《あの日の涙、ほどける想い》
本番前日の放課後――。
教室には、ついさっきまで
響いていた歌声の余韻が残っていた。
明日はいよいよ合唱本番。
最後の練習を終えたクラスメイトたちは、
「明日、頑張ろうな」
「絶対優勝しよう!」
と声を掛け合いながら、
少しずつ帰り支度を始めていた。
乃愛も楽譜を鞄へしまい、
結衣たちと一緒に教室を出ようとした、
そのとき――。
「……白石さん」
後ろから、自分を呼ぶ声がした。
「え?」
振り返った乃愛の表情が、一瞬だけ固まる。
そこに立っていたのは、
体育祭の日に自分を
呼び出した女子たちだった。
「ちょっと……いい?」
「……」
その言葉を聞いた瞬間。
乃愛の胸の奥が、きゅっと縮まった。
――あの日と、同じ言葉。
体育祭の日。
呼び出された先で
一方的に言葉をぶつけられ、
何も言い返せないまま傷ついた。
もう大丈夫だと思っていたはずなのに。
あの日の記憶は、
まだ胸のどこかに残っている。
「乃愛……?」
隣にいた結衣も女子たちに気づき、
心配そうに乃愛を見る。
乃愛は結衣を見つめ返した。
ほんの少しだけ迷う。
けれど――。
目の前にいる女子たちは、
あのときとは違って見えた。
強い視線を向けてくるわけでもない。
むしろ、
どう話しかければいいのか
分からないように、
お互いの顔を見合わせている。
乃愛は胸の前でそっと手を握ると、
小さく息を吸った。
「……大丈夫」
「乃愛?」
「行ってくるね」
結衣は一瞬驚いたように目を瞬かせた。
それでも、
乃愛の表情を見て何かを感じ取ったのか、
それ以上は何も言わなかった。
「……うん」
小さく頷く。
「ここだと、ちょっと……」
女子の一人が教室の中を
気にするように視線を向けた。
乃愛も頷く。
「うん」
女子たちについて廊下を歩いていく。
向かったのは、
校舎の端にある階段近くの窓辺だった。
放課後のその場所には人影も少なく、
遠くから部活動の掛け声が聞こえてくる。
窓から差し込む夕方の光が、
廊下を淡く染めていた。
女子たちが足を止める。
乃愛も少し離れたところで立ち止まった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
以前とは違う。
そう分かっていても、
乃愛の胸の鼓動は少しだけ速い。
やがて、
真ん中にいた女子が一度息を吸った。
「あのさ……
体育祭のときのことなんだけど」
「……」
乃愛の指先が、わずかに動く。
女子はそれに気づいたのか、
苦しそうに眉を下げた。
そして――。
「……ごめん」
「え……?」
乃愛が目を瞬く。
「ずっと、謝らなきゃって思ってた」
隣にいた女子たちも、小さく頭を下げる。
「私たち、
一年のときから羽瀬くんのこと好きでさ」
ぽつり、ぽつりと。
今まで言えなかったものを確かめるように、
言葉が続いていく。
「二年で同じクラスになれて、
ほんと嬉しかったんだ」
「それで……白石さんが
羽瀬くんの隣の席になって、
だんだん仲良くなっていくの見てて……」
女子は一度、唇を噛んだ。
「ずるいって、思ってた」
乃愛は何も言わず、その言葉を聞いていた。
「体育祭の借り物競争で、
羽瀬くんが白石さんの手を
引いて走っていったの見たとき
……なんか、もう我慢できなくなって」
「あのときは、
自分たちのことしか考えてなかった」
別の女子が、小さな声で続ける。
「白石さんがどう思ってるかなんて、
ちゃんと聞こうともしなかったし……」
「何も知らないのに、
勝手に決めつけて……ひどいこと言った」
最初に話していた女子の声が、
そこで少しだけ震えた。
「私たち……白石さんのこと、
何も知らなかったのに……」
言葉が止まる。
俯いたまま、
次の言葉がなかなか出てこない。
すると隣にいた女子が、
何も言わず、その背中へそっと手を添えた。
ゆっくりと、二度、三度。
背中をさする。
