僕は君の運命じゃない

 律が、知らない女の人の肩を抱いて歩いていた。
 場所は、駅から学校まで続く見慣れた道だった。陽射しを受けた律の金色の髪が揺れ、その横では、長い黒髪の女の人が楽しそうに笑っている。
 顔はよく見えない。それでも夢の中の僕は、その人が美紀さんだと知っていた。
 律が「美紀」と呼んだからだ。
 二人の少し後ろを歩きながら、僕は律の腕ばかり見ていた。いつもなら僕の肩に回されている腕が、美紀さんの肩を抱き自分のほうに引き寄せている。
 そこは僕の場所なのに。
 嫌だ。
 僕の場所を取らないでほしい。律の隣を歩かないでほしい。見つからないままでいてほしい。
 喉の奥まで出かかった言葉は、どれも声にならなかった。
 律が立ち止まり、美紀さんの肩を抱いたまま僕を振り返る。

「めぐ、美紀が見つかった」

 見たことのないくらい嬉しそうな顔だった。
 そんなふうに笑われたら、嫌だなんて言えるわけがない。律がずっと探してきた人だ。見つかればいいと、僕だって何度も願った。東京まで一緒に探しに行き、彼女に届くようにギターを弾いてきた。
 だから僕は、頬が引きつるほど無理に口元を持ち上げた。

「見つかってよかったね」

 ちゃんと笑えたと思う。
 律は安心したように頷くと、美紀さんと一緒に歩き出した。二人の背中が遠ざかっても、僕の足は地面に縫いつけられたみたいに動かない。
 待って、と呼びたかった。
 僕を置いていかないでほしかった。
 それでも口から出るのは、よかったね、という言葉だけだった。同じ言葉を何度も繰り返しているうちに、自分の声が目覚まし時計の音に変わった。
 目を開けると、薄いカーテンを通して朝の光が差し込んでいた。
 目尻からこめかみにかけて冷たいものが流れている。手で拭ってから枕を見ると、頬が触れていたところが小さく濡れていた。

「最悪……」

 夢で泣いたことなんて、いつ以来だろう。
 身体を起こしても、律の腕が美紀さんの肩を抱いている光景は消えてくれなかった。
 夢でよかったと思う一方で、いつか本当に起こることを先に見せられただけのようにも思える。
 机の上に置いたスマートフォンを手に取ると、日付は僕の誕生日を示していた。
 画面には日付が変わってから届いたメッセージがいくつも並び、その一番上に律の名前がある。

『誕生日おめでとう! いつもの時間に駅で会おう』

 送られた時刻は、午前零時二分だった。
 現実の律は、いつもの場所で僕を待っていてくれる。それだけで少し安心したはずなのに、泣いたあとの重さは目の奥に残ったままだった。


 駅で会った律は、僕の顔を見てすぐに異変に気付いた。

「めぐ、目が赤くないか?」
「そう? 昨日、少し遅くまで起きてたからかな」
「試験勉強か?」
「うん」
「珍しいな。いつも一夜漬けなのに」

 僕は笑って誤魔化した。
 実際にはいつもどおりの時間に寝たから、完全な嘘だ。
 律は納得していないようだったけど、僕の肩にはいつもと同じように腕を回した。その重みを感じた途端、夢の中で空いていたはずの場所が埋まっていく。
 今の律は、僕の隣にいる。
 それなのに、僕はいつか返さなければならない場所を借りているような気分になった。
 昼休みに弁当を食べているときも、律は何度か僕の顔をのぞき込んできた。
 授業中に寝ていないかまで後ろの席から確認していたらしく、放課後には「今日は変だ」と断定された。
 それでも夢の内容だけは話せなかった。当たり前だ。


 放課後の部活では、文化祭とコンクールに向けて新曲『現在地』を練習し、気になった箇所を確認した。

「今日はここまでだ。明日からは期末試験前の部活動停止期間に入る」
「創先輩、本当に練習しないんですか?」
「つばめは赤点を取っても文化祭に出られると思ってるのか?」
「僕は大丈夫です。心配なのは遠野先輩です」
「俺もたぶん大丈夫」
「その根拠のない自信が一番心配です」

 つばめに言われても、律は気にせずマイクをスタンドに戻した。
 僕もギターをケースに入れようとしたところで、律に呼び止められる。

「めぐ、ちょっと待って」
「何?」
「これ」

 差し出されたのは、濃紺の包装紙に銀色のリボンをかけた小さな箱だった。

「誕生日おめでとう」
「僕にくれるの?」
「そうだよ」
「……開けて見てもいい?」
「もちろん」

 リボンをほどいて包装紙を外すと、中から黒いケースが出てきた。
 蓋を開けると、並んで収められた二枚の銀色のピックが目に入る。光沢を抑えたステンレスの表面には、筆記体で『Meguru.S』と僕の名前が刻まれていた。

「名前が入ってる……」

 ケースから一枚を取り出すと、見た目よりも重さがあり、指先に金属の冷たさが伝わった。
 彫られた文字を親指でなぞっても消えない。当然のことなのに、律が僕だけのために選んだものだという証拠が、そこに刻まれているように思えた。

「スペル、合ってる?」
「そこ心配するの? 合ってるよ」
「よかった。注文したあとで間違ってたら、どうしようかと思った」
「わざわざ注文してくれたんだ」
「ネットで頼んだんだ。誕生日に間に合ってよかった」

