《お節介な幼馴染、ひまりの溜息》
お気に入りのアロマキャンドルや、
可愛いお菓子の空き缶を利用した
小物入れが並ぶ、女の子の部屋。
そこにいるのは、松永ひまり。
いつも大人しくて優しい乃愛や、
明るくて友達想いな結衣と一緒にいる。
毎日賑やかな高校生活を楽しく送っている。
けれど今夜はいつもと違う。
ひまりが想いを寄せている、
隣の家の幼馴染が勉強を
教えに来てくれるのだ。
ベッドの上にぽつんと置かれた
お気に入りのクマのぬいぐるみも、
どこかそわそわとした目で
見守っているように思える。
白を基調としたお気に入りの
木製デスクの上に広げたのは、
数式がぎっしりと並ぶ数学の参考書。
難解な数式を眺めながら、
ひまりは何度も時計の針を確認してしまう。
(……もうすぐ、来ちゃう)
一足先にテストを終えた高三の幼馴染、
笠原直哉(かさはら なおや)。
家が隣同士で、
親同士も家族ぐるみで仲が良い彼は、
ひまりが『今回の数学、赤点でやばいかも』
と弱音を漏らしたあの日から、
自分の受験勉強の合間を縫って、
こうしてひまりの『家庭教師』を
買って出てくれていた。
トントン、
と遠慮のない軽いノックの音が響く。
私が返事をするよりも早く、
当たり前のようにドアが開いた。
「よ、ひまり。進んでるか?」
片手にコンビニの袋を提げた直哉くんが、
まるで自分の家のように
自然な足取りで部屋に入ってくる。
「……直哉くん。
ノックしてすぐ開けないでって、
いつも言ってるでしょ」
「いいじゃん、減るもんじゃないし。
ほら、差し入れ。
お前、糖分足りてないだろ」
直哉くんは
私の頭をくしゃっと一度優しく撫でると、
机の横に用意しておいた椅子に
ドサリと腰を下ろした。
「……もー、くしゃくしゃにしないでよ。
ありがと。夜なのにごめんね」
「別に。どうせ自分の部屋にいても
受験勉強で行き詰まってたし、
お前の勉強見んのもいい息抜きになるわ」
ぶっきらぼうに視線を逸らしながら
告げられたその言葉に、
胸の奥がじんわりと温かくなる。
(私といると、いい息抜きになる
……ってこと、なのかな)
ほんのりとした嬉しさが、
自然と顔に溶け出してしまう。
「……何それ。じゃあ、
たくさん息抜きさせてあげられるように、
私頑張るね」
私がふんわりと小さな笑顔を向けると、
直哉くんは一瞬だけ驚いたように目を見開く。
それから「……はいはい、期待しとくわ」と、
少し照れくさそうに顔を上気させて
ノートに手を伸ばした。
その拍子に、彼の体温と、
清潔感のある石鹸のような香りが
ふわりと鼻をくすぐる。
それだけで、
私の心拍数は簡単に跳ね上がった。
勉強を始めて数分後、
解いた数式問題を丸つけていく。
「ひまり。ここ、前も間違えてただろ」
呆れたような声と共に、
直哉くんの大きな手が
私の右手の上からすっと重なった。
驚いて指先が止まっていると、
私のペンを取り、
彼がそのまま自分の体を
ごそりと身を乗り出してくる。
「――っ⁉」
触れ合った肩の先から、
心地よい熱が一気に全身を駆け巡った。
直哉くんがノートの余白に
さらさらと数式を書き込んでいく。
その間も、彼の肩が私の肩口に
ほとんど触れそうなほど近く、
私の思考を優しく狂わせていく。
「お前、本当に俺がいねーとダメだな」
数式を書き終えた直哉くんが、
ふっと顔をこちらに向けた。
その瞬間、私は小さく息を呑んだ。
あまりにも、顔が近すぎる。
直哉くんの真剣な、
でもどこか年上らしい優しさを孕んだ瞳が、
まっすぐに私を見つめていた。
「なんだよ、ビクビクして。
……もしかして、
また睡魔に襲われてんのか?」
低く、微かに掠れた直哉くんの声。
彼が吐き出す熱い吐息が
自分の頬に触れていることに気づいた瞬間、
私の顔は耳の裏まで真っ赤に染まった。
「ち、違うよ……っ。
ちゃんと、やってるもん」
