《揺れる指先、ふたりの合図》
ステージ袖から一歩踏み出した瞬間、
乃愛の視界いっぱいに眩しい光が広がった。
市民ホールの大きなステージ。
頭上から降り注ぐスポットライトは、
袖から見ていたときよりも
ずっと明るく感じる。
その向こうには
客席を埋め尽くすほどの人、人、人。
保護者や生徒たち、
そして中央には、
これから自分たちの歌を評価する
審査員たちの姿も見えた。
(……こんなに、いるんだ)
分かっていたはずなのに、
実際にステージへ立ってみると、
その光景は想像していたものとはまるで違った。
一歩進むたび、
たくさんの視線が自分たちへ
集まってくるような気がする。
乃愛は胸の前で小さく息を吸い、
決められた位置へ向かった。
その途中、
少し前を歩いていた琉生がふっと振り返る。
ほんの一瞬だけ、視線が重なった。
琉生は何も言わなかった。
ただ、いつものように
少しだけ口元を上げてみせる。
――大丈夫。
そう言われた気がして、乃愛も小さく頷いた。
そして二人は、それぞれの場所へ向かう。
琉生は指揮台へ。
乃愛はピアノへ。
ほんの数メートル。
それなのに、
さっきまで隣にいた琉生が
急に遠くなったように感じた。
ピアノの椅子へ腰を下ろす。
目の前に並ぶ白と黒の鍵盤は、
放課後の音楽室でも、
昼休みでも、家でも、
何度も何度も見てきた景色だった。
鍵盤の位置だって、もう指が覚えている。
だから、大丈夫。
そのはずなのに――。
(……あれ?)
鍵盤へ置いた指先が、小さく揺れた。
乃愛は思わず自分の手を見つめる。
ほんのわずかだった震えが、
意識した途端、
少しずつ大きくなっていく。
(だ、大丈夫……)
さっきステージ袖で、琉生が手を握ってくれた。
冷たくなっていた指を包み込んで、
「大丈夫」「俺がいる」と言ってくれた。
確かにあのとき、震えは止まった。
手のひらにはまだ、
琉生から受け取った温かさが
残っている気さえする。
それなのに、
一人でピアノの前へ座った途端、
客席から注がれる視線が
一気に押し寄せてきた。
(最初の音……)
どのタイミングだった?
琉生くんの手が下りたら。
分かってる。
何度も練習した。
分かっているはずなのに。
(もし、入れなかったら……?)
胸が、どくんと大きく鳴った。
もし自分が間違えたら。
ここまでみんなで頑張ってきたのに。
毎日のように練習して、
最初はばらばらだった歌声が
少しずつ一つになって、
昨日の最後の練習では、
みんなで笑って「明日頑張ろう」と言えたのに。
自分の一音で、それを壊してしまったら――。
「……ねえ、白石さん、
すごく緊張してない?」
後ろから、ごく小さな声が聞こえた。
「大丈夫か……?」
心配してくれているだけだと分かっている。
けれど、
その声を耳にした瞬間、
乃愛の指先がまた震えた。
その緊張が伝わってしまったのだろう。
誰かが息を呑み、別の誰かが姿勢を直す。
ステージの空気が、ほんの少しだけ硬くなった。
(どうしよう……)
息が、浅くなる。
そのときだった。
ステージの中央で、琉生がすっと顔を上げた。
指揮台に立つ琉生は、
静かにクラス全員を見渡している。
いつもの教室で笑っているときとは違う。
サッカーをしているときとも違う。
真っ直ぐで、力強い目。
その姿を見ただけで、
ざわつきかけていたクラスメイトたちの
空気が少しずつ変わっていった。
そして琉生は、
指揮棒を持った右手をゆっくりと上げた。
高く。
みんなの頭より、さらに高く。
まるで、
――さあ、いくぞ。
そうクラス全員へ伝えるように。
自然と、みんなの視線が
その右手へ集まっていく。
さっきまで乃愛を心配そうに
見ていたクラスメイトも、
緊張で表情を硬くしていた男子も、
結衣も、ひまりも、颯人も。
全員が、琉生の右手を見つめていた。
次の合図を待っている。
その中で、
ピアノの椅子に座っている乃愛だけは違った。
高く掲げられた右手ではなく、
その下にいる琉生自身を見つめていた。
そのとき――目が合った。
真っ直ぐで、力強い眼差しだった。
まるで最初から、
そこに乃愛がいることを
分かっていたかのように。
琉生の視線は大勢の中から
乃愛だけを捉えている。
「……っ」
琉生の唇が、ゆっくりと動いた。
声は聞こえない。
それでも、
その形だけははっきりと読み取れた。
――乃愛。
胸が、どくんと大きく鳴った。
