県大会から帰った夜、風呂を出たところで律からメッセージが届いた。
画面に表示されていたのは、『明日、うちに来てくれない?』という短い一文だった。
優勝を祝う打ち上げなら創とつばめにも声をかけるはずだし、脚本家から届いた返事について話すだけなら電話でも足りる。
理由を尋ねると、今度はなかなか既読がつかなかった。
ドライヤーをかけ終えた頃、ようやく律から電話がかかってきた。
「あのドラマ、全部見ようと思う。最初から最後まで、ちゃんと」
「あのドラマって、『あの春の終わりに』?」
「うん。父さんが、母さんのDVDを見つけたんだ。全話収録されてるセットがあった」
耳元の声はいつもより低く、言葉の終わりが頼りなく薄れていた。
「わかった。何時に行けばいい?」
「まだ、何も頼んでないけど」
「僕に来てほしくて電話したんだろ」
律は否定しなかった。
「一人で見る勇気がないんだ。父さんと二人でも、たぶん無理だわ」
「それなら、最初からそう言えばいいじゃん」
「格好悪くない?」
「親友なんだから、こういうときくらい頼ればいいんだよ。今さら僕に格好つけてどうすんの。中学の修学旅行で、夜中にトイレまでついてきてって頼んだこともあるくせに」
「あれは廊下が暗かったからじゃん」
「今回も似たようなもんでしょ。怖いなら、一緒に見るよ」
僕が十時ごろに行くと伝えると、律はやっと普段に近い声で「ありがとな」と答えた。
美紀さんを探すことに関して、律が僕に助けを求めるのは珍しくない。東京の地図を調べるのも、人混みの中を歩き回るのも、二人で何度もやってきた。けれど、それは必ず見つかると信じて進むための手伝いだった。
明日求められているのは、信じてきた道が本当に前世から続いていたのか、それとも幼い頃に見た物語から始まった妄想なのかを、足元から確かめ直すための同行だ。行き先のわからない暗い廊下より、ずっと足を踏み出しにくいに決まってる。
---------
翌日、律の家のリビングには、DVDセットが並べられていた。
休日なのに来てもらって悪いね、とお父さんは言った。いつもなら律の家に上がるくらいで気を遣われることはないのに、今日はテーブルに麦茶だけでなく、未開封の菓子まで何種類も並んでいる。
「これが『あの春の終わりに』のDVD第一巻だよ」
お父さんがDVDのパッケージを一つ差し出すと、律は受け取らず、膝の上で両手を組んだまま僕を見た。
昨日の電話では一緒に見ると約束したけど、再生するところまで僕の役目に含まれているらしい。僕はパッケージを受け取り、中からディスクを取り出してプレイヤーのトレイにセットした。リモコンを操作して再生すると、画面に映像が現れる。
「母さんは当時、このドラマの主演俳優の大ファンでね」
お父さんが、テレビの中の若い男を指さした。
「母さんがハマった当時はこの俳優さんは四十代ぐらいだったんだけど、若い頃出演した作品もDVDで片っ端から見ていたんだよ。特に気に入ったドラマは毎日のように繰り返し見ていたんだ。家事をしているときにも、音だけ流していたくらいだよ」
「でも、俺はこの俳優の顔に見覚えはない」
「そうか? 律も同じ部屋で遊んでいたから、見ていなくても耳に入ってはいたはずだけどな。主人公は律と同じ名前だし、自分の名前が聞こえてきたら気になるんじゃないか?」
それから数時間、僕たちは律の記憶を書いたノートと、残された全十話の映像を照らし合わせた。
主人公たちが出会ったレコード店では、当時流行していたロック曲が流れていた。美紀さんが好きだったと律が話していた曲で、ノートにも題名が書き留められている。店内の棚の配置も、扉を開けたときに鳴るベルも、律が前世で何度も通ったと説明していた店と同じだった。
別の回では、ヒロインのポケベルに数字だけのメッセージが届き、主人公が公衆電話から彼女のPHSに連絡していた。律が中学生の頃から知っていたポケベルの入力方法も、アンテナを伸ばして使うPHSも、映像の中にそのまま登場する。僕がどうしてそんな昔の通信機器に詳しいのかと尋ねるたび、律は前世で使っていたからだと答えていた。
