*
いつしか俺らの口癖になっていた。
『————って分かんない?』
確かめるみたいに、分かってることまで聞く。
「このアイスって半分こにできて青春してる感あるよね」
「そうか? 誰かと分けたことない」
「学校帰りのド定番だろー」
「帰りのアイスに定番なんてあるのか。食べたことないわ」
明日川が会話に出したアイスを手に取らずに、俺は別のものに目を向ける。
——学校帰りのド定番、ね。
すると、明日川がアイスを指さして言う。
「……食べたいって言ってるの分かんない?」
「分かってた」
食べたいから会話に出したんだろうなと分かってて、わざと目線をそらしたのは明日川にバレていて「紛らわしい真似しないでよ」と軽く肩をぶつけられた。
あれ以来、キスはしていない。
まぁ、当然なのだが、キスのあと明日川は慌てるかと思ったのに、落ち着いていた。
唇を離したとき愛おしそうな顔で頭を撫でられた俺は、自分の無理やりな答えではなく明日川から答えがほしくて「なんでキス?」と問うと、「なんとなく」と返事された。
——『なんとなく』ってなんだよ。
俺のこと好きだから、とか。二人きりだから、とか。
明日川が俺にキスする理由はあるはずなのに、『好き』の二文字も言われなかったことになぜかイラッとした。
——いっつも好きって言うくせに。
増える疑問からなる複雑な気持ちは、答えの出る勉強をすることで解消して、後回しにしている。
帰り道、駅までは同じだが、電車はバラバラ。本当なら改札の手前で一緒にいる時間は終わる。俺は家に帰って勉強……するだけ。
俺は改札に入る手前で足を止めた。
「図書館でテスト勉強する」
なんとなく、また一緒に勉強すると言ってくれる気がしたんだ。
勉強くらいひとりでできるのに、なんでそんなことを気にしているのか、やっぱり自分の思考が理解できない。
「そっか。頑張って」
——え? 一緒に勉強は?
いや、いいのか。それでいいんだ。
暗示をかけても、効かなかった。口が勝手に開く。
「なんで? 『頑張って』って何?」
「え?」
「一緒に来てくれないの?」
外では、もさっとした明日川の髪の毛の間から覗かせている大きな目がより大きくなる。
——え? 来てくれるんじゃないの?
「行く」
短い言葉に、俺は安堵した。
すると、明日川が改札の方へ向かおうしながら言う。
「図書館もいいけどさ」
「うん?」
「俺ん家の方が声の大きさ、気にしなくていいんじゃない?」
——明日川の家?
「……そうやって女子を落としてきたと」
自分で言っておいて、明日川が女子とふ二人きりになる姿を思い浮かべたらイライラした。
「違げーよ。彼女いたことないから」
否定されて、ホッとする。
——なんでだ。
彼女できたことないって、うん。知ってたじゃん。
「いじわるー」とブツブツ言う明日川に「行こう」と、道も分からないのに前を歩いた。
隣の駅にある明日川の家は一軒家。
「デカい家だな」と漏れた声に「田舎だから土地だけはある」と笑って反応された。
玄関の靴を見た明日川が「あ」と小さな声を出した。
「どした」
「あー……弟いるわ」
——弟、いたんだ。
玄関には、大きなローファーが雑に脱ぎ捨てられていた。
「ダメそう?」
「大丈夫だけど大丈夫じゃない」
——それは大丈夫か?
