう」
受け取ると、冷えたカップの表面についた水滴が指に触れた。
律は言わなくたって僕の好みを迷わず選び、当然のように隣に戻ってくる。
「ごめん、鷹取。僕、律と付き合ってる」
「本当に?」
「うん。僕は律が好きだから、鷹取とは付き合えない」
鷹取はすぐには何も言わなかった。
僕と律を順番に見たあと、小さく息を吐く。
「そっか。先を越されたか」
「先を越したんじゃない。俺たち、前から両想いだったから」
「律、張り合わなくていいよ」
「本当のことだろ」
律は得意そうに答え、コーラを一口飲んだ。
鷹取は呆れたように眉を寄せたけれど、やがて諦めたように笑った。
「二回も断られたらしょうがないか。でも、ギタリストとしてのめぐちゃんのファンだってことは変わらないからな」
「ありがとう」
「でも、次に同じ大会に出るときは、俺たちが勝つ」
鷹取の目が、恋敵を見るものからライバルを見るものに戻っていた。
「僕たちも負けないよ」
「遠野も、全国優勝したからって油断するなよ」
「しない。今日も俺たちが一番いい演奏をするし」
「それなら、客席で見てる」
鷹取はそれだけ言うと、前方にいる知り合いのところに戻っていった。
姿が人混みに紛れてから、僕は隣の律を見る。
「戻ってくるの、ずいぶんいいタイミングだったね」
「めぐが告白されてるのが見えたから、急いだ」
「僕一人でも断れたよ」
「知ってる。でも、俺がめぐの恋人だって鷹取に言いたかった」
律は少しもうしろめたそうにせず、むしろ満足しているようだった。
「そんなに言いたかったの?」
「うん。やっと言えるようになったから」
胸の奥がくすぐったくなる。
律の恋人になってから、もう何度も好きだと言われた。それでも、人前ではっきり「俺と付き合ってる」と言われると、まだ夢の中にいるような気持ちになる。
「めぐ」
「何?」
「断ってくれてありがとう」
「それは律にお礼を言われることじゃないじゃんか」
「でも、うれしかった」
律が笑う。
好きな人が、自分を選んでもらえたことを喜んでいる。
そんな当たり前のことさえ、少し前の僕には想像できなかった。
返事をしようとしたとき、ステージ脇の扉から創が顔を出した。
「二人とも、何してるんだ。出番、もう次だぞ」
「今行くよ」
僕と律は顔を見合わせ、急いで控室に向かった。
---------
ステージに上がると、正面から浴びる照明の熱と、客席に集まった視線が一度に押し寄せてきた。
全国本選の会場よりずっと小さい。それでも、客との距離が近い分、一人一人の表情までよく見える。
最前列には、文化祭や大会の映像を見て僕たちを知ったらしい女の子たちが集まっていた。
少し離れた場所には鷹取もいる。腕を組み、さっきまで告白していたとは思えない真剣な顔でステージを見ていた。
創がベースの音を確かめ、つばめがスティックを打ち合わせる。
僕がギターを構えると、律がマイクを持ったまま振り返った。
その目が「大丈夫」と言っているように見え、僕は頷き返した。
つばめのカウントで演奏が始まる。
一曲目から、客席の反応は今までとは違っていた。律が最初の歌詞を口にしただけで前列から歓声が上がり、僕がギターソロに入ると、何人もの腕が一斉に持ち上がる。
緊張していたはずなのに、四人の音が重なった瞬間、それ以外のことは考えなくなった。
創のベースが曲の足元を支え、つばめのドラムが一定の速さで僕たちを前に進ませる。
律の声を追いながらギターを弾けば、自分が立つべき場所が自然にわかった。
最後に演奏するのは『現在地』だった。
イントロを弾き始めると、客席の何人かが題名を呼んだ。全国本選の配信で聞いたのか、最初の歌詞から一緒に口ずさんでいる人もいる。
律は、目の前にいる観客を見て、創とつばめの音を聞き、何度も僕を振り返りながら歌っている。
最後のサビに入る直前、律が僕のそばに歩いてきた。
