合唱コンクールから数日が過ぎた。
教室の前方には、あの日みんなで手にした金賞の賞状が飾られている。
休み時間になるたびに誰かがその話をして、写真を見せ合って笑う。あれほど毎日続いていた放課後の合唱練習がなくなったことに、少し寂しささえ感じるほどだった。
乃愛も自分の席から賞状を見つめ、そっと頬を緩める。
伴奏という大役を終えた今、あの日の緊張は少しずつ、穏やかな思い出へと変わりつつあった。
けれど――。
今度は、琉生の〝本番〟が近づいていた。
「琉生、部活行くぞー」
放課後、教室の後ろから颯人の声が飛ぶ。
「おう! 今行く!」
いつもの明るい声で返事をした琉生は、鞄から練習着の入ったバッグを取り出すと、乃愛のほうを振り返った。
「乃愛、またあとでな」
「うん。頑張ってね」
「おう!」
にっと笑って、颯人と一緒に教室を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、乃愛はわずかに首を傾げた。
いつもと同じ笑顔。
いつもと同じ声。
それなのに――なぜだろう。
ほんの少しだけ、何かが違うような気がした。
(……琉生くん?)
その小さな違和感が何なのか、そのときの乃愛にはまだ分からなかった。
琉生には、合唱コンクールの指揮者という大役を終えて一息つく間もなく、次の大きな舞台が待っていた。
二週間後に迫った、全国大会へ繋がる大事な公式戦。
そして、その試合には将来を左右するかもしれないスカウトが視察に来るという話もあった。
この一か月、琉生は指揮者の練習で部活を抜けることもあった。
そのぶんまで取り戻そうとするように、通常の練習が終わっても自主練を続ける日が増えている。
「羽瀬、もう上がれよ」
「あとちょっと」
「昨日もそれ言ってただろ。根詰めすぎるとケガするぞ」
「分かってるって。大丈夫」
琉生はそう言って笑うと、再びボールを追った。
身体に疲れが溜まっていることも、無理をすれば逆効果になることも、自分でも百も承知だった。
それでも、止まれない。
二週間後の大事な試合で思うようなプレーができなかったら――。
そう考えると、身体を動かしていないほうが不安だった。
「羽瀬、パス!」
「おう!」
仲間から回ってきたボールを受け、琉生は前を向く。
すぐに相手役のディフェンダーが二人、進路を塞いだ。
いつもなら、一瞬できた隙間を逃さず抜けられる。
けれど――足が思ったようについてこない。
「っ……!」
次の瞬間、ボールを奪われた。
取り返そうと身体を反転させたところでバランスを崩し、そのまま芝の上へ倒れ込む。
「あー……クソッ」
仰向けになった視界いっぱいに、夕暮れ前の空が広がった。
琉生は両手の甲で顔を覆う。
(まじ、かっこわりー……)
最近、こんなことばかりだった。
やればやるほど、思うように身体が動かない。
悔しさを飲み込むように息を吐くと、琉生は両手を地面について立ち上がった。
「もう一本!」
そしてまた、ボールを追いかけて走り出した。
*―*―*
水曜日は、乃愛にとって少しだけ特別な曜日になっていた。
塾もなく、結衣たちとも下校時間が重ならないその日は、放課後になると図書室で勉強をしながら、琉生の部活が終わるのを待つ。
そして練習終了の十五分ほど前になると、図書室近くの廊下の窓からグラウンドを覗くのが、いつの間にか小さな日課になっていた。
今日も乃愛は窓枠へそっと腕を置き、遠くにいる琉生を目で追っていた。
