僕はすぐには返事ができなかった。
廊下では撤収用の台車が床を鳴らし、遠くから全国本選を終えた出演者たちの声が聞こえてくる。
照明も床も壁も、少し前までと何一つ変わっていないのに、僕だけが急に別の世界に放り込まれたようだった。
律が僕を好きだと言った。
美紀さんの代わりではなく、今の僕を自分で選んだのだと伝えてくれた。
でも、まず最初に思ったのは、これは何かの間違いじゃないかってことだった。
「好き……って、どういう意味で?」
だって、そう簡単には信じられないし、勘違いだったら恥ずかしすぎる。
けど、律は僕の目をまっすぐに見つめたまま答えた。
「めぐと恋人になりたい」
それは、何年も望んで、望んでいることすら隠してきた言葉。
「……あの、でも、僕たち、男同士だよ?」
「そんなのどうでもいい。めぐが好きなんだ」
理解が追いつかないというより、理解した途端に胸の中から何かがあふれて、まともに立っていられなくなりそうだった。
全国で優勝しただけでも夢みたいなのに、好きな人も僕を好きだった。
今日一日で一生分の幸運を使い果たしたのではないだろうか。
幸せすぎて死んじゃうかもしれない、なんて言葉は大げさな冗談だと思っていたけれど、今なら少しわかる。
胸の奥がいっぱいになりすぎて、息をするだけで震えてしまいそうだった。
律は答えを急かさなかった。
僕の肩にも触れず、逃げ道を残すように手を下ろして待っている。
いつもなら勝手に距離を詰めてくるくせに、今だけは僕が選ぶのを待ってくれている。
その姿を見ているうちに、ようやく声が出た。
「僕も律が好きだよ。親友としてじゃなくて。……ずっと前から」
言ってしまった。
何年も胸の中に閉じ込めていた言葉は、口にすると驚くほど短かった。
律の口元がわずかに緩む。その顔を見た瞬間、夢じゃないんだと思えた。
「うん。知ってる」
「……知ってる?」
予想していなかった返事に、僕は聞き返した。
律の表情から、告白を終えたばかりの安堵が消える。
言いにくいことを残している顔だと気づき、さっきまでとは別の理由で心臓が速くなった。
「なんで?」
「前に、めぐの家に遊びに行ったとき、お前が部屋を出てるあいだに、本棚にあったノートを開いた」
「何のノート?」
「教科書と一緒に並んでた、表紙に何も書いてないやつ。授業で使ってるノートだと思ったんだ。でも、開いたページの一番上に『僕は君の運命じゃない』って書いてあった」
全国優勝の余韻も、律に好きだと言われた幸福も消えたわけじゃない。
ただ、それらの上に、とてつもない羞恥が一気に降ってきた。
そのページに何を書いたか、忘れたことなんてない。
律の隣にいるだけで期待してしまうことや、美紀さんに向けられた言葉を自分のものだと思いたくなること、それでも僕は律の運命にはなれないという諦め。
誰にも言えない律への気持ちを、僕はノートに書いて閉じ込めていた。
「あれ、読んだの?」
「うん」
「いつ?」
「めぐの誕生日の少し後」
「どこまで読んだ?」
「あのページに書いてあった分は、全部。途中で授業のノートじゃないって気づいた。ごめん」
律は言い訳をしなかった。
僕は熱くなった顔を隠すために両手で覆った。
好きな本人に、片想い中の一番恥ずかしい部分を全部読まれていたなんて、今すぐこの床に沈んでしまいたい。
「怒ってる?」
「怒るっていうより、恥ずかしすぎて消えたい。本棚にそのまま置いてた僕も悪いんだけど」
見られたくないなら、引き出しの奥にでも隠しておくべきだった。授業のノートに混ぜて並べておいたら、見ちゃいけないものだなんて思われないよな。