ステージ上で近づかれること自体は珍しくない。ギターソロの前後に並べば、客席が盛り上がることも知っている。
僕は演出の一つだと思い、律のほうに身体を向けた。
ところが、律はマイクを持っていないほうの腕を僕の肩に回した。
突然引き寄せられ、身体が触れる。
律は僕の肩を抱いたまま、最後のサビを歌い始める。
そして、持っていたマイクを僕の口元に向けた。
「えっ」
驚く暇もなく、客席から期待するような声が上がる。
僕はボーカルじゃないし、人前で一人で歌った経験もほとんどない。でも、毎日聞いてきた歌詞なら身体に染みついている。
律が僕を見ながら、一緒に歌う。
逃げることもできず、僕はマイクに口を近づけた。
『君の声が 僕の現在地を教えてくれる』
律の声に僕の声が重なった。
音程が合っていたのか、自分ではよくわからない。
ただ、律は満足そうに笑い、僕の肩をさらに強く抱いた。
次の瞬間、頬に柔らかいものが触れた。
律の唇だった。
「え?」
最前列にいた女の子たちから、一斉に「キャー!」という声が上がる。
演奏中だということも、次のコードを押さえなければならないことも、一瞬だけ頭から消えた。
左手の位置が一つずれ、ピックが弾くはずではなかった弦に触れる。
アンプから、曲にまったく合わない音が響いた。
「あっ」
慌てて正しいコードに戻したけれど、遅かった。
ステージの反対側を見ると、創が演奏を続けながら、律を鋭く睨んでいる。
明らかに「何をしているんだ」と言っている目だった。
つばめはドラムのリズムを崩していないものの、口元が笑っている。
原因を作った律は少しも反省していない様子だった。
僕の頬から顔を離すと、何事もなかったようにマイクを自分の口元に戻し、続きを歌い始める。
しかも、僕を抱いていた腕はそのままだ。
客席の女の子たちはまだ騒いでいる。鷹取は額に手を当て、見ていられないという顔をしていた。
恥ずかしい。
心臓は速いし、頬に触れた唇の感触が消えないし、また音を外しそうになる。
それでも、ちっとも嫌じゃなかった。
恥ずかしさの奥から、抑えきれない喜びが込み上げてくる。
僕は律の腕から逃げずに、彼の声に合わせて最後までギターを弾いた。
曲が終わり、最後の音が消える。
客席から大きな拍手と歓声が上がった。
律はようやく僕の肩を離すと、マイクに向かって言った。
「途中のギターのミスは、俺が驚かせたせいです」
客席から笑い声と、さっきより大きな歓声が返ってくる。
「律、わざわざ言わなくていいから!」
僕の声はマイクに拾われていないはずなのに、前列の何人かには聞こえたらしい。また笑い声が起きた。
創の視線がさらに険しくなる。
このあと、律がどれだけ怒られるのかは考えないことにした。
ステージを降りて控室に戻ると、創はベースを置くより先に律を振り返った。
「遠野。本番中に予定にないことをするな」
「でも、盛り上がっただろ」
「篠宮がミスした」
「それは俺も悪かったと思ってる」
「俺も、じゃない。全面的にお前が悪い」
「次は先に言う」
「次もするな」
創の言葉に、つばめが小さく笑った。
「律先輩、次にするなら、せめて曲が終わってからのほうがいいと思います。演奏中だと巡先輩がまた間違えますから」
「つばめまで次がある前提で話さないでよ」
「めぐ、次はミスしない?」
律が僕に尋ねる。
創の前で肯定するわけにはいかないと思いながら、さっき触れられた頬がまた熱くなった。
「……先に教えてくれれば、心の準備くらいはする」
「篠宮」
今度は創が僕を睨んだ。
「違う。ライブ中にしていいって意味じゃないから」
「じゃあ、ライブが終わった今ならいい?」
「人がいるところではやめようよ」
僕が答えると、律は控室の中を見回した。
創は機材の片づけを始め、つばめは使用済みのスティックをケースに戻している。二人ともすぐに出ていく気配はないし、次の次に出演するバンドももう準備を始めている。
「外に行く?」
