律から『家に着いた』と連絡が来たのは、僕を乗せた新幹線が名古屋に着く少し前だった。
約束を守ってくれたことには安心したけど、続けて僕が送った『明日は学校に来る?』という質問には、翌朝になっても返事がなかった。
教室に律の姿はなく、担任は体調不良だと説明した。昨日も同じ理由で休んだことになっているから、クラスの誰も不審には思っていない。
午前中に何度かメッセージを送ったものの、既読さえつかなかった。
放課後、防音室に行くと、創とつばめは先に来ていた。
創はベースをアンプにつなぎ、つばめもドラムの高さを調整している。
「巡先輩、律先輩から連絡はありましたか?」
「昨日の夜に、家に着いたって来ただけ。そのあとは何もないよ」
「僕のところには、昨夜遅くに届いた」
創がスマートフォンの画面を僕たちに向ける。
律からの文面は短かった。
『東海大会は三人で出てほしい。無理なら代わりを探してくれ』
「創は何て返事したの?」
「却下すると伝えた。その後は既読になっていない」
つばめも同じ連絡を受け取ったらしく、スティックを握ったまま唇を尖らせている。
「僕も嫌ですと返しました。勝手に抜けるのは、律先輩の我儘です」
「美紀さんのことになると我儘なのは知ってたけど、いないってわかったあとまで我儘だとは思わなかったよ」
口にしてから、昨日の律の顔が浮かんだ。
腹が立っていないわけじゃない。それでも、東京まで一人で確かめに行って、自分がずっと信じてきたものを一日で失った律に、すぐ普段どおりに戻れと言えるほど僕も割り切れなかった。
創は眼鏡の位置を直してからベースを構えた。
「遠野がいなくても、今日は練習する。二人とも準備してくれ」
創の指が弦を弾き、『現在地』のイントロが始まった。
この曲はベースから始まる。
何度も聞いてきた低い旋律につばめのドラムが加わり、僕もギターを重ねた。
いつもなら律が歌い始める場所まで、体が勝手に小節を数えていく。
けれど、そこに声は入らなかった。
歌詞を待っていた音だけが取り残され、僕のギターも次に進む場所を見失いそうになる。
それでも創は止まらず、つばめも空いた場所を埋めようとはしなかった。
僕たちは律の不在を、そのまま残して演奏を続けた。
サビに入ると、声がないことはますますはっきりした。
演奏だけでも曲の形は保てる。創とつばめは正確で、僕も昨日より下手になったわけじゃない。
それなのに、いつもの『現在地』には聞こえなかった。律の声が欠ければ、似た形をした別の曲にしかならない。
最後まで弾き終えると、つばめがスティックを膝に置いた。
「やっぱり、代わりはいりません」
「うん。僕もそう思う」
律に歌ってほしいのは、僕が彼を好きだからだけじゃない。
この曲は四人で作った。創のベースも、つばめのドラムも、僕のギターも必要で、それと同じように律の声が必要だ。
誰か一人を別の人に替えて東海大会に出ても、それはもう僕らたちの『現在地』じゃない。
「律は、一人にしてほしいって言ってた」
昨日、追いかけても届かなかった言葉を思い出しながら、二人に伝える。
「僕がまた会いに行ったら、余計に追い詰めるかもしれない」
「一人にすることと、脱退を認めることは別だ」
創は楽器からケーブルを外し、ケースに収め始めた。
「昨日は篠宮が話した。今日は僕たちが話す」
「僕も行きます。というか、僕たちにも怒る権利はあると思います」
「怒るの?」
「ありますよ。東海大会まで一緒に練習してきたのに、急に『三人で出てほしい』なんてメッセージが来るんですよ?」
つばめの言い分には反論できなかった。
律が僕に頼ることを拒むなら、なおさら僕一人で彼を連れ戻そうとするべきじゃないのかもしれない。
リーインカーネーションは僕と律の二人だけで作ってきたものじゃなく、創にもつばめにも、律に言いたいことがある。
僕たちは楽器を片づけると、律の家に向かった。
---------
