隣の席だったキミとひみつの合図 ~強い絆と恋の充電。支え合い、乗り越える力がある~

すべての生徒が教室を出ていくと、さっきまでの賑やかさが嘘のように静かになった。

窓から差し込む濃いオレンジ色の夕日が、無人の机と椅子を照らし、床へ長い影を伸ばしている。

教室の真ん中、前から三番目。

今の自分の席のそばに、乃愛は一人で立っていた。

手にしているのは、今日の合唱コンクールのプログラム。

金賞を取った。みんなで喜んだ。

やりきったという安堵感に包まれているはずなのに、胸の奥ではまだ、ステージの余韻が消えずに鼓動を続けている。

乃愛は夕日に照らされた紙面へ視線を落とした。

『指揮:羽瀬 琉生 / 伴奏:白石 乃愛』

並んだ二人の名前を見つめていると、ステージの上で何度も琉生と視線を交わした瞬間が蘇ってくる。

自分だけを真っ直ぐに捉えた、力強い眼差し。

声にはならなかった――『乃愛』。

そして、二人だけの「ぐるぐる」の合図。

(琉生くん……)

胸がいっぱいになって、乃愛は二人の名前を指先でそっとなぞった。

「……ふふっ」

自然と小さな笑みがこぼれた、そのとき――。

ガラッ。

静かな教室に、後ろの扉が開く音が響いた。

「……!」

乃愛が驚いて振り返る。

そこには、少し肩で息をしながら立つ琉生がいた。

「……やっぱりここにいた。探したじゃん、乃愛」

「琉生くん……?」

みんなと一緒に先に行ったはずなのに。

「どうしたの? みんなは……?」

「先行ってもらった。乃愛がいねーから、探しに戻ってきた」

そう言って、琉生は少し息を整える。

本当に自分を探してくれていたらしい。

「ご、ごめんね。ちょっとだけ……ここにいたくて」

「それはいいけどさ」

琉生は照れくさそうに笑いながら、机の間を抜けて乃愛のほうへ歩いてくる。

一歩、また一歩。

やがて乃愛の前で足を止めた。

「俺、今日の伴奏のお礼、まだちゃんと言ってねーし」

「お礼なんて……。私のほうこそ、琉生くんの合図がなかったら、あんなに弾けなかったよ……」

「でも、最後まで弾いたのは乃愛じゃん。俺がやったのは合図しただけ。最初の一音から最後まで弾いたのは、乃愛だろ?」

琉生は真っ直ぐに乃愛を見る。

「だから、ありがとな。最高だった」

「……琉生くん」

胸の奥がまた熱くなり、乃愛は恥ずかしさをごまかすように視線を落とした。

すると琉生は、乃愛が手にしているものに気づく。

「あ、それ。プログラム、見てたんだな」

「……うん」

琉生が乃愛の隣へ回り込み、二人で同じプログラムを覗き込む。

肩が触れそうなくらい近くに琉生がいるだけで、さっきまで落ち着いていた鼓動が、また少し速くなった。

「……並んでるな。俺たちの名前」

「……うん」

分かっているのに、琉生の口から言われると急に恥ずかしくなる。

「なあ、乃愛。俺さ、クラスが金賞取ったの、めちゃくちゃ嬉しかった」

「うん。私も」

「でも、この紙に乃愛と俺の名前が並んでるの見たときも……それとは別ですげー嬉しかった」

一気に顔が熱くなる。

「そ、それ……比べるものじゃないよ……」

「分かってるって。だから別って言ったじゃん」

「もう……」

琉生はいたずらっぽく笑うと、乃愛が持っているプログラムの上へ、握った拳をそっと差し出した。

「……?」

目の前に差し出された、からっぽのグー。

その拳が、乃愛のすぐそばでゆっくりと回る。

ぐる、ぐる。

「……ふふっ」

こんなに近くても、やっぱりそれは二人だけの合図。

乃愛が小さく笑うと、琉生も嬉しそうに目を細めた。

けれど、拳はまだ開かない。

「……?」

乃愛が不思議そうに首を傾げた、その瞬間――。

琉生の拳が、ぱっと開いた。

「……え?」

その手のひらにあったものを見て、乃愛は目を丸くする。

小さな金色のバッジ。

今日、指揮者としてステージに立った琉生が、胸につけていたものだった。

「これ……指揮者の……」

「そ」

琉生がにっと笑う。

「乃愛にやる。今日のご褒美」

「えっ⁉ だ、だめだよ!」

乃愛は慌てて首を振った。

「これは琉生くんが頑張った証拠でしょ? 私がもらったら……」

「いいの。俺一人で取ったもんじゃないし」

琉生の表情が少しだけ真面目になる。

「乃愛のピアノがあって、みんなの歌があって、やっとできた指揮だからさ」

「でも……」

「だから――『最優秀彼女賞』」

「……え?」

「今日の乃愛に、一番ふさわしい賞」

「そ、そんな賞ないよ!」

思わず声を上げると、琉生が吹き出した。

「今作った」

「もう……!」

「でも俺の中では、乃愛が最優秀だから」

「……っ」

また何も言えなくなってしまう。

そんな乃愛を見て満足そうに笑うと、琉生はバッジを指先でつまんだ。

「ほら、じっとしてて。つけてやるから」

琉生が一歩近づく。

「……っ」

近い。

そう思った瞬間、心臓が大きく跳ねた。

