三月。まだ少し冷たさの残る風の中に、春の匂いが混じり始めていた。
卒業式を終えた校内には、いつもとは違うざわめきが広がっている。廊下では卒業生たちが友人や後輩と写真を撮り、笑い声の合間に、ときどき涙を拭う姿も見えた。
ひまりはその人波の中を歩きながら、一人の姿を探していた。
今日で、直哉がこの学校を卒業する。
もちろん、もう会えなくなるわけではない。家は隣同士なのだから、学校が変わったところで顔を合わせることはこれからもあるだろう。
――学校変わったって、隣なのは変わんないだろ。
クリスマスの夜、直哉はそう言って笑った。
分かっている。卒業したからといって、二人の間から今までの時間がなくなるわけではない。そ
れでも、胸の奥が落ち着かなかった。
「あ、ひまり」
聞き慣れた声に、ひまりが顔を上げる。
少し先に、卒業証書の入った筒を持った直哉が立っていた。
「直哉くん」
「やっぱ来てたんだ」
「……うん。卒業、おめでとう」
「ありがと」
直哉はいつもと変わらない笑顔を見せた。
ひまりは周囲を一度見回してから、直哉へ視線を戻した。
「……直哉くん、少しいい?」
「ん?」
「ちょっとだけ、話したい」
「いいけど」
ひまりは直哉と一緒に、人の多い廊下を離れた。
向かったのは、校舎脇の人通りが少ない場所だった。
外へ出ると、三月の風が頬を撫でる。校舎の向こうから卒業生たちの笑い声が聞こえてくるものの、ここには二人以外の姿はなかった。
「で、話って?」
「……うん」
いざ二人きりになると、さっきまで胸の中で何度も繰り返していた言葉が、急に遠くなる。
「卒業式、どうだった?」
「え、そこ?」
「……だめ?」
「いや。長かった」
「ふふっ。そこ?」
「だって校長先生の話、長いんだもん」
「ちゃんと聞かないとだめだよ」
「聞いてたって。半分くらい」
「半分なんだ」
二人で笑う。本当は、その話をするために連れてきたわけではない。
けれど緊張してしまって、いつもの会話へ逃げてしまう自分が、少しだけおかしかった。
昔から何度も繰り返してきたような、何でもない会話だった。
だからこそ、ひまりは思う。
――このままだったら、きっと今日も言えない。
幼い頃からずっと隣にいた。朝、家を出れば会うこともあって、学校から帰れば隣の家に明かりがついている。
それが当たり前すぎて、自分の気持ちがいつから変わったのか、ひまり自身にも分からなかった。
ただ、もう知っている。直哉が卒業すると考えたときに感じた寂しさも、クリスマスの夜に額へ触れられただけで胸が鳴った理由も。
全部、同じ気持ちから生まれている。
「俺、そろそろ行くわ。友達と写真撮る約束してるから」
「……うん」
「ひまりも気をつけて帰れよ」
「うん。じゃあ――」
またね。
そう言えば、いつも通り終われる。
直哉が背を向けた。その姿を見た瞬間、クリスマスの夜が重なった。
あのときも、こうして離れていく背中を見ていた。あのときも――呼び止めた。
「……直哉くん」
「ん?」
直哉が振り返る。同じだった。
目が合って、言葉が喉の奥で止まるところまで、あの夜と同じ。
「…………」
「ひまり?」
心臓が大きく鳴った。
怖い。
言ってしまったら、幼い頃から続いてきた二人の関係が変わるかもしれない。
クリスマスの夜は、それが怖くて言えなかった。
けれど――。
ひまりは制服のスカートをぎゅっと握った。
今日まで何度も、誰かの恋をそばで見てきた。
言葉にできなくて悩んだ乃愛が、一歩ずつ琉生へ気持ちを届けていく姿も。
素直になれなかった結衣と颯人が、遠回りしながらも互いの気持ちに気づいたことも。
ずっと見守る側だった。だから今度は、自分の番だ。
「……この前は、言えなかったけど」
「この前?」
「クリスマス」
直哉が少しだけ目を見開く。
「あのとき、直哉くんを呼んだの……本当は、言いたいことがあったの」
「……うん」