私はいっそう激しくなった
心拍音を隠すように、
大慌てで視線をノートへと戻した。
直哉くんはいつだって、
私のことを「近所の妹」
としてしか見ていない。
小さい頃、
転んで泣いていた私を「大丈夫か?」と
おんぶしてくれたあの時から、
彼の眼差しは少しも変わっていない気がする。
当たり前のように
私の部屋に入ってくる無防備さも、
遠慮なく頭を撫でる大きな手も。
そのすべてが、
自分を「一人の女の子」として
意識していない証拠みたいで、
胸の奥が少しだけチリチリと痛む。
「……ねぇ、直哉くん」
「んー?」
「……直哉くんは、彼女とか作らないの?」
ずっと聞きたかったけれど、
怖くて聞けなかった言葉。
勇気を出して投げかけてみると、
直哉くんは赤ペンを持ったまま
ピキッと動きを止めた。
「……は? お前、
受験生に向かって何つーこと言うわけ?」
いつも通りのぶっきらぼうな声を
装ってはいるけれど、
彼の耳たぶがほんのり赤くなっているのを、
私は見逃さなかった。
「だって、
直哉くんって意外と面倒見いいし、
優しいから、その気になれば
すぐできそうなのに。
……勉強が忙しすぎて、
それどころじゃないの?」
「あのな、ひまり」
直哉くんは呆れたように
大きなため息をつくと、
持っているペンで私の額を
こつんと軽く小突いた。
「受験生にそんな余裕ねーの。
今は第一志望に合格すること、それだけ。
……あとは、お前って
他の奴に教わっても、なんかダメそうだし。
放っておけるわけないだろ」
「……ふふ、いった。もう、お節介だなぁ」
小突かれたおでこをそっと押さえながら、
私は嬉しさを隠してノートに視線を落とした。
(……ズルいよ、直哉くん)
その「お節介」という言葉の裏に
あるかもしれない特別な意味に、
私はまだ確信が持てない。
けれど、彼が私のために
時間を使ってくれていること。
その事実だけで、今は十分幸せだった。
二時間ほどの勉強を終えて、
私は直哉くんを玄関まで見送った。
「……あ。ねぇ、直哉くん」
「ん?」
私が呼びかけると、
直哉くんはドアノブに手をかけたまま、
億劫そうに振り返った。
「今日は本当にありがと。
……直哉くんも受験勉強で大変なのに、
私ばっかり頼っちゃって、ごめんね」
今日何度目かの謝罪を口にすると、
直哉くんは呆れたように一つ、
鼻を鳴らした。
「……何回言ってんだよ。
別に頼るくらいいいだろ、幼馴染なんだから」
「……うん」
「いいか。明日もまたここ、
復習しとけよ。……あとさ」
直哉くんは一度言葉を切り、
少しだけ視線を逸らして
ボソリと付け加えた。
「また困ったことがあったら、
夜でもいつでも俺を呼べよ。
……付き合ってやるから」
ぶっきらぼうで、少し投げやりなその言葉。
けれどそこには、
私を放っておけないという
彼なりの不器用な優しさが詰まっていて、
胸の奥がぎゅっと熱くなった。
「……うん、わかった。
ありがとう、直哉くん」
私がふんわりと微笑んで頷くと、
彼は「……おう」とだけ短く答えて、
照れ隠しをするように
背中を向けて家へ帰って行った。
放課後の図書室や、
あの隠れ家で「秘密の時間」を
重ねている乃愛や羽瀬くん。
お互いを真っ直ぐに想い合い、
歩み寄っている二人の幸せな温度が、
今の私には少しだけ眩しすぎた。
(乃愛。……『特別』になれるって、
どんな気持ちなのかな)
「……いつか、直哉くんの
『特別』になれる日が、来るのかな」
聞こえないくらいの小さな呟きは、
秋の夜の静寂に吸い込まれていった。
明日になれば、
また「仲の良い兄妹のような幼馴染」
として微笑みあうんだろう。
でも、いつの日か――。
このノートの余白に、勉強以外の
「秘密」を書き合える日が来ることを、
私は星も見えない夜空にそっと願った。
チョコの甘さが、
ようやく喉の奥で優しく溶けていった――。