それに、何より大きいのは恥ずかしさではなかった。
律は僕の気持ちを知ってた。
知ったうえで嫌悪せず、距離を置かず、今、僕のことが好きだと言ってくれている。
そう考えると、顔を覆った手の下で頬が緩んでしまう。
恥ずかしくて逃げたいのに、同じくらい、いや、それ以上にうれしかった。
「じゃあ、ずっと僕が律を好きだって知ってたの?」
「知ってたっていうか……めぐがあれをいつ書いたのかわかんなかったし、書いたときの気持ちが、ずっと続いてるとは限らないって思ってた」
「だから、何も知らないふりをしてたの?」
「うん。あの時の俺には、めぐに返せる答えもまだなかったから」
律はそう言って、いったん言葉を区切り、視線を斜め上に向けた。
「でも……めぐが鷹取に告白されたとき、めぐがあいつと付き合うことを想像したら、すごく嫌だった。だけどそれが恋愛感情から来る嫉妬なのか、ずっと隣にいた親友を取られたくないだけなのか、俺には分からなかった」
「じゃあ、文化祭の時に僕の好きな人を知りたがったのは?」
「好きな人は俺だって、言ってほしかったのかもしれない。……でもさ。俺、あの時はまだ自分の気持ちに自信がなくて。美紀を愛してたはずなのに、俺はめぐのことも好きなのかって混乱してた」
そうだったんだ。あの時、律はそんなことを考えてたのか。
「めぐのノートを読んでから、めぐと俺が恋人になる可能性を、何度も考えたよ。それで、やっと気付いたんだ。今までずっと見ないふりをしてた、自分の本当の気持ちに。俺の話をいつも真剣に聞いて、疑わずに信じてくれて、一番協力してくれたのは、めぐだった。いつだって、めぐが俺の心の支えになってくれてた。俺が一番大事な人は、記憶の中にしかいない美紀じゃない。ずっと一番近くにいてくれた、めぐ、おまえだったんだ」
胸の奥で何かが弾けた。
なんだか身体がふわふわして、足が床についているか確かめたくなる。
「……それなら、もっと早く言ってくれてもよかったじゃん」
責めたいわけじゃなかった。
前から同じ気持ちだったなら、一人で悩まなくて済んだのにと思っただけだ。
「そんなの、言えないよ。二股かけてるみたいじゃん。だから、美紀に会って、約束守れないってちゃんと謝って、けじめをつけてからめぐに向き合いたかったんだ」
律の理屈は、頑固なくせに律らしかった。
そんな誠実すぎるところも、好きだと思った。
「全国本選まで待たせたのはどうして?」
「だって、大事な本選の前にもしフラれたら、ショックでまた歌えなくなるかもしれないじゃんか」
「フラれるって、律が、僕に?」
「うん」
「そんなわけないのに」
「そんなのわかんないじゃん。全国本選の前に今の関係が壊れて気まずくなるかもって思ったら、怖かったんだよ」
僕たちは、お互いが離れていくことを怖がりながら、同じ場所で立ち止まっていたらしい。
「僕は、美紀さんには絶対に勝てないって思ってたよ」
僕は律を見上げた。
「どれだけ近くにいても、生まれる前から運命の糸で結ばれてる相手にはなれない。律がいつか美紀さんを見つけたら、僕は親友として二人を祝うしかないって思ってた。美紀さんが実在しなかったからって、僕が代わりに運命の相手になるわけじゃないし」
「分かってる。めぐは俺の運命じゃない」
自分で言った言葉なのに、律の口から聞くと、胸の奥がわずかに痛んだ。
けれど律は、そこで話を終わらせなかった。
「運命なら、俺が選ぶ前から答えが決まってる。でも俺は、めぐだから選んだ。美紀がいないから空いた場所に入ってほしいんじゃない。美紀がいると思ってた頃から、今の俺が会いたいと思うのも、今日あったことを話したいと思うのも、歌うときに一番近くで音を聞いてほしいと思うのも、抱きしめたいとか触れたいって思うのも、ずっとめぐだった」
