《小さな変化、それぞれの想い》
新しい席になってから、数日が過ぎた。
最初は少し落ち着かなかった乃愛も、
今では少しずつこの場所に慣れてきていた。
午後の授業。
教室には先生の声と、
ノートを取るシャープペンシルの音が
静かに響いている。
「白石さん」
隣から小さく呼ばれ、乃愛は顔を上げた。
「ここ、この公式で合ってる?」
隣の男子が、
ノートの問題を指差している。
一学期、まだ席替えをする前のこと。
彼がうっかり筆箱を落としたとき、
床に散らばったペンを
乃愛が拾ってあげたことがあった。
「うん。たぶん、
ここはその公式でいいと思うよ」
「やっぱり? ありがと」
男子は安心したように笑い、
乃愛も小さく笑い返した。
「でも、この次は
少し計算が複雑になるから、
気をつけた方がいいかも」
「え、ほんと?
危な。そこまで見てなかった」
「ふふ。私も、こういうの苦手だから」
「白石さんが? 意外」
「そうかな?」
乃愛は首を傾げる。
「ノート、めちゃくちゃきれいだし。
勉強得意そうに見える」
「そんなことないよ」
男子が見せてきたノートは、
急いで書いたらしく
数字や文字が少し重なっていた。
思わず、乃愛はくすっと笑う。
「でも、ちゃんと読めるよ」
「ほんと?」
「うん」
小さく笑い合った、そのとき。
少し後ろから、
じっとこちらを見ている視線があることに、
乃愛は気づかなかった。
(……普通に話してる)
琉生はシャープペンシルを持ったまま、
前の二人を見ていた。
以前だったら、
男子に話しかけられるだけでも
少し緊張していた乃愛。
言葉を探して、困ったように笑って。
それでも一生懸命、返事をしていた。
けれど今は、
ちゃんと相手の顔を見て話している。
しかも、自然に笑っていた。
(乃愛、変わったな)
それは、素直に嬉しかった。
自分から一歩を踏み出せるようになっている。
男子相手でも、前ほど身構えなくなっている。
乃愛が少しずつ成長していることは、
ずっと近くで見てきた琉生にも分かる。
(……俺が嬉しく思わなきゃいけないんだけど)
そのとき、
隣の男子がまた乃愛の方へ少し身を寄せた。
乃愛もノートを覗き込む。
(……いや、ちょっと近くね?)
思わずそう考えてから、
琉生は小さく眉を寄せた。
(何考えてんだ、俺)
隣の席なんだから、近いのは当たり前だ。
乃愛だって普通に話しているだけ。
分かっているのに、
自分以外の男子に向けられる笑顔を見ると、
胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
「……羽瀬?」
前の席の男子から呼ばれ、
琉生ははっと顔を上げた。
「え? あ、悪い」
「さっきから呼んでたんだけど」
「マジ? ごめん、
ちょっとぼーっとしてた」
「珍しいな」
そう笑われ、
琉生は慌ててノートへ視線を落とす。
けれど、しばらく文字を追っても、
さっきから妙に頭に入ってこなかった。
チャイムが鳴ると、
静かだった教室が一気に賑やかになる。
「乃愛ー」
結衣がすぐにこちらへやって来た。
「次、移動ないよね?」
「うん」
「じゃあ、ちょっとここいるね」
結衣はそう言いながら、
空いている近くの席を引いた。
少し遅れて、
教室の一番後ろからひまりも歩いてくる。
「お待たせ」
「ひまり。全然待ってないよ」
乃愛が手をひらひらさせて笑うと、
ひまりも穏やかに笑った。
「やっぱり、この席いいね」
ひまりが乃愛の机の横に立ちながら言う。
「前より遠くなったけど、
休み時間ならすぐ来られるし」
「うん。みんなで集まりやすいね」
乃愛が嬉しそうに頷いた、そのときだった。
「俺も入れて」
聞き慣れた声に振り返る。
琉生が、自分の席からこちらへ歩いてきた。
「もちろん」
「よかった」
琉生は乃愛の返事に笑って、
隣の席の椅子を引いて腰を下ろす。
「じゃあ、俺も」
さらに少し離れた席から、
颯人が立ち上がった。
「高城くんも?」
結衣がすぐに笑う。
「なんだよ」
「いや、何でもない」
「絶対なんか思ってんだろ」
「気のせいですー」
いつものやり取りに、
乃愛とひまりが思わず顔を見合わせて笑った。
こうして休み時間になると、
五人はまた自然と集まる。
席は変わっても、
みんなとの距離が離れたわけではない。
それが乃愛には、なんだか嬉しかった。
「そういえばさ」
結衣がふと思い出したように言う。
「テストまで、もうそんなにないよね。
みんな勉強進んでる?」
乃愛は少し困ったように笑った。
「うーん……頑張ってるけど、
数学はやっぱり難しいかも」
「俺も」
琉生がすぐに言う。
「やっぱり?」
「うん。白石さんに聞こうと思ってた」
乃愛が笑う。
「ふふ。また一緒に勉強する?」
「するする!