お気に入りのアロマキャンドルや、
可愛いお菓子の空き缶を利用した
小物入れが並ぶ、女の子の部屋。
そこにいるのは、松永ひまり。
いつも大人しくて優しい乃愛や、
明るくて友達想いな結衣と一緒にいる。
毎日賑やかな高校生活を楽しく送っている。
けれど今夜はいつもと違う。
ひまりが想いを寄せている、
隣の家の幼馴染が勉強を
教えに来てくれるのだ。
ベッドの上にぽつんと置かれた
お気に入りのクマのぬいぐるみも、
どこかそわそわとした目で
見守っているように思える。
白を基調としたお気に入りの
木製デスクの上に広げたのは、
数式がぎっしりと並ぶ数学の参考書。
難解な数式を眺めながら、
ひまりは何度も時計の針を確認してしまう。
(……もうすぐ、来ちゃう)
一足先にテストを終えた高三の幼馴染、
笠原直哉(かさはら なおや)。
家が隣同士で、
親同士も家族ぐるみで仲が良い彼は、
ひまりが『今回の数学、赤点でやばいかも』
と弱音を漏らしたあの日から、
自分の受験勉強の合間を縫って、
こうしてひまりの『家庭教師』を
買って出てくれていた。
トントン、
と遠慮のない軽いノックの音が響く。
私が返事をするよりも早く、
当たり前のようにドアが開いた。
「よ、ひまり。進んでるか?」
片手にコンビニの袋を提げた直哉くんが、
まるで自分の家のように
自然な足取りで部屋に入ってくる。
「……直哉くん。
ノックしてすぐ開けないでって、
いつも言ってるでしょ」
「いいじゃん、減るもんじゃないし。
ほら、差し入れ。
お前、糖分足りてないだろ」
直哉くんは
私の頭をくしゃっと一度優しく撫でると、
机の横に用意しておいた椅子に
ドサリと腰を下ろした。
「……もー、くしゃくしゃにしないでよ。
ありがと。夜なのにごめんね」
「別に。どうせ自分の部屋にいても
受験勉強で行き詰まってたし、
お前の勉強見んのもいい息抜きになるわ」
ぶっきらぼうに視線を逸らしながら
告げられたその言葉に、
胸の奥がじんわりと温かくなる。
(私といると、いい息抜きになる
……ってこと、なのかな)
ほんのりとした嬉しさが、
自然と顔に溶け出してしまう。
「……何それ。じゃあ、
たくさん息抜きさせてあげられるように、
私頑張るね」
私がふんわりと小さな笑顔を向けると、
直哉くんは一瞬だけ驚いたように目を見開く。
それから「……はいはい、期待しとくわ」と、
少し照れくさそうに顔を上気させて
ノートに手を伸ばした。
その拍子に、彼の体温と、
清潔感のある石鹸のような香りが
ふわりと鼻をくすぐる。
それだけで、
私の心拍数は簡単に跳ね上がった。
勉強を始めて数分後、
解いた数式問題を丸つけていく。
「ひまり。ここ、前も間違えてただろ」
呆れたような声と共に、
直哉くんの大きな手が
私の右手の上からすっと重なった。
驚いて指先が止まっていると、
私のペンを取り、
彼がそのまま自分の体を
ごそりと身を乗り出してくる。
「――っ⁉」
触れ合った肩の先から、
心地よい熱が一気に全身を駆け巡った。
直哉くんがノートの余白に
さらさらと数式を書き込んでいく。
その間も、彼の肩が私の肩口に
ほとんど触れそうなほど近く、
私の思考を優しく狂わせていく。
「お前、本当に俺がいねーとダメだな」
数式を書き終えた直哉くんが、
ふっと顔をこちらに向けた。
その瞬間、私は小さく息を呑んだ。
あまりにも、顔が近すぎる。
直哉くんの真剣な、
でもどこか年上らしい優しさを孕んだ瞳が、
まっすぐに私を見つめていた。
「なんだよ、ビクビクして。
……もしかして、
また睡魔に襲われてんのか?」
低く、微かに掠れた直哉くんの声。
彼が吐き出す熱い吐息が
自分の頬に触れていることに気づいた瞬間、
私の顔は耳の裏まで真っ赤に染まった。
「ち、違うよ……っ。
ちゃんと、やってるもん」
