『ずっと』一緒にいる約束を。

 渚生の部屋には、初めて入る。マンションの一室にある渚生の部屋は、俺の部屋の雰囲気によく似ているという印象だ。勉強机とローテーブルとベッド。俺と違うのは勉強机があることくらいで、物は多く置かれていない。
 ——イメージ通り。
 ローテーブルの前に腰を下ろし、ベッドの淵に背をつけて横並びになる。
 打ち上げは楽しくなかった。
 渚生の前とみんなの前では言動が違うとハッキリとバレて気が気じゃなかったから。
 ——もう取り繕うのは無理か?
 俺は自分の話より渚生の話を自然と選んだ。

「付き合ってること言おうとしてたね」
「うん」
「隠すんじゃなかったの?」
「……あんな風に見られてるって知らなくて、言ったら納得してもらえるだろ」

 言っても納得しない可能性を考えなかったのか?

「それだけ?」
「抱きつくとかあり得ないとも思った」
「うん。じゃ、遠慮なく」

 ——嫉妬、してくれてる。
 渚生はノンデリだ。自覚はあまりなさそう。分かっていても人と干渉したくないからノンデリでいるのかもしれないけど。思った言葉が素直に出てきている印象だ。
 全部言葉にしてくれるから嬉しい反面、困ることも多かった。
 好きって何? って言われたときは焦ったんだ。
 夏衣に会った直後だったから、夏衣のこと好きになったのかと思った。もちろん、俺に気があると全く思っていなかったわけではないけど、俺はわざと愛嬌をよくしているだけ。実際、その明るさが功を奏して渚生が好きになってくれたんだと思う。
 でも夏衣の明るさは天性のものだから。“本物”に惹かれるかもしれないと思うとちょっと……いや、かなり怖かった。

 腕に力を込める。
 ——離さない。
 俺の周りの人に全力で嫉妬してよ。俺しかいらないくらい想ってよ。
 ——本当の俺を知ったら幻滅される。
 冷たいなんて可愛いものだ。
 触れてない部分が心配になるみたいに、渚生の小指に触れる。

「手、繋ぎたい」
「ん」

 ——かわいい。
 渚生が体重を俺に預けてくれる。今日、俺の家じゃなくて渚生の家を選んでよかった。
 もし俺の家だったら夏衣が邪魔してくるに違いない。
 ——本当の兄貴は……って俺が渚生に伝えていない『事実』を言うことだろう。
 そして、夏衣の方に惹かれでもしたらと思うと会わせるなんて無理があった。
 だって、自販機の前で絡まれてた『かっこいいのにナヨナヨしてる同じ制服の男』は、夏衣だから。

 印象に残っている人がそっちで良かったよ。不良の方が記憶にあったら俺がいくら自分を隠しても、渚生は会話をしてくれなかったはずだ。
 それなのに、俺の方は一ミリも覚えてなさそうなのも腹が立つ。夏衣に印象を取られて負けた気分にさえなった。
 ——覚えてて欲しくないのに、覚えて欲しいとか。
 渚生は不良だなんて言ってたけど、あれはただの兄弟喧嘩だ。
 一部だけを切り取れば、不良が絡んでいるようにも見えるだろうし、渚生目線そう見えたらしい。

「何か考えてる?」

 頭を肩に乗せた渚生が首元で話す。
 ——他の人といるときに、何考えてるかなんて聞かれたことないよ。
 言葉にするのは性格なのか、わざとなのか。そこまでは理解できないけど、俺は渚生のことが好きになったきっかけだから、すべて許せてしまう。

「昔のこと、考えてた」
「昔?」
「うん。渚生が好きってこと」
「答えじゃない……」

 ——答えだよ。
 俺は、渚生を腕で支えながら、ただ静かな時が流れる。
 幸せだ。
 好きな人が、俺の隣にいてくっついて男らしい肩も細すぎない腰も俺に預けてくれる。
 ——夏衣に掴まれた腕が許せない。
 そっと渚生の腕を握り、顔をうずめた。

