僕は君の運命じゃない

 月曜日の朝、学校の最寄り駅に着いても、改札の外に律はいなかった。
 僕が電車を一本乗り遅れた日でさえ、壁にもたれて待っているようなやつだ。先に行ったのかと思って教室まで急いだけど、律の席には誰も座ってないし、机の横に鞄も掛かっていなかった。
 スマートフォンを確認すると、いつの間にか律からメッセージが届いていた。

『今日は学校休む。部活も行けない』

 理由は書かれていない。
 電話をかけても応答はなく、体調を尋ねるメッセージを送っても既読にならない。
 このまま放課後まで連絡が取れなかったら、家まで様子を見に行こうと思った。あんなショックなことがあった翌日に、いつもどおり学校に来いというほうが無理なのかもしれない。
 休み時間になるたび画面を確かめ、昼休みには既読のつかないメッセージが八件並んでいた。
 購買で買ったパンの袋を開ける気にもなれずにいると、ようやくスマートフォンが震えた。
 律から送られてきたのは言葉ではなく、一枚の写真だった。
 駅舎の向こうに、大きな街頭広告と見慣れた並木が写っている。何度も二人で降りた場所だから、説明されなくてもわかった。

『原宿にいるの?』

 送った直後に既読がついた。

『うん』
『一人で?』
『うん。用事は終わった。少し歩いてから帰る』

 何の用事だったのか尋ねても、返事はなかった。
 僕は食べていないパンを鞄に入れ、リーインカーネーションのグループメッセージに、律を迎えに行くと送った。
 創からは『居場所がわかったら連絡してくれ』、つばめからは『律先輩を一人にしないでください』と、ほとんど同時に返信が来た。
 二人の言葉を読んでから、担任には気分が悪いと嘘をついた。本当に胃の辺りが固く縮んでいたから、半分くらいは嘘じゃない。
 早退届を書いて学校を出ると、名古屋駅まで走り、その時点で一番早く乗れる新幹線の切符を買った。
 律は今まで、東京を遠いと思ったことなんてないと言っていた。交通費が足りなければ食事を我慢して、美紀さんを見つけられるなら何度だって行くって。
 その東京に、律は今たった一人でいる。
 美紀さんが存在する可能性を捨てきれず、最後の確認をしに行ったのだろうか。
 写真に添えられた「用事は終わった」という言葉だけでは、それが何を意味しているのかわからなかった。



---------



 原宿駅に着いたのは、午後三時を過ぎた頃だった。
 平日の昼間でも通りには若者や観光客があふれ、色鮮やかな看板の下を途切れずに流れている。
 電話は相変わらずつながらなかった。
 写真を送った以上、律には僕がここまで来る可能性もわかっているはずなのに、次の居場所を教えるつもりはないらしい。
 僕は駅前から、二人で何度も歩いた道をたどった。
 最初に立ち寄る古着店、律がいつも店内にいる客の顔を確かめるレコード店、昼食代が足りないときに僕がパンを買ったコンビニ。どこにも見慣れた長い金髪は見つからなかった。
 最後に向かったのは、大通りから外れた細い路地だった。
 古い建物の壁に沿って低い柵があり、歩き疲れたときには律と並んで腰を預けたことがある。
 律はそこにいた。
 黒いシャツの背中を壁につけ、行き交う人々を眺めていたけど、美紀さんに似た人を探しているときの鋭さは目に残っていない。焦点の合わないまま、色と形だけを受け流しているような目だった。

「律」

 僕が呼ぶと、律はこちらを見たものの、驚きもしなかった。
 近づくと、顔色が悪く、目の下にクマができているのがわかった。昨夜は眠れなかったのかもしれない。

「やっぱり来たんだ」
「来てほしくないなら、写真なんて送らなきゃいいじゃん」
「どこにいるのか聞かれたから答えただけだ」
「学校も練習も休んで、一人で何してるの?」