回を重ねるほど、ノートにある記憶は一つのドラマの中に形を持って現れた。ヒロインがピアニッシモを買えば、主人公はラークを選び、二人で料理をする場面では、ニンニクを多めに入れたペペロンチーノが食卓に並ぶ。最初の誕生日に渡したプレゼントも、二人だけが意味を知る口癖も、どれも『あの春の終わりに』の中にあった。
海沿いの赤い柵も、雨の日に二人で入った喫茶店の青い砂糖壺も、探せば同じ画面の中に見つかった。
律は自分のノートに目を落とすたび、確かめ終えた項目に一本ずつ線を引いた。最初は細かった線が、途中から文字を潰すほど濃くなっていった。
夕方近く、僕たちは最終話まで見終えた。
終盤では二人が交通事故に遭い、女性が重傷を負う。
そして二人は来世でも恋人になると約束を交わし、女性が先に亡くなる。その後、男性のほうも脳の後遺症が原因で命を落とした。
エンドロールのあとには『数十年後』というテロップが流れ、生まれ変わった二人が偶然また巡り会う場面で物語は幕を閉じる。
最後には救いがあったけど、なんて悲しい物語なんだろう。
こぼれた涙を手で拭いながら横を見ると、律も鼻をすすっていた。彼がドラマの結末に泣いているのか、自分の記憶と同じ結末を見せつけられたからなのか、僕にはわからなかった。
再生を停止したあと、お父さんが口を開いた。
「律、これを見てくれないか」
お父さんが手に取った白いディスクには、手書きで『律・家』とだけ書かれていた。ビデオカメラで撮影した映像らしい。
画面の中には、今より狭く見えるこのリビングがあり、幼い律がカーペットに座っていた。短い黒髪のせいで現在とは別人みたいなのに、気に入らないことがあると片方の眉だけ上げる癖はもう同じだ。
カメラを持っているのはお父さんらしい。映像の中で笑いながら名前を呼ばれた律は、振り向きもせず、テレビに集中している。その隣にはお母さんが座り、親子で『あの春の終わりに』を見ていた。
ちょうど五つ葉のクローバーが出てくる場面だった。ドラマの女性が口を開くより先に、幼い律が得意そうな声で言った。
『幸せがひとつ余ったね』
お母さんが笑って律の髪を撫でる。「すごいな、台詞を覚えたの?」とカメラの外から尋ねる声に、彼女は「この子、この場面が好きなのよ」と答えた。
僕の隣にいる律は、幼い自分と母親を見つめていた。母親の顔が大きく映ると唇をわずかに開いたけれど、そこから言葉は出てこなかった。
「父さん、このこと、知ってたの?」
「撮ったことは覚えてる。ただ、律が何を言っていたかまでは忘れてた。ドラマのDVDと一緒に押入れの奥から出てきて、内容を見てようやく思い出したんだよ」
「見てないって思ってたのに……俺、本当は見てたんだな」
律の問いに、お父さんは頷いた。
動画配信で同じ場面を見つけたときには、実在した二人をモデルにした可能性を考えた。けれど、脚本家はすべて創作だと答え、今度は幼い律自身が放送より先に台詞を口にする姿まで映っている。
少なくとも、『あの春の終わりに』が律の記憶より先に存在し、幼い彼が繰り返し見ていた事実だけは動かせない。
僕には、律が前世のものだと信じていた言葉の出どころが、このドラマだったとしか思えなくなっていた。
お父さんは律をまっすぐ見つめながら言う。
「母さんが事故で亡くなってしばらくした頃、お前が美紀という子を探さなきゃいけないって言い出したことは覚えている。夢の中の友達か、母さんがいなくなった寂しさを埋めるために想像で作った子だと思っていたんだ。いつからかそのことを私には話さなくなったから、てっきりもう忘れたものだとばかり……」
「前世の恋人だって言っても、父さんは信じなかっただろ」
「信じられなかったと思う。それでも、何年も一人で抱えていると知っていたら、もっと早く一緒に確かめることはできたかもな」
僕には、毎日のように見聞きしたドラマが、どんな仕組みで一人分の人生の記憶に変わってしまったのかまでは説明できない。
それを彼のお父さんはこう考えた。
「きっと、母さんが死んだことがショックで、ドラマの記憶と現実の記憶が混ざってしまったんだろうな」
