《放課後のベンチ、届いていた視線》
放課後の喧騒が
少しずつ落ち着きを見せ始める、
午後四時すぎのグラウンド。
西日がオレンジ色の光を長く引き、
乾いた砂をきらきらと
黄金色に染め上げていた。
いつもなら、乃愛とひまり、
そして私の三人で他愛のない話を
しながら帰る時間。
けれど、今日はなぜか
私の隣にいるのは乃愛でもひまりでもない。
部活の休憩中の颯人からは、
少し汗の混じったスポーツ洗剤の
匂いがしていた。
――なんだろう。
いつもなら気にも留めないはずなのに、
今日はやけに近く感じる。
部活用のベンチ。
そこに、私と高城颯人くんは、
少しだけ距離を空けて
ぽつんと並んで座っていた。
いつもなら三人でいるはずの、
このお気に入りの場所。
「ひまりのやつ、
テスト返却が終わった瞬間、
直哉先輩に呼び出されてダッシュで
帰っちゃうんだもん。
あんなに分かりやすく
恋する女の子の顔しちゃってさ、
なんか可愛かったな」
私は膝の上に
スクールバッグを抱え込んだまま、
あらすじを思い出すようにして、
小さく笑った。
「へぇ、あの笠原先輩か。
まぁ、あいつらも色々あんじゃね?」
颯人くんは、
タオルの端を首にかけたまま、
どこか他人事のように
フッと口元を緩めた。
そして、グラウンドから視線を上げ、
私たちの視線の先にある校舎の三階。
夕日に反射してまぶしく光る、
音楽室の窓を見上げた。
「……それより、
あいつらも中でまじで頑張ってるな。
一時間だけ部活を遅らせてまで、
必死に音合わせてさ」
「ほんとだよね。
……学校であんなに他人のフリして、
我慢して。
でも、『ふたりで乗り越える』って
決めたんだもんね。私たちは、
それを一番近くで見守ってあげるだけ」
音楽室の窓をじっと見つめる彼の横顔を、
私は視界の端でそっと盗み見る。
普段は意地悪で、
口を開けば生意気なことばかり
言ってくる琉生の相棒。
なのに――あの体育祭の日の、
最大のピンチの瞬間が、
どうしても脳裏から離れてくれない。
あの日、
乃愛が呼び出されて
パニックになっていた私を、
この人は真っ直ぐに見つめてくれた。
そして、私の震える手を、
優しくでも力強く握りしめて
『俺がなんとかする』って言ってくれたのだ。
あの瞬間の、手のひらの圧倒的な熱。
それを思い出してしまった途端、
私の心臓が急にうるさい音を立て始める。
ただの『琉生の友達』のはずなのに、
体育祭のあの日から、
私はどうしても彼を普通のクラスメイト
として見られなくなっていた。
「……なぁ、橘」
「――っ⁉ な、何よ!」
唐突に名前を呼ばれ、
私は飛び上がるようにして彼を振り返った。
動揺を隠すために、
わざとキツい声になってしまう。
颯人くんは部活用のタオルで
首の汗を拭いながら、
少しだけ私の方に身を寄せて、
無防備に覗き込んできた。
「お前さ、体育祭の時から
なんか俺の前だと大人しくね?
いつもみたいに噛みついてこないから、
調子狂うんだけど」
「な、何言ってんのよ!
あんたが生意気だから、
言い返す元気が無いだけだし!