玄関の呼び鈴を押すと、出てきたのは律のお父さんだった。
「巡君。昨日は律のために東京まで行ってくれたそうだね」
「勝手に追いかけただけです。律は家にいますか?」
「部屋にいるよ。今日は昼過ぎに一度下りてきたけど、それからまた籠もってる」
昨日よりは動けているらしい。その小さな変化に安心しながら、お父さんに案内されて階段を上がった。
律の部屋の前で扉を叩くと、今度はすぐに中から返事があった。
「誰?」
「巡だよ。創とつばめもいる」
「……三人とも?」
しばらくして扉が開いた。
律は部屋着を着ていて、長い髪も後ろでひとつに結んでいた。目の下にはまだクマが残っているものの、昨日の原宿で見たときより顔つきは落ち着いている。
僕たちの顔を順番に確かめた律は、何か言おうとしてやめ、扉を大きく開けた。
「入って」
予想していた反応と違って、三人とも黙ったまま部屋に入った。
床には歌詞のノートが置かれていた。何枚かのページが破られ、表紙も折れ曲がっている。ただ、その横には剥がれたページを留めるためなのか、透明なテープが置かれていた。
つばめが床に座り、創もその隣に腰を下ろす。
僕が最後に入って扉を閉めると、律はベッドの脇に座った。
「ゆうべ、変なメッセージ送ってごめん」
僕たちが何かを言うより先に、律が口を開いた。
「創とつばめから返事が来たあとも、ずっと考えてた。昨日はもう全部どうでもよくなってて、自分がバンドを始めた理由まで間違いだったなら、続ける意味もないって、それしか考えられなかった」
律は膝の上で両手を組み、そこに目を落としていた。
昨日の原宿では、僕が何を言っても自分を否定する言葉に変えてしまっていた。
その律が今は、同じ出来事を昨日とは違うところから見ようとしている。
「でも、一晩経って少し冷静になったら、俺がやってること、めちゃくちゃだなって思った」
そこで律は顔を上げた。
「俺が勝手に、自分の前世を信じて、前世の恋人の生まれ変わりを探したいからってバンドを始めたんだよな。創にもめぐにも付き合ってもらって、つばめも入ってくれて、それからずっと四人で練習してきた。なのに、前世が俺の勘違いだったってわかった途端、今度は勝手に辞めるって言って、東海大会は三人で出ろとか、代わりを探せとか……自分の都合しか考えてなかった」
「本当にそうですよ」
つばめが遠慮なく答えた。
律は苦笑したけど、言い返さなかった。
「うん。そうなんだよ。昨日の俺には、そこまで考える余裕がなかった。でも、それでみんなに迷惑かけていい理由にはならないし、心配させていい理由にもならないよな」
律の視線が僕のところで止まった。
「自分の人生が全部嘘だったみたいな気がして、それで頭がいっぱいになってたけど、みんなの人生まで俺のものじゃないんだよな」
その言葉を聞いて、昨日の律が「もう頼りたくない」と言った理由を少し違う形で理解できた気がした。
律は僕に頼ったことそのものを後悔していたんじゃない。
自分の信じる物語に僕たちまで巻き込み、その物語が壊れたら、僕たちがそこで積み重ねてきたものまで勝手に終わらせようとしたことに、ようやく気づいたのだ。
「俺が始めたバンドだから、俺が辞めれば終わりだって、どこかで思ってたのかもしれない。でも、もう俺だけのバンドじゃないよな」
「最初からそう言っている」
創が答える。
「リーインカーネーションは四人のバンドだ。始めた人間に、終わらせる権利まで自動的に与えられるわけじゃない」
「創らしいな、それ」
「事実だ」
「うん。だから謝りたかった。創、つばめ、ごめん。めぐにも。昨日からずっと心配かけて、ごめん」
律が頭を下げる。
つばめは腕を組んだまま、すぐには何も言わなかった。
「謝るってことは、脱退するっていうのも撤回するんですか?」
「それも考えた」
律は床に置いてあった歌詞のノートを拾った。