逃げないように、ひまりはまっすぐ直哉を見た。
「私――」
一度だけ、息を吸う。
「直哉くんのことが、好き」
言えた。
「ずっと……好きだった」
口にした瞬間、胸の奥にずっとしまっていたものが、一気に外へ飛び出してしまったような気がした。
直哉は何も言わない。
「…………」
その数秒が、ひまりにはひどく長く感じられた。
やっぱり言わないほうがよかっただろうか。
そんな不安が浮かびかけた、そのときだった。
直哉が、ふっと笑った。
驚いたような、それでいてどこか――ほっとしたような笑顔だった。
「……よかった」
「え?」
思ってもいなかった言葉に、ひまりが瞬きをする。
直哉は少し照れくさそうに頬を掻いてから、もう一度笑った。
「俺だけじゃなくて安心した」
「…………え?」
今度こそ、ひまりの思考が止まった。
「それ……どういう意味?」
「そのままの意味だけど」
「……分からないよ」
「分かるだろ」
「分からない」
ひまりが珍しく即答すると、直哉は困ったように笑った。
「じゃあ、ちゃんと言う」
その声に、ひまりの胸がもう一度大きく鳴る。
「俺も、ひまりが好き」
「…………」
「ずっと前から」
ひまりは何も言えなかった。さっきまでとは違う意味で、言葉が出てこない。
「……ほんとに?」
「こんなときに嘘ついてどうすんだよ」
「だって……」
嬉しい。
その一言だけでは足りないくらい、胸の奥がいっぱいになっていく。
それなのに同時に、少しだけ悔しくなった。
「……じゃあ、なんで言ってくれなかったの?」
「それ、ひまりが言う?」
「……言えなかったの」
「俺も同じ」
その答えに、ひまりは目を丸くして――やがて小さく笑った。
「……そっか」
「うん」
どちらかだけではなかった。
ずっと隣にいたからこそ、大切すぎて変えるのが怖かった。二人とも、同じ場所で立ち止まっていたのだ。けれど今日、ようやく一歩だけ進めた。
「じゃ、今度こそ行ってくる」
「……うん」
返事をしながら、ひまりはほんの少しだけ寂しそうに笑った。
両想いだと分かったばかりなのに、直哉は今日、この学校を卒業する。
明日から校内を探しても、もうその姿はない。
そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。
「……ひまり」
「え?」
直哉が一歩近づいてきた。
そのまま片手を伸ばし、ひまりの頭にそっと置く。
――ぽん、ぽん。
「……っ」
突然のことに、ひまりの目が大きくなる。
「そんな顔すんなって。また会うだろ」
「……でも」
「家、隣なんだから」
頭に置かれた手が、もう一度だけやさしく髪を撫でる。
「学校変わったくらいで、俺はいなくならないから」
「…………」
クリスマスの夜は、額を指先で押されただけでも胸が鳴った。
今は、そのときよりずっと近い。
ひまりは頬が熱くなるのを感じながら、それでも逃げずに直哉を見上げた。
「学校は別になるけどな」
「……うん。でも、帰ったら隣でしょ?」
そう返すと、直哉は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「そうだな」
卒業しても、家は変わらない。明日からも、窓の向こうには隣の家がある。
けれど今日から一つだけ、今までとは違うことがある。
「直哉くん」
「ん?」
「……好きって言えて、よかった」
直哉は一瞬黙ってから、穏やかに笑った。
「俺も」
今度こそ、直哉は友人たちの待つほうへ歩いていった。ひまりはその背中を見送る。
クリスマスの夜は、同じ背中に言葉を届けられなかった。
けれど今日は、ちゃんと届けられた。
ずっと隣にいた幼馴染。
その距離は変わらないまま、二人の関係だけが少し新しくなった。
春から、学校は別々になる。それでも家へ帰れば、また隣。
そう思うと、直哉の背中が遠ざかっていくことを、もう寂しいだけだとは思わなかった——。
