《放課後の土手、ふたりのメロディ》
テスト期間も終わり早く下校出来る放課後。
五月の頃より少し低くなった太陽が、
オレンジ色の長い影を
アスファルトに引いている。
校門を出てしばらく歩き、
住宅街を抜けた先にある河川敷。
私たちは、
夏休みに雨の中仲直りした
あの大きな木の下へとやってきた。
かつて青々としていた葉は、
縁から少しずつ淡い黄色に染まり始めている。
「ここに来ると、あの日の雨を思い出すね」
私がポツリとこぼすと、
隣を歩く琉生くんが照れくさそうに笑った。
「あー……。あの時はまじで必死だったわ。
今はこうして、笑って
並んで歩けてるのが不思議なくらい」
視線の先にあるのは、
あの時二人で雨宿りをした大きな一本の木。
あの日、バケツをひっくり返したような
土砂降りの中で、私たちは
言葉にならない想いをぶつけ合った。
ずぶ濡れになりながら、
涙なのか雨なのかも分からない顔で、
それでもお互いの存在を必死に求めていた。
あの時の雨の匂いや、
肌に張り付く制服の冷たさ、
そして仲直りした瞬間に
遠くで打ち上がった花火の音――。
そんな激しい記憶が嘘のように、
今日の河川敷はどこまでも静かで、
穏やかな秋の陽だまりに包まれている。
カサカサと乾いた音を
立てる芝生を踏みしめて、
私たちはいつもの定位置に腰を下ろした。
かつて青々としていた葉が、
縁から少しずつ淡い黄色に染まり始めている。
季節は確実に巡っているけれど、
隣にいる琉生くんの体温だけは、
あの時よりもずっと身近で、
確かなものとしてここにある。
「……ほんと、
あの雨があってよかったかもな。
じゃなきゃ俺、乃愛のこと
こんなに独り占めできてねーし」
琉生くんが少しだけ目を細めて
川面を見つめる。その横顔が、
あの夏の日よりも少しだけ大人びて見えて、
私はまた、胸の奥がキュンと
甘い音を立てるのを感じていた。
川面を渡る風が心地よく頬をなでる。
クラスでは決して見せられない、
私たちだけの解放された時間が、
ゆっくりと流れ出した。
乃愛がスマホを取り出し、
プレイリストを開き始める。
「……乃愛は、何聴いてんの?」
琉生くんが私のスマホを覗き込む。
私は少しはにかみながら、
お気に入りのプレイリストを見せた。
「最近よく聴いている曲なんだけど……。
優しくて、キラキラした音が好きなの」
私はバッグから
白い有線イヤホンを取り出した。
左耳に自分の一方を差し込み、
もう片方を琉生くんに手渡そうとする。
その瞬間、
指先がふわりと触れ、心臓が跳ねた。
「これ、半分こしよ?」
「おう、ありがと」
彼が右耳にイヤホンを差し込むと、
コードの短さに引かれるようにして、
二人の距離がぐっと近づいた。
トクン、トクン。
音楽のイントロが鳴り響く前に、
肩が触れ合う場所から、
お互いの鼓動が伝わってくる。
イヤホンからは、
繊細で透明感のある
ピアノのメロディが流れ出した。
音の粒が夕日に反射する
雨粒のようにきらきらと耳の奥で跳ねる。
琉生くんは
「……なんか、乃愛みたいな
綺麗な曲だね。落ち着くわ」と言って、
心地良さそうに目を閉じた。
二人でじっと音に耳を澄ませる。
ふとした沈黙の中、私はずっと
心に秘めていた言葉をこぼしていた。
「……この曲、
いつか自分で弾いてみたいなぁ」
「え? 乃愛ってピアノ弾けるの?」
琉生くんがパッと目を開け、
驚いたように私を見た。
「……うん。小さいころから、
ずっと習っていて。でも、学校では
あまり言ったことなかったんだけど……」
私は、膝を抱えた自分の指先を
見つめながら続けた。
「……実はね、私、
将来はピアノの先生になりたいんだ。
今の先生がすごく素敵でね、憧れなの」
「ピアノの先生?」
「……うん。先生の音を聴いていると、
魔法にかかったみたいに
悲しいことを忘れられて、
前を向ける気がするから。
私もいつか、
誰かの心に寄り添えるような、
そんな音を教えられる先生になりたいなって」
私の拙い夢の話を、
琉生くんはイヤホンを外さずに、
じっと最後まで聴いてくれた。
オレンジ色から茜色へと
変わりゆく空の下で、彼は力強く頷く。
「そっか。……乃愛のその優しさ、
絶対にいい先生になれると思うわ。
俺、応援する。
乃愛が夢を叶えるところ、
一番近くで見させてよ」
「……琉生くん、ありがとう」
愛おしさが恥ずかしさをそっと上回って、