自意識過剰なんじゃないの⁉」
顔が一気に真っ赤になっていくのが分かった。
心臓の爆音が彼に聞こえてしまいそうで、
私は大慌てでそっぽを向く。
そんな私の必死の照れ隠しを見て、
颯人くんは「はいはい」と
呆れたように笑うと、
ベンチからすっと立ち上がり、
部のクーラーボックスへ向かう。
数十秒後、彼が戻ってくる。
「ほら、橘。これ」
彼の声に顔を上げようとした、その時だった。
「ひゃうっ⁉ つ、冷たっ!」
私の右の頬に、
ひんやりとした冷たい感触が
不意打ちでピトッと押し当てられた。
驚いて身を縮めると、目の前には、
ペットボトルのスポーツ飲料を
差し出した颯人くんが、
悪戯っぽく笑って立っていた。
「照れ隠しで
オーバーヒートしてそうだから、
冷やしてやった。
……はい、それお前の分」
「……なによ、急に優しくしないでよ。
まじで調子狂うんだけど……」
手渡されたペットボトルの冷たさを
両手で受け止めながら、
私は唇を尖らせて俯いた。
だけど、そんな私に向けて、
颯人くんはタオル越しに、
私の頭をポン、
と大きな手で優しく叩いた。
「別に急じゃねぇよ。
……橘が毎日、
白石さんのこと一番近くで支えて、
自分のことみたいに必死に怒って、
頑張ってんの。
……俺、最初からちゃんと見てたから」
「……え?」
息が、止まった。
驚いて顔を上げると、
颯人くんはもう、照れ隠しをするように
校舎の入り口へと向かって歩き出していた。
「じゃ、俺、そろそろ時間だから
あいつ(琉生)を回収しに
音楽室行ってくるわ。
あんまり遅くなると、
ガチで監督に怒られるしな」
遠ざかっていく、彼の広くて逞しい背中。
手の中にあるジュースの冷たさとは裏腹に、
私の胸の奥は、
今までに経験したことがないくらいの
熱でパンクしそうになっていた。
(見てて……くれたんだ)
胸の奥が、変に熱い。
いつもなら、
こんなことを言われたら
「何それ、急に優しくしないでよ!」って
笑い飛ばして終わるはずなのに。
今日は、なぜかできなかった。
もう少し、この人の隣にいたい。
そんな気持ちが、
胸の奥から小さく顔を出していた。
一人でここに残されるのも、
あいつの後ろ姿を見送るのも、
なんだか急に、たまらなく嫌になった。
私はカバンをひっつかむと、
ベンチを蹴って、
彼の背中に向かって全速力で駆け出した。
「――ちょっと、待って!
私も乃愛迎えに行くし!」
大声を張り上げながら追いつくと、
颯人くんは足を止め、
「え、お前もくんの?」と
少しだけ驚いたように目を見張った。
だけど、私の必死な顔を見た瞬間、
彼はすぐに嬉しそうにフッと口元を緩めた。
「置いてくな、バカ高城!」
「はいはい、足元気をつけろよ、橘」
夕暮れのグラウンドを、
二人の影がぴったりと並んで、
オレンジ色に染まる校舎へと
向かって歩き出す。
乃愛たちのひみつの恋を
応援していたはずの私の胸にも、
今、誰にも言えない『ひみつの温度』が、
確かに生まれ始めていた——。
放課後の喧騒が
少しずつ落ち着きを見せ始める、
午後四時すぎのグラウンド。
西日がオレンジ色の光を長く引き、
乾いた砂をきらきらと
黄金色に染め上げていた。
いつもなら、乃愛とひまり、
そして私の三人で他愛のない話を
しながら帰る時間。
けれど、今日はなぜか
私の隣にいるのは乃愛でもひまりでもない。
部活の休憩中の颯人からは、
少し汗の混じったスポーツ洗剤の
匂いがしていた。
――なんだろう。
いつもなら気にも留めないはずなのに、
今日はやけに近く感じる。
部活用のベンチ。
そこに、私と高城颯人くんは、
少しだけ距離を空けて
ぽつんと並んで座っていた。
いつもなら三人でいるはずの、
このお気に入りの場所。
「ひまりのやつ、
テスト返却が終わった瞬間、
直哉先輩に呼び出されてダッシュで
帰っちゃうんだもん。
あんなに分かりやすく
恋する女の子の顔しちゃってさ、
なんか可愛かったな」
私は膝の上に
スクールバッグを抱え込んだまま、
あらすじを思い出すようにして、
小さく笑った。
「へぇ、あの笠原先輩か。
まぁ、あいつらも色々あんじゃね?」
颯人くんは、
タオルの端を首にかけたまま、
どこか他人事のように
フッと口元を緩めた。
そして、グラウンドから視線を上げ、
私たちの視線の先にある校舎の三階。
夕日に反射してまぶしく光る、
音楽室の窓を見上げた。
「……それより、
あいつらも中でまじで頑張ってるな。
一時間だけ部活を遅らせてまで、
必死に音合わせてさ」
「ほんとだよね。
……学校であんなに他人のフリして、
我慢して。
でも、『ふたりで乗り越える』って
決めたんだもんね。私たちは、
それを一番近くで見守ってあげるだけ」
音楽室の窓をじっと見つめる彼の横顔を、
私は視界の端でそっと盗み見る。
普段は意地悪で、
口を開けば生意気なことばかり
言ってくる琉生の相棒。
なのに――あの体育祭の日の、
最大のピンチの瞬間が、
どうしても脳裏から離れてくれない。
あの日、
乃愛が呼び出されて
パニックになっていた私を、
この人は真っ直ぐに見つめてくれた。
そして、私の震える手を、
優しくでも力強く握りしめて
『俺がなんとかする』って言ってくれたのだ。
あの瞬間の、手のひらの圧倒的な熱。
それを思い出してしまった途端、
私の心臓が急にうるさい音を立て始める。
ただの『琉生の友達』のはずなのに、
体育祭のあの日から、
私はどうしても彼を普通のクラスメイト
として見られなくなっていた。
「……なぁ、橘」
「――っ⁉ な、何よ!」
唐突に名前を呼ばれ、
私は飛び上がるようにして彼を振り返った。
動揺を隠すために、
わざとキツい声になってしまう。
颯人くんは部活用のタオルで
首の汗を拭いながら、
少しだけ私の方に身を寄せて、
無防備に覗き込んできた。
「お前さ、体育祭の時から
なんか俺の前だと大人しくね?
