僕は君の運命じゃない

 高校二年の夏休みは、バンド練習とバイトに明け暮れて特に夏らしい思い出を作ることもなく終わった。
 結局、鷹取には付き合えないと連絡した。
 律への片想いを諦められないまま、別の誰かで男同士の恋愛を試そうとするのは、鷹取にも失礼だと思ったからだ。
 律には断ったことだけを伝えた。すると彼は「そっか」と答え、その日から鷹取の名前を出さなくなった。
 始業式から一か月ほどが過ぎて、今は九月。ついに文化祭当日を迎えた。
 軽音楽部のライブ会場になった体育館では、暗幕が窓を覆っていた。照明を落としても出入口から昼の光が細く入り込み、模擬店の焼きそばや甘いお菓子の匂いまで流れ込んでくる。
 ライブハウスとは全然違う雰囲気だし、キャパも広い。さらに開演前から集まった生徒たちの声が天井に反響しているせいで、僕は普段より緊張していた。
 僕たちの出番は最後から二番目だ。
 舞台袖でギターのチューニングを確かめていると、つばめが何度もスティックを握り直していた。

「つばめ、緊張してる?」
「少しだけです。文化祭で演奏するのは初めてなんで」
「初めてだと緊張するじゃんね。でも、レンタルスタジオより広いだけで、やることはいつもと同じだよ」
「そうですね。客席が見えなくなるくらい、ドラムだけ見て叩きます」

 それでは文化祭の意味がない気もするけど、それで落ち着けるなら今は訂正しないでおこう。
 創は今日も普段どおりで、進行表とステージ上の時計を交互に確認している。
 律はというと、緊張する様子もなく、僕の右手を見ていた。

「それ、今日使うんだ」
「使うためのピックじゃん」
「せっかく名前が入ってんだから、見えるように持ったほうがいいんじゃね?」
「演奏中に名前まで読むのは無理だわ」

 指に挟んでいるのは、誕生日に律からもらった銀色のピックだ。表面には『Meguru.S』と刻まれている。使えば細かな傷がつくけど、大事にしまっておくより、律の声の隣で音を鳴らすために使いたかった。

「傷ついても文句言うなよ」
「言わないし。格好よく弾いてくれたら、それでいいわ」
「さらっと圧をかけないでくれる?」

 返事の代わりに、律が僕の肩を二度叩く。そこで舞台係から合図が入り、僕たちは暗い袖からステージに出て行った。
 客席から歓声が上がる。
 律の名前を呼ぶ女子の声に混じって、同じクラスの連中が僕や創を囃し立て、つばめには一年生らしい高い声援が飛んだ。
 客席のいちばん後ろには、うちとは違う制服を着て、一般来場者用の入場証を胸につけた鷹取がいた。
 目が合うと、約束どおり来たと知らせるように片手を上げる。告白を断ったことで、バンド同士の関係まで切れたわけではないらしい。
 僕が小さく頷くと、隣の律もその姿に気づいたのか、視線があからさまに険しくなった。
 照明の熱を顔に感じながらアンプの前に立つと、さっきまで聞こえていた雑音が、一本のギターケーブルを差しただけで遠のいていく。
 最初に演奏するのは、律が美紀さんに向けて書いた曲だった。
 僕たちが一番長く奏でてきた曲。律が何度もライブハウスから送り続け、それでもまだ宛先に届いていない手紙だ。
 創のベースが低く道を作り、つばめのカウントに合わせて僕も弦を鳴らす。律の声が体育館を満たした瞬間、客席の話し声が消えた。
 歌詞に出てくる「君」が誰なのか、ここにいるほとんどの人は知らない。けど、律がたった一人を探し続けていることは、声を聞けば伝わるんだと思う。
 遠くに呼びかけるように歌う横顔を見ながら、僕はもう何百回も重ねてきたフレーズを弾いた。
 この曲の中で、僕は手紙を運ぶ役だ。宛先にはなれなくても、途中で落とすつもりはない。
 最後の音が消えると、拍手が体育館の壁にぶつかって返ってきた。律は客席を見渡し、マイクを握り直す。

「ありがとう。次が最後です。俺たち四人で作った新曲――『現在地』」

 創一人のベースから曲が始まった。
 同じ短い旋律を繰り返し、途中で一度だけ外れて戻る。つばめのドラムが細かな音を足し、期待を溜めたところへ僕のギターが入った。夏休みに何度も細かな失敗を重ね、四人で直してきた流れが、今日は迷わず前へと進んでいく。
 律が歌い始める。
 前世で誰だったかではなく、今ここで何を選ぶのか。どこから来たかではなく、現在は誰の隣にいるのか。あの日、律のノートに生まれた言葉が、僕たち全員の音になって客席へ届いていく。

『君の声が 僕の現在地を教えてくれる』

 その一行で、律がこちらを見た。
 歌詞を書いた日に「今は、めぐ」と言われたことを思い出し、左手が一瞬だけ熱を持つ。
 それでも指は止まらなかった。律の声を次の小節まで運び、創のベースと同じ旋律をなぞってから、別々の方向へ分かれる。
 やがて律がマイクから離れ、僕のギターソロが始まった。
 速さだけを見せるためのソロじゃない。創が作った道を受け取り、つばめのリズムに押され、律が歌った旋律の続きを、今度は僕の音で語る。
 銀色のピックが弦に触れるたび、いつもより硬く澄んだ音が出た。
 ステージの前にいた生徒たちが腕を上げる。
 最初は律ばかり見ていた人も、今は僕の指を目で追っている。
 最後のフレーズを高く伸ばすと、それを合図に律の歌が戻り、四人の音が一つになった。
 曲を終えた途端、さっきより大きな歓声が上がった。
 僕の名前まで聞こえた気がしたけど、自分に向けられたものだと理解するまでに少しかかった。