 日曜日に僕の目の前で選んだネックレスとは違い、このピックは僕に知られないところで探し、僕の名前を指定して、今日に届くよう準備してくれたものだ。
 美紀さんへの贈り物より高価じゃないかもしれない。それでも、僕以外の誰にも渡せないものを律が用意してくれた事実が、朝から身体の内側に残っていた冷たさを少しずつ追い出していく。

「これ、もったいなくて使えないよ」
「ピックなのに?」
「だって、弾いたら傷がつくじゃん。名前まで入ってんのに」
「二枚あるんだから、一枚は使って、もう一枚は取っておけばいいじゃん」
「それでも、なくしたら立ち直れないと思う」
「なくしたら、また同じのを作るよ」

 律は僕の手からピックを取り、ギターを押さえていた右手の親指と人差し指の間に挟んだ。

「文化祭で使ってよ。めぐの名前が入ったピックで、めぐのソロを弾いてほしい」
「そんなこと言われたら、絶対なくせないじゃん」
「だから、ちゃんと持ってろよ」

 笑いながら答えると、律の目元から張りつめていたものが薄くなった。

「笑ってくれてよかった。今日は朝からずっと元気なかったから」

 その言葉を聞いただけで、指に挟んだピックが急に重くなった。
 律は朝、駅で会ってから今まで、僕が普段と違うことを気にしてくれていたんだ。
 夢の中の律は、一度も僕を振り返らなかった。
 でも、現実の律はずっと僕を見てくれていた。

「元気なかったって、何かあったのか?」

 創が片づける手を止めた。

「体調が悪かったんですか? それなら、もっと早く言ってください」

 つばめにも尋ねられ、僕は手の中の銀色を親指でなぞった。

「たいしたことじゃないんだ。ちょっと……嫌な夢を見ただけだよ」

 答えたのは、それだけだった。
 律はまだ気になるようだったけど、僕が話したくないと察したのか、続きを聞こうとはしなかった。

「夢って、起きた直後は本当のことみたいに感じますよね」

 つばめがドラムの椅子に座り直す。

「僕、幼い頃、家の前をティラノサウルスが歩いてたのを見たことがあるって、ずっと言い張ってたんです」
「つばめの実家は、白亜紀にあるのか?」
「普通に名古屋市内です。家の前にはコンビニもあります」
「それなら、ティラノサウルスが歩く可能性は低いな」
「可能性の問題じゃないと思うけど」

 創の真面目な返答に口を挟むと、つばめが大きく頷いた。

「でも、小さい頃の僕は絶対に見たと思ってたんです。二階の窓から外を見たら、向かいの家より大きなティラノサウルスが道路を歩いていて、尻尾が電柱にぶつかったところまで覚えてました」
「ずいぶん具体的だな」

 律が興味を持ったらしく、つばめの近くまで移動する。

「足音で窓が揺れて、僕はカーテンの後ろに隠れたんです。母に話しても信じてもらえなくて、幼稚園でも何度も説明しました。絵まで描いて、ここにいたって」
「それで、いつまで信じてたの?」
「正確には覚えてません。でも、大きくなってから思い返して、そんなことあるわけないって気づきました。たぶん小さい時に見た夢を、本当にあったことだと勘違いしてたんだと思います」
「夢で見た恐竜を、実際に見たと思い込んでたのか?」

 律が笑いながら尋ねる。

「はい。今でもハッキリと思い出せますよ。夢だったと頭ではわかっていても、窓の揺れ方や恐竜の皮膚の色まで残ってます」
「そんなに長く、夢と現実を間違えることがあるんだな」
「幼い頃の夢なら、珍しくはないだろうな」

 創が銀縁眼鏡を押し上げる。

「まだ人生経験が浅く脳も未発達な幼児は、夢と現実の記憶の区別ができないことが多いらしい。夢で見たものの記憶を現実の記憶だと勘違いしたまま成長することがあっても不思議じゃない」
「創先輩、遠回しに僕のことバカにしてます?」

 つばめが不満そうにスティックを回すと、僕たちの間に笑いが広がった。
 創が時計を示し、本当に帰るぞと片づけを再開する。
 僕は二枚のうち一枚をケースに戻し、もう一枚を握ってギターを構えた。

「めぐ、もう終わりだぞ」
「わかってる。少しだけ音を確かめたいんだ」

 アンプの電源を入れ直すことはせず、名入りのピックで『現在地』のギターソロを弾いてみる。
 いつもの樹脂製とは違う硬い感触が弦から指に返り、生音なのに輪郭のはっきりした響きが防音室に広がった。
 律が僕の正面に立ち、演奏を聞いている。

「どう?」
「いい。名前が入ってると、いつもよりさらに、めぐの音って感じがする」
「音に名前入りかどうかは関係ないじゃん」
「いや、俺にはわかる」

 たぶん、そんな違いはどこにもない。
 それでも、律が言うなら本当にそう聞こえるような気がして、僕は傷がつかないよう大事にすると決めたばかりのピックで、もう一度弦を鳴らした。
 夢と現実の境目は、ときどき自分でもわからなくなるらしい。
 けれど、指先にあるピックの感触は夢じゃない。朝から僕の顔を見て、笑うまで気にかけてくれた律も、今はちゃんと目の前にいる。
 夢の中で失った場所に、現実の僕はまだ立っている。
 十七歳になった今日の僕の現在地は、やっぱり律の隣だった。