練習の邪魔はしたくないから、本人には言っていない。
ボールを追いかけて走る姿。
仲間に声をかける姿。
失敗して悔しそうな顔をしても、すぐに立ち上がる姿。
サッカーの詳しいことは、乃愛にはまだよく分からない。
それでも――。
琉生のことなら、少しは分かるようになった気がする。
(最近、すごく頑張ってるけど……)
その頑張りが、どこか空回りしているようにも見えた。
(……大丈夫かな)
胸の奥に、小さな不安が残る。
今日、一緒に帰るときに聞いてみよう。
そう思いながら、乃愛は練習が終わるまで琉生の姿を見つめていた。
やがて終了の声がかかり、乃愛が昇降口近くまで迎えに行くと、こちらに気づいた琉生が走ってきた。
「琉生くん、お疲れさま」
「おう。乃愛も勉強お疲れ。荷物取ってくるから、ちょっと待ってて」
「うん」
琉生が部室へ駆けていく。
その背中を見送っていると、今度は颯人が乃愛のほうへ歩いてきた。
「白石さん」
「高城くん?」
颯人は琉生が消えた方向をちらりと確認すると、少し声を落とした。
「あいつ、最近無茶しすぎだから」
「……やっぱり、そう?」
「うん。練習終わっても全然帰ろうとしねーし。俺が言っても聞かない」
いつもの軽口とは違う表情だった。
「このまま無茶してケガでもしたら、試合どころじゃなくなるから」
颯人は小さく息を吐く。
「たまに迎えに来て、自主練休ませてやって。白石さんが言っても休むか分かんねーけど」
「……うん」
「見てて危ないんだよ」
それだけ言うと、颯人は琉生に気づかれる前に仲間たちのほうへ戻っていった。
(高城くんも、そう思ってたんだ……)
やっぱり、気のせいではなかった。
それに――高城くんが自分にこんなことを頼んできたことにも、少し驚いた。
けれど今は、そのことよりも。
琉生のことが心配だった。
しばらくすると、制服に着替えた琉生が鞄を持って走ってくる。
「お待たせ! 帰ろ、乃愛」
「うん」
乃愛を見つけて安心したのか、疲れの残る顔にふわっと優しい笑顔が浮かんだ。
その笑顔を見たら、すぐに「無理してるの?」とは聞けなくなってしまった。
ただ、自分も琉生の心に寄り添えたら。
今度は、私の番かもしれない。
乃愛は、そんな予感がした――。
教室の前方には、あの日みんなで手にした金賞の賞状が飾られている。
休み時間になるたびに誰かがその話をして、写真を見せ合って笑う。あれほど毎日続いていた放課後の合唱練習がなくなったことに、少し寂しささえ感じるほどだった。
乃愛も自分の席から賞状を見つめ、そっと頬を緩める。
伴奏という大役を終えた今、あの日の緊張は少しずつ、穏やかな思い出へと変わりつつあった。
けれど――。
今度は、琉生の〝本番〟が近づいていた。
「琉生、部活行くぞー」
放課後、教室の後ろから颯人の声が飛ぶ。
「おう! 今行く!」
いつもの明るい声で返事をした琉生は、鞄から練習着の入ったバッグを取り出すと、乃愛のほうを振り返った。
「乃愛、またあとでな」
「うん。頑張ってね」
「おう!」
にっと笑って、颯人と一緒に教室を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、乃愛はわずかに首を傾げた。
いつもと同じ笑顔。
いつもと同じ声。
それなのに――なぜだろう。
ほんの少しだけ、何かが違うような気がした。
(……琉生くん?)
