三月のやわらかな日差しが、教室の窓から差し込んでいた。
二年生最後の日。修了式を終えた教室には、いつもと同じ机と椅子が並んでいる。
それなのに、持ち帰る荷物の入った鞄や、すっかり軽くなったロッカーを見ていると、今日だけは少し違って見えた。
「春休みだからって羽目外しすぎんなよ。次に会うときは、お前らも三年生だからな」
担任の言葉に、教室のあちこちから「はーい」と気の抜けた返事が飛ぶ。
「先生、一年間ありがとー!」
「おう。三年になってもちゃんと勉強しろよ」
「それは約束できませーん」
「そこは約束しろ」
笑い声が広がった。
乃愛もつられるように笑いながら、教室を見渡す。
二年生になった春には、まだ知らない顔も多かった。どんな一年になるのだろうと緊張して、この教室へ入ったことを覚えている。
それが今では、あちこちで交わされる笑い声も、机を引く音も、すっかり聞き慣れたものになっていた。
「じゃあ、解散!」
担任の声を合図に、教室が一気に賑やかになる。
「乃愛ー!」
結衣がすぐにやってきて、その後ろからひまりも顔を覗かせた。少し離れたところでは、琉生と颯人も鞄を持ってこちらへ向かってくる。
「ねえねえ、三年も五人同じクラスだったら最強じゃない?」
「それは運だろ」
すぐさま返した颯人に、結衣が頬を膨らませる。
「分かってるって! 夢くらい見させてよ」
「別々でも昼休みに集まればよくね?」
琉生がそう言うと、ひまりも小さく頷いた。
「うん。クラスが変わっても、五人なのは変わらないもんね」
その言葉に、乃愛はそっと笑った。
「……うん」
少し前までなら、クラスが変わることを考えただけで不安になっていたかもしれない。
けれど今は、少し違う。
席が離れても、琉生との関係は変わらなかった。結衣やひまり、颯人とも、席とは関係なく一緒に笑っている。
だからきっと、教室が変わっても大丈夫。
「じゃ、また春休み連絡するね!」
「うん。またね」
「またね、乃愛」
結衣とひまりが手を振り、颯人も短く「じゃあな」と続く。
教室を出ていく三人を見送ると、さっきまでの賑やかさが嘘のように遠ざかっていった。
残っている生徒も、もうわずかだった。
「乃愛、帰ろうぜ」
「……うん」
鞄を持ち上げかけて、乃愛の手が止まる。
「琉生くん。……ちょっとだけ、いい?」
「ん?」
「もう一回だけ……教室、見ておきたくて」
琉生は一瞬きょとんとしたものの、すぐに「いいよ」と笑った。
やがて最後のクラスメイトが教室を出ていく。
静かになった教室に、二人だけが残った。
窓から差し込む春の光の中を、乃愛はゆっくりと歩く。そして足を止めたのは、今の自分の席ではなかった。
「あ……」
後ろからついてきた琉生も、すぐに気づいたらしい。
「懐かしいな」
「……うん」
そこは、二年生になった春。
二人が初めて隣同士になった場所だった。
「ここだったよな」
「うん。琉生くんと、初めて隣になった席」
乃愛は机を見つめる。
あの頃は、隣に男子が座っているだけで緊張していた。話しかけられるたびに何を返せばいいのか迷って、たった一枚の付箋に書かれた言葉が、一日中嬉しくて仕方なかった。
そんな自分が今は――。
隣に立つ琉生を見上げる。
「俺さ」
「……うん?」
「乃愛と隣になってよかった」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、乃愛は一瞬だけ目を見開いた。
けれどすぐに、笑顔がこぼれる。
「……私も」
それだけで十分だった。
二人はもう一度だけ、並んでいた二つの机を見つめると、今度こそ教室をあとにした。
*―*―*
校舎を出ると、三月の風が頬を撫でた。
真冬の冷たさはもうなく、どこかやわらかい。校門へ続く道の先には、少しずつ近づいている春の気配があった。
乃愛と琉生は、いつものように並んで歩く。
「春休み、部活多い?」
「まあ、それなり。でも前みたいに無茶はしねーよ」
「……ほんと?」
「ほんとほんと」
少し疑うように見上げると、琉生が笑う。その顔を見て、乃愛も小さく笑った。
校門が近づいたところで、乃愛はふと足を緩めた。
そして、振り返る。
二年間を過ごした校舎。