「……うん」
大丈夫。
そう伝えるように、小さく頷いた。
女子は一度目を閉じると、
もう一度乃愛を見た。
「……傷つけて、本当にごめん」
乃愛の胸の奥に、
あの日の光景がよみがえる。
怖かった。
悲しかった。
どうして自分がこんなことを
言われなければならないんだろうと、
苦しかった。
あの気持ちが、
なかったことになるわけではない。
乃愛は胸の前で両手を重ねると、
ゆっくり口を開いた。
「……あのときは」
女子たちが顔を上げる。
「すごく、悲しかった」
「……うん」
「あのときは怖かったし……私、
どうしたらいいのか分からなくて」
女子たちは何も言わなかった。
言い訳もせず、
ただ乃愛の言葉を受け止めている。
少しだけ沈黙が流れた。
廊下の向こうから、
誰かの笑い声がかすかに聞こえてくる。
それから乃愛は、ほんの少し表情を緩めた。
「でも……」
目の前の女子たちを見る。
「今、こうして言ってくれたのは……嬉しい」
「白石さん……」
「ありがとう」
女子たちは驚いたように乃愛を見つめた。
最初に話していた女子が、
少しだけ視線を落とす。
「……許してもらおうと思って
言ったんじゃないんだ」
「うん」
「今さらって思われても仕方ないし
……私たちが謝って楽になりたいだけって
思われるかもしれない」
一度言葉を止めてから、もう一度乃愛を見る。
「でも、明日みんなで同じステージに立つのに
……このまま何も言わないのは嫌だった」
乃愛は目を瞬いた。
「私たちも……みんなと一緒に頑張りたいから」
もう一人の女子も頷く。
「勝手かもしれないけど……」
「……ううん」
乃愛は小さく首を横に振った。
そして、少しだけ笑った。
「私も、みんなと一緒に頑張りたい」
女子たちの表情が、ほんの少しだけほころぶ。
まだ気まずさは残っている。
急に何もかもが元通りになるわけでもない。
それでも、
さっきまでそこにあった張りつめた空気が、
少しだけ柔らかくなったように感じた。
しばらくして、一人が照れくさそうに笑う。
「……じゃあ」
「うん?」
「明日、一緒に頑張ろ」
乃愛は一瞬だけ目を丸くして――。
やがて、いつもの柔らかな笑顔を浮かべた。
「……うん。頑張ろう」
それだけだった。
急に仲良くなったわけではない。
体育祭の日の出来事が消えたわけでもない。
それでも――。
あの日から胸のどこかに残っていたものが、
少しだけほどけたような気がした。
「じゃあ……また明日」
「うん。また明日」
女子たちは乃愛に小さく手を振ると、
階段を下りていった。
乃愛はその場に残り、
遠ざかっていく足音を聞いていた。
――あの日とは、違った。
同じように呼び止められて。
同じように、人の少ない場所へ来た。
けれど今日は、
俯いたまま何も言えなかった自分ではない。
怖かったことも。
悲しかったことも。
自分の言葉で、ちゃんと伝えることができた。
乃愛は胸の前で握っていた手を、
ゆっくりとほどいた。
そして、結衣たちの待つ教室へ戻る。
乃愛の姿を見つけると、
結衣がすぐに駆け寄ってきた。
「乃愛!」
「結衣」
「……大丈夫だった?」
心配そうに顔を覗き込む結衣に、
乃愛は小さく頷いた。
「うん」
それから、
先ほどまでいた廊下のほうを振り返る。
「ちゃんと、話せたから」
そう言って、穏やかに笑った。
結衣は乃愛の顔をしばらく見つめると――。
「……そっか」
それ以上は何も聞かず、嬉しそうに笑った。
窓の外では、
夕暮れの光が校舎を柔らかく染め始めている。
明日、このクラスのみんなで
同じステージに立つ。
同じ場所に並んで。
同じ歌を歌う。
誰もがそれぞれ違う気持ちを抱えて、
ここまで来た。
嬉しかったことも。
悔しかったことも。
間違えてしまったことも。
それでも、明日は――。
みんなで、ひとつの歌を届ける。
乃愛は鞄を手に取ると、
結衣たちと一緒に教室をあとにした――。