 話すのは好きじゃなかった。
 幼稚園のお遊戯会でも、小学校の応援団でも、『いればいい』『話さなくていい』と言われ続けた。逆に口を開けば、『そんな慶くん嫌だ』と言われたんだ。
 ——『どうして? じゃあみんなも話さなければ?』と返事しただけなのに。
 みんな白馬に乗った王子様を想像してて、でも俺は王子様になれないからどうすればわからなくなってるうちに話したくなくなった。
 話さなければいい。もうなんでもいい。半ば、自分を諦めていた。

 中学生のある日、俺は夏衣の部活が終わるのを待って帰路についた。

『にいちゃん! 俺、そろばん始めたんだ!』
『……そう』

 中三の夏休み、夏衣が習い事を始めたんだ。俺のことを親しみを込めて『にいちゃん』と呼ばれるのは嫌いじゃなかったけど、その瞬間やけに嫌気が差した。
 送り迎えが大変だからと、俺がやらせてもらえなかった習い事。夏衣とは兄弟だから“一緒”だと思っていた俺の考えが、崖から落ちそうになった。次に放った夏衣のひと言は、俺のぐらついてバランスを崩しそうになっていた足を踏み外すには充分すぎるものだった。

『にいちゃんはやらないの?』

 夏衣にとっては純粋な疑問だ。
 ——しないんじゃない。できないって親に言われてんだ。
 だから、ずっと我慢してた。夏衣もそうだと思っていた。なのに、なんで夏衣だけ……
 返事ができないまま気がつけば、俺は夏衣の顔を一発殴ってた。
 ——どうしよう。こんなの知られたら……違う。夏衣が……
 今すぐ駆け寄って夏衣の頬を冷やさなきゃ。分かっているのに、身体が言うことを聞かない。
 殴ったのは俺なのに、呼吸が浅くなる。夏衣はへたり込み、俺は立ち尽くした。
 その俺らの間に割って入り、何食わぬ顔で自販機に手を伸ばしたのは、ハッとするほどのイケメンだった。
 ——何コイツ。
 いや、今は夏衣を……俺が夏衣に近づこうと一歩踏み出したとき、足がもつれ自販機の前にいた同じ制服の男に当たってしまった。
 それでもこちらを気にする素振りも見せない。と、男が振り返った瞬間思いがけない言葉を吐かれる。

『言葉、使えねーの?』

 純粋な眼差しで問われた言葉に俺は逃げ出した。
 言葉より先に手が出たのも初めてだったけど、俺が話すのをやめた根底には話したらそんな慶くん嫌だと言われてしまいそうで怖かったことがあった。
 だから助けられたんだ。
 ——話していい。と言われたみたいで。
 ハッキリ言う性格を隠しながら色んな人と話すうちになんとなく自分の性格の扱いが分かってきて、楽しかったけど、心の奥で眠った何かを無視し続けた。
 でもそんなのどうでもいいと思えてしまうくらい、どうしようもなかった中学生のときに、同じ中学生に救われたんだ。

 あの後、飛鷹渚生という名前を知り同じ中学なことも知った。加えて同じ高校だと知った時は家で舞い上がってた。
 それだけじゃなくて、今、腕の中にいるなんて夢みたいだ。

「俺、話すの好きだよ」
「なんの話?」
「こっちの話」

 俺は顔を上げ腕を解いて、横に座り直す。座高も変わらない渚生の頭にコツンと寄りかかった。

「あ、冷たいって言われてたの忘れてないからな。どういう意味?」

 みんな俺のことを知ったように言う。確かにみんなと渚生で言動は変えているけど……
 ——本当が冷たいだけじゃないのに。
 渚生も渚生だ。
 全部聞いてくるのは、今に始まったことではない。その素直さが好きなはずでも、俺の“本当”には抗えない。
 ——答えを聞くだけじゃなくて、仮説くらい立ててみれば?
 心の中で湧いた疑問を押さえつけた。