白石さんの教え方まじ分かりやすいし」
「そんなことないよ、
羽瀬くんの飲み込みが速いからだよ」
「じゃあ、もっと頑張ろ」
乃愛の言葉に、
琉生の胸にあった小さな引っかかりが、
すっとほどけていく。
嬉しさがじんわりと広がり、
琉生は思わず笑みを
浮かべて小さく拳を握った。
結衣がそれを見て、にやりと笑う。
「琉生くん、分かりやすーい」
「何が?」
「別にー?」
「絶対なんか言おうとしただろ」
「気のせい、気のせい」
その横で、ひまりが小さく笑った。
「でも、私も数学は少し心配かも」
「ひまりちゃんも?」
「うん。他は大丈夫なんだけど、
数学だけはちょっと」
すると結衣が、
はっとしたように顔を上げた。
「そういえば、ひまり。前に言ってたじゃん。
隣の家の幼馴染のお兄さんに、
勉強教えてもらうって」
「あ……うん」
ひまりが少しだけ瞬きをする。
「夏休みにも何回か教えてもらったよ」
「じゃあ、今回もお願いすればいいじゃん!」
「……そうしようかな」
ひまりは少し考えるように視線を落とした。
「直哉くんも受験勉強で忙しいから、
お願いしていいのかなって思ってたけど
……今日、聞いてみようかな」
「高校三年生だもんね」
乃愛が頷く。
「でも、夏休みにも教えてくれたなら、
きっと今回も教えてくれるよ」
「そうかな」
「忙しいのに時間作ってくれるなら、
普通に優しいだろ」
颯人が何気なく言う。
ひまりは少し笑った。
「優しいっていうか……昔から、
困ってると放っておけないみたいで」
「じゃあ、お節介ってことか」
「うん。たぶん、そう」
「お節介?」
結衣がひまりの顔を覗き込む。
「でもさー、ひまり、
そういうお節介嫌いじゃないんでしょ?」
「……嫌いとは言ってないよ」
ひまりが小さく答える。
その瞬間、結衣の目がきらりと輝いた。
「はい、出ましたー!」
「結衣ちゃん、声大きい」
「だって、今の聞いた?」
「聞いたけど」
颯人が呆れたように返す。
「ただの幼馴染なら、
別にそんな騒ぐことでもないだろ」
「高城くんは分かってないなぁ」
「何をだよ」
「女の子の気持ち!」
「分かりたくもねえ」
すぐに始まった二人のやり取りに、
ひまりは困ったように笑った。
けれど、
ほんの少しだけ頬が赤くなっている。
乃愛はそんなひまりを見ながら、
ふと胸の中が温かくなるのを感じていた。
前に聞いた、
隣の家に住む幼馴染のお兄さん。
ひまりにとっては、
きっと昔から当たり前のように
隣にいる人なのだろう。
(ひまりちゃんにも、大切な人がいるんだ)
それが何だか少し不思議で、
でも嬉しかった。
その賑やかな輪の中で、
ひまりはそっと自分の
スマートフォンを手に取る。
まだ何も送っていないメッセージ画面。
そこには、
ずっと見慣れた名前が表示されていた。
――笠原直哉。
ひまりは少しだけ迷ったあと、
小さく息を吐いた。
(……今日、聞いてみようかな)
指先が、ゆっくりと画面の上へ伸びていく。
五人のいつもの休み時間。
その中で、
まだ誰にも知られていない小さな約束が、
今夜へ向かって動き始めようとしていた——。
新しい席になってから、数日が過ぎた。
最初は少し落ち着かなかった乃愛も、
今では少しずつこの場所に慣れてきていた。
午後の授業。
教室には先生の声と、
ノートを取るシャープペンシルの音が
静かに響いている。
「白石さん」
隣から小さく呼ばれ、乃愛は顔を上げた。
「ここ、この公式で合ってる?」
隣の男子が、
ノートの問題を指差している。
一学期、まだ席替えをする前のこと。
彼がうっかり筆箱を落としたとき、
床に散らばったペンを
乃愛が拾ってあげたことがあった。
「うん。たぶん、
ここはその公式でいいと思うよ」
「やっぱり? ありがと」
男子は安心したように笑い、
乃愛も小さく笑い返した。
「でも、この次は
少し計算が複雑になるから、
気をつけた方がいいかも」
「え、ほんと?
