隣の席だったキミとひみつの合図 ~強い絆と恋の充電。支え合い、乗り越える力がある~

《秘密のタクトと、恋の鍵盤》
指揮者と伴奏者が決まってから数日後。


放課後の音楽室には、
クラス全員が集まり、
独特の緊張感が漂っていた。


壁際のひな壇にクラスメイトたちが並び、
乃愛はその少し離れた場所にある、
グランドピアノの椅子に腰を下ろしている。


鍵盤の上に置いた指先が、
緊張でいつもより少し冷たい。


「みんな、miwaの『結』
ちゃんと覚えてきた? 
じゃあ、まずは最初から通してみよう。
……白石さん、前奏からお願いしてもいい?」


音楽室の中央、
指揮台の上に立った琉生の声が響く。


クラスの前だからこその、
張り詰めた『白石さん』という
他人行儀な呼び方。


乃愛は小さく喉を鳴らし、
鍵盤を見つめていつもの手癖で息を吸った。


「あ……はい。わかりました、羽瀬くん」


みんなの前で、
わざとらしく苗字に『くん』を付けて
呼ぶハラハラ感。


口にするだけで心臓がバクバクと暴れ出す。


乃愛が深く息を吸って
ピアノの最初の一音を響かせると、
音楽室の広い空間に
美しいメロディが広がっていった。


それに合わせるように、
琉生の右手がしなやかにタクトを振る。


いつものムードメーカーらしい
明るさを残しつつも、
真剣に前を見据える彼の姿は、
サッカー部の副キャプテンらしい
凛としたカッコよさに満ちていた。


やがて曲は、
一番の盛り上がりであるサビへと差し掛かる。


『僕らなら超えていける――』


クラスの歌声が
一つに重なったその瞬間、
琉生がタクトを握る左手をゆっくりと上げ、
真っ直ぐに乃愛の方を見つめた。


(――ちゃんと見てるから。
頑張ろうな、乃愛)


声には出さない、
けれど確かに伝わる
琉生の無言のメッセージ。


ほんの一瞬だけ彼の目の奥に宿ったのは、
クラスに見せている
『羽瀬くん』の顔ではなかった。


あの隠れ家でバックハグをしながら
『隠してるの無理』と囁いた、
乃愛の前だけで見せる、
余裕のなさそうな愛おしい瞳。


「っ……!」


視線がバチッと交わった瞬間、
乃愛の胸がドクンと激しく跳ね上がる。


全員が見ているこの空間で、
視線だけで「繋がっている」ことを
確信するスリル。


乃愛は顔が真っ赤になりそうになるのを
必死に堪え、彼の指揮に遅れないよう、
熱を持った指先で鍵盤を強く、
強く叩き続けるのだった。


「よし、前半の練習はここまで! 十分休憩な」


指揮台の上で琉生がパンッと手を叩き、
クラスの全員に声をかける。


その瞬間、緊張感で張り詰めていた
音楽室の空気がドッと緩み、
あちこちで賑やかなお喋りが始まった。


乃愛がホッとしてピアノの鍵盤から手を離し、
小さく息を吐き出した、その時。


ひな壇の方から、
結衣とひまりが小走りで
ピアノのそばまでやってくるのが見えた。


結衣は口元を両手で隠しながら、
目をこれでもかと輝かせてニヤニヤしている。


「ちょっと乃愛! 
さっきのサビのところヤバくなかった⁉ 
二人で思いっ切り見つめ合ってたでしょ!」


「えっ⁉ し、結衣、声大きい……っ! 
そんなことないよ、
ただ指揮を見てって言われたから……」


周りに他のクラスメイトがいる手前、
乃愛は血の気が引く思いで
慌てて周囲をキョロキョロと見渡した。


隣でクスクスと笑いながら、
ひまりが結衣をなだめるように
優しく言葉を添える。


「ううん、
でも本当に見てるだけじゃなかったよ? 
乃愛ちゃんがピアノを弾き始めた瞬間、
琉生くんの指揮、すっごく優しくなってた。

クラスの女子何人かも
『羽瀬くん、今日なんか雰囲気違うよね』
ってざわついてたよ」


「ええっ⁉ 
そ、そんな……ば、バレてないよね……?」


じわじわと顔が熱くなり、
乃愛は両手で自分の頬を押さえた。


「大丈夫だって、みんなは
『真面目な指揮者と伴奏者が息を合わせてる』
としか思ってないから! 