「そんな冷たくないって前に言ったでしょー」

 能天気に答えるのは得意になった。
 愛想よくしてたら、いろんな人に囲まれて一軍男子とか呼ばれるようになって……慣れてきた頃に、冷たい態度をとったら案外受け入れられてびっくりしたのを覚えている。
 少しずつ蛇口のひねりを調整するみたいに、自分を出していくことにした。そしたら案外うまくいったんだ。まだ心の奥で眠った何かを無視しているけど、渚生がいれば今はなんでもいいんだ。

「慶?」
「渚生と話せてよかった」
「なんの話だ」

 ところが蛇口を閉じてしまう瞬間があった。渚生の前だ。みんなが言うような冷たい態度でも話してみようと思ったけど、渚生の前では無理だった。『そんな慶嫌だ』と言われて嫌われるという心配だったけど、それ以上に俺の温度のない言葉を放って、それに対して渚生がハッキリと放つ。想像するだけで良い方には転ばないと分かっていた自分をさらに隠すように明るく振る舞うことにしたんだ。
 実際これでよかったんだと思う。
 ——夏衣を参考にしてよかった。

「そういえば、夏衣くんに付き合ってること言っただろ」

 頭に思い浮かべていた夏衣の名前が渚生から突如出てきて、びくりとする。

「そんな怒んねーって」
「言った……」

 「怒んないけど、誰にも言わないって約束したろ」と、ため息まじりに言われたが、俺は『わかった』なんてひと言も言ってないと頬を膨らませてみせた。

「ま、俺も言おうとしたからおあいこか」

 渚生が俺の方へ頭を動かし、寄りかかられる。そんな渚生が愛おしくて“なんで俺のこと好きなの?”と頭によぎる。
 ——聞くのは今じゃない。
 感情とは裏腹に口が動いた。

「渚生」
「ん?」
「俺のどんなところが好き?」

 魔が刺したんだ。
 偽物の俺に対して、聞くなんて。
 ——俺自身が傷つくだけだ。
 そんな俺のことを知りもしない渚生が、驚いた顔をしたあとに顔を俺の方へ向けて迷いのない口ぶりで放つ。

「ハッキリ言うところ」

 なぜか涙が出た。
 明るいところでも、顔のいいところでもない。俺の本物の部分を好きと言ってくれたからか。
 大粒の涙が止まらなくって、こんな広くて狭い世界で、渚生はいつも俺の欲しい言葉をくれる——俺には渚生しかいないと思ってしまうほどだ。それほどに幸せだった。
 と同時に、素直になりきれていない“本物”の俺を曝け出したいとも思った。思っているのに勇気が出なくて苦しかった。

 ——俺は冷たいんじゃなくて、ノンデリだ。自覚はある。

 『——って分かんない?』

 蛇口を閉じていたはずなのに咄嗟に出た言葉は、明るい俺がいたから特に喧嘩にもならなかったけど、振り返って考えてみれば最大級のノンデリだ。俺の我慢が厳しくなっているのだと思わざるをえなかった。
 ——でも、渚生とはぶつかりたくない。


 文化祭が終わって、受験ムードが本格化してきた直後には、俺は地元で唯一の製菓学校への入学を決めていた。
 俺は兄だから、ケーキ屋を継ぐらしい。
 ケーキ屋は嫌いじゃない。幼いころから手伝ってきたし、お客さんの笑顔を見るたびに俺までうれしくなった。
 その反面、家で夏衣がケーキ屋以外の未来の話をするたびに、しんどかった。
 ——俺が考えることができなかった未来。
 ケーキの甘い香りが髪にまとわりついて、好きなのに嫌いになりそうだ。
 俺はシャンプーを家族とは別のものに買い替えた。