危な。そこまで見てなかった」
「ふふ。私も、こういうの苦手だから」
「白石さんが? 意外」
「そうかな?」
乃愛は首を傾げる。
「ノート、めちゃくちゃきれいだし。
勉強得意そうに見える」
「そんなことないよ」
男子が見せてきたノートは、
急いで書いたらしく
数字や文字が少し重なっていた。
思わず、乃愛はくすっと笑う。
「でも、ちゃんと読めるよ」
「ほんと?」
「うん」
小さく笑い合った、そのとき。
少し後ろから、
じっとこちらを見ている視線があることに、
乃愛は気づかなかった。
(……普通に話してる)
琉生はシャープペンシルを持ったまま、
前の二人を見ていた。
以前だったら、
男子に話しかけられるだけでも
少し緊張していた乃愛。
言葉を探して、困ったように笑って。
それでも一生懸命、返事をしていた。
けれど今は、
ちゃんと相手の顔を見て話している。
しかも、自然に笑っていた。
(乃愛、変わったな)
それは、素直に嬉しかった。
自分から一歩を踏み出せるようになっている。
男子相手でも、前ほど身構えなくなっている。
乃愛が少しずつ成長していることは、
ずっと近くで見てきた琉生にも分かる。
(……俺が嬉しく思わなきゃいけないんだけど)
そのとき、
隣の男子がまた乃愛の方へ少し身を寄せた。
乃愛もノートを覗き込む。
(……いや、ちょっと近くね?)
思わずそう考えてから、
琉生は小さく眉を寄せた。
(何考えてんだ、俺)
隣の席なんだから、近いのは当たり前だ。
乃愛だって普通に話しているだけ。
分かっているのに、
自分以外の男子に向けられる笑顔を見ると、
胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
「……羽瀬?」
前の席の男子から呼ばれ、
琉生ははっと顔を上げた。
「え? あ、悪い」
「さっきから呼んでたんだけど」
「マジ? ごめん、
ちょっとぼーっとしてた」
「珍しいな」
そう笑われ、
琉生は慌ててノートへ視線を落とす。
けれど、しばらく文字を追っても、
さっきから妙に頭に入ってこなかった。
チャイムが鳴ると、
静かだった教室が一気に賑やかになる。
「乃愛ー」
結衣がすぐにこちらへやって来た。
「次、移動ないよね?」
「うん」
「じゃあ、ちょっとここいるね」
結衣はそう言いながら、
空いている近くの席を引いた。
少し遅れて、
教室の一番後ろからひまりも歩いてくる。
「お待たせ」
「ひまり。全然待ってないよ」
乃愛が手をひらひらさせて笑うと、
ひまりも穏やかに笑った。
「やっぱり、この席いいね」
ひまりが乃愛の机の横に立ちながら言う。
「前より遠くなったけど、
休み時間ならすぐ来られるし」
「うん。みんなで集まりやすいね」
乃愛が嬉しそうに頷いた、そのときだった。
「俺も入れて」
聞き慣れた声に振り返る。
琉生が、自分の席からこちらへ歩いてきた。
「もちろん」
「よかった」
琉生は乃愛の返事に笑って、
隣の席の椅子を引いて腰を下ろす。
「じゃあ、俺も」
さらに少し離れた席から、
颯人が立ち上がった。
「高城くんも?」
結衣がすぐに笑う。
「なんだよ」
「いや、何でもない」
「絶対なんか思ってんだろ」
「気のせいですー」
いつものやり取りに、
乃愛とひまりが思わず顔を見合わせて笑った。
こうして休み時間になると、
五人はまた自然と集まる。
席は変わっても、
みんなとの距離が離れたわけではない。
それが乃愛には、なんだか嬉しかった。
「そういえばさ」
結衣がふと思い出したように言う。
「テストまで、もうそんなにないよね。
みんな勉強進んでる?」
乃愛は少し困ったように笑った。
「うーん……頑張ってるけど、
数学はやっぱり難しいかも」
「俺も」
琉生がすぐに言う。
「やっぱり?」
「うん。白石さんに聞こうと思ってた」
乃愛が笑う。
「ふふ。また一緒に勉強する?」
「するする!