「何言ってんだよ。今は片づけが先だろ」
「終わったら?」
「……そのとき考える」
律がうれしそうに笑う。
ステージの向こうからは、次のバンドの演奏が始まっていた。
僕たちの出番は終わっても、頬にはまだ律の唇の感触が残り、耳の奥では二人で歌った声が響いている。
律がマイクを向けてくれるなら、僕は何度でも隣で歌う。
もしも来世というものが本当にあるとしたら、生まれ変わってもまた恋人になろうなんて、僕は約束しない。
だけど、約束なんかしなくても、僕はきっとまた律を見つけて、好きになるんだろうなと思う。
全国優勝後、初めてのライブだった。
僕たちを目当てに来た客がどれくらいいるのかはわからないけど、フロアは以前ここで演奏したときより明らかに混んでいる。
対バン相手の知り合いだけではなさそうな人たちが、開演前からステージを撮影し、壁に貼られた出演者一覧を見ながらリーインカーネーションの文字を指差していた。
注目されるのはうれしい。でも、見てくれる人数が増えた分だけ、失敗できないという緊張も大きくなる。
僕たちの出番は三番目だった。
創とつばめは控室で機材の最終確認をしている。
律は、さっきまで僕と一緒にフロアにいたけど、ドリンクを取ってくると言ってカウンターに向かった。
僕は後方の壁際に立ち、二番目のバンドの演奏を見ていた。
四人組のロックバンドで、ボーカルの高い声と歪ませたギターが狭いフロアを満たしている。
ギタリストが曲の途中で何度も客席の近くまで出てくるたび、前列に集まった女の子たちが腕を上げた。
演奏を聞きながら、僕は無意識にコード進行を追っていた。
自分なら間奏をもう少し長くするとか、二番では音を抑えたほうが最後の盛り上がりが強くなるとか、そんなことばかり考えてしまう。
「相変わらず、ほかのバンドを見てるときまで難しい顔してるな」
大音量の中でも聞き覚えのある声がして、僕は横を向いた。
鷹取が立っていた。
「鷹取? 今日、出演するんだっけ?」
「今日は客。めぐちゃんのギター、聴きに来た」
鷹取はステージを一度見たあと、僕に向き直った。
「全国優勝、おめでとう。直接言ってなかったから」
「ありがとう」
「決勝の配信も見た。前に対バンしたときより、また上手くなってた」
「そんなに褒められると、なんか落ち着かないな」
ステージでは最後の曲が終わり、ボーカルがメンバーの名前を紹介していた。
ステージが暗転すると、フロアの照明は逆に少し明るくなり、観客が次の転換に備えて動き始める。
鷹取はその流れに逆らうように、僕の正面に立った。
そして、まっすぐに僕を見つめる。
「前に告白したあと、断られちゃったけどさ。俺、やっぱりめぐちゃんのこと、諦められない。俺と付き合うこと、もう一回考え直してもらえないかな?」
以前告白されたときとは違って、もう心は揺れなかった。
「鷹取、僕は――」
「もう俺と付き合ってるから」
僕が答えるより早く、背後から律の声がした。
振り向くと、律は両手に一つずつ透明なカップを持ち、僕たちを見ていた。右手には自分用のコーラ、左手には僕がいつも選ぶレモンスカッシュが入っている。
鷹取が律を見る。
「遠野には聞いてない」
「でも、めぐは俺の恋人だから」
律は譲る気のない声で言い、左手のレモンソスカッシュを僕に差し出した。
「はい。めぐの分」
「ありがとう」
受け取ると、冷えたカップの表面についた水滴が指に触れた。
律は言わなくたって僕の好みを迷わず選び、当然のように隣に戻ってくる。
「ごめん、鷹取。僕、律と付き合ってる」
「本当に?」
「うん。僕は律が好きだから、鷹取とは付き合えない」
鷹取はすぐには何も言わなかった。
僕と律を順番に見たあと、小さく息を吐く。
「そっか。先を越されたか」
「先を越したんじゃない。俺たち、前から両想いだったから」
「律、張り合わなくていいよ」
「本当のことだろ」
律は得意そうに答え、コーラを一口飲んだ。