琉生は乃愛の目を
真っ直ぐに見つめたまま、
力強く一度だけ頷く。
その瞬間。
不思議なくらい
彼の気持ちが胸の奥へ流れ込んできた。
――大丈夫。
――俺を見ろ。
置いていかない。一緒にいこう。
(琉生くん……)
そして次の瞬間、乃愛は目を見開いた。
琉生の右手は、まだ高く掲げられたまま。
クラスのみんなの視線も、
そこへ集まっている。
その陰で、
下ろしたままの左手がそっと動いた。
お腹の前。
誰にも気づかれない、小さな動き。
くるり。
そして、もう一度。
くるり。
――ぐる、ぐる。二回。
「……っ」
二人だけが知っている、秘密の合図。
体育祭の日、
大勢の人がいる中で交わした、
声のいらない約束。
そして、
さっきステージ袖でも
確かめたばかりの合図。
――大丈夫。一緒にいこう。
(……うん)
乃愛は今度は自分から、小さく頷き返した。
その瞬間。
不思議なくらい周りの音が戻ってきた。
誰かが息を吸う音。
衣装がわずかに擦れる音。
広いホールの静けさ。
そして、自分自身の呼吸。
すう、と息を吸う。
さっきまで冷たかった指先に、
じんわりと熱が戻ってくる。
大丈夫。
ここまで何度も練習してきた。
失敗して、弾き直して、
うまくいかなくて落ち込んだ日だってあった。
それでも、今日まで弾いてきた。
それに、一人じゃない。
後ろにはクラスのみんながいる。
目の前には――琉生がいる。
(私は、私のピアノを弾けばいい)
乃愛はもう一度鍵盤へ指を置いた。
今度は、震えていない。
顔を上げると、
琉生ともう一度目が合った。
乃愛は、ほんの少し笑った。
その表情を見た琉生の口元も、
わずかに上がる。
二人の変化は、周りにも伝わったのだろう。
張りつめていた空気がふっとほどけ、
後ろに並ぶクラスメイトたちの
表情からも少しずつ力が抜けていく。
結衣が乃愛を見て、にっと笑った。
ひまりも優しく頷き、
颯人は指揮台の琉生へ視線を戻しながら、
どこか安心したように口元を緩める。
みんなが、同じ瞬間を待っていた。
静寂の中、琉生の右手がさらに高く上がる。
乃愛は鍵盤を見つめた。
そして――。
ステージ袖から一歩踏み出した瞬間、
乃愛の視界いっぱいに眩しい光が広がった。
市民ホールの大きなステージ。
頭上から降り注ぐスポットライトは、
袖から見ていたときよりも
ずっと明るく感じる。
その向こうには
客席を埋め尽くすほどの人、人、人。
保護者や生徒たち、
そして中央には、
これから自分たちの歌を評価する
審査員たちの姿も見えた。
(……こんなに、いるんだ)
分かっていたはずなのに、
実際にステージへ立ってみると、
その光景は想像していたものとはまるで違った。
一歩進むたび、
たくさんの視線が自分たちへ
集まってくるような気がする。
乃愛は胸の前で小さく息を吸い、
決められた位置へ向かった。
その途中、
少し前を歩いていた琉生がふっと振り返る。
ほんの一瞬だけ、視線が重なった。
琉生は何も言わなかった。
ただ、いつものように
少しだけ口元を上げてみせる。
――大丈夫。
そう言われた気がして、乃愛も小さく頷いた。
そして二人は、それぞれの場所へ向かう。
琉生は指揮台へ。
乃愛はピアノへ。
ほんの数メートル。
それなのに、
さっきまで隣にいた琉生が
急に遠くなったように感じた。
ピアノの椅子へ腰を下ろす。
目の前に並ぶ白と黒の鍵盤は、
放課後の音楽室でも、
昼休みでも、家でも、
何度も何度も見てきた景色だった。
鍵盤の位置だって、もう指が覚えている。
だから、大丈夫。
そのはずなのに――。
(……あれ?)
鍵盤へ置いた指先が、小さく揺れた。
乃愛は思わず自分の手を見つめる。
ほんのわずかだった震えが、
意識した途端、
少しずつ大きくなっていく。
(だ、大丈夫……)
さっきステージ袖で、琉生が手を握ってくれた。
冷たくなっていた指を包み込んで、
「大丈夫」「俺がいる」と言ってくれた。
確かにあのとき、震えは止まった。
手のひらにはまだ、
琉生から受け取った温かさが
残っている気さえする。
それなのに、
一人でピアノの前へ座った途端、
客席から注がれる視線が
一気に押し寄せてきた。
(最初の音……)
どのタイミングだった?
琉生くんの手が下りたら。
分かってる。
何度も練習した。
分かっているはずなのに。
(もし、入れなかったら……?)