「慶、シャンプー変えた?」
「うん。こっちの方が俺らしくない?」

 甘い金木犀の香り。まったく俺の好みではない。でも渚生は「いい香り」だと俺の頭を撫でてくれる。そして続けて言った。

「慶らしさはわかんないよ。香りで判断してないし」

 ——また泣かされそうになった。
 俺の皮肉に近いような言葉を深く考えることもない渚生は、素直に言ってくれる。その素直さには、笑いが含まれていなくて居心地がいい。
 きっと、他の人たちに言ったら『確かに。慶らしくない』と笑って流されていた。もちろん、笑って流されることがありがたいときもあったけど……渚生のことを知ってしまったら『俺のことを見てもいないクセに』って、思うに違いない。
 ——こんないい人、渚生だけだ。
 そう思うたびに、隠し事が後ろ髪を引かれる思いだった。
 ——“ずっと”一緒にいたい……けど、きっと俺の情けない部分まで知ったら幻滅するだろうな。

 卒業まであと三ヶ月もなくなったころ渚生は推薦とやらで、数人しか枠のない募集にしっかりと入って受かった。他のクラスメイトよりも早く進路が決まった俺たちは一緒にいる時間が増えた。
 というわけでもなかった。渚生は気が抜けないと、いつまでも勉強は続けている。

「勉強好きだね」
「やらないといけないことだ」

 ——俺がいるのに?

「卒業式まであと一週間だよ」

 渚生が突如して放ったひと言に、虚しくなる。

「嫌だな。高校生でいたい」
「今度は真面目に勉強するか?」
「えー……渚生は勉強しすぎだよ」

 多分渚生は、大学生活が楽しみなんだと思う。卒業が近づいているのに、ワクワクしてる気持ちが抑えきれていないように見える。
 ——俺と毎日会えないんだよ?
 確実に会える保証のある高校生活はもう終わる。
 ——もっと長かったら良いのに。


 卒業式での俺と渚生の人気っぷりは凄まじかった。遠くに見えた渚生は、後輩、同輩問わず写真を要求されてうんざりした顔をしている。
 ——早く渚生のところに行きたい。
 かけられる声を振り切って、渚生のところへ足が勝手に動いた。

「渚生!」

 俺の声に、振り向いた渚生もほんの僅かな距離を埋めるように近づいてくれる。
 周りに人がたくさんいて、ここから離れようとしたときだった。

「慶くん先輩と飛鷹先輩が仲良いの⁉︎」

 驚かれた声が次々と上がる。
 周りの声は、いつも気にならない。だけど、今日だけ異様に心の奥で眠った何かが反応して落ち着かなかった。
 ——俺と仲良いのってそんなにおかしいこと? 渚生とだから? 分かんない……まぁいいか。
 三年三組の教室は誰もいない。
 
「渚生」

 ——俺、本当は……
 開いた口から言葉は出てこなくて、情けない。
 全部言おうとした。明るい俺が偽物だと、知って欲しかった。
 だけど、言えないまま時間が過ぎた。
 ——『そんな慶、嫌だ』って言われたらどうすればいいか分からないから。

「慶?」
「……好きだよ」
「知ってる」

 「本当かなぁ……俺の好きは重いよー」と、俺は渚生に口付けをした。
 俺のスマホがバイブしても、離さなかった唇。渚生も俺のブレザーの裾を握って離そうとしなかった。しばらくしてスマホの音が消えてから、そっと唇を解いた。

「めっちゃ呼ばれてる……」
「人気ものは大変だ。早く行かなきゃな」

 ——そんな簡単に……
 と、渚生に抱きつかれる。

「早く行かなきゃなんだろ?」
「うん」

 コクリと頷いているのに、まったく向かおうとしない。
 こんな素直な渚生が恋人とか、俺には……
 その後に続く言葉を、思い浮かべた自分が嫌になる。
 俺には——もったいない。

「渚生。行くんじゃなかったの?」
「もう少しこのままでいたいって分かんない?」
「分かってるよ」

 しばらくそうしていた俺たちは、最後の教室を後にして卒業した。