卒業式を終えた校内には、いつもとは違うざわめきが広がっている。廊下では卒業生たちが友人や後輩と写真を撮り、笑い声の合間に、ときどき涙を拭う姿も見えた。
ひまりはその人波の中を歩きながら、一人の姿を探していた。
今日で、直哉がこの学校を卒業する。
もちろん、もう会えなくなるわけではない。家は隣同士なのだから、学校が変わったところで顔を合わせることはこれからもあるだろう。
――学校変わったって、隣なのは変わんないだろ。
クリスマスの夜、直哉はそう言って笑った。
分かっている。卒業したからといって、二人の間から今までの時間がなくなるわけではない。そ
れでも、胸の奥が落ち着かなかった。
「あ、ひまり」
聞き慣れた声に、ひまりが顔を上げる。
少し先に、卒業証書の入った筒を持った直哉が立っていた。
「直哉くん」
「やっぱ来てたんだ」
「……うん。卒業、おめでとう」
「ありがと」
直哉はいつもと変わらない笑顔を見せた。
ひまりは周囲を一度見回してから、直哉へ視線を戻した。
「……直哉くん、少しいい?」
「ん?」
「ちょっとだけ、話したい」
「いいけど」
ひまりは直哉と一緒に、人の多い廊下を離れた。
向かったのは、校舎脇の人通りが少ない場所だった。
外へ出ると、三月の風が頬を撫でる。校舎の向こうから卒業生たちの笑い声が聞こえてくるものの、ここには二人以外の姿はなかった。
「で、話って?」
「……うん」
いざ二人きりになると、さっきまで胸の中で何度も繰り返していた言葉が、急に遠くなる。
「卒業式、どうだった?」
「え、そこ?」
「……だめ?」
「いや。長かった」
「ふふっ。そこ?」
「だって校長先生の話、長いんだもん」
「ちゃんと聞かないとだめだよ」
「聞いてたって。半分くらい」
「半分なんだ」
二人で笑う。本当は、その話をするために連れてきたわけではない。
けれど緊張してしまって、いつもの会話へ逃げてしまう自分が、少しだけおかしかった。
昔から何度も繰り返してきたような、何でもない会話だった。
だからこそ、ひまりは思う。
――このままだったら、きっと今日も言えない。
幼い頃からずっと隣にいた。朝、家を出れば会うこともあって、学校から帰れば隣の家に明かりがついている。
それが当たり前すぎて、自分の気持ちがいつから変わったのか、ひまり自身にも分からなかった。
ただ、もう知っている。直哉が卒業すると考えたときに感じた寂しさも、クリスマスの夜に額へ触れられただけで胸が鳴った理由も。
全部、同じ気持ちから生まれている。
「俺、そろそろ行くわ。友達と写真撮る約束してるから」
「……うん」
「ひまりも気をつけて帰れよ」
「うん。じゃあ――」
またね。
そう言えば、いつも通り終われる。
直哉が背を向けた。その姿を見た瞬間、クリスマスの夜が重なった。
あのときも、こうして離れていく背中を見ていた。あのときも――呼び止めた。
「……直哉くん」
「ん?」
直哉が振り返る。同じだった。
目が合って、言葉が喉の奥で止まるところまで、あの夜と同じ。
「…………」
「ひまり?」
心臓が大きく鳴った。
怖い。
言ってしまったら、幼い頃から続いてきた二人の関係が変わるかもしれない。
クリスマスの夜は、それが怖くて言えなかった。
けれど――。
ひまりは制服のスカートをぎゅっと握った。
今日まで何度も、誰かの恋をそばで見てきた。
言葉にできなくて悩んだ乃愛が、一歩ずつ琉生へ気持ちを届けていく姿も。
素直になれなかった結衣と颯人が、遠回りしながらも互いの気持ちに気づいたことも。
ずっと見守る側だった。だから今度は、自分の番だ。
「……この前は、言えなかったけど」
「この前?」
「クリスマス」
直哉が少しだけ目を見開く。
「あのとき、直哉くんを呼んだの……本当は、言いたいことがあったの」
「……うん」
逃げないように、ひまりはまっすぐ直哉を見た。