春休みが終われば、またここへ来る。学校を卒業するわけでもない。それでも、今日までとまったく同じ日々には、もう戻れない。
「……終わっちゃったね」
「二年?」
「うん」
琉生も足を止め、乃愛の隣から校舎を見上げた。
「三年生も……同じクラスになれるかな」
「どうだろうな」
「……そうだよね」
「なれたらいいけどな」
「……うん」
乃愛は笑った。
けれど、自分でも分かるくらい、その笑顔には少しだけ寂しさが混じっていた。
同じクラスになれるかどうかは、誰にも分からない。
もう一度、隣の席になれるかなんて、もっと分からない。
そんな乃愛の横顔を、琉生がじっと見ていた。
「……乃愛」
「ん?」
「手、出して」
「……手?」
「いいから」
言われるまま、乃愛は片方の手を差し出した。
手のひらを上に向ける。
その上に、琉生が握った拳を重ねるように近づけた。
「…………」
乃愛は、その形を知っていた。
体育祭の日。
泥だらけになった琉生が、握った手の中から赤いハチマキを見せてくれたとき。
そして、合唱コンクールの日。
同じように握った手を開いて、指揮者のバッジを渡してくれたとき。
どちらも、その手の中には、乃愛へ届けたいものがあった。
だから乃愛は、琉生の拳をじっと見つめた。
「いくぞ」
「……うん」
そう返したのに、琉生はすぐには拳を開かなかった。
乃愛の手のひらの上で、握られたままの拳が静かに止まっている。
――ほんの少しの間。
不思議に思って顔を上げると、琉生はまっすぐ乃愛を見つめていた。
いつものように笑ってはいない。
その眼差しが思っていたより真剣で、乃愛の胸の奥が小さく音を立てる。
トクン。
何が入っているのだろう。そう思っていたはずなのに。
なぜだか今は、拳の中にあるものを見るのが少しだけ怖くて――。
それ以上に、待ち遠しかった。
乃愛は何も言わず、もう一度、自分の手のひらへ視線を戻す。
やがて――。
琉生の指が、ひとつずつ、ゆっくりと開いていった。
「……え?」
そこには、何もなかった。
乃愛は琉生の手と、自分の手のひらを交互に見る。
「……何も、ないよ?」
「うん。からっぽ」
「ふふっ。なにそれ」
思わず笑ってしまう。
琉生も少しだけ笑った。
けれど次に口を開いたとき、その声はさっきより少しだけ柔らかかった。
「でもさ。何もなくても……もう伝わるだろ?」
「……え?」
琉生は、からっぽの手を見つめる。
「俺の想い」
乃愛の笑みが、ふっと止まった。胸がぎゅっとなる。
「乃愛なら、分かるかなって」
そう言うと、琉生は優しく微笑んだ。
――そこには、本当に何もない。
ひまわり色の付箋も、赤いハチマキもない。
遠くからでも届いた、ぐるぐるの合図さえない。
二人はこれまで、いくつもの形に想いを乗せてきた。
言葉にできない気持ちを付箋に託して。
離れた場所からは小さな仕草に込めて。
けれど今、琉生の手には何もない。
それなのに――。
乃愛には、ちゃんと伝わった気がした。
それは、きっと。
同じクラスじゃなくても。
隣の席じゃなくても。
これまで二人で重ねてきたものは、なくならない。
だから、大丈夫ってこと。
「……うん」
乃愛はからっぽの手のひらから顔を上げ、琉生を見つめてほほ笑んだ。
「分かるよ」
「だろ?」
「……離れても、変わらないってことでしょ?」
琉生は一瞬だけ目を細めると、嬉しそうに笑った。
「やっぱ乃愛には伝わるな」
その言葉に、乃愛も笑った。
からっぽなのに、不思議と何もないようには思えなかった。
目には見えない。
触れることもできない。
それでも、ちゃんと伝わっている。
琉生の想いも、乃愛の想いも。
それはまだ名前もない、二人だけの新しい合図。
「じゃ、帰ろうぜ」
「……うん」
琉生が差し出した手に、今度は乃愛から手を重ねる。
指と指が、自然に絡んだ。
もう、隣の席ではない。
春になっても、同じ教室にいられるかは分からない。
それでも乃愛は、もう前ほど怖くはなかった。
それは、琉生がいつも乃愛を見ていてくれるから。
言葉にできない気持ちにも、気づいてくれるから。
二人は繋いだ手を揺らしながら、校門を出る。
からっぽだったはずの手には、今、大好きな人のぬくもりがある。
そして二人は、新しい春へ向かって、並んで歩いていった――。