「いいよ。入って」
玄関を上がったすぐ横にある階段を登ろうとしたとき、近くのリビングにつながると思われるドアが開いた。
部屋着姿で出てきた顔は明日川慶によく似ている丸い目を持っていて、どこか幼く見える。ただ、さらさらとした黒髪で髪質は違うようだ。
——身長は俺と同じくらいか。
でも、かなり幼く見えるな。
「誰ですか……」
警戒心を露わにされるのも無理はない。が、俺も誰か分からず明日川の家にいる以上家の人だろうと、挨拶だけする。
「お邪魔します」
俺の挨拶に続けて明日川が手短に言う。
「弟の夏衣」
この人が弟か。明日川に似てるのも当然だ。
あ、どっちも明日川か。となると、弟の方は夏衣くんだな。と勝手に心の中で夏衣くんと呼ぶことにした。
「中学生?」
「高一だよ! 兄貴誰この人!」
——高校生だったのか。
初対面でありながら盛大に間違えてしまい、俺の名前も知らない夏衣くんが頬を膨らませる。
兄である明日川に質問していたが、普通に自己紹介を俺がすればいいだろ、と口を開いたときだった。明日川が答えた俺の名前ひとつで空気の流れが変わった。気がした程度だ。
「……飛鷹」
そして夏衣くんが、またもや俺ではなく明日川に対して聞く。
「下の名前は?」
「渚生」
無愛想に名前を呼ばれ、もう少し愛想よくできるだろ。と思ったが、兄弟というのはこんなもんなのかもしれない。
ひとりっ子の俺には感じたことのない空気感が、不思議だ。
ぼうっとしていると、夏衣くんに一歩近づかれる。
「渚生くん遊ぼうよ」
「え? いや、無理」
——勉強しにきただけだし。
「残念」
初対面の人と遊べるくらいフットワークが軽いのは、兄譲りなのか。兄弟だな、と思う。
ずっと玄関付近で立ち話になっていたためか、明日川から俺に視線が送られる。
「俺の部屋行こ」
「俺も行こっかなー?」
——すっごいな。この子……
夏衣くんは明日川とは別の何かを感じる。明日川もフットワークは軽いし遠慮もないけど、夏衣くんは素直に見えて素直じゃない感じ。ずっと反応を観察されているような感覚になる。
俺が何も答えずにいると、明日川が斜め下を向きながら言う。
「勉強するからやめて」
「……兄貴、今日はよく返事してくれるね」
『やめて』と、軽い注意をする明日川は、なんとなく不機嫌に見える。
てか、返事するってなんだ? コイツは“一”言ったら、“十”返してくるだろ。
「あ、渚生くんがいるからか」
「夏衣」
初対面なのに俺のことを知った口ぶりで言われたことに加えて、下の名前に口を挟みそうになった。しかし言葉は出てこなかった。
糸がピンと張ってるみたいな空気。それに、俺には兄弟が分からないから、これが普通なのかもしれない。
俺が二人の会話が終わるのを待とうとしたとき、夏衣くんがニンマリと笑う。
「好きな人の前だと無理かー。本当は兄貴が……」
「夏衣!」
明日川が声を荒げた。どんなに小声でも届きそうな空間に響いたその声に、俺は一瞬息を止めかけた。
それでも俺の疑問は、口から出ていく。
「明日川? なんで怒鳴ってんの?」
「……っなんでもない」
ろくな返事をされず、意味がわからない。この会話を振り切るように明日川は二階へ向かっていく。
——なんだ? 聞いただけなのに俺まで怒られた気分だ。
明日川の背を追い階段を上る途中あたりで、「今度遊んでねー!」と、階下から声が飛んできた。
「お前の弟、敬語って知らないの?」
「ごめんごめん。後でちゃんと言っとくわ」
振り返りもせずに放たれた言葉は、気持ちなど何もこもっていなさそうだ。
明日川の部屋に着くと、機嫌は直っているのか無理しているのか、いつも通りに戻っていた。
特に何もない明日川の部屋。
イメージだけで言えば音楽雑誌とかギターが置かれている部屋だった。
勉強をしにきただけなので、どんな部屋でもいいのだけれど、全く気になっていなかったといえば嘘になる。
——勝手に集中できなさそうなくらいものが多い部屋だと思ってた。
俺たちはローテーブルの前に向かい合って座る。そして、ワークに取り掛かった。
程なくすると、明日川のシャーペンの音が消えたのを耳が拾う。集中力を切らした明日川の視線がささりまくっていた。
——いや、今日の明日川はずっと集中していなかったな。
俺は無視し決め込み、自分の勉強に没頭した。
何か分からない問題でもあったのか知らないが、『教えて』と言われるまでは教えるつもりはなかったし、言われなかった。
ただ、ずっとこちらを見てくる。
——なんだコイツ。
キリの良いところまで終わらせ、顔を上げる。
「なんだよ」
ひと言、声をかけると机に頬杖をつける。
「飛鷹って、下の名前で呼ばれることないの?」
「ないな。大体飛鷹くんだろ」
「……ふーん」
そういえば、渚生なんて明日川の弟、夏衣くんに呼ばれたのが久々だったと思い出す。
「あぁ、夏衣くんが呼んでるわ」
明日川が向くれた顔を見せる。
——なんだ?
「俺は、みんなに慶って呼ばれてる」
「さすがに知ってるけど……」
——あ、俺が夏衣くんのこと下の名前で呼んでるのが嫌なのか?