「……僕も、律を選ぶよ。今の僕が、今の律を好きだから」
口にした途端、律の顔に、さっきまで抑えていた喜びが広がった。
それがわかると、また胸がいっぱいになった。僕だけが幸せなんじゃない。僕の言葉で、律もこんな顔をしてくれる。
「抱きしめてもいい?」
「今まで何年も勝手にしてきたくせに」
「今からは意味が違うから」
彼が待っているあいだ、僕は少しだけ考えるふりをした。
本当は、今すぐ触れてほしかった。
「いいよ」
許可を得た律は、いつものように肩だけを引き寄せるんじゃなく、正面から僕の背中に腕を回した。
律の髪が頬に触れ、僕の名前が耳元に落ちる。
以前、眠っていた彼に抱きしめられた夜、呼ばれた名前は美紀さんだった。
今は目を覚ましている律が、自分で選んだ相手の名として「めぐ」と呼んでくれている。
その違いを確かめるように、僕も彼の背中に腕を回した。律の体温も、胸に伝わる鼓動も、僕の想像なんかじゃない。
「夢みたい」
「夢じゃない」
「明日起きたら、全部なくなってそう」
「なくならない。明日の朝も、いつもの駅で待ってる」
「本当に?」
「明日だけじゃない。これからも待つよ」
律の腕に力がこもる。
夢なら覚めないでほしいと思った。でも、これは夢じゃないから、明日も、その次の日も続いていく。
そう思ったら、夢より現実のほうがずっとよかった。
しばらくして体を離しても、律は僕の腰から腕を解かなかった。黒い瞳が僕の目元から唇に落ち、すぐに戻ってくる。
「キスしてもいい?」
聞かれただけで、心臓が高鳴った。
好きな人と両想いになって、抱きしめられて、そのうえキスまでできる。今日の僕は、本当にどこまで幸せになっていいんだろう。
「……うん」
律の指が頬に触れ、顔が近づいてくる。
眠ってもいなければ、僕を誰かと取り違えてもいない。
黒い目が最後まで僕だけを見ているのを確かめてから、目を閉じた。
重なった唇は、彼の歌声から想像していたより柔らかかった。
触れていた時間は短かったのに、離れたあとも頬に残る指の熱と近すぎる呼吸が、今起きたことを現実につなぎ止めている。
律が、額の触れそうな距離で僕の名を呼んだ。
「めぐ」
「何?」
「好き」
「さっき聞いた」
「恋人になってからは、まだ言ってない」
「今ので、僕たち恋人になったの?」
「違うの?」
急に不安そうになった律がおかしくて、僕は笑った。
「違わないよ。僕は律の恋人」
その言葉を自分で口にしただけで、また身体が浮きそうになる。
律の恋人。
何年も届かないと思っていた場所に、今の僕がいる。
「もう一回言って」
「僕は律の恋人」
「もう一回」
「何回言わせるの?」
「何回でも聞きたい」
律がうれしそうに笑う。
そんな顔を見せられたら、僕だって何度でも言いたくなってしまう。
「僕は律が好きで、律の恋人だよ」
「俺も、めぐが好き」
今度は僕から彼の唇に触れた。
驚いて見開かれた律の目がすぐに閉じ、背中に回った腕が僕をもう一度引き寄せる。
親友だった頃と同じ腕の中なのに、もう自分だけが勘違いしているのではないかと疑わなくていい。
好きな人に抱きしめられて、その人も僕を好きだと知っている。
こんなに幸せでいいのか、まだ少し怖い。
それでも、怖いから手放そうなんて微塵も思わなかった。
離れたあと、律は名残惜しそうに僕の頬を撫でた。
「もう一回してもいい?」
「一回だけとは言ってないよ」
律の口元が緩む。
僕たちは廊下の向こうから人の足音が聞こえてくるまで、互いに離れる理由を忘れていた。