二年生最後の日。修了式を終えた教室には、いつもと同じ机と椅子が並んでいる。
それなのに、持ち帰る荷物の入った鞄や、すっかり軽くなったロッカーを見ていると、今日だけは少し違って見えた。
「春休みだからって羽目外しすぎんなよ。次に会うときは、お前らも三年生だからな」
担任の言葉に、教室のあちこちから「はーい」と気の抜けた返事が飛ぶ。
「先生、一年間ありがとー!」
「おう。三年になってもちゃんと勉強しろよ」
「それは約束できませーん」
「そこは約束しろ」
笑い声が広がった。
乃愛もつられるように笑いながら、教室を見渡す。
二年生になった春には、まだ知らない顔も多かった。どんな一年になるのだろうと緊張して、この教室へ入ったことを覚えている。
それが今では、あちこちで交わされる笑い声も、机を引く音も、すっかり聞き慣れたものになっていた。
「じゃあ、解散!」
担任の声を合図に、教室が一気に賑やかになる。
「乃愛ー!」
結衣がすぐにやってきて、その後ろからひまりも顔を覗かせた。少し離れたところでは、琉生と颯人も鞄を持ってこちらへ向かってくる。
「ねえねえ、三年も五人同じクラスだったら最強じゃない?」
「それは運だろ」
すぐさま返した颯人に、結衣が頬を膨らませる。
「分かってるって! 夢くらい見させてよ」
「別々でも昼休みに集まればよくね?」
琉生がそう言うと、ひまりも小さく頷いた。
「うん。クラスが変わっても、五人なのは変わらないもんね」
その言葉に、乃愛はそっと笑った。
「……うん」
少し前までなら、クラスが変わることを考えただけで不安になっていたかもしれない。
けれど今は、少し違う。
席が離れても、琉生との関係は変わらなかった。結衣やひまり、颯人とも、席とは関係なく一緒に笑っている。
だからきっと、教室が変わっても大丈夫。
「じゃ、また春休み連絡するね!」
「うん。またね」
「またね、乃愛」
結衣とひまりが手を振り、颯人も短く「じゃあな」と続く。
教室を出ていく三人を見送ると、さっきまでの賑やかさが嘘のように遠ざかっていった。
残っている生徒も、もうわずかだった。
「乃愛、帰ろうぜ」
「……うん」
鞄を持ち上げかけて、乃愛の手が止まる。
「琉生くん。……ちょっとだけ、いい?」
「ん?」
「もう一回だけ……教室、見ておきたくて」
琉生は一瞬きょとんとしたものの、すぐに「いいよ」と笑った。
やがて最後のクラスメイトが教室を出ていく。
静かになった教室に、二人だけが残った。
窓から差し込む春の光の中を、乃愛はゆっくりと歩く。そして足を止めたのは、今の自分の席ではなかった。
「あ……」
後ろからついてきた琉生も、すぐに気づいたらしい。
「懐かしいな」
「……うん」
そこは、二年生になった春。
二人が初めて隣同士になった場所だった。
「ここだったよな」
「うん。琉生くんと、初めて隣になった席」
乃愛は机を見つめる。
あの頃は、隣に男子が座っているだけで緊張していた。話しかけられるたびに何を返せばいいのか迷って、たった一枚の付箋に書かれた言葉が、一日中嬉しくて仕方なかった。
そんな自分が今は――。
隣に立つ琉生を見上げる。
「俺さ」
「……うん?」
「乃愛と隣になってよかった」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、乃愛は一瞬だけ目を見開いた。
けれどすぐに、笑顔がこぼれる。
「……私も」
それだけで十分だった。
二人はもう一度だけ、並んでいた二つの机を見つめると、今度こそ教室をあとにした。
*―*―*
校舎を出ると、三月の風が頬を撫でた。
真冬の冷たさはもうなく、どこかやわらかい。校門へ続く道の先には、少しずつ近づいている春の気配があった。
乃愛と琉生は、いつものように並んで歩く。
「春休み、部活多い?」
「まあ、それなり。でも前みたいに無茶はしねーよ」
「……ほんと?」
「ほんとほんと」
少し疑うように見上げると、琉生が笑う。その顔を見て、乃愛も小さく笑った。
校門が近づいたところで、乃愛はふと足を緩めた。
そして、振り返る。
二年間を過ごした校舎。