「私――」
一度だけ、息を吸う。
「直哉くんのことが、好き」
言えた。
「ずっと……好きだった」
口にした瞬間、胸の奥にずっとしまっていたものが、一気に外へ飛び出してしまったような気がした。
直哉は何も言わない。
「…………」
その数秒が、ひまりにはひどく長く感じられた。
やっぱり言わないほうがよかっただろうか。
そんな不安が浮かびかけた、そのときだった。
直哉が、ふっと笑った。
驚いたような、それでいてどこか――ほっとしたような笑顔だった。
「……よかった」
「え?」
思ってもいなかった言葉に、ひまりが瞬きをする。
直哉は少し照れくさそうに頬を掻いてから、もう一度笑った。
「俺だけじゃなくて安心した」
「…………え?」
今度こそ、ひまりの思考が止まった。
「それ……どういう意味?」
「そのままの意味だけど」
「……分からないよ」
「分かるだろ」
「分からない」
ひまりが珍しく即答すると、直哉は困ったように笑った。
「じゃあ、ちゃんと言う」
その声に、ひまりの胸がもう一度大きく鳴る。
「俺も、ひまりが好き」
「…………」
「ずっと前から」
ひまりは何も言えなかった。さっきまでとは違う意味で、言葉が出てこない。
「……ほんとに?」
「こんなときに嘘ついてどうすんだよ」
「だって……」
嬉しい。
その一言だけでは足りないくらい、胸の奥がいっぱいになっていく。
それなのに同時に、少しだけ悔しくなった。
「……じゃあ、なんで言ってくれなかったの?」
「それ、ひまりが言う?」
「……言えなかったの」
「俺も同じ」
その答えに、ひまりは目を丸くして――やがて小さく笑った。
「……そっか」
「うん」
どちらかだけではなかった。
ずっと隣にいたからこそ、大切すぎて変えるのが怖かった。二人とも、同じ場所で立ち止まっていたのだ。けれど今日、ようやく一歩だけ進めた。
「じゃ、今度こそ行ってくる」
「……うん」
返事をしながら、ひまりはほんの少しだけ寂しそうに笑った。
両想いだと分かったばかりなのに、直哉は今日、この学校を卒業する。
明日から校内を探しても、もうその姿はない。
そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。
「……ひまり」
「え?」
直哉が一歩近づいてきた。
そのまま片手を伸ばし、ひまりの頭にそっと置く。
――ぽん、ぽん。
「……っ」
突然のことに、ひまりの目が大きくなる。
「そんな顔すんなって。また会うだろ」
「……でも」
「家、隣なんだから」
頭に置かれた手が、もう一度だけやさしく髪を撫でる。
「学校変わったくらいで、俺はいなくならないから」
「…………」
クリスマスの夜は、額を指先で押されただけでも胸が鳴った。
今は、そのときよりずっと近い。
ひまりは頬が熱くなるのを感じながら、それでも逃げずに直哉を見上げた。
「学校は別になるけどな」
「……うん。でも、帰ったら隣でしょ?」
そう返すと、直哉は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「そうだな」
卒業しても、家は変わらない。明日からも、窓の向こうには隣の家がある。
けれど今日から一つだけ、今までとは違うことがある。
「直哉くん」
「ん?」
「……好きって言えて、よかった」
直哉は一瞬黙ってから、穏やかに笑った。
「俺も」
今度こそ、直哉は友人たちの待つほうへ歩いていった。ひまりはその背中を見送る。
クリスマスの夜は、同じ背中に言葉を届けられなかった。
けれど今日は、ちゃんと届けられた。
ずっと隣にいた幼馴染。
その距離は変わらないまま、二人の関係だけが少し新しくなった。
春から、学校は別々になる。それでも家へ帰れば、また隣。
そう思うと、直哉の背中が遠ざかっていくことを、もう寂しいだけだとは思わなかった——。