廊下では撤収用の台車が床を鳴らし、遠くから全国本選を終えた出演者たちの声が聞こえてくる。
照明も床も壁も、少し前までと何一つ変わっていないのに、僕だけが急に別の世界に放り込まれたようだった。
律が僕を好きだと言った。
美紀さんの代わりではなく、今の僕を自分で選んだのだと伝えてくれた。
でも、まず最初に思ったのは、これは何かの間違いじゃないかってことだった。
「好き……って、どういう意味で?」
だって、そう簡単には信じられないし、勘違いだったら恥ずかしすぎる。
けど、律は僕の目をまっすぐに見つめたまま答えた。
「めぐと恋人になりたい」
それは、何年も望んで、望んでいることすら隠してきた言葉。
「……あの、でも、僕たち、男同士だよ?」
「そんなのどうでもいい。めぐが好きなんだ」
理解が追いつかないというより、理解した途端に胸の中から何かがあふれて、まともに立っていられなくなりそうだった。
全国で優勝しただけでも夢みたいなのに、好きな人も僕を好きだった。
今日一日で一生分の幸運を使い果たしたのではないだろうか。
幸せすぎて死んじゃうかもしれない、なんて言葉は大げさな冗談だと思っていたけれど、今なら少しわかる。
胸の奥がいっぱいになりすぎて、息をするだけで震えてしまいそうだった。
律は答えを急かさなかった。
僕の肩にも触れず、逃げ道を残すように手を下ろして待っている。
いつもなら勝手に距離を詰めてくるくせに、今だけは僕が選ぶのを待ってくれている。
その姿を見ているうちに、ようやく声が出た。
「僕も律が好きだよ。親友としてじゃなくて。……ずっと前から」
言ってしまった。
何年も胸の中に閉じ込めていた言葉は、口にすると驚くほど短かった。
律の口元がわずかに緩む。その顔を見た瞬間、夢じゃないんだと思えた。
「うん。知ってる」
「……知ってる?」
予想していなかった返事に、僕は聞き返した。
律の表情から、告白を終えたばかりの安堵が消える。
言いにくいことを残している顔だと気づき、さっきまでとは別の理由で心臓が速くなった。
「なんで?」
「前に、めぐの家に遊びに行ったとき、お前が部屋を出てるあいだに、本棚にあったノートを開いた」
「何のノート?」
「教科書と一緒に並んでた、表紙に何も書いてないやつ。授業で使ってるノートだと思ったんだ。でも、開いたページの一番上に『僕は君の運命じゃない』って書いてあった」
全国優勝の余韻も、律に好きだと言われた幸福も消えたわけじゃない。
ただ、それらの上に、とてつもない羞恥が一気に降ってきた。
そのページに何を書いたか、忘れたことなんてない。
律の隣にいるだけで期待してしまうことや、美紀さんに向けられた言葉を自分のものだと思いたくなること、それでも僕は律の運命にはなれないという諦め。
誰にも言えない律への気持ちを、僕はノートに書いて閉じ込めていた。
「あれ、読んだの?」
「うん」
「いつ?」
「めぐの誕生日の少し後」
「どこまで読んだ?」
「あのページに書いてあった分は、全部。途中で授業のノートじゃないって気づいた。ごめん」
律は言い訳をしなかった。
僕は熱くなった顔を隠すために両手で覆った。
好きな本人に、片想い中の一番恥ずかしい部分を全部読まれていたなんて、今すぐこの床に沈んでしまいたい。
「怒ってる?」
「怒るっていうより、恥ずかしすぎて消えたい。本棚にそのまま置いてた僕も悪いんだけど」
見られたくないなら、引き出しの奥にでも隠しておくべきだった。授業のノートに混ぜて並べておいたら、見ちゃいけないものだなんて思われないよな。
それに、何より大きいのは恥ずかしさではなかった。