破れたページには、透明なテープが貼られている。継ぎ目は目立つし、折れ曲がった表紙も完全には戻っていない。それでも、昨日は捨てようとしたはずのものを、律は自分の手で直そうとしていた。
「昨日は、この歌詞も全部嘘みたいに思えた。でも読み返したら、違った」
開かれたページには『現在地』の歌詞が残っていた。
何度も書き直した跡に、僕たちが練習中に加えた印も混じっている。
「俺が信じてた前世は勘違いだった。でも、この曲を書いたのは俺なんだよな。めぐに言葉を出してもらって、創とつばめの演奏を聞いて、四人で直して作った。俺が前世だと思ってた記憶を書いたわけじゃない」
「やっと気づいた?」
僕が尋ねると、律は少し眉を寄せた。
「昨日、お前にもそう言われたし」
「言ったよ。全然聞いてくれなかったけど」
「……ごめん」
「それはもういいよ」
昨日と今日では、同じ言葉でも律の中に入っていく場所が違うのだろう。
僕がどれだけ説明しても届かなかったことを、律は一人になった時間の中でようやく自分の言葉に置き換えられたらしい。
「律、最初の一行を覚えてる?」
「自分で書いたんだから覚えてるよ」
「『君の声が 僕の現在地を教えてくれる』。僕が、この『君』は誰かって聞いたとき、律は何て答えた?」
律は開いたページに目を落とした。
「……今は、めぐだって言った」
「それも一晩考えて、間違いだったと思った?」
「思ってない」
今度は迷わなかった。
「あれは美紀に向けて書いた言葉じゃない。めぐのことを考えて書いた。今の俺が選んだ言葉だよ」
その答えに、胸の中に残っていた硬いものが少しずつほどけていった。
律が信じていた前世が本物じゃなくても、僕たちが一緒に過ごしてきた時間まで偽物になるわけじゃない。
放課後の防音室も、文化祭も、四人で作った『現在地』も、僕が律を好きになったことも、現実で起きたことだ。
「じゃあ、僕からも言わせて」
僕は律が持っているノートに手を重ねた。
「僕は美紀さんを探すためにバンドをやってたんじゃない。律の声と一緒に演奏したくてギターを弾いてる。創もつばめも、自分でここにいることを選んだ。だから、律が前世を勘違いしてたことと、僕たちがバンドを続けるかどうかは別の話だよ」
「僕も同じです」
つばめが続けた。
「文化祭で三人の演奏を聞いて、このバンドで叩きたいと思ったから入りました。前世の恋人探しを手伝うためじゃありません。だから律先輩の前世が誰だったとしても、僕がこのバンドに入った理由は何も変わりません」
「僕も遠野の目的に賛同して加入したわけではない」
創は眼鏡越しに律を見た。
「ただし、昨夜のメッセージについてはまだ怒っている」
「そこは許してくれないのかよ」
「反省したからといって、即座に許されるとは限らない」
「僕もまだちょっと怒ってます」
「二対一じゃん」
「僕も入れたら三対一だよ」
「めぐまで?」
ようやく、律の顔にいつもの表情が戻った。
笑ったというほどでもない。けれど、僕たちの言葉に困ったり、不満そうに眉を寄せたりする律を見ているだけで、昨日まで当たり前だったものが少しずつ帰ってきたように思えた。
「それで、遠野はどうしたい?」
創に尋ねられ、律はノートを閉じた。
「俺、まだ何のために歌うのかはわからない。今までは美紀の生まれ変わりに見つけてもらうことが目的だったから、それがなくなったら、何を目指せばいいのかもわからなくなった」
そこで言葉を切った律は、ノートの表紙に残った折り目を親指でなぞった。
「でも、わからないから辞めるっていうのも違うと思う。俺が始めた理由と、今ここにいる理由は、もう同じじゃないから」
律は創とつばめ、それから僕を順番に見た。
「東海大会、俺も出たい。昨日辞めるって言ったばかりで、都合がいいのはわかってるけど……もう一回、四人で出たい」
「それなら最初から、メッセージを送る前に考えてください」
「だから反省してるって」
「では、反省した分は練習で取り戻してもらう」