私は彼の肩にそっと頭を預けた。
いつもなら、
彼は大慌てで顔を真っ赤にしたり、
私の心臓の音が聞こえそうなくらい
テンパったりするはずだ。
なのに、今の彼は驚くほど静かで、
ただ優しく私の重みを受け止めてくれている。
肩越しに伝わってくる彼の体温。
部活で鍛えられた少し硬い身体の感触が、
今は不思議と柔らかく、
包み込まれるような安心感に変わっている。
しばらく、二人で
イヤホンから流れるピアノの音を聴いていた。
すると――。
「……なぁ、乃愛」
「ん?」
琉生くんが、ふいに小さな声で呼んだ。
「秋に、合唱コンクールがあるだろ」
「え……? うん」
突然の話題に、私は少しだけ顔を上げる。
琉生くんは前を向いたまま、
少し考えるようにしてから続けた。
「俺、クラスの指揮者やろうと思う」
「琉生くんが、指揮者……?」
「うん」
その横顔には、
いつもの冗談っぽさはなかった。
「だから……乃愛が伴奏で、ピアノ弾いてよ」
「えっ。……私が?」
一瞬、意味が分からなくて、
私は琉生くんの顔を見つめた。
琉生くんは、ようやく私の方を見る。
「うん。せっかく乃愛、
ピアノ弾けるんだし。
……俺、乃愛のピアノ聴いてみたい」
その言葉だけでも十分嬉しかった。
けれど、琉生くんは
少しだけ照れたように笑って、
ゆっくりと続ける。
「それにさ、俺……
みんなの前で、二人で一緒に並んでみたい」
私の心臓が、どくんと大きく鳴った。
クラスでは『羽瀬くん』と呼ぶ、
みんなの輪の中心にいる彼。
そんな琉生くんと、
全校生徒の前で指揮者と伴奏者として並ぶ。
想像しただけで、少し足がすくみそうになる。
けれど、
琉生くんの言葉はそこで終わらなかった。
「俺さ……もう学校で乃愛のこと、
他人のフリしたり、
遠くから見てるだけなの、ちょっと限界」
「琉生くん……」
「みんなの前でも、
普通に乃愛と笑いあって過ごしたり、
手だって繋ぎたい」
冗談みたいに笑おうとしているのに、
その声には隠しきれない本音が滲んでいた。
琉生くんの指先が、
私の手の甲にそっと触れる。
「夏休みに約束しただろ?」
私は小さく頷いた。
いつかみんなの前で、
乃愛が自分の彼女だって堂々と言う。
あの雨の日を越えて、
二人で交わした未来への約束。
「だから、いきなり全部は無理でも」
琉生くんは、
少しだけ照れくさそうに笑った。
「合唱コンクールで、
指揮者と伴奏者になってさ。
……みんなの前で堂々と二人で並ぼう」
その言葉が、
胸の奥にゆっくりと落ちていく。
恋人だと公表するわけじゃない。
まだ、誰にも秘密。
だけど――今までみたいに、
ただ遠くから見ているだけでもない。
みんなの前で、同じ舞台に立って。
同じ音楽を、一緒につくる。
「……あの約束を、
少しずつ本当の形にしていきたいんだ」
真っ直ぐな琉生くんの目に、
私はしばらく何も言えなかった。
胸の奥が、熱くなる。
不安がないわけじゃない。
みんなの前に立つなんて、
今の私にはまだ少し怖い。
でも、私の夢を聞いてくれた琉生くんが、
今度は自分の未来の中に、
私の居場所を作ろうとしてくれている。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
私は、そっと笑った。
「……うん。私、ピアノ頑張る」
琉生くんの目が少しだけ大きくなる。
「琉生くんが指揮をするなら
……私も、一緒に頑張りたい」
「……ほんと?」
私が「うん」と頷くと、
琉生くんの表情が、ぱっと明るくなった。
「じゃあ、決まりな」
「ふふ。まずは先生に
決めてもらわないとだけどね」
「そこは俺に任せとけ」
「どうやって?」
「んー、……気合い?」
「ふふっ」
思わず笑うと、
琉生くんもつられるように笑った。
そして彼は、そっと私の肩に
自分の頭を重ねるようにして寄り添った。
その動作はあまりにも自然で、
まるで最初からこうなることが
決まっていたかのような、
絶対的な居心地の良さがあった。
やがて、彼の指先が私の手に触れる。
私は、肩に頭を預けたままの彼を
そっと受け止めながら、
触れた手を優しく握り返した。
オレンジ色から
茜色へと変わりゆく空の下で、
私たちは言葉を失ったまま、
ただお互いの存在を噛みしめていた。
イヤホンから流れるメロディが、
ふたりの未来を祝福しているように、