律は僕の気持ちを知ってた。
知ったうえで嫌悪せず、距離を置かず、今、僕のことが好きだと言ってくれている。
そう考えると、顔を覆った手の下で頬が緩んでしまう。
恥ずかしくて逃げたいのに、同じくらい、いや、それ以上にうれしかった。
「じゃあ、ずっと僕が律を好きだって知ってたの?」
「知ってたっていうか……めぐがあれをいつ書いたのかわかんなかったし、書いたときの気持ちが、ずっと続いてるとは限らないって思ってた」
「だから、何も知らないふりをしてたの?」
「うん。あの時の俺には、めぐに返せる答えもまだなかったから」
律はそう言って、いったん言葉を区切り、視線を斜め上に向けた。
「でも……めぐが鷹取に告白されたとき、めぐがあいつと付き合うことを想像したら、すごく嫌だった。だけどそれが恋愛感情から来る嫉妬なのか、ずっと隣にいた親友を取られたくないだけなのか、俺には分からなかった」
「じゃあ、文化祭の時に僕の好きな人を知りたがったのは?」
「好きな人は俺だって、言ってほしかったのかもしれない。……でもさ。俺、あの時はまだ自分の気持ちに自信がなくて。美紀を愛してたはずなのに、俺はめぐのことも好きなのかって混乱してた」
そうだったんだ。あの時、律はそんなことを考えてたのか。
「めぐのノートを読んでから、めぐと俺が恋人になる可能性を、何度も考えたよ。それで、やっと気付いたんだ。今までずっと見ないふりをしてた、自分の本当の気持ちに。俺の話をいつも真剣に聞いて、疑わずに信じてくれて、一番協力してくれたのは、めぐだった。いつだって、めぐが俺の心の支えになってくれてた。俺が一番大事な人は、記憶の中にしかいない美紀じゃない。ずっと一番近くにいてくれた、めぐ、おまえだったんだ」
胸の奥で何かが弾けた。
なんだか身体がふわふわして、足が床についているか確かめたくなる。
「……それなら、もっと早く言ってくれてもよかったじゃん」
責めたいわけじゃなかった。
前から同じ気持ちだったなら、一人で悩まなくて済んだのにと思っただけだ。
「そんなの、言えないよ。二股かけてるみたいじゃん。だから、美紀に会って、約束守れないってちゃんと謝って、けじめをつけてからめぐに向き合いたかったんだ」
律の理屈は、頑固なくせに律らしかった。
そんな誠実すぎるところも、好きだと思った。
「全国本選まで待たせたのはどうして?」
「だって、大事な本選の前にもしフラれたら、ショックでまた歌えなくなるかもしれないじゃんか」
「フラれるって、律が、僕に?」
「うん」
「そんなわけないのに」
「そんなのわかんないじゃん。全国本選の前に今の関係が壊れて気まずくなるかもって思ったら、怖かったんだよ」
僕たちは、お互いが離れていくことを怖がりながら、同じ場所で立ち止まっていたらしい。
「僕は、美紀さんには絶対に勝てないって思ってたよ」
僕は律を見上げた。
「どれだけ近くにいても、生まれる前から運命の糸で結ばれてる相手にはなれない。律がいつか美紀さんを見つけたら、僕は親友として二人を祝うしかないって思ってた。美紀さんが実在しなかったからって、僕が代わりに運命の相手になるわけじゃないし」
「分かってる。めぐは俺の運命じゃない」
自分で言った言葉なのに、律の口から聞くと、胸の奥がわずかに痛んだ。
けれど律は、そこで話を終わらせなかった。
「運命なら、俺が選ぶ前から答えが決まってる。でも俺は、めぐだから選んだ。美紀がいないから空いた場所に入ってほしいんじゃない。美紀がいると思ってた頃から、今の俺が会いたいと思うのも、今日あったことを話したいと思うのも、歌うときに一番近くで音を聞いてほしいと思うのも、抱きしめたいとか触れたいって思うのも、ずっとめぐだった」