いつもみたいに噛みついてこないから、
調子狂うんだけど」
「な、何言ってんのよ!
あんたが生意気だから、
言い返す元気が無いだけだし!
自意識過剰なんじゃないの⁉」
顔が一気に真っ赤になっていくのが分かった。
心臓の爆音が彼に聞こえてしまいそうで、
私は大慌てでそっぽを向く。
そんな私の必死の照れ隠しを見て、
颯人くんは「はいはい」と
呆れたように笑うと、
ベンチからすっと立ち上がり、
部のクーラーボックスへ向かう。
数十秒後、彼が戻ってくる。
「ほら、橘。これ」
彼の声に顔を上げようとした、その時だった。
「ひゃうっ⁉ つ、冷たっ!」
私の右の頬に、
ひんやりとした冷たい感触が
不意打ちでピトッと押し当てられた。
驚いて身を縮めると、目の前には、
ペットボトルのスポーツ飲料を
差し出した颯人くんが、
悪戯っぽく笑って立っていた。
「照れ隠しで
オーバーヒートしてそうだから、
冷やしてやった。
……はい、それお前の分」
「……なによ、急に優しくしないでよ。
まじで調子狂うんだけど……」
手渡されたペットボトルの冷たさを
両手で受け止めながら、
私は唇を尖らせて俯いた。
だけど、そんな私に向けて、
颯人くんはタオル越しに、
私の頭をポン、
と大きな手で優しく叩いた。
「別に急じゃねぇよ。
……橘が毎日、
白石さんのこと一番近くで支えて、
自分のことみたいに必死に怒って、
頑張ってんの。
……俺、最初からちゃんと見てたから」
「……え?」
息が、止まった。
驚いて顔を上げると、
颯人くんはもう、照れ隠しをするように
校舎の入り口へと向かって歩き出していた。
「じゃ、俺、そろそろ時間だから
あいつ(琉生)を回収しに
音楽室行ってくるわ。
あんまり遅くなると、
ガチで監督に怒られるしな」
遠ざかっていく、彼の広くて逞しい背中。
手の中にあるジュースの冷たさとは裏腹に、
私の胸の奥は、
今までに経験したことがないくらいの
熱でパンクしそうになっていた。
(見てて……くれたんだ)
胸の奥が、変に熱い。
いつもなら、
こんなことを言われたら
「何それ、急に優しくしないでよ!」って
笑い飛ばして終わるはずなのに。
今日は、なぜかできなかった。
もう少し、この人の隣にいたい。
そんな気持ちが、
胸の奥から小さく顔を出していた。
一人でここに残されるのも、
あいつの後ろ姿を見送るのも、
なんだか急に、たまらなく嫌になった。
私はカバンをひっつかむと、
ベンチを蹴って、
彼の背中に向かって全速力で駆け出した。
「――ちょっと、待って!
私も乃愛迎えに行くし!」
大声を張り上げながら追いつくと、
颯人くんは足を止め、
「え、お前もくんの?」と
少しだけ驚いたように目を見張った。
だけど、私の必死な顔を見た瞬間、
彼はすぐに嬉しそうにフッと口元を緩めた。
「置いてくな、バカ高城!」
「はいはい、足元気をつけろよ、橘」
夕暮れのグラウンドを、
二人の影がぴったりと並んで、
オレンジ色に染まる校舎へと
向かって歩き出す。
乃愛たちのひみつの恋を
応援していたはずの私の胸にも、
今、誰にも言えない『ひみつの温度』が、
確かに生まれ始めていた——。