「めぐ、聞いた?」

 律がマイクを外し、僕にだけ届く声で言う。

「え? 何を?」
「めぐを呼んでた声。今日のソロ、今までで一番よかったわ」
「律が戻ってくる場所を空けておいただけじゃん」
「それができるから格好いいんだって」

 演奏中より顔が熱くなったのは、照明のせいにしておいた。

 ステージを降り、機材を部室まで運ぼうと体育館を出ると、渡り廊下の脇で鷹取が待っていた。

「約束どおり来たよ」
「本当に来たんだ」
「ふられたからって、見に来るって約束までなかったことにはしないよ」
「それなら、よかった」

 鷹取に付き合えないと伝えたとき、彼から返ってきたのは短い了承だけだった。
 これまでどおり話していいのか迷ってたけど、向こうは僕より早く、僕たちの関係をただのライバルに戻してくれたらしい。

「最初の曲もよかった。けど『現在地』は四人の音がちゃんと前に出てるじゃん。特にめぐちゃんのソロは、県大会でも武器になると思うわ」
「ありがとう。鷹取にそう言われると、自信がつくよ」
「めぐのギターが通用することくらい、鷹取に言われなくてもわかってるわ」
「おまえには言ってない。めぐちゃんに言ってんの」
「隣にいるんだから聞こえるわ」

 褒められたのは僕なのに、なぜか律が鷹取の評価に反応してる。

「二組とも予選を通ったら、次は県大会だな。今度は客席じゃなく、同じステージで聴かせてもらうわ」
「僕たちも負けないよ」
「楽しみにしてる」

 一般来場者の退場時刻を知らせる放送が流れ、鷹取は片手を上げて昇降口のほうに歩いていった。
 約束を守りに来た彼を見送り、床に置いていた機材を持ち上げたところで、今度は女子生徒に呼び止められた。
 顔は見たことがあるけど、同じクラスじゃない。

「篠宮くん、さっきのライブ見たよ。ギター、すごく格好よかった」
「ありがとう。新曲、今日が初披露だったんだ」
「あのソロ、最後に高い音を伸ばすじゃんね。あそこ、もう一回聴きたいな。動画って上がる?」
「たぶん。つばめが撮ってくれてるから」
「本当? 絶対見るわ。あと、その……よかったら一緒に写真撮ってもいい?」

 バンド全員とではなく、僕と二人で撮りたいらしい。
 戸惑いながら隣に立つと、彼女は頬を赤くして、僕との距離をそっと縮めた。
 撮影を終えて別れたあとも、何度か振り返ってこっちを見ている。
 隣で機材を抱えていた律が、その背中を目で追った。

「誰?」
「知らない。別のクラスの子だよね」
「知らないやつと、あんな近くで写真撮るんだ」
「頼まれたら断りづらいじゃん。文化祭だし」

 律は納得したようには見えなかったけど、今度は怒らなかった。鷹取のことと言い、彼の中では何がどうなっているのか、ますますわからない。
 ライブ終了後、僕たちは防音室で、撮影された映像を確認した。
 固定カメラにはステージ全体が映り、音も思っていたよりきれいに録れている。
 つばめはスマートフォンに動画を取り込み、客席が映り込んだ部分を避けて、二曲をそれぞれバンドのSNSに投稿した。

「説明はこれでどうですか? 文化祭ライブにて新曲『現在地』初披露」
「コンクールに出ることも書いたほうがいい」

 創が画面をのぞき込み、律は美紀さんに向けた曲の投稿を指さした。

「こっちは曲名だけでいい。余計な説明はなくても、聴けばわかるし」
「わかりました。じゃあ、投稿しますね」

 つばめの指が画面に触れる。
 僕らの演奏は、文化祭の体育館から、知らない誰かのスマートフォンへ向かって流れ始めた。
 数分もしないうちに反応がつき、やがて『ギターソロがすごい』『ギターの人の名前を知りたい』というコメントまで並んだ。
 さっき写真を撮った女子生徒らしいアカウントも、僕たちをフォローしている。

「巡先輩、あの人は先輩の演奏だけが目的じゃなかったと思います」
「どういう意味?」
「僕でもわかるので、自分で考えてください」

 つばめにまで呆れられ、創は説明する気がないらしく眼鏡を押し上げる。
 律だけは僕の隣でコメント欄を見つめ、『ギターソロがすごい』の文字に満足そうに頷いた。

「当然だわ。俺のめぐのギターなんだから」

 誰のものでもないと言い返すべきなのに、その言葉を嫌だと思えない自分がいる。
 美紀さんに向けた歌と、今の僕たちを歌った『現在地』。どちらも同じ画面の中で再生され、校門の外へ広がっていく。
 律がずっと探してきた人に届くかもしれない。今日まで僕を知らなかった誰かが、僕のギターを初めて聴いてくれるかもしれない。
 そう考えると少し怖くて、それ以上に嬉しかった。
 僕たちの現在地は今日、画面の向こうにある、僕たちの知らない場所まで伸びていった。