そのとき、僕はつばめが幼い頃に夢で見た恐竜を、ずっと現実だと思い込んでいたという話を思い出した。
子供の頃に母親が死ぬなんていう大きな出来事が起きたら、フィクションと現実を混同してしまうくらい、頭の中が揺さぶられても不思議じゃないのかもしれない。
「父さん、めぐと二人にしてくれる?」
お父さんは僕に律を任せるように頭を下げ、リビングを出ていった。
「めぐ」
呼ばれて隣を見ると、律は僕ではなく、自分の字を線で潰したノートに視線を落としていた。
「なあ、脚本家が嘘をついてる可能性もあるよな?」
「嘘って、全部自分の創作だっていう返事が?」
「実在した二人をモデルにしたって言えない事情があるのかもしれない。本人たちの許可を取ってなかったとか、関係者に口止めされてるとか」
可能性を並べる律の言葉は、次第に速くなっていった。
「でも、このドラマが放送されたあと、律が何度も見ていたことは映像に残ってるよ」
「見てたことは認める。でも、ドラマに出てたからって俺のあの前世が存在しなかったっていう証拠にはならないじゃん。前世と同じ話だったから、子供の俺にも強く心に残ったのかもしれないだろ」
「律……」
「俺と美紀のことを、誰かがどこかで聞いて、それをドラマにした可能性だってある。脚本家が知らないふりをしてるだけかもしれない」
律は線だらけになったノートのページを破り、グシャグシャに丸めた。
「まだ、美紀がいないって決まったわけじゃない。脚本家の返事と、このビデオだけで、今までの全部が作り物だったことにはならないだろ?」
同意を求められても、僕は頷けなかった。
だからといって、反論もできない。そんなことをすれば、これまで律を支えてきた大切なものを壊してしまうから。
「今日だけで答えを決めなくてもいいんじゃないかな」
今の僕が律にかけられる言葉は、それだけだった
律は僕の服をつかみ、額を肩に押しつけてきた。僕はいつも律が僕にするように肩に腕を回し、引き寄せた。
僕の腕の中に身体を預けながらも、律はまだ、この世界のどこかに美紀さんがいる可能性を手放そうとはしなかった。
画面に表示されていたのは、『明日、うちに来てくれない?』という短い一文だった。
優勝を祝う打ち上げなら創とつばめにも声をかけるはずだし、脚本家から届いた返事について話すだけなら電話でも足りる。
理由を尋ねると、今度はなかなか既読がつかなかった。
ドライヤーをかけ終えた頃、ようやく律から電話がかかってきた。
「あのドラマ、全部見ようと思う。最初から最後まで、ちゃんと」
「あのドラマって、『あの春の終わりに』?」
「うん。父さんが、母さんのDVDを見つけたんだ。全話収録されてるセットがあった」
耳元の声はいつもより低く、言葉の終わりが頼りなく薄れていた。
「わかった。何時に行けばいい?」
「まだ、何も頼んでないけど」
「僕に来てほしくて電話したんだろ」
律は否定しなかった。
「一人で見る勇気がないんだ。父さんと二人でも、たぶん無理だわ」
「それなら、最初からそう言えばいいじゃん」
「格好悪くない?」
「親友なんだから、こういうときくらい頼ればいいんだよ。今さら僕に格好つけてどうすんの。中学の修学旅行で、夜中にトイレまでついてきてって頼んだこともあるくせに」
「あれは廊下が暗かったからじゃん」
「今回も似たようなもんでしょ。怖いなら、一緒に見るよ」
僕が十時ごろに行くと伝えると、律はやっと普段に近い声で「ありがとな」と答えた。
美紀さんを探すことに関して、律が僕に助けを求めるのは珍しくない。東京の地図を調べるのも、人混みの中を歩き回るのも、二人で何度もやってきた。けれど、それは必ず見つかると信じて進むための手伝いだった。
明日求められているのは、信じてきた道が本当に前世から続いていたのか、それとも幼い頃に見た物語から始まった妄想なのかを、足元から確かめ直すための同行だ。行き先のわからない暗い廊下より、ずっと足を踏み出しにくいに決まってる。
---------
翌日、律の家のリビングには、DVDセットが並べられていた。