創がスマートフォンを取り出した。
「さっき、三人で『現在地』を演奏した。聞くか?」
「三人で?」
「遠野がいなくても最後まで演奏できるか確認した」
「できた?」
「できた。でも、僕たちが東海大会で演奏したい『現在地』ではなかった」
創が再生ボタンを押すと、部屋にベースの音が流れた。
つばめのドラムが加わり、僕のギターが追いかける。学校で聞いたときより小さな音量なのに、律の部屋では声が欠けた場所がさらに目立った。
律は俯いたまま、歌が入るはずの場所で指先を動かしている。無意識に拍を数えているのだと、何度も隣で演奏してきた僕にはわかった。
「歌ってもいい?」
律が尋ねた。
「昨日辞めるって言ってた人が、もう歌うんですか?」
「だから、悪かったって」
つばめに言い返しながら、律はベッドから立ち上がった。
マイクの代わりに片手を口元に添え、イントロの残りを数える。最初の声は少し掠れていた。高い音にも届かず、律は悔しそうに眉を寄せる。
それでも創は音源を止めず、つばめは膝を指で叩いて拍を取り始めた。
僕も律の隣に立ち、ギターの旋律を口ずさんだ。
二度目のサビで、彼の声はようやく僕たちの演奏に重なった。
『君の声が 僕の現在地を教えてくれる』
その一行を歌うとき、律は僕を見ていた。
歌い終えた律は、僕の肩に額を預けた。
「めぐ、昨日はごめん」
「うん」
「これからも、また迷惑かけるかもしれない」
「それは僕も同じだよ。創もつばめも、きっとそうだし」
「僕を勝手に含めないでください」
「つばめだっていつか迷惑かけるかもしれないじゃん」
「そのときは謝ります」
律が小さく笑った。
始まりにあった理由がなくなっても、始めたあとに生まれたものまで消えるわけじゃない。
僕たちは、律の前世の恋人を探すためだけに集まった四人じゃない。
ここまで一緒に演奏してきたから、これからも四人で演奏したい。
律はやっとそのことに気づいてくれた。
今の僕には、それだけで十分だった。
約束を守ってくれたことには安心したけど、続けて僕が送った『明日は学校に来る?』という質問には、翌朝になっても返事がなかった。
教室に律の姿はなく、担任は体調不良だと説明した。昨日も同じ理由で休んだことになっているから、クラスの誰も不審には思っていない。
午前中に何度かメッセージを送ったものの、既読さえつかなかった。
放課後、防音室に行くと、創とつばめは先に来ていた。
創はベースをアンプにつなぎ、つばめもドラムの高さを調整している。
「巡先輩、律先輩から連絡はありましたか?」
「昨日の夜に、家に着いたって来ただけ。そのあとは何もないよ」
「僕のところには、昨夜遅くに届いた」
創がスマートフォンの画面を僕たちに向ける。
律からの文面は短かった。
『東海大会は三人で出てほしい。無理なら代わりを探してくれ』
「創は何て返事したの?」
「却下すると伝えた。その後は既読になっていない」
つばめも同じ連絡を受け取ったらしく、スティックを握ったまま唇を尖らせている。
「僕も嫌ですと返しました。勝手に抜けるのは、律先輩の我儘です」
「美紀さんのことになると我儘なのは知ってたけど、いないってわかったあとまで我儘だとは思わなかったよ」
口にしてから、昨日の律の顔が浮かんだ。
腹が立っていないわけじゃない。それでも、東京まで一人で確かめに行って、自分がずっと信じてきたものを一日で失った律に、すぐ普段どおりに戻れと言えるほど僕も割り切れなかった。
創は眼鏡の位置を直してからベースを構えた。
「遠野がいなくても、今日は練習する。二人とも準備してくれ」
創の指が弦を弾き、『現在地』のイントロが始まった。
この曲はベースから始まる。
何度も聞いてきた低い旋律につばめのドラムが加わり、僕もギターを重ねた。
いつもなら律が歌い始める場所まで、体が勝手に小節を数えていく。
けれど、そこに声は入らなかった。