鷹取は呆れたように眉を寄せたけれど、やがて諦めたように笑った。
「二回も断られたらしょうがないか。でも、ギタリストとしてのめぐちゃんのファンだってことは変わらないからな」
「ありがとう」
「でも、次に同じ大会に出るときは、俺たちが勝つ」
鷹取の目が、恋敵を見るものからライバルを見るものに戻っていた。
「僕たちも負けないよ」
「遠野も、全国優勝したからって油断するなよ」
「しない。今日も俺たちが一番いい演奏をするし」
「それなら、客席で見てる」
鷹取はそれだけ言うと、前方にいる知り合いのところに戻っていった。
姿が人混みに紛れてから、僕は隣の律を見る。
「戻ってくるの、ずいぶんいいタイミングだったね」
「めぐが告白されてるのが見えたから、急いだ」
「僕一人でも断れたよ」
「知ってる。でも、俺がめぐの恋人だって鷹取に言いたかった」
律は少しもうしろめたそうにせず、むしろ満足しているようだった。
「そんなに言いたかったの?」
「うん。やっと言えるようになったから」
胸の奥がくすぐったくなる。
律の恋人になってから、もう何度も好きだと言われた。それでも、人前ではっきり「俺と付き合ってる」と言われると、まだ夢の中にいるような気持ちになる。
「めぐ」
「何?」
「断ってくれてありがとう」
「それは律にお礼を言われることじゃないじゃんか」
「でも、うれしかった」
律が笑う。
好きな人が、自分を選んでもらえたことを喜んでいる。
そんな当たり前のことさえ、少し前の僕には想像できなかった。
返事をしようとしたとき、ステージ脇の扉から創が顔を出した。
「二人とも、何してるんだ。出番、もう次だぞ」
「今行くよ」
僕と律は顔を見合わせ、急いで控室に向かった。
---------
ステージに上がると、正面から浴びる照明の熱と、客席に集まった視線が一度に押し寄せてきた。
全国本選の会場よりずっと小さい。それでも、客との距離が近い分、一人一人の表情までよく見える。
最前列には、文化祭や大会の映像を見て僕たちを知ったらしい女の子たちが集まっていた。
少し離れた場所には鷹取もいる。腕を組み、さっきまで告白していたとは思えない真剣な顔でステージを見ていた。
創がベースの音を確かめ、つばめがスティックを打ち合わせる。
僕がギターを構えると、律がマイクを持ったまま振り返った。
その目が「大丈夫」と言っているように見え、僕は頷き返した。
つばめのカウントで演奏が始まる。
一曲目から、客席の反応は今までとは違っていた。律が最初の歌詞を口にしただけで前列から歓声が上がり、僕がギターソロに入ると、何人もの腕が一斉に持ち上がる。
緊張していたはずなのに、四人の音が重なった瞬間、それ以外のことは考えなくなった。
創のベースが曲の足元を支え、つばめのドラムが一定の速さで僕たちを前に進ませる。
律の声を追いながらギターを弾けば、自分が立つべき場所が自然にわかった。
最後に演奏するのは『現在地』だった。
イントロを弾き始めると、客席の何人かが題名を呼んだ。全国本選の配信で聞いたのか、最初の歌詞から一緒に口ずさんでいる人もいる。
律は、目の前にいる観客を見て、創とつばめの音を聞き、何度も僕を振り返りながら歌っている。
最後のサビに入る直前、律が僕のそばに歩いてきた。
ステージ上で近づかれること自体は珍しくない。ギターソロの前後に並べば、客席が盛り上がることも知っている。
僕は演出の一つだと思い、律のほうに身体を向けた。
ところが、律はマイクを持っていないほうの腕を僕の肩に回した。
突然引き寄せられ、身体が触れる。
律は僕の肩を抱いたまま、最後のサビを歌い始める。
そして、持っていたマイクを僕の口元に向けた。
「えっ」
驚く暇もなく、客席から期待するような声が上がる。
僕はボーカルじゃないし、人前で一人で歌った経験もほとんどない。でも、毎日聞いてきた歌詞なら身体に染みついている。