「……僕も、律を選ぶよ。今の僕が、今の律を好きだから」
口にした途端、律の顔に、さっきまで抑えていた喜びが広がった。
それがわかると、また胸がいっぱいになった。僕だけが幸せなんじゃない。僕の言葉で、律もこんな顔をしてくれる。
「抱きしめてもいい?」
「今まで何年も勝手にしてきたくせに」
「今からは意味が違うから」
彼が待っているあいだ、僕は少しだけ考えるふりをした。
本当は、今すぐ触れてほしかった。
「いいよ」
許可を得た律は、いつものように肩だけを引き寄せるんじゃなく、正面から僕の背中に腕を回した。
律の髪が頬に触れ、僕の名前が耳元に落ちる。
以前、眠っていた彼に抱きしめられた夜、呼ばれた名前は美紀さんだった。
今は目を覚ましている律が、自分で選んだ相手の名として「めぐ」と呼んでくれている。
その違いを確かめるように、僕も彼の背中に腕を回した。律の体温も、胸に伝わる鼓動も、僕の想像なんかじゃない。
「夢みたい」
「夢じゃない」
「明日起きたら、全部なくなってそう」
「なくならない。明日の朝も、いつもの駅で待ってる」
「本当に?」
「明日だけじゃない。これからも待つよ」
律の腕に力がこもる。
夢なら覚めないでほしいと思った。でも、これは夢じゃないから、明日も、その次の日も続いていく。
そう思ったら、夢より現実のほうがずっとよかった。
しばらくして体を離しても、律は僕の腰から腕を解かなかった。黒い瞳が僕の目元から唇に落ち、すぐに戻ってくる。
「キスしてもいい?」
聞かれただけで、心臓が高鳴った。
好きな人と両想いになって、抱きしめられて、そのうえキスまでできる。今日の僕は、本当にどこまで幸せになっていいんだろう。
「……うん」
律の指が頬に触れ、顔が近づいてくる。
眠ってもいなければ、僕を誰かと取り違えてもいない。
黒い目が最後まで僕だけを見ているのを確かめてから、目を閉じた。
重なった唇は、彼の歌声から想像していたより柔らかかった。
触れていた時間は短かったのに、離れたあとも頬に残る指の熱と近すぎる呼吸が、今起きたことを現実につなぎ止めている。
律が、額の触れそうな距離で僕の名を呼んだ。
「めぐ」
「何?」
「好き」
「さっき聞いた」
「恋人になってからは、まだ言ってない」
「今ので、僕たち恋人になったの?」
「違うの?」
急に不安そうになった律がおかしくて、僕は笑った。
「違わないよ。僕は律の恋人」
その言葉を自分で口にしただけで、また身体が浮きそうになる。
律の恋人。
何年も届かないと思っていた場所に、今の僕がいる。
「もう一回言って」
「僕は律の恋人」
「もう一回」
「何回言わせるの?」
「何回でも聞きたい」
律がうれしそうに笑う。
そんな顔を見せられたら、僕だって何度でも言いたくなってしまう。
「僕は律が好きで、律の恋人だよ」
「俺も、めぐが好き」
今度は僕から彼の唇に触れた。
驚いて見開かれた律の目がすぐに閉じ、背中に回った腕が僕をもう一度引き寄せる。
親友だった頃と同じ腕の中なのに、もう自分だけが勘違いしているのではないかと疑わなくていい。
好きな人に抱きしめられて、その人も僕を好きだと知っている。
こんなに幸せでいいのか、まだ少し怖い。
それでも、怖いから手放そうなんて微塵も思わなかった。
離れたあと、律は名残惜しそうに僕の頬を撫でた。
「もう一回してもいい?」
「一回だけとは言ってないよ」
律の口元が緩む。
僕たちは廊下の向こうから人の足音が聞こえてくるまで、互いに離れる理由を忘れていた。