その小さな違和感が何なのか、そのときの乃愛にはまだ分からなかった。
琉生には、合唱コンクールの指揮者という大役を終えて一息つく間もなく、次の大きな舞台が待っていた。
二週間後に迫った、全国大会へ繋がる大事な公式戦。
そして、その試合には将来を左右するかもしれないスカウトが視察に来るという話もあった。
この一か月、琉生は指揮者の練習で部活を抜けることもあった。
そのぶんまで取り戻そうとするように、通常の練習が終わっても自主練を続ける日が増えている。
「羽瀬、もう上がれよ」
「あとちょっと」
「昨日もそれ言ってただろ。根詰めすぎるとケガするぞ」
「分かってるって。大丈夫」
琉生はそう言って笑うと、再びボールを追った。
身体に疲れが溜まっていることも、無理をすれば逆効果になることも、自分でも百も承知だった。
それでも、止まれない。
二週間後の大事な試合で思うようなプレーができなかったら――。
そう考えると、身体を動かしていないほうが不安だった。
「羽瀬、パス!」
「おう!」
仲間から回ってきたボールを受け、琉生は前を向く。
すぐに相手役のディフェンダーが二人、進路を塞いだ。
いつもなら、一瞬できた隙間を逃さず抜けられる。
けれど――足が思ったようについてこない。
「っ……!」
次の瞬間、ボールを奪われた。
取り返そうと身体を反転させたところでバランスを崩し、そのまま芝の上へ倒れ込む。
「あー……クソッ」
仰向けになった視界いっぱいに、夕暮れ前の空が広がった。
琉生は両手の甲で顔を覆う。
(まじ、かっこわりー……)
最近、こんなことばかりだった。
やればやるほど、思うように身体が動かない。
悔しさを飲み込むように息を吐くと、琉生は両手を地面について立ち上がった。
「もう一本!」
そしてまた、ボールを追いかけて走り出した。
*―*―*
水曜日は、乃愛にとって少しだけ特別な曜日になっていた。
塾もなく、結衣たちとも下校時間が重ならないその日は、放課後になると図書室で勉強をしながら、琉生の部活が終わるのを待つ。
そして練習終了の十五分ほど前になると、図書室近くの廊下の窓からグラウンドを覗くのが、いつの間にか小さな日課になっていた。
今日も乃愛は窓枠へそっと腕を置き、遠くにいる琉生を目で追っていた。
練習の邪魔はしたくないから、本人には言っていない。
ボールを追いかけて走る姿。
仲間に声をかける姿。
失敗して悔しそうな顔をしても、すぐに立ち上がる姿。
サッカーの詳しいことは、乃愛にはまだよく分からない。
それでも――。
琉生のことなら、少しは分かるようになった気がする。
(最近、すごく頑張ってるけど……)
その頑張りが、どこか空回りしているようにも見えた。
(……大丈夫かな)
胸の奥に、小さな不安が残る。
今日、一緒に帰るときに聞いてみよう。
そう思いながら、乃愛は練習が終わるまで琉生の姿を見つめていた。
やがて終了の声がかかり、乃愛が昇降口近くまで迎えに行くと、こちらに気づいた琉生が走ってきた。
「琉生くん、お疲れさま」
「おう。乃愛も勉強お疲れ。荷物取ってくるから、ちょっと待ってて」
「うん」
琉生が部室へ駆けていく。
その背中を見送っていると、今度は颯人が乃愛のほうへ歩いてきた。
「白石さん」
「高城くん?」
颯人は琉生が消えた方向をちらりと確認すると、少し声を落とした。
「あいつ、最近無茶しすぎだから」
「……やっぱり、そう?」
「うん。練習終わっても全然帰ろうとしねーし。俺が言っても聞かない」
いつもの軽口とは違う表情だった。
「このまま無茶してケガでもしたら、試合どころじゃなくなるから」
颯人は小さく息を吐く。
「たまに迎えに来て、自主練休ませてやって。白石さんが言っても休むか分かんねーけど」
「……うん」
「見てて危ないんだよ」
それだけ言うと、颯人は琉生に気づかれる前に仲間たちのほうへ戻っていった。
(高城くんも、そう思ってたんだ……)
やっぱり、気のせいではなかった。
それに――高城くんが自分にこんなことを頼んできたことにも、少し驚いた。
けれど今は、そのことよりも。
琉生のことが心配だった。
しばらくすると、制服に着替えた琉生が鞄を持って走ってくる。
「お待たせ! 帰ろ、乃愛」
「うん」
乃愛を見つけて安心したのか、疲れの残る顔にふわっと優しい笑顔が浮かんだ。
その笑顔を見たら、すぐに「無理してるの?」とは聞けなくなってしまった。
ただ、自分も琉生の心に寄り添えたら。
今度は、私の番かもしれない。
乃愛は、そんな予感がした――。