律が僕を見ながら、一緒に歌う。
逃げることもできず、僕はマイクに口を近づけた。
『君の声が 僕の現在地を教えてくれる』
律の声に僕の声が重なった。
音程が合っていたのか、自分ではよくわからない。
ただ、律は満足そうに笑い、僕の肩をさらに強く抱いた。
次の瞬間、頬に柔らかいものが触れた。
律の唇だった。
「え?」
最前列にいた女の子たちから、一斉に「キャー!」という声が上がる。
演奏中だということも、次のコードを押さえなければならないことも、一瞬だけ頭から消えた。
左手の位置が一つずれ、ピックが弾くはずではなかった弦に触れる。
アンプから、曲にまったく合わない音が響いた。
「あっ」
慌てて正しいコードに戻したけれど、遅かった。
ステージの反対側を見ると、創が演奏を続けながら、律を鋭く睨んでいる。
明らかに「何をしているんだ」と言っている目だった。
つばめはドラムのリズムを崩していないものの、口元が笑っている。
原因を作った律は少しも反省していない様子だった。
僕の頬から顔を離すと、何事もなかったようにマイクを自分の口元に戻し、続きを歌い始める。
しかも、僕を抱いていた腕はそのままだ。
客席の女の子たちはまだ騒いでいる。鷹取は額に手を当て、見ていられないという顔をしていた。
恥ずかしい。
心臓は速いし、頬に触れた唇の感触が消えないし、また音を外しそうになる。
それでも、ちっとも嫌じゃなかった。
恥ずかしさの奥から、抑えきれない喜びが込み上げてくる。
僕は律の腕から逃げずに、彼の声に合わせて最後までギターを弾いた。
曲が終わり、最後の音が消える。
客席から大きな拍手と歓声が上がった。
律はようやく僕の肩を離すと、マイクに向かって言った。
「途中のギターのミスは、俺が驚かせたせいです」
客席から笑い声と、さっきより大きな歓声が返ってくる。
「律、わざわざ言わなくていいから!」
僕の声はマイクに拾われていないはずなのに、前列の何人かには聞こえたらしい。また笑い声が起きた。
創の視線がさらに険しくなる。
このあと、律がどれだけ怒られるのかは考えないことにした。
ステージを降りて控室に戻ると、創はベースを置くより先に律を振り返った。
「遠野。本番中に予定にないことをするな」
「でも、盛り上がっただろ」
「篠宮がミスした」
「それは俺も悪かったと思ってる」
「俺も、じゃない。全面的にお前が悪い」
「次は先に言う」
「次もするな」
創の言葉に、つばめが小さく笑った。
「律先輩、次にするなら、せめて曲が終わってからのほうがいいと思います。演奏中だと巡先輩がまた間違えますから」
「つばめまで次がある前提で話さないでよ」
「めぐ、次はミスしない?」
律が僕に尋ねる。
創の前で肯定するわけにはいかないと思いながら、さっき触れられた頬がまた熱くなった。
「……先に教えてくれれば、心の準備くらいはする」
「篠宮」
今度は創が僕を睨んだ。
「違う。ライブ中にしていいって意味じゃないから」
「じゃあ、ライブが終わった今ならいい?」
「人がいるところではやめようよ」
僕が答えると、律は控室の中を見回した。
創は機材の片づけを始め、つばめは使用済みのスティックをケースに戻している。二人ともすぐに出ていく気配はないし、次の次に出演するバンドももう準備を始めている。
「外に行く?」
「何言ってんだよ。今は片づけが先だろ」
「終わったら?」
「……そのとき考える」
律がうれしそうに笑う。
ステージの向こうからは、次のバンドの演奏が始まっていた。
僕たちの出番は終わっても、頬にはまだ律の唇の感触が残り、耳の奥では二人で歌った声が響いている。
律がマイクを向けてくれるなら、僕は何度でも隣で歌う。
もしも来世というものが本当にあるとしたら、生まれ変わってもまた恋人になろうなんて、僕は約束しない。
だけど、約束なんかしなくても、僕はきっとまた律を見つけて、好きになるんだろうなと思う。