歌詞を待っていた音だけが取り残され、僕のギターも次に進む場所を見失いそうになる。
それでも創は止まらず、つばめも空いた場所を埋めようとはしなかった。
僕たちは律の不在を、そのまま残して演奏を続けた。
サビに入ると、声がないことはますますはっきりした。
演奏だけでも曲の形は保てる。創とつばめは正確で、僕も昨日より下手になったわけじゃない。
それなのに、いつもの『現在地』には聞こえなかった。律の声が欠ければ、似た形をした別の曲にしかならない。
最後まで弾き終えると、つばめがスティックを膝に置いた。
「やっぱり、代わりはいりません」
「うん。僕もそう思う」
律に歌ってほしいのは、僕が彼を好きだからだけじゃない。
この曲は四人で作った。創のベースも、つばめのドラムも、僕のギターも必要で、それと同じように律の声が必要だ。
誰か一人を別の人に替えて東海大会に出ても、それはもう僕らたちの『現在地』じゃない。
「律は、一人にしてほしいって言ってた」
昨日、追いかけても届かなかった言葉を思い出しながら、二人に伝える。
「僕がまた会いに行ったら、余計に追い詰めるかもしれない」
「一人にすることと、脱退を認めることは別だ」
創は楽器からケーブルを外し、ケースに収め始めた。
「昨日は篠宮が話した。今日は僕たちが話す」
「僕も行きます。というか、僕たちにも怒る権利はあると思います」
「怒るの?」
「ありますよ。東海大会まで一緒に練習してきたのに、急に『三人で出てほしい』なんてメッセージが来るんですよ?」
つばめの言い分には反論できなかった。
律が僕に頼ることを拒むなら、なおさら僕一人で彼を連れ戻そうとするべきじゃないのかもしれない。
リーインカーネーションは僕と律の二人だけで作ってきたものじゃなく、創にもつばめにも、律に言いたいことがある。
僕たちは楽器を片づけると、律の家に向かった。
---------
玄関の呼び鈴を押すと、出てきたのは律のお父さんだった。
「巡君。昨日は律のために東京まで行ってくれたそうだね」
「勝手に追いかけただけです。律は家にいますか?」
「部屋にいるよ。今日は昼過ぎに一度下りてきたけど、それからまた籠もってる」
昨日よりは動けているらしい。その小さな変化に安心しながら、お父さんに案内されて階段を上がった。
律の部屋の前で扉を叩くと、今度はすぐに中から返事があった。
「誰?」
「巡だよ。創とつばめもいる」
「……三人とも?」
しばらくして扉が開いた。
律は部屋着を着ていて、長い髪も後ろでひとつに結んでいた。目の下にはまだクマが残っているものの、昨日の原宿で見たときより顔つきは落ち着いている。
僕たちの顔を順番に確かめた律は、何か言おうとしてやめ、扉を大きく開けた。
「入って」
予想していた反応と違って、三人とも黙ったまま部屋に入った。
床には歌詞のノートが置かれていた。何枚かのページが破られ、表紙も折れ曲がっている。ただ、その横には剥がれたページを留めるためなのか、透明なテープが置かれていた。
つばめが床に座り、創もその隣に腰を下ろす。
僕が最後に入って扉を閉めると、律はベッドの脇に座った。
「ゆうべ、変なメッセージ送ってごめん」
僕たちが何かを言うより先に、律が口を開いた。
「創とつばめから返事が来たあとも、ずっと考えてた。昨日はもう全部どうでもよくなってて、自分がバンドを始めた理由まで間違いだったなら、続ける意味もないって、それしか考えられなかった」
律は膝の上で両手を組み、そこに目を落としていた。
昨日の原宿では、僕が何を言っても自分を否定する言葉に変えてしまっていた。
その律が今は、同じ出来事を昨日とは違うところから見ようとしている。
「でも、一晩経って少し冷静になったら、俺がやってること、めちゃくちゃだなって思った」
そこで律は顔を上げた。
