隣の席だったキミとひみつの合図 ~強い絆と恋の充電。支え合い、乗り越える力がある~

《本番前夜、君と並ぶ約束》
女子たちと話し、
体育祭の日から胸の奥に
残っていたわだかまりが、
少しだけほどけた、その日の夜。


明日はいよいよ合唱コンクール本番。


夜の静かな部屋で、
乃愛は机の前に座り、
本番用のプログラムと miwa さんの
『結 ─ゆい─』の楽譜を広げていた。


昼間の最後の全体練習では、
みんなの歌声が一つに重なって、
鳥肌が立つほど綺麗だった。


クラス公認になってからのこの二週間、
音楽室での冷やかしはいつの間にか、
全員で金賞を目指す
熱いエネルギーに変わっていた。


学校の廊下でも、
琉生くんは私の姿を見つけると、
周りの目を気にする様子もなく
「乃愛、今日の放課後もよろしくな!」
と爽快に笑ってくれるようになった。


それなのに、心の奥には、
ほんの少しの臆病な影がまだ張り付いている。


(明日、ステージの上で、
私が間違えちゃったらどうしよう……)


(もし私の伴奏のせいで、みんなの、
琉生くんの努力が台無しになったら……)


そう考えた途端、
プレッシャーで指先が
じんわりと冷たくなっていく。


乃愛は震えそうになる指を
落ち着かせるように、
プログラムの表紙に印刷された
文字へそっと触れた。


そこに印刷された二つの名前。


指揮:羽瀬 琉生
伴奏:白石 乃愛


横一列に並んだ、琉生と自分の名前。


乃愛の人差し指が、
その文字の上をなぞるように、
ゆっくりと動いていく。


そして、琉生の名前のところで止まった。


その瞬間、乃愛の脳裏に
あの放課後の土手の記憶が蘇った。


『クラスのみんなの前で、
堂々と二人で並ぶんだ。
指揮者と伴奏者として、同じ曲を一緒に創る』


あの日、二人で交わした約束。


琉生が握ってくれた手。


このプログラムに並ぶ二人の名前は、
あの日の約束が本当の形になった
証のように、乃愛には思えた。


「……うん。大丈夫。
私は、琉生くんのために弾くんだから」


冷え切っていた指先に、
じわりと温かい血が巡るのを感じる。


私は筆箱を開けると、
あの夏休みの日、図書室の机に置き忘れて、
琉生くんが夕立の中で大切に回収してくれた、
あの「ひまわり色の付箋」を取り出した。


少しクシャッとなっているけれど、
乃愛にとっては世界で一番特別なお守り。


乃愛はその付箋の、
文字が書かれていない余白に、
明日の本番直前の琉生へ
届けるためのメッセージを新しく書き込んだ。


『世界で一番かっこいい指揮を見せてね。
私も、琉生くんの隣で、
最高のピアノを弾きます。 乃愛』


書き終えたひまわり色の付箋を、
乃愛は何度も読み返した。


そして、
プログラムの二人の名前のすぐ上に、
そっと貼り付けた。


「……明日、渡そう」


本番直前のステージへ上がる前に、
琉生へこの想いを届けよう。


そう決めると、胸の鼓動が少しだけ変わった。


不安から速くなっていた鼓動が、
明日を待ちきれないような
小さな高鳴りへ変わっていく。


乃愛はもう一度、
プログラムに並んだ二人の名前を見つめた。


明日。


本当に、琉生くんと並ぶんだ――。


*—*―*


同じ頃――。


琉生は自分の部屋の
ベッドの上に仰向けになり、
天井に向かって指揮棒をゆっくりと振っていた。


頭の中で流れているのは、
明日クラスのみんなで歌う
『結 ─ゆい─』のメロディ。


そして、その中心で力強く、
優しく響く、乃愛のピアノの音。


乃愛がピアノの前に座ると、
クラスのうるさい男子たちも、
自然と背筋を伸ばして前を向く。


放課後の音楽室で『俺の彼女』
と言い放ったあの日から、
クラスの団結力は日に日に強くなっていた。


それに、
もう隠さなくていい毎日は
琉生が思っていた以上に心地よかった。


廊下で乃愛を見つければ、名前を呼べる。


教室でも普通に話せる。


周りを気にせず笑い合える。


「乃愛」


そう呼ぶたびに、
少し照れながら嬉しそうに
微笑む彼女を見ることが、
いつの間にか琉生の毎日の
ささやかな幸せになっていた。


だけど、
明日が本番だと思うと、
指揮棒を握る手のひらに
じんわりと汗がにじむ。


みんなの前では『絶対金賞獲るぞ!』
と笑ってみせている。


クラスを引っ張る指揮者なのだから、
不安な顔なんて見せられない。


けれど、琉生だって本当は
プレッシャーを感じていた。


もし、俺の指揮のテンポが狂ったら。


もし、みんなを迷わせてしまったら。


明日まで積み重ねてきたものを、
自分のせいで崩してしまったら。