休日なのに来てもらって悪いね、とお父さんは言った。いつもなら律の家に上がるくらいで気を遣われることはないのに、今日はテーブルに麦茶だけでなく、未開封の菓子まで何種類も並んでいる。
「これが『あの春の終わりに』のDVD第一巻だよ」
お父さんがDVDのパッケージを一つ差し出すと、律は受け取らず、膝の上で両手を組んだまま僕を見た。
昨日の電話では一緒に見ると約束したけど、再生するところまで僕の役目に含まれているらしい。僕はパッケージを受け取り、中からディスクを取り出してプレイヤーのトレイにセットした。リモコンを操作して再生すると、画面に映像が現れる。
「母さんは当時、このドラマの主演俳優の大ファンでね」
お父さんが、テレビの中の若い男を指さした。
「母さんがハマった当時はこの俳優さんは四十代ぐらいだったんだけど、若い頃出演した作品もDVDで片っ端から見ていたんだよ。特に気に入ったドラマは毎日のように繰り返し見ていたんだ。家事をしているときにも、音だけ流していたくらいだよ」
「でも、俺はこの俳優の顔に見覚えはない」
「そうか? 律も同じ部屋で遊んでいたから、見ていなくても耳に入ってはいたはずだけどな。主人公は律と同じ名前だし、自分の名前が聞こえてきたら気になるんじゃないか?」
それから数時間、僕たちは律の記憶を書いたノートと、残された全十話の映像を照らし合わせた。
主人公たちが出会ったレコード店では、当時流行していたロック曲が流れていた。美紀さんが好きだったと律が話していた曲で、ノートにも題名が書き留められている。店内の棚の配置も、扉を開けたときに鳴るベルも、律が前世で何度も通ったと説明していた店と同じだった。
別の回では、ヒロインのポケベルに数字だけのメッセージが届き、主人公が公衆電話から彼女のPHSに連絡していた。律が中学生の頃から知っていたポケベルの入力方法も、アンテナを伸ばして使うPHSも、映像の中にそのまま登場する。僕がどうしてそんな昔の通信機器に詳しいのかと尋ねるたび、律は前世で使っていたからだと答えていた。
回を重ねるほど、ノートにある記憶は一つのドラマの中に形を持って現れた。ヒロインがピアニッシモを買えば、主人公はラークを選び、二人で料理をする場面では、ニンニクを多めに入れたペペロンチーノが食卓に並ぶ。最初の誕生日に渡したプレゼントも、二人だけが意味を知る口癖も、どれも『あの春の終わりに』の中にあった。
海沿いの赤い柵も、雨の日に二人で入った喫茶店の青い砂糖壺も、探せば同じ画面の中に見つかった。
律は自分のノートに目を落とすたび、確かめ終えた項目に一本ずつ線を引いた。最初は細かった線が、途中から文字を潰すほど濃くなっていった。
夕方近く、僕たちは最終話まで見終えた。
終盤では二人が交通事故に遭い、女性が重傷を負う。
そして二人は来世でも恋人になると約束を交わし、女性が先に亡くなる。その後、男性のほうも脳の後遺症が原因で命を落とした。
エンドロールのあとには『数十年後』というテロップが流れ、生まれ変わった二人が偶然また巡り会う場面で物語は幕を閉じる。
最後には救いがあったけど、なんて悲しい物語なんだろう。
こぼれた涙を手で拭いながら横を見ると、律も鼻をすすっていた。彼がドラマの結末に泣いているのか、自分の記憶と同じ結末を見せつけられたからなのか、僕にはわからなかった。
再生を停止したあと、お父さんが口を開いた。
「律、これを見てくれないか」
お父さんが手に取った白いディスクには、手書きで『律・家』とだけ書かれていた。ビデオカメラで撮影した映像らしい。
画面の中には、今より狭く見えるこのリビングがあり、幼い律がカーペットに座っていた。短い黒髪のせいで現在とは別人みたいなのに、気に入らないことがあると片方の眉だけ上げる癖はもう同じだ。
カメラを持っているのはお父さんらしい。映像の中で笑いながら名前を呼ばれた律は、振り向きもせず、テレビに集中している。その隣にはお母さんが座り、親子で『あの春の終わりに』を見ていた。
ちょうど五つ葉のクローバーが出てくる場面だった。ドラマの女性が口を開くより先に、幼い律が得意そうな声で言った。
『幸せがひとつ余ったね』