琉生の指先が、乃愛のブレザーの襟へそっと触れる。

乃愛は動かないようにじっとしていたけれど、目の前にいる琉生を意識すればするほど、鼓動は速くなっていった。

「……よし」

やがて琉生の手が離れる。

制服の襟元には、小さな金色のバッジが夕日を受けて輝いていた。

「似合ってる」

「……ありがとう。大切にするね」

乃愛は指先で、そっとバッジへ触れた。

「うん」

「……ずっと」

その一言に、琉生が一瞬だけ目を丸くする。

それから、嬉しそうに笑った。

「……それなら、あげた甲斐あるわ」

二人の間に、穏やかな沈黙が落ちる。

窓から入り込んだ秋の風が、乃愛の髪をわずかに揺らした。

そのとき、琉生が乃愛の右手へそっと触れた。

「乃愛……。ちょっとだけ、このまま手、繋いでていい?」

いつもの琉生らしくない、少しだけ照れた声。

乃愛は目を瞬かせて、重なった手を見る。

体育祭の日も、今日のステージ袖でも。

不安になったときには、この手が自分を見つけてくれた。

いつも琉生から差し出してくれた手。

だから今度は――。

乃愛は、琉生の手をぎゅっと握り返した。

「……私だって」

「ん?」

勇気を出して顔を上げる。

「琉生くんの手……離したくない、よ?」

琉生が固まった。

反応がなくなり、不安になった乃愛は顔を覗き込む。

「……琉生くん?」

「いや……待って」

「え?」

琉生は繋いだ手を少し持ち上げると、照れ隠しをするように俯いた。

耳が、ほんのり赤い。

それを見つけた瞬間、乃愛の胸がくすぐったくなる。

「……それ、反則。まじで帰したくなくなるじゃん」

「……っ」

今度は乃愛の顔まで熱くなった。

それでも、繋いだ手は離さなかった。

琉生も離さない。

夕日に染まった教室の中で、二人はしばらくそのまま見つめ合った。

今日まで、何度も助けてもらった。

緊張して動けなくなったときも、不安になったときも。

そして今日だって、大勢の視線に押し潰されそうになった自分を、琉生はちゃんと見つけてくれた。

――乃愛。

ステージの上で、声にはならなかったあの呼びかけを思い出す。

(私も……)

いつも、もらってばかりじゃなくて。

琉生くんに、ちゃんと伝えたい。

乃愛は小さく息を吸った。

そして、繋いでいた手をそっと離す。

「……乃愛?」

突然離れた温もりに、琉生が不思議そうに乃愛を見る。

胸が、どくんと鳴った。

それでも乃愛は、一歩前へ踏み出した。

そして――。

両手を広げ、琉生へそっと抱きついた。

「琉生くん。……今日はありがとう」

「…………え?」

琉生の身体が固まる。

顔が熱い。

心臓だって、さっきよりずっとうるさい。

自分からこんなことをするなんて、少し前の乃愛なら考えられなかった。

それでも、今は離れたくなかった。

「私……今日、すごく怖かった。でも、琉生くんが見つけてくれたから。『大丈夫』って伝えてくれたから、最後まで弾けたの」

「乃愛……」

乃愛はもう少しだけ勇気を出して、言葉を続ける。

「だから……これは私のご褒美だけど」

胸元についた小さな金色のバッジへ、一瞬だけ視線を落とす。

「今のは……私から琉生くんへの、ご褒美」

言った。

言ってしまった。

途端に恥ずかしさが押し寄せてきて、乃愛は慌てて離れようとした。

けれど――。

琉生の腕が、乃愛の背中へそっと回る。

頭を撫でるように、優しく抱きしめ返された。

強くではなく、大切なものを包み込むように。

「……それは、ずるいって」

聞こえてきた声も、少し照れていた。

「そんなご褒美もらったら、今日頑張ってよかったって思うじゃん」

「……私も。琉生くんと一緒に頑張れて……よかった」

琉生は一瞬目を丸くして、それからいつもの笑顔を浮かべた。

たったそれだけ。

でも今の二人には、それだけで十分だった。

窓の外から、秋の夕風がそっと吹き込んでくる。

席替えをして、もう二人の席は隣同士ではない。

春には、すぐ隣にいるだけであんなに緊張していたのに。

今は――。

夕日に照らされた二人の影が、静かな教室の床へ一つに重なっていた。

しばらくして、乃愛が少し名残惜しさを感じながら口を開く。

「……そろそろ行こっか」

「えー」

「えー、じゃないよ」

「もうちょっと」

「みんな待ってるよ?」

「じゃあ、あと十秒」

「もう……」

困ったように笑った乃愛だったが、自分から離れようとはしなかった。

「……十秒だけだよ?」

「よっしゃ」

「ふふっ」

静かな教室に、二人の小さな笑い声が重なる。

やがて短い十秒が過ぎ、二人は鞄を持って教室を出た。

廊下を歩き始めると、琉生が当たり前のように手を差し出す。

乃愛はその手を見て、小さく笑った。

今度は迷わない。

そっと、自分の手を重ねる。

もう、隣の席ではないけれど。

隣を歩くことはできる。

二人は繋いだ手を揺らしながら、みんなが待つ場所へと夕暮れの廊下を歩いていった――。