白石さんの教え方まじ分かりやすいし」
「そんなことないよ、
羽瀬くんの飲み込みが速いからだよ」
「じゃあ、もっと頑張ろ」
乃愛の言葉に、
琉生の胸にあった小さな引っかかりが、
すっとほどけていく。
嬉しさがじんわりと広がり、
琉生は思わず笑みを
浮かべて小さく拳を握った。
結衣がそれを見て、にやりと笑う。
「琉生くん、分かりやすーい」
「何が?」
「別にー?」
「絶対なんか言おうとしただろ」
「気のせい、気のせい」
その横で、ひまりが小さく笑った。
「でも、私も数学は少し心配かも」
「ひまりちゃんも?」
「うん。他は大丈夫なんだけど、
数学だけはちょっと」
すると結衣が、
はっとしたように顔を上げた。
「そういえば、ひまり。前に言ってたじゃん。
隣の家の幼馴染のお兄さんに、
勉強教えてもらうって」
「あ……うん」
ひまりが少しだけ瞬きをする。
「夏休みにも何回か教えてもらったよ」
「じゃあ、今回もお願いすればいいじゃん!」
「……そうしようかな」
ひまりは少し考えるように視線を落とした。
「直哉くんも受験勉強で忙しいから、
お願いしていいのかなって思ってたけど
……今日、聞いてみようかな」
「高校三年生だもんね」
乃愛が頷く。
「でも、夏休みにも教えてくれたなら、
きっと今回も教えてくれるよ」
「そうかな」
「忙しいのに時間作ってくれるなら、
普通に優しいだろ」
颯人が何気なく言う。
ひまりは少し笑った。
「優しいっていうか……昔から、
困ってると放っておけないみたいで」
「じゃあ、お節介ってことか」
「うん。たぶん、そう」
「お節介?」
結衣がひまりの顔を覗き込む。
「でもさー、ひまり、
そういうお節介嫌いじゃないんでしょ?」
「……嫌いとは言ってないよ」
ひまりが小さく答える。
その瞬間、結衣の目がきらりと輝いた。
「はい、出ましたー!」
「結衣ちゃん、声大きい」
「だって、今の聞いた?」
「聞いたけど」
颯人が呆れたように返す。
「ただの幼馴染なら、
別にそんな騒ぐことでもないだろ」
「高城くんは分かってないなぁ」
「何をだよ」
「女の子の気持ち!」
「分かりたくもねえ」
すぐに始まった二人のやり取りに、
ひまりは困ったように笑った。
けれど、
ほんの少しだけ頬が赤くなっている。
乃愛はそんなひまりを見ながら、
ふと胸の中が温かくなるのを感じていた。
前に聞いた、
隣の家に住む幼馴染のお兄さん。
ひまりにとっては、
きっと昔から当たり前のように
隣にいる人なのだろう。
(ひまりちゃんにも、大切な人がいるんだ)
それが何だか少し不思議で、
でも嬉しかった。
その賑やかな輪の中で、
ひまりはそっと自分の
スマートフォンを手に取る。
まだ何も送っていないメッセージ画面。
そこには、
ずっと見慣れた名前が表示されていた。
――笠原直哉。
ひまりは少しだけ迷ったあと、
小さく息を吐いた。
(……今日、聞いてみようかな)
指先が、ゆっくりと画面の上へ伸びていく。
五人のいつもの休み時間。
その中で、
まだ誰にも知られていない小さな約束が、
今夜へ向かって動き始めようとしていた——。