私はいっそう激しくなった
心拍音を隠すように、
大慌てで視線をノートへと戻した。
直哉くんはいつだって、
私のことを「近所の妹」
としてしか見ていない。
小さい頃、
転んで泣いていた私を「大丈夫か?」と
おんぶしてくれたあの時から、
彼の眼差しは少しも変わっていない気がする。
当たり前のように
私の部屋に入ってくる無防備さも、
遠慮なく頭を撫でる大きな手も。
そのすべてが、
自分を「一人の女の子」として
意識していない証拠みたいで、
胸の奥が少しだけチリチリと痛む。
「……ねぇ、直哉くん」
「んー?」
「……直哉くんは、彼女とか作らないの?」
ずっと聞きたかったけれど、
怖くて聞けなかった言葉。
勇気を出して投げかけてみると、
直哉くんは赤ペンを持ったまま
ピキッと動きを止めた。
「……は? お前、
受験生に向かって何つーこと言うわけ?」
いつも通りのぶっきらぼうな声を
装ってはいるけれど、
彼の耳たぶがほんのり赤くなっているのを、
私は見逃さなかった。
「だって、
直哉くんって意外と面倒見いいし、
優しいから、その気になれば
すぐできそうなのに。
……勉強が忙しすぎて、
それどころじゃないの?」
「あのな、ひまり」
直哉くんは呆れたように
大きなため息をつくと、
持っているペンで私の額を
こつんと軽く小突いた。
「受験生にそんな余裕ねーの。
今は第一志望に合格すること、それだけ。
……あとは、お前って
他の奴に教わっても、なんかダメそうだし。
放っておけるわけないだろ」
「……ふふ、いった。もう、お節介だなぁ」
小突かれたおでこをそっと押さえながら、
私は嬉しさを隠してノートに視線を落とした。
(……ズルいよ、直哉くん)
その「お節介」という言葉の裏に
あるかもしれない特別な意味に、
私はまだ確信が持てない。
けれど、彼が私のために
時間を使ってくれていること。
その事実だけで、今は十分幸せだった。
二時間ほどの勉強を終えて、
私は直哉くんを玄関まで見送った。
「……あ。ねぇ、直哉くん」
「ん?」
私が呼びかけると、
直哉くんはドアノブに手をかけたまま、
億劫そうに振り返った。
「今日は本当にありがと。
……直哉くんも受験勉強で大変なのに、
私ばっかり頼っちゃって、ごめんね」
今日何度目かの謝罪を口にすると、
直哉くんは呆れたように一つ、
鼻を鳴らした。
「……何回言ってんだよ。
別に頼るくらいいいだろ、幼馴染なんだから」
「……うん」
「いいか。明日もまたここ、
復習しとけよ。……あとさ」
直哉くんは一度言葉を切り、
少しだけ視線を逸らして
ボソリと付け加えた。
「また困ったことがあったら、
夜でもいつでも俺を呼べよ。
……付き合ってやるから」
ぶっきらぼうで、少し投げやりなその言葉。
けれどそこには、
私を放っておけないという
彼なりの不器用な優しさが詰まっていて、
胸の奥がぎゅっと熱くなった。
「……うん、わかった。
ありがとう、直哉くん」
私がふんわりと微笑んで頷くと、
彼は「……おう」とだけ短く答えて、
照れ隠しをするように
背中を向けて家へ帰って行った。
放課後の図書室や、
あの隠れ家で「秘密の時間」を
重ねている乃愛や羽瀬くん。
お互いを真っ直ぐに想い合い、
歩み寄っている二人の幸せな温度が、
今の私には少しだけ眩しすぎた。
(乃愛。……『特別』になれるって、
どんな気持ちなのかな)
「……いつか、直哉くんの
『特別』になれる日が、来るのかな」
聞こえないくらいの小さな呟きは、
秋の夜の静寂に吸い込まれていった。
明日になれば、
また「仲の良い兄妹のような幼馴染」
として微笑みあうんだろう。
でも、いつの日か――。
このノートの余白に、勉強以外の
「秘密」を書き合える日が来ることを、
私は星も見えない夜空にそっと願った。
チョコの甘さが、
ようやく喉の奥で優しく溶けていった――。