胸が、どくんと大きく鳴った。
もし自分が間違えたら。
ここまでみんなで頑張ってきたのに。
毎日のように練習して、
最初はばらばらだった歌声が
少しずつ一つになって、
昨日の最後の練習では、
みんなで笑って「明日頑張ろう」と言えたのに。
自分の一音で、それを壊してしまったら――。
「……ねえ、白石さん、
すごく緊張してない?」
後ろから、ごく小さな声が聞こえた。
「大丈夫か……?」
心配してくれているだけだと分かっている。
けれど、
その声を耳にした瞬間、
乃愛の指先がまた震えた。
その緊張が伝わってしまったのだろう。
誰かが息を呑み、別の誰かが姿勢を直す。
ステージの空気が、ほんの少しだけ硬くなった。
(どうしよう……)
息が、浅くなる。
そのときだった。
ステージの中央で、琉生がすっと顔を上げた。
指揮台に立つ琉生は、
静かにクラス全員を見渡している。
いつもの教室で笑っているときとは違う。
サッカーをしているときとも違う。
真っ直ぐで、力強い目。
その姿を見ただけで、
ざわつきかけていたクラスメイトたちの
空気が少しずつ変わっていった。
そして琉生は、
指揮棒を持った右手をゆっくりと上げた。
高く。
みんなの頭より、さらに高く。
まるで、
――さあ、いくぞ。
そうクラス全員へ伝えるように。
自然と、みんなの視線が
その右手へ集まっていく。
さっきまで乃愛を心配そうに
見ていたクラスメイトも、
緊張で表情を硬くしていた男子も、
結衣も、ひまりも、颯人も。
全員が、琉生の右手を見つめていた。
次の合図を待っている。
その中で、
ピアノの椅子に座っている乃愛だけは違った。
高く掲げられた右手ではなく、
その下にいる琉生自身を見つめていた。
そのとき――目が合った。
真っ直ぐで、力強い眼差しだった。
まるで最初から、
そこに乃愛がいることを
分かっていたかのように。
琉生の視線は大勢の中から
乃愛だけを捉えている。
「……っ」
琉生の唇が、ゆっくりと動いた。
声は聞こえない。
それでも、
その形だけははっきりと読み取れた。
――乃愛。
胸が、どくんと大きく鳴った。
琉生は乃愛の目を
真っ直ぐに見つめたまま、
力強く一度だけ頷く。
その瞬間。
不思議なくらい
彼の気持ちが胸の奥へ流れ込んできた。
――大丈夫。
――俺を見ろ。
置いていかない。一緒にいこう。
(琉生くん……)
そして次の瞬間、乃愛は目を見開いた。
琉生の右手は、まだ高く掲げられたまま。
クラスのみんなの視線も、
そこへ集まっている。
その陰で、
下ろしたままの左手がそっと動いた。
お腹の前。
誰にも気づかれない、小さな動き。
くるり。
そして、もう一度。
くるり。
――ぐる、ぐる。二回。
「……っ」
二人だけが知っている、秘密の合図。
体育祭の日、
大勢の人がいる中で交わした、
声のいらない約束。
そして、
さっきステージ袖でも
確かめたばかりの合図。
――大丈夫。一緒にいこう。
(……うん)
乃愛は今度は自分から、小さく頷き返した。
その瞬間。
不思議なくらい周りの音が戻ってきた。
誰かが息を吸う音。
衣装がわずかに擦れる音。
広いホールの静けさ。
そして、自分自身の呼吸。
すう、と息を吸う。
さっきまで冷たかった指先に、
じんわりと熱が戻ってくる。
大丈夫。
ここまで何度も練習してきた。
失敗して、弾き直して、
うまくいかなくて落ち込んだ日だってあった。
それでも、今日まで弾いてきた。
それに、一人じゃない。
後ろにはクラスのみんながいる。
目の前には――琉生がいる。
(私は、私のピアノを弾けばいい)
乃愛はもう一度鍵盤へ指を置いた。
今度は、震えていない。
顔を上げると、
琉生ともう一度目が合った。
乃愛は、ほんの少し笑った。
その表情を見た琉生の口元も、
わずかに上がる。
二人の変化は、周りにも伝わったのだろう。
張りつめていた空気がふっとほどけ、
後ろに並ぶクラスメイトたちの
表情からも少しずつ力が抜けていく。
結衣が乃愛を見て、にっと笑った。
ひまりも優しく頷き、
颯人は指揮台の琉生へ視線を戻しながら、
どこか安心したように口元を緩める。
みんなが、同じ瞬間を待っていた。
静寂の中、琉生の右手がさらに高く上がる。
乃愛は鍵盤を見つめた。
そして――。