でも私らから見たら
完全に二人だけの世界だったよ〜
ごちそうさま!」


「ふふ、でも本当に息ぴったりだった。
夏休みの約束のために、
学校でも二人が必死に我慢して頑張ってるの、
すごく伝わってきたよ」


親友たちの頼もしくて
温かい言葉にハラハラしつつも、
乃愛の胸が愛おしさで
じんわり温かくなっていく。


――その、甘い余韻に浸っていた瞬間だった。


「あ、歌の注意点、
後ろの席のやつらに配ってくるわ」


遠くの方で男子グループと
話していたはずの琉生が、
何食わぬ顔でプリントの束を抱え、
こちらに向かって歩いてくるのが見えた。


乃愛はとっさに背筋を伸ばし、
鍵盤を見つめて
「ただの伴奏者」のフリをする。


琉生は結衣とひまりに「お疲れー」と
クラスのムードメーカーらしい
自然なトーンで軽く片手を挙げた。


そのままピアノの横を通り過ぎる際、
乃愛の楽譜の上にサッと
新しいプリントを一枚重ねて置いた。


「白石さんにも、一応配っておくね」


「あ、はい。
ありがとうございます、羽瀬くん」


クラスの誰もが、
ただの「指揮者から伴奏者への楽譜の配布」
だと思ったはずだ。


琉生がそのまま何食わぬ顔で
後ろの席の方へと去っていった後、
乃愛が配られたプリントに目を落とすと。


――その端っこに、
小さな正方形の付箋が
貼られていることに気づいた。


そこには、琉生の少し癖のある、
見慣れた男の子らしい文字でこう書かれていた。


『 さっきのサビ、最高だった。』


「っ……!」


心臓がドクンと跳ね上がり、
乃愛の身体が微かに震える。


慌てて付箋を手で隠しながら、
遠くの琉生の姿を探した。


琉生はさっきまで男子グループの真ん中で、
「あそこのハモリ、
もう少し声大きくした方がいいよな」と
真面目に改善点を話し合っていたはずだ。


(……あ。だから、
あのときメモを取るフリをしてたんだ)


練習が終わった直後、
琉生が男子たちと話しながら、
熱心にノートにペンを
走らせていた姿を思い出す。


みんなは彼が指揮者として真面目に
メモを取っていると思っていたけれど、
本当はいつでも書けるように忍ばせている
お気に入りの付箋を取り出して、
男子たちの目の前で、
乃愛へのメッセージを必死に書き込んでいたのだ。


周りの友達を完璧に騙しながら、
自分への惚気メッセージを錬成していた
彼の「格好つけきれない余裕のなさ」が
伝わってくるようで、
乃愛の胸は愛おしさでパンクしそうになる。


振り返った先の琉生は、
もう後ろの席の男子たちに
「ほら、プリント回してー」と
いつも通りの爽やかな声をかけているけれど、
その耳の後ろだけが、
ほんのりと赤くなっていた。


誰にも見つからないように
サッと剥がした付箋を、
乃愛はそっと制服のポケットの
奥へと忍ばせた。


クラスの賑やかなお喋りに紛れて、
トクン、トクンと、
ポケットの熱に呼応するように
高鳴る二人だけの『恋の音』。


始まったばかりの放課後の合唱練習が、
他のみんなには内緒の、
途方もなく甘い秘密で満ちていくのを
乃愛は幸せに噛みしめるのだった——。