本番前日の放課後――。
教室には、ついさっきまで
響いていた歌声の余韻が残っていた。
明日はいよいよ合唱本番。
最後の練習を終えたクラスメイトたちは、
「明日、頑張ろうな」
「絶対優勝しよう!」
と声を掛け合いながら、
少しずつ帰り支度を始めていた。
乃愛も楽譜を鞄へしまい、
結衣たちと一緒に教室を出ようとした、
そのとき――。
「……白石さん」
後ろから、自分を呼ぶ声がした。
「え?」
振り返った乃愛の表情が、一瞬だけ固まる。
そこに立っていたのは、
体育祭の日に自分を
呼び出した女子たちだった。
「ちょっと……いい?」
「……」
その言葉を聞いた瞬間。
乃愛の胸の奥が、きゅっと縮まった。
――あの日と、同じ言葉。
体育祭の日。
呼び出された先で
一方的に言葉をぶつけられ、
何も言い返せないまま傷ついた。
もう大丈夫だと思っていたはずなのに。
あの日の記憶は、
まだ胸のどこかに残っている。
「乃愛……?」
隣にいた結衣も女子たちに気づき、
心配そうに乃愛を見る。
乃愛は結衣を見つめ返した。
ほんの少しだけ迷う。
けれど――。
目の前にいる女子たちは、
あのときとは違って見えた。
強い視線を向けてくるわけでもない。
むしろ、
どう話しかければいいのか
分からないように、
お互いの顔を見合わせている。
乃愛は胸の前でそっと手を握ると、
小さく息を吸った。
「……大丈夫」
「乃愛?」
「行ってくるね」
結衣は一瞬驚いたように目を瞬かせた。
それでも、
乃愛の表情を見て何かを感じ取ったのか、
それ以上は何も言わなかった。
「……うん」
小さく頷く。
「ここだと、ちょっと……」
女子の一人が教室の中を
気にするように視線を向けた。
乃愛も頷く。
「うん」
女子たちについて廊下を歩いていく。
向かったのは、
校舎の端にある階段近くの窓辺だった。
放課後のその場所には人影も少なく、
遠くから部活動の掛け声が聞こえてくる。
窓から差し込む夕方の光が、
廊下を淡く染めていた。
女子たちが足を止める。
乃愛も少し離れたところで立ち止まった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
以前とは違う。
そう分かっていても、
乃愛の胸の鼓動は少しだけ速い。
やがて、
真ん中にいた女子が一度息を吸った。
「あのさ……
体育祭のときのことなんだけど」
「……」
乃愛の指先が、わずかに動く。
女子はそれに気づいたのか、
苦しそうに眉を下げた。
そして――。
「……ごめん」
「え……?」
乃愛が目を瞬く。
「ずっと、謝らなきゃって思ってた」
隣にいた女子たちも、小さく頭を下げる。
「私たち、
一年のときから羽瀬くんのこと好きでさ」
ぽつり、ぽつりと。
今まで言えなかったものを確かめるように、
言葉が続いていく。
「二年で同じクラスになれて、
ほんと嬉しかったんだ」
「それで……白石さんが
羽瀬くんの隣の席になって、
だんだん仲良くなっていくの見てて……」
女子は一度、唇を噛んだ。
「ずるいって、思ってた」
乃愛は何も言わず、その言葉を聞いていた。
「体育祭の借り物競争で、
羽瀬くんが白石さんの手を
引いて走っていったの見たとき
……なんか、もう我慢できなくなって」
「あのときは、
自分たちのことしか考えてなかった」
別の女子が、小さな声で続ける。
「白石さんがどう思ってるかなんて、
ちゃんと聞こうともしなかったし……」
「何も知らないのに、
勝手に決めつけて……ひどいこと言った」
最初に話していた女子の声が、
そこで少しだけ震えた。
「私たち……白石さんのこと、
何も知らなかったのに……」
言葉が止まる。
俯いたまま、
次の言葉がなかなか出てこない。
すると隣にいた女子が、
何も言わず、その背中へそっと手を添えた。
ゆっくりと、二度、三度。
背中をさする。
「……うん」