琉生はベッドから起き上がり、
机の上に置いてあった
本番用のプログラムを手に取った。


そこにある二つの名前へ、自然と目が向く。


指揮:羽瀬 琉生
伴奏:白石 乃愛


その二行の文字をじっと見つめる。


自分の名前のすぐ隣に、乃愛の名前がある。


琉生の指が、
二人の名前をゆっくりとなぞる。


授業中に教科書の端で始まった小さな筆談。


淡いブルーの付箋。


図書室ですれ違ってしまった気持ち。


そしてあの夕立の河川敷。


乃愛に寂しい思いをたくさんさせてしまった。


それでも二人は、
何度も気持ちを伝え合いながら、
ここまで歩いてきた。


そして明日。


ようやく二人は、
指揮者と伴奏者として同じステージに立つ。


「……怖がってんじゃねえよ、俺」


琉生は自嘲気味に笑い、
指揮棒を強く握り直した。


明日、
ステージの上で前を向けば、
そこには必ず乃愛がいる。


誰よりも信頼できる伴奏者が、
自分の指揮を見てピアノを弾いてくれる。


そう思うだけで、不思議とやれる気がした。


琉生は引き出しを開け、
夏休みのあの日、
雨の中で乃愛から受け取った、
少しふやけた「ひまわり色の付箋」を見つめた。


乃愛の文字で
『本当は、夜の花火、すごく楽しみにしてたよ』
と書かれたあの付箋。


二人の絆の証であるそれを、
本番、制服の内ポケットの
心臓に一番近い特等席に忍ばせて
ステージへ上がると決めていた。


「待ってろよ、乃愛。
明日、最高の景色見せてやるから」


プログラムを鞄へしまいながら、
琉生は考える。


明日のステージ裏。


本番直前、
緊張しているかもしれない乃愛に、
どんな言葉をかけよう。


けれど――。


(あいつも俺と同じで、
今から緊張してるだろうな)


そう思うと明日まで待てなくなり
机の上のスマホへ目を向けた。


「……あいつもきっと同じだ」


スマホを手に取り、
見慣れた名前をタップする。


ほんの少しだけ考えてから、文字を打った。


*―*―*


机の上に置いてあった乃愛のスマホが、
小さく震えた。


「ん?」


画面を見る。


表示されていた名前は――。


《琉生くん》


それだけで、乃愛の表情がふっと緩んだ。


『乃愛、まだ起きてる?』


『うん。起きてるよ』


送信すると、すぐに既読がついた。


『明日の準備できた?』


乃愛は机の上を見る。楽譜。プログラム。


そして、そこに貼ったひまわり色の付箋。


『うん。ばっちり!』


本当は、さっきまで少し怖かった。


けれど、今は不思議とそう答えられた。


少しして、
琉生から新しいメッセージが届く。


『俺も準備完了』


『あとは寝坊しないだけ笑』


「ふふっ」


乃愛は思わず小さく笑った。


『琉生くん、寝坊しそう』


『しねーよ!笑』


いつもと変わらないやり取り。


それだけなのに、
胸の奥に残っていた緊張が、
少しずつほどけていく。


やがて――。


『乃愛』


その二文字だけが届いた。


乃愛は画面を見つめてると、
続けて、もう一通届く。


『明日、がんばろうな』


乃愛はその文字を見て、ゆっくりと微笑んだ。


昼間、女子たちと交わした言葉がふと蘇る。


――明日、一緒に頑張ろ。


そして今。


大好きな人からも、
同じ明日へ向かう言葉が届いた。


乃愛は、
プログラムに貼った
ひまわり色の付箋へ目を向けた。


明日、これを琉生くんに渡す。


そして二人で――。


みんなで、同じステージに立つ。


乃愛はゆっくりと文字を打った。


『うん! 一緒にがんばろうね』


送信。


少し離れた部屋で、
その返信を見た琉生の口元にも笑みが浮かんだ。


「……おう」


乃愛には聞こえない、小さな返事。


それから琉生は、もう一度画面をタップした。


『じゃあ、ちゃんと寝ろよ。おやすみ、乃愛』


乃愛は少し頬を緩めながら、
『琉生くんもね。おやすみ』と返した。


画面を閉じても、
二人の表情には小さな笑みが残っていた。


同じ夜。


離れた二つの部屋。


それぞれの手元には、
同じ本番用のプログラムがある。


指揮者と伴奏者として並んだ、二人の名前。


そして二人のそばには、
それぞれが大切にしてきた、
ひまわり色の付箋があった。


明日。


琉生は指揮者として。
乃愛は伴奏者として。


そして、
ここまで一緒に練習してきた
クラスのみんなとともに――。


同じステージに立つ。


それぞれの想いを胸に抱きながら。


二人は、同じ明日を待っていた。


本番まで、あと一晩だ――。