 律はしばらく僕の顔を見たあと、壁から背中を離した。

「脚本家に会ってた」
「『あの春の終わりに』を書いた人?」
「うん。昨日、めぐが帰ったあと、もう一度DMを送った」

 律はポケットからスマートフォンを取り出し、僕に画面を見せた。
 そこには、普段の律からは考えられないほど長い文章が残っていた。
 十二歳の時に突然前世の記憶を思い出し、前世で恋人だった美紀さんを何年も探してきたこと。記憶と同じ台詞や出来事が『あの春の終わりに』に登場したこと。母親が当時そのドラマを毎日のように繰り返し見ていて、幼い自分が台詞を暗唱する映像まで見つかったこと。
 母親が事故で亡くなったあとに記憶が鮮明になったことも、その記憶を頼りに東京を歩き、歌を作り、バンドを始めたことも、隠さずに書かれていた。
 文章の最後で、律はもう一度、ドラマに実在の人物や出来事をモデルにしていないか尋ねていた。
 文字だけの返事では納得できないから、可能なら直接会って話したいとも伝えている。

「夜中に返事が来た。事情はわかったから、一度会って話してもいいって」
「それで、今朝一人で東京に来たの?」
「言ったら、めぐも来ただろ。これ以上、迷惑かけたくなかった」
「迷惑じゃないよ。……それで、何て言われたの?」

 律はスマートフォンの画面を消し、ポケットに戻した。

「前の返事と同じだった。『あの春の終わりに』は、最初から最後まで自分が作った話だって。モデルになった人もいないし、律と美紀って名前も適当に付けただけだって」

 律は、ノートに書いていた記憶を一つずつ話したらしい。
 五つ葉のクローバーも、ピアニッシモとラークも、ニンニクを多く入れたペペロンチーノも、交通事故のあとに交わした来世の約束も、脚本家から返ってきたのは同じ説明だけだったという。
 それらはすべてドラマのために一から考えたもので、登場人物の二人にも特定のモデルはいない。律が自分の記憶だと話しても、脚本家は答えを変えなかった。

「嘘をついてるように見えた?」

 昨日の律なら、迷わずそうだと言ったかもしれない。
 けれど、律は唇をきつく結んだあと、首を横に振った。

「わかんない。でも、何度聞いても同じだった。俺が欲しい答えを渡せなくて申し訳ないって言われただけ」

 律は通りの先を顎で示した。
 そこには以前、美紀さんを探すために二人で何往復もした道がある。

「そのあと、今まで歩いた場所をもう一度見てた。何か残ってるかもしれないと思ったけど、何もなかった」

 律は肩に掛けていた鞄を開き、中から小さな紙袋を取り出した。銀色の細いリボンがかかった箱は、買った日と変わらない姿で収まっていた。
 僕が一度だけ自分に贈られるのかもしれないと思い、次の瞬間には美紀さんのものだと知らされたネックレスだ。

「これも、渡す相手なんて最初からいなかった。美紀との思い出も、約束も、あいつを探すために東京まで来た理由も、歌を作った理由も、全部存在しなかった」
「全部って言うのは違うだろ。前世じゃなかったとしても、『あの春の終わりに』までなくなるわけじゃない」

 律の眉が寄った。
 僕自身、口にしてから何を言っているんだろうと思ったけど、間違っているとは思わなかった。

「律のお母さんが毎日のように見てて、律も台詞を覚えるくらい一緒に見てたんだろ。それは本当にあったことじゃん」

 律は答えなかった。
 昨日見た幼い律の映像を思い出した。まだ前世なんて言葉すら知らなかったはずの小さな子供が、画面の中の台詞を覚えて喋っていた。
 そこに映っていたものまで、今日になって消えてしまうわけじゃない。

「前世だと思い込んでたんだぞ」
「それは間違ってたのかもしれない。でも、ドラマに影響されたあと、何年も歌を練習して、歌詞を書いて、バンドを続けてきたのは律だろ。そこまで全部借り物だったことにはならないよ」

 初めて律の歌を聞いた日のことを、僕は今でも覚えている。
 中学生だった律の声は今より不安定で、高い音では少し力んでいた。それでも何度も歌い直して、できなかったところを次の日にはできるようにしてきた。作詞だって、最初から今みたいにできたわけじゃない。
 僕はその過程をずっと隣で見てきた。

「美紀さんのことだって同じだよ。画面の中にしかいなかったとしても、律が本気で大事に思ってたことまで偽物になるわけじゃない」

 律の手の中で、紙袋がわずかに傾いた。
 僕にとって美紀さんは、ずっと勝てない相手だった。会ったこともなく、存在するのかさえわからない人を何度羨ましいと思ったかわからない。
 それでも今、律の彼女への想いまで否定してしまいたいとは思えなかった。
 美紀さんが画面の中にしかいなかったとしても、その人を本気で好きだった律を、僕は何年も見てきたからだ。