大丈夫。
そう伝えるように、小さく頷いた。
女子は一度目を閉じると、
もう一度乃愛を見た。
「……傷つけて、本当にごめん」
乃愛の胸の奥に、
あの日の光景がよみがえる。
怖かった。
悲しかった。
どうして自分がこんなことを
言われなければならないんだろうと、
苦しかった。
あの気持ちが、
なかったことになるわけではない。
乃愛は胸の前で両手を重ねると、
ゆっくり口を開いた。
「……あのときは」
女子たちが顔を上げる。
「すごく、悲しかった」
「……うん」
「あのときは怖かったし……私、
どうしたらいいのか分からなくて」
女子たちは何も言わなかった。
言い訳もせず、
ただ乃愛の言葉を受け止めている。
少しだけ沈黙が流れた。
廊下の向こうから、
誰かの笑い声がかすかに聞こえてくる。
それから乃愛は、ほんの少し表情を緩めた。
「でも……」
目の前の女子たちを見る。
「今、こうして言ってくれたのは……嬉しい」
「白石さん……」
「ありがとう」
女子たちは驚いたように乃愛を見つめた。
最初に話していた女子が、
少しだけ視線を落とす。
「……許してもらおうと思って
言ったんじゃないんだ」
「うん」
「今さらって思われても仕方ないし
……私たちが謝って楽になりたいだけって
思われるかもしれない」
一度言葉を止めてから、もう一度乃愛を見る。
「でも、明日みんなで同じステージに立つのに
……このまま何も言わないのは嫌だった」
乃愛は目を瞬いた。
「私たちも……みんなと一緒に頑張りたいから」
もう一人の女子も頷く。
「勝手かもしれないけど……」
「……ううん」
乃愛は小さく首を横に振った。
そして、少しだけ笑った。
「私も、みんなと一緒に頑張りたい」
女子たちの表情が、ほんの少しだけほころぶ。
まだ気まずさは残っている。
急に何もかもが元通りになるわけでもない。
それでも、
さっきまでそこにあった張りつめた空気が、
少しだけ柔らかくなったように感じた。
しばらくして、一人が照れくさそうに笑う。
「……じゃあ」
「うん?」
「明日、一緒に頑張ろ」
乃愛は一瞬だけ目を丸くして――。
やがて、いつもの柔らかな笑顔を浮かべた。
「……うん。頑張ろう」
それだけだった。
急に仲良くなったわけではない。
体育祭の日の出来事が消えたわけでもない。
それでも――。
あの日から胸のどこかに残っていたものが、
少しだけほどけたような気がした。
「じゃあ……また明日」
「うん。また明日」
女子たちは乃愛に小さく手を振ると、
階段を下りていった。
乃愛はその場に残り、
遠ざかっていく足音を聞いていた。
――あの日とは、違った。
同じように呼び止められて。
同じように、人の少ない場所へ来た。
けれど今日は、
俯いたまま何も言えなかった自分ではない。
怖かったことも。
悲しかったことも。
自分の言葉で、ちゃんと伝えることができた。
乃愛は胸の前で握っていた手を、
ゆっくりとほどいた。
そして、結衣たちの待つ教室へ戻る。
乃愛の姿を見つけると、
結衣がすぐに駆け寄ってきた。
「乃愛!」
「結衣」
「……大丈夫だった?」
心配そうに顔を覗き込む結衣に、
乃愛は小さく頷いた。
「うん」
それから、
先ほどまでいた廊下のほうを振り返る。
「ちゃんと、話せたから」
そう言って、穏やかに笑った。
結衣は乃愛の顔をしばらく見つめると――。
「……そっか」
それ以上は何も聞かず、嬉しそうに笑った。
窓の外では、
夕暮れの光が校舎を柔らかく染め始めている。
明日、このクラスのみんなで
同じステージに立つ。
同じ場所に並んで。
同じ歌を歌う。
誰もがそれぞれ違う気持ちを抱えて、
ここまで来た。
嬉しかったことも。
悔しかったことも。
間違えてしまったことも。
それでも、明日は――。
みんなで、ひとつの歌を届ける。
乃愛は鞄を手に取ると、
結衣たちと一緒に教室をあとにした――。