より一層きらめいて聞こえた——。
テスト期間も終わり早く下校出来る放課後。
五月の頃より少し低くなった太陽が、
オレンジ色の長い影を
アスファルトに引いている。
校門を出てしばらく歩き、
住宅街を抜けた先にある河川敷。
私たちは、
夏休みに雨の中仲直りした
あの大きな木の下へとやってきた。
かつて青々としていた葉は、
縁から少しずつ淡い黄色に染まり始めている。
「ここに来ると、あの日の雨を思い出すね」
私がポツリとこぼすと、
隣を歩く琉生くんが照れくさそうに笑った。
「あー……。あの時はまじで必死だったわ。
今はこうして、笑って
並んで歩けてるのが不思議なくらい」
視線の先にあるのは、
あの時二人で雨宿りをした大きな一本の木。
あの日、バケツをひっくり返したような
土砂降りの中で、私たちは
言葉にならない想いをぶつけ合った。
ずぶ濡れになりながら、
涙なのか雨なのかも分からない顔で、
それでもお互いの存在を必死に求めていた。
あの時の雨の匂いや、
肌に張り付く制服の冷たさ、
そして仲直りした瞬間に
遠くで打ち上がった花火の音――。
そんな激しい記憶が嘘のように、
今日の河川敷はどこまでも静かで、
穏やかな秋の陽だまりに包まれている。
カサカサと乾いた音を
立てる芝生を踏みしめて、
私たちはいつもの定位置に腰を下ろした。
かつて青々としていた葉が、
縁から少しずつ淡い黄色に染まり始めている。
季節は確実に巡っているけれど、
隣にいる琉生くんの体温だけは、
あの時よりもずっと身近で、
確かなものとしてここにある。
「……ほんと、
あの雨があってよかったかもな。
じゃなきゃ俺、乃愛のこと
こんなに独り占めできてねーし」
琉生くんが少しだけ目を細めて
川面を見つめる。その横顔が、
あの夏の日よりも少しだけ大人びて見えて、
私はまた、胸の奥がキュンと
甘い音を立てるのを感じていた。
川面を渡る風が心地よく頬をなでる。
クラスでは決して見せられない、
私たちだけの解放された時間が、
ゆっくりと流れ出した。
乃愛がスマホを取り出し、
プレイリストを開き始める。
「……乃愛は、何聴いてんの?」
琉生くんが私のスマホを覗き込む。
私は少しはにかみながら、
お気に入りのプレイリストを見せた。
「最近よく聴いている曲なんだけど……。
優しくて、キラキラした音が好きなの」
私はバッグから
白い有線イヤホンを取り出した。
左耳に自分の一方を差し込み、
もう片方を琉生くんに手渡そうとする。
その瞬間、
指先がふわりと触れ、心臓が跳ねた。
「これ、半分こしよ?」
「おう、ありがと」
彼が右耳にイヤホンを差し込むと、
コードの短さに引かれるようにして、
二人の距離がぐっと近づいた。
トクン、トクン。
音楽のイントロが鳴り響く前に、
肩が触れ合う場所から、
お互いの鼓動が伝わってくる。
イヤホンからは、
繊細で透明感のある
ピアノのメロディが流れ出した。
音の粒が夕日に反射する
雨粒のようにきらきらと耳の奥で跳ねる。
琉生くんは
「……なんか、乃愛みたいな
綺麗な曲だね。落ち着くわ」と言って、
心地良さそうに目を閉じた。
二人でじっと音に耳を澄ませる。
ふとした沈黙の中、私はずっと
心に秘めていた言葉をこぼしていた。
「……この曲、
いつか自分で弾いてみたいなぁ」
「え? 乃愛ってピアノ弾けるの?」
琉生くんがパッと目を開け、
驚いたように私を見た。
「……うん。小さいころから、
ずっと習っていて。でも、学校では
あまり言ったことなかったんだけど……」
私は、膝を抱えた自分の指先を
見つめながら続けた。
「……実はね、私、
将来はピアノの先生になりたいんだ。
今の先生がすごく素敵でね、憧れなの」
「ピアノの先生?」
「……うん。先生の音を聴いていると、
魔法にかかったみたいに
悲しいことを忘れられて、
前を向ける気がするから。
私もいつか、
誰かの心に寄り添えるような、
そんな音を教えられる先生になりたいなって」
私の拙い夢の話を、
琉生くんはイヤホンを外さずに、
じっと最後まで聴いてくれた。
オレンジ色から茜色へと
変わりゆく空の下で、彼は力強く頷く。
「そっか。……乃愛のその優しさ、
絶対にいい先生になれると思うわ。
俺、応援する。
乃愛が夢を叶えるところ、
一番近くで見させてよ」
「……琉生くん、ありがとう」
愛おしさが恥ずかしさをそっと上回って、