「律のお母さんが大好きだった物語を、律も大好きになった。それが律の中に残って、歌を始めるきっかけになった。それでいいじゃん。前世じゃなかったからって、『あの春の終わりに』まで律の人生から追い出さなくていいよ」

 律は何も言わなかった。
 ただ、さっきまで捨てるもののように持っていた紙袋を、もう一度鞄の中に戻した。
 それだけで僕の言葉が届いたと思うほど楽観的にはなれなかったけど、少なくともネックレスをその場に捨てていこうとはしなかった。

「バンド、辞める」

 それでも出てきた言葉に、今度こそ何を言われたのかわからなくなった。

「……なんでだよ。今までの話聞いてた?」
「聞いてた。めぐが言ってることもわかる。でも、今は無理なんだよ」

 律は僕の言葉を遮り、鞄の持ち手を握り直した。

「俺、何が自分の気持ちなのかわかんないんだ。歌が好きなのも、作詞が好きなのも、美紀を好きだったからなのか、本当に俺が好きなのか、今はわかんない。どこまでがドラマの影響で、どこからが本当の俺なのかも」

 僕には答えられなかった。
 何かに影響されて人が変わることと、自分自身であることは両立するはずだ。でも、十二歳からずっと自分の人生だと信じていた記憶が、突然テレビドラマの架空の物語だったとわかった律に、今すぐそれを納得しろとは言えない。

「……正直、今はもう何も考えたくない」
「辞めるんじゃなくて、休むだけでもいいだろ」
「今は、ステージに立ちたくない」
「わかった。でも、僕は律と一緒にいた時間までなくなったとは思わないから」

 口にしてから、隠してきた気持ちの輪郭まで言葉に混じってしまった気がした。
 律が顔を上げる。

「原宿に来たのも、ギターを弾いてたのも、僕が自分で選んだことだよ。だから律も、前世だと思ってたことが違ったからって、そのあと自分で選んだことまで全部嘘だったなんて思わなくていい」

 律は僕を見ていた。
 何かを言おうとしているのはわかったのに、結局その口から言葉は出なかった。

「今日は一人にして」
「今の律を一人で置いて帰れるわけないだろ」
「めぐが隣にいると、また甘えちゃうから。俺が何も決められないままでも、めぐが代わりに答えを出してくれるって期待して、頼っちまう」
「頼ればいいじゃん。親友なんだから」
「……ごめん。とにかく一人にして」

 追いかけて腕をつかめば、引き止めることはできたかもしれない。
 けれど今の律に必要なのは、一度冷静になって、気持ちが落ち着いてから考えることなのかもしれない。
 律が歌う理由も、誰かを好きになる理由も、これから何を大事にするのかも、最後には律自身が選ばなければならない。
 ただ、その答えを探すために、これまでの自分を全部壊す必要はない。それだけは、いつか律にもわかってほしかった。

「家にはちゃんと帰る。父さんにも連絡するから、ついてこないで」

 律はそれだけ伝えると、人通りの多い道に向かって歩き出した。
 僕はその場に残り、遠ざかる黒いシャツと金色の髪を見ていた。
 美紀さんを探していた頃の律なら、どれだけ人が多くても僕と離れることはなかったのに、今日は何度も通行人に遮られ、そのたびに姿が小さくなっていく。
 それでも、鞄の中にはあのネックレスが残っている。
 存在しなかった恋人に渡すために買ったものではなく、律が長いあいだ大切にしてきた物語の名残として、今はそれでいいような気がした。
 律が見えなくなってから、創とつばめに彼の無事を知らせ、彼のお父さんにも、脚本家に会うため東京に来ていたことと、家には帰ると言っていたことを伝えた。
 そこまでしても足は駅に向かず、僕は律がさっきまで立っていた壁に背中を預けた。
 この街で探していた人は、たぶんもう見つからない。
 けれど律がここで過ごした時間まで、最初からなかったことにはならない。
 何度も二人で歩いた道を眺めながら、僕はそれだけは信じていた。