「俺が勝手に、自分の前世を信じて、前世の恋人の生まれ変わりを探したいからってバンドを始めたんだよな。創にもめぐにも付き合ってもらって、つばめも入ってくれて、それからずっと四人で練習してきた。なのに、前世が俺の勘違いだったってわかった途端、今度は勝手に辞めるって言って、東海大会は三人で出ろとか、代わりを探せとか……自分の都合しか考えてなかった」
「本当にそうですよ」
つばめが遠慮なく答えた。
律は苦笑したけど、言い返さなかった。
「うん。そうなんだよ。昨日の俺には、そこまで考える余裕がなかった。でも、それでみんなに迷惑かけていい理由にはならないし、心配させていい理由にもならないよな」
律の視線が僕のところで止まった。
「自分の人生が全部嘘だったみたいな気がして、それで頭がいっぱいになってたけど、みんなの人生まで俺のものじゃないんだよな」
その言葉を聞いて、昨日の律が「もう頼りたくない」と言った理由を少し違う形で理解できた気がした。
律は僕に頼ったことそのものを後悔していたんじゃない。
自分の信じる物語に僕たちまで巻き込み、その物語が壊れたら、僕たちがそこで積み重ねてきたものまで勝手に終わらせようとしたことに、ようやく気づいたのだ。
「俺が始めたバンドだから、俺が辞めれば終わりだって、どこかで思ってたのかもしれない。でも、もう俺だけのバンドじゃないよな」
「最初からそう言っている」
創が答える。
「リーインカーネーションは四人のバンドだ。始めた人間に、終わらせる権利まで自動的に与えられるわけじゃない」
「創らしいな、それ」
「事実だ」
「うん。だから謝りたかった。創、つばめ、ごめん。めぐにも。昨日からずっと心配かけて、ごめん」
律が頭を下げる。
つばめは腕を組んだまま、すぐには何も言わなかった。
「謝るってことは、脱退するっていうのも撤回するんですか?」
「それも考えた」
律は床に置いてあった歌詞のノートを拾った。
破れたページには、透明なテープが貼られている。継ぎ目は目立つし、折れ曲がった表紙も完全には戻っていない。それでも、昨日は捨てようとしたはずのものを、律は自分の手で直そうとしていた。
「昨日は、この歌詞も全部嘘みたいに思えた。でも読み返したら、違った」
開かれたページには『現在地』の歌詞が残っていた。
何度も書き直した跡に、僕たちが練習中に加えた印も混じっている。
「俺が信じてた前世は勘違いだった。でも、この曲を書いたのは俺なんだよな。めぐに言葉を出してもらって、創とつばめの演奏を聞いて、四人で直して作った。俺が前世だと思ってた記憶を書いたわけじゃない」
「やっと気づいた?」
僕が尋ねると、律は少し眉を寄せた。
「昨日、お前にもそう言われたし」
「言ったよ。全然聞いてくれなかったけど」
「……ごめん」
「それはもういいよ」
昨日と今日では、同じ言葉でも律の中に入っていく場所が違うのだろう。
僕がどれだけ説明しても届かなかったことを、律は一人になった時間の中でようやく自分の言葉に置き換えられたらしい。
「律、最初の一行を覚えてる?」
「自分で書いたんだから覚えてるよ」
「『君の声が 僕の現在地を教えてくれる』。僕が、この『君』は誰かって聞いたとき、律は何て答えた?」
律は開いたページに目を落とした。
「……今は、めぐだって言った」
「それも一晩考えて、間違いだったと思った?」
「思ってない」
今度は迷わなかった。
「あれは美紀に向けて書いた言葉じゃない。めぐのことを考えて書いた。今の俺が選んだ言葉だよ」
その答えに、胸の中に残っていた硬いものが少しずつほどけていった。
律が信じていた前世が本物じゃなくても、僕たちが一緒に過ごしてきた時間まで偽物になるわけじゃない。
放課後の防音室も、文化祭も、四人で作った『現在地』も、僕が律を好きになったことも、現実で起きたことだ。
「じゃあ、僕からも言わせて」
僕は律が持っているノートに手を重ねた。