私は彼の肩にそっと頭を預けた。
いつもなら、
彼は大慌てで顔を真っ赤にしたり、
私の心臓の音が聞こえそうなくらい
テンパったりするはずだ。
なのに、今の彼は驚くほど静かで、
ただ優しく私の重みを受け止めてくれている。
肩越しに伝わってくる彼の体温。
部活で鍛えられた少し硬い身体の感触が、
今は不思議と柔らかく、
包み込まれるような安心感に変わっている。
しばらく、二人で
イヤホンから流れるピアノの音を聴いていた。
すると――。
「……なぁ、乃愛」
「ん?」
琉生くんが、ふいに小さな声で呼んだ。
「秋に、合唱コンクールがあるだろ」
「え……? うん」
突然の話題に、私は少しだけ顔を上げる。
琉生くんは前を向いたまま、
少し考えるようにしてから続けた。
「俺、クラスの指揮者やろうと思う」
「琉生くんが、指揮者……?」
「うん」
その横顔には、
いつもの冗談っぽさはなかった。
「だから……乃愛が伴奏で、ピアノ弾いてよ」
「えっ。……私が?」
一瞬、意味が分からなくて、
私は琉生くんの顔を見つめた。
琉生くんは、ようやく私の方を見る。
「うん。せっかく乃愛、
ピアノ弾けるんだし。
……俺、乃愛のピアノ聴いてみたい」
その言葉だけでも十分嬉しかった。
けれど、琉生くんは
少しだけ照れたように笑って、
ゆっくりと続ける。
「それにさ、俺……
みんなの前で、二人で一緒に並んでみたい」
私の心臓が、どくんと大きく鳴った。
クラスでは『羽瀬くん』と呼ぶ、
みんなの輪の中心にいる彼。
そんな琉生くんと、
全校生徒の前で指揮者と伴奏者として並ぶ。
想像しただけで、少し足がすくみそうになる。
けれど、
琉生くんの言葉はそこで終わらなかった。
「俺さ……もう学校で乃愛のこと、
他人のフリしたり、
遠くから見てるだけなの、ちょっと限界」
「琉生くん……」
「みんなの前でも、
普通に乃愛と笑いあって過ごしたり、
手だって繋ぎたい」
冗談みたいに笑おうとしているのに、
その声には隠しきれない本音が滲んでいた。
琉生くんの指先が、
私の手の甲にそっと触れる。
「夏休みに約束しただろ?」
私は小さく頷いた。
いつかみんなの前で、
乃愛が自分の彼女だって堂々と言う。
あの雨の日を越えて、
二人で交わした未来への約束。
「だから、いきなり全部は無理でも」
琉生くんは、
少しだけ照れくさそうに笑った。
「合唱コンクールで、
指揮者と伴奏者になってさ。
……みんなの前で堂々と二人で並ぼう」
その言葉が、
胸の奥にゆっくりと落ちていく。
恋人だと公表するわけじゃない。
まだ、誰にも秘密。
だけど――今までみたいに、
ただ遠くから見ているだけでもない。
みんなの前で、同じ舞台に立って。
同じ音楽を、一緒につくる。
「……あの約束を、
少しずつ本当の形にしていきたいんだ」
真っ直ぐな琉生くんの目に、
私はしばらく何も言えなかった。
胸の奥が、熱くなる。
不安がないわけじゃない。
みんなの前に立つなんて、
今の私にはまだ少し怖い。
でも、私の夢を聞いてくれた琉生くんが、
今度は自分の未来の中に、
私の居場所を作ろうとしてくれている。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
私は、そっと笑った。
「……うん。私、ピアノ頑張る」
琉生くんの目が少しだけ大きくなる。
「琉生くんが指揮をするなら
……私も、一緒に頑張りたい」
「……ほんと?」
私が「うん」と頷くと、
琉生くんの表情が、ぱっと明るくなった。
「じゃあ、決まりな」
「ふふ。まずは先生に
決めてもらわないとだけどね」
「そこは俺に任せとけ」
「どうやって?」
「んー、……気合い?」
「ふふっ」
思わず笑うと、
琉生くんもつられるように笑った。
そして彼は、そっと私の肩に
自分の頭を重ねるようにして寄り添った。
その動作はあまりにも自然で、
まるで最初からこうなることが
決まっていたかのような、
絶対的な居心地の良さがあった。
やがて、彼の指先が私の手に触れる。
私は、肩に頭を預けたままの彼を
そっと受け止めながら、
触れた手を優しく握り返した。
オレンジ色から
茜色へと変わりゆく空の下で、
私たちは言葉を失ったまま、
ただお互いの存在を噛みしめていた。
イヤホンから流れるメロディが、
ふたりの未来を祝福しているように、
より一層きらめいて聞こえた——。