春休みが終われば、またここへ来る。学校を卒業するわけでもない。それでも、今日までとまったく同じ日々には、もう戻れない。
「……終わっちゃったね」
「二年?」
「うん」
琉生も足を止め、乃愛の隣から校舎を見上げた。
「三年生も……同じクラスになれるかな」
「どうだろうな」
「……そうだよね」
「なれたらいいけどな」
「……うん」
乃愛は笑った。
けれど、自分でも分かるくらい、その笑顔には少しだけ寂しさが混じっていた。
同じクラスになれるかどうかは、誰にも分からない。
もう一度、隣の席になれるかなんて、もっと分からない。
そんな乃愛の横顔を、琉生がじっと見ていた。
「……乃愛」
「ん?」
「手、出して」
「……手?」
「いいから」
言われるまま、乃愛は片方の手を差し出した。
手のひらを上に向ける。
その上に、琉生が握った拳を重ねるように近づけた。
「…………」
乃愛は、その形を知っていた。
体育祭の日。
泥だらけになった琉生が、握った手の中から赤いハチマキを見せてくれたとき。
そして、合唱コンクールの日。
同じように握った手を開いて、指揮者のバッジを渡してくれたとき。
どちらも、その手の中には、乃愛へ届けたいものがあった。
だから乃愛は、琉生の拳をじっと見つめた。
「いくぞ」
「……うん」
そう返したのに、琉生はすぐには拳を開かなかった。
乃愛の手のひらの上で、握られたままの拳が静かに止まっている。
――ほんの少しの間。
不思議に思って顔を上げると、琉生はまっすぐ乃愛を見つめていた。
いつものように笑ってはいない。
その眼差しが思っていたより真剣で、乃愛の胸の奥が小さく音を立てる。
トクン。
何が入っているのだろう。そう思っていたはずなのに。
なぜだか今は、拳の中にあるものを見るのが少しだけ怖くて――。
それ以上に、待ち遠しかった。
乃愛は何も言わず、もう一度、自分の手のひらへ視線を戻す。
やがて――。
琉生の指が、ひとつずつ、ゆっくりと開いていった。
「……え?」
そこには、何もなかった。
乃愛は琉生の手と、自分の手のひらを交互に見る。
「……何も、ないよ?」
「うん。からっぽ」
「ふふっ。なにそれ」
思わず笑ってしまう。
琉生も少しだけ笑った。
けれど次に口を開いたとき、その声はさっきより少しだけ柔らかかった。
「でもさ。何もなくても……もう伝わるだろ?」
「……え?」
琉生は、からっぽの手を見つめる。
「俺の想い」
乃愛の笑みが、ふっと止まった。胸がぎゅっとなる。
「乃愛なら、分かるかなって」
そう言うと、琉生は優しく微笑んだ。
――そこには、本当に何もない。
ひまわり色の付箋も、赤いハチマキもない。
遠くからでも届いた、ぐるぐるの合図さえない。
二人はこれまで、いくつもの形に想いを乗せてきた。
言葉にできない気持ちを付箋に託して。
離れた場所からは小さな仕草に込めて。
けれど今、琉生の手には何もない。
それなのに――。
乃愛には、ちゃんと伝わった気がした。
それは、きっと。
同じクラスじゃなくても。
隣の席じゃなくても。
これまで二人で重ねてきたものは、なくならない。
だから、大丈夫ってこと。
「……うん」
乃愛はからっぽの手のひらから顔を上げ、琉生を見つめてほほ笑んだ。
「分かるよ」
「だろ?」
「……離れても、変わらないってことでしょ?」
琉生は一瞬だけ目を細めると、嬉しそうに笑った。
「やっぱ乃愛には伝わるな」
その言葉に、乃愛も笑った。
からっぽなのに、不思議と何もないようには思えなかった。
目には見えない。
触れることもできない。
それでも、ちゃんと伝わっている。
琉生の想いも、乃愛の想いも。
それはまだ名前もない、二人だけの新しい合図。
「じゃ、帰ろうぜ」
「……うん」
琉生が差し出した手に、今度は乃愛から手を重ねる。
指と指が、自然に絡んだ。
もう、隣の席ではない。
春になっても、同じ教室にいられるかは分からない。
それでも乃愛は、もう前ほど怖くはなかった。
それは、琉生がいつも乃愛を見ていてくれるから。
言葉にできない気持ちにも、気づいてくれるから。
二人は繋いだ手を揺らしながら、校門を出る。
からっぽだったはずの手には、今、大好きな人のぬくもりがある。
そして二人は、新しい春へ向かって、並んで歩いていった――。