「僕は美紀さんを探すためにバンドをやってたんじゃない。律の声と一緒に演奏したくてギターを弾いてる。創もつばめも、自分でここにいることを選んだ。だから、律が前世を勘違いしてたことと、僕たちがバンドを続けるかどうかは別の話だよ」
「僕も同じです」
つばめが続けた。
「文化祭で三人の演奏を聞いて、このバンドで叩きたいと思ったから入りました。前世の恋人探しを手伝うためじゃありません。だから律先輩の前世が誰だったとしても、僕がこのバンドに入った理由は何も変わりません」
「僕も遠野の目的に賛同して加入したわけではない」
創は眼鏡越しに律を見た。
「ただし、昨夜のメッセージについてはまだ怒っている」
「そこは許してくれないのかよ」
「反省したからといって、即座に許されるとは限らない」
「僕もまだちょっと怒ってます」
「二対一じゃん」
「僕も入れたら三対一だよ」
「めぐまで?」
ようやく、律の顔にいつもの表情が戻った。
笑ったというほどでもない。けれど、僕たちの言葉に困ったり、不満そうに眉を寄せたりする律を見ているだけで、昨日まで当たり前だったものが少しずつ帰ってきたように思えた。
「それで、遠野はどうしたい?」
創に尋ねられ、律はノートを閉じた。
「俺、まだ何のために歌うのかはわからない。今までは美紀の生まれ変わりに見つけてもらうことが目的だったから、それがなくなったら、何を目指せばいいのかもわからなくなった」
そこで言葉を切った律は、ノートの表紙に残った折り目を親指でなぞった。
「でも、わからないから辞めるっていうのも違うと思う。俺が始めた理由と、今ここにいる理由は、もう同じじゃないから」
律は創とつばめ、それから僕を順番に見た。
「東海大会、俺も出たい。昨日辞めるって言ったばかりで、都合がいいのはわかってるけど……もう一回、四人で出たい」
「それなら最初から、メッセージを送る前に考えてください」
「だから反省してるって」
「では、反省した分は練習で取り戻してもらう」
創がスマートフォンを取り出した。
「さっき、三人で『現在地』を演奏した。聞くか?」
「三人で?」
「遠野がいなくても最後まで演奏できるか確認した」
「できた?」
「できた。でも、僕たちが東海大会で演奏したい『現在地』ではなかった」
創が再生ボタンを押すと、部屋にベースの音が流れた。
つばめのドラムが加わり、僕のギターが追いかける。学校で聞いたときより小さな音量なのに、律の部屋では声が欠けた場所がさらに目立った。
律は俯いたまま、歌が入るはずの場所で指先を動かしている。無意識に拍を数えているのだと、何度も隣で演奏してきた僕にはわかった。
「歌ってもいい?」
律が尋ねた。
「昨日辞めるって言ってた人が、もう歌うんですか?」
「だから、悪かったって」
つばめに言い返しながら、律はベッドから立ち上がった。
マイクの代わりに片手を口元に添え、イントロの残りを数える。最初の声は少し掠れていた。高い音にも届かず、律は悔しそうに眉を寄せる。
それでも創は音源を止めず、つばめは膝を指で叩いて拍を取り始めた。
僕も律の隣に立ち、ギターの旋律を口ずさんだ。
二度目のサビで、彼の声はようやく僕たちの演奏に重なった。
『君の声が 僕の現在地を教えてくれる』
その一行を歌うとき、律は僕を見ていた。
歌い終えた律は、僕の肩に額を預けた。
「めぐ、昨日はごめん」
「うん」
「これからも、また迷惑かけるかもしれない」
「それは僕も同じだよ。創もつばめも、きっとそうだし」
「僕を勝手に含めないでください」
「つばめだっていつか迷惑かけるかもしれないじゃん」
「そのときは謝ります」
律が小さく笑った。
始まりにあった理由がなくなっても、始めたあとに生まれたものまで消えるわけじゃない。
僕たちは、律の前世の恋人を探すためだけに集まった四人じゃない。
ここまで一緒に演奏してきたから、これからも四人で演奏したい。
律はやっとそのことに気づいてくれた。
今の僕には、それだけで十分だった。