お母さんが笑って律の髪を撫でる。「すごいな、台詞を覚えたの?」とカメラの外から尋ねる声に、彼女は「この子、この場面が好きなのよ」と答えた。
僕の隣にいる律は、幼い自分と母親を見つめていた。母親の顔が大きく映ると唇をわずかに開いたけれど、そこから言葉は出てこなかった。
「父さん、このこと、知ってたの?」
「撮ったことは覚えてる。ただ、律が何を言っていたかまでは忘れてた。ドラマのDVDと一緒に押入れの奥から出てきて、内容を見てようやく思い出したんだよ」
「見てないって思ってたのに……俺、本当は見てたんだな」
律の問いに、お父さんは頷いた。
動画配信で同じ場面を見つけたときには、実在した二人をモデルにした可能性を考えた。けれど、脚本家はすべて創作だと答え、今度は幼い律自身が放送より先に台詞を口にする姿まで映っている。
少なくとも、『あの春の終わりに』が律の記憶より先に存在し、幼い彼が繰り返し見ていた事実だけは動かせない。
僕には、律が前世のものだと信じていた言葉の出どころが、このドラマだったとしか思えなくなっていた。
お父さんは律をまっすぐ見つめながら言う。
「母さんが事故で亡くなってしばらくした頃、お前が美紀という子を探さなきゃいけないって言い出したことは覚えている。夢の中の友達か、母さんがいなくなった寂しさを埋めるために想像で作った子だと思っていたんだ。いつからかそのことを私には話さなくなったから、てっきりもう忘れたものだとばかり……」
「前世の恋人だって言っても、父さんは信じなかっただろ」
「信じられなかったと思う。それでも、何年も一人で抱えていると知っていたら、もっと早く一緒に確かめることはできたかもな」
僕には、毎日のように見聞きしたドラマが、どんな仕組みで一人分の人生の記憶に変わってしまったのかまでは説明できない。
それを彼のお父さんはこう考えた。
「きっと、母さんが死んだことがショックで、ドラマの記憶と現実の記憶が混ざってしまったんだろうな」
そのとき、僕はつばめが幼い頃に夢で見た恐竜を、ずっと現実だと思い込んでいたという話を思い出した。
子供の頃に母親が死ぬなんていう大きな出来事が起きたら、フィクションと現実を混同してしまうくらい、頭の中が揺さぶられても不思議じゃないのかもしれない。
「父さん、めぐと二人にしてくれる?」
お父さんは僕に律を任せるように頭を下げ、リビングを出ていった。
「めぐ」
呼ばれて隣を見ると、律は僕ではなく、自分の字を線で潰したノートに視線を落としていた。
「なあ、脚本家が嘘をついてる可能性もあるよな?」
「嘘って、全部自分の創作だっていう返事が?」
「実在した二人をモデルにしたって言えない事情があるのかもしれない。本人たちの許可を取ってなかったとか、関係者に口止めされてるとか」
可能性を並べる律の言葉は、次第に速くなっていった。
「でも、このドラマが放送されたあと、律が何度も見ていたことは映像に残ってるよ」
「見てたことは認める。でも、ドラマに出てたからって俺のあの前世が存在しなかったっていう証拠にはならないじゃん。前世と同じ話だったから、子供の俺にも強く心に残ったのかもしれないだろ」
「律……」
「俺と美紀のことを、誰かがどこかで聞いて、それをドラマにした可能性だってある。脚本家が知らないふりをしてるだけかもしれない」
律は線だらけになったノートのページを破り、グシャグシャに丸めた。
「まだ、美紀がいないって決まったわけじゃない。脚本家の返事と、このビデオだけで、今までの全部が作り物だったことにはならないだろ?」
同意を求められても、僕は頷けなかった。
だからといって、反論もできない。そんなことをすれば、これまで律を支えてきた大切なものを壊してしまうから。
「今日だけで答えを決めなくてもいいんじゃないかな」
今の僕が律にかけられる言葉は、それだけだった
律は僕の服をつかみ、額を肩に押しつけてきた。僕はいつも律が僕にするように肩に腕を回し、引き寄せた。
僕の腕の中に身体を預けながらも、律はまだ、この世界のどこかに美紀さんがいる可能性を手放そうとはしなかった。