どっちも明日川なんだから仕方のないことだ。
「慶って呼んでって。わかんない?」
「分かってた」
「じゃあ……!」
「でも呼ばない。明日川で困ってないし」
分かればいいだろ。学校で明日川と呼んで振り向くのはひとりなんだし。
——それに、明日川だって俺のこと下の名前で呼んでないんだからいいだろ。
「夏衣は呼ばれてるし、飛鷹のこと気軽に名前で呼んでてずるい」
「ん? 明日川が俺を下の名前で呼ぶの躊躇ってんの?」
渚生と呼ぶのを、やめろと言った覚えはない。
——だからって、呼ばれたいかと聞かれたら「別に」と答えるだろうけど。
「いいの?」
「俺が分かればなんでもいい」
——呼び方なんて、変わったところで……
明日川は名前なんて気になるんだな、とシャーペンを握り直し勉強に戻る。しかし目の前にいる明日川は全く手を動かす気配がない。
勉強しに来たのに、何やってんだ。
「おい、あすか……」
「渚生」
ドキッと胸が鳴る。
明日川がはっきりと発音させた名前は、俺が生まれたときからあるものなのに、一回言われただけでもう一回呼んでほしいと思った。
——夏衣くんに言われたときは何も思わなかったのに。
呼び方が変わっただけ。
それなのに、なんで、心臓の音が早くなってんだ。
俺の指からポロッとシャーペンが抜け落ちた。
「明日川……」
「ん? 何? 呼んだの俺なんだけど……」
苦笑いされてムカつくのに、何も言い返せない。
胸の辺りがジワッと集中する感覚。
——なに、これ……
俺の違和感を察され、もう一度呼ばれる。
「こっちきて。渚生」
俺は、大きく息を吐きなんとか平静を取り戻してから、言われるがままに明日川の隣に座った。
「なんか変な感じだ」
「え?」
「なんでもない」
明日川に聞いたところで解決しなそうな感情を割り切る。隣に座る明日川が何も言わずに、俺へ視線を送り続けられている。
——明日川が呼んだのに……って、俺もさっき呼んだ気がするけど……
俺は、自分のことを棚に上げて話す。
「呼んでおいてなんだよ」
「うん」
「渚生って呼びたかったのか?」
「うん」
返事だけで急に静かにされ、俺は明日川の顔を覗き込んだ。明日川の耳が真っ赤に染め上がっていて名前を呼んだだけで、恥ずかしがっているのだ。
——いつも俺といるときは元気だって言われてるけど……みんなの言う静かってこんな感じなのか?
もし、照れてて静かとか、そういう顔を見せているのだったらなんか、嫌だ。
「……みんなといるときは、こんな感じなの?」
「そうかも。俺も分かんない」
ふいと目を流され、ムカついた俺は明日川の目線の先を追った。目に付いた卒業アルバム。俺は自然と身体が動き、誘われるように卒業アルバムの元へ向かおうとする。
「渚生?」
「いいもんあんじゃん」
四つん這いになって、棚の最下部に手を伸ばす。
——同じ学校の背表紙あんだけど。
あ、そっか。不良から助けた時同じ制服着てたから、中学同じなのか。
すると、俺に覆い被さり脇の下から腕を回され、伸ばした右腕だけじゃなく身体ごと動きを静止させられる。
「ダメ」
押し殺したような声に、俺の興味がそそられ「なんで?」と聞きたくなった。
でもその前に、俺の胸の音が大きすぎることが気になって仕方ない。いや、明日川のか? とにかく、くっつかれたからということだけ理解した。
——明日川の距離ちか……
「……分かったから、どいて」
俺が腕を下ろしても、どく気配がない。
「おい。あすか……」
「慶」
どんだけ呼んで欲しいんだ。俺は腰を下ろし床に座る。
それでも明日川は腕の位置を変えず、後ろから抱きつかれる形になっている。
——何してんだ……
俺の背中に顔をくっつける明日川の吐息が熱い。
「呼んだらどいてくれんの?」
多分どきたくないんだろうし、どかないだろう、
「うん」と言いながら、背中では首を左右に振っていて顔がぐりぐりと押し付けられていたのは理解できていた。
——くすぐった。
どかないと分かっていたはずなのに、俺は名前を口にしたくなった。
「慶」
名前を呼んだ瞬間、腕の力が強まるのを感じとった。俺のことを好きという感情を思い出させる。
変なやつ。どんなに冷たくしても諦めなくて、変なやつだ。
俺のいいところは、誰に聞いても顔だと答えるだろうし、むしろ悪口の方が多く出てきそうだ。しかし、慶は俺のことを好きだと言う。
——じゃあ、俺は?
慶のことは嫌いじゃない。俺のことを顔以外で見ててくれて、距離を置こうとしてたときが嘘みみたいに思えるほど、隣にいる。
名前を呼ばれただけで感じる特別感も、他の人からはないものだ。
——他と違うから好き?
そんな単純でいいのだろうか。
答えがあって、確認できればいいのに。
——答え……
慶が俺のことが好きなんだから、好きの答えを知っているかもしれない。と、できる限り首を曲げ、慶の方を見る。
「なぁ」
「名前」
「……慶」
「うん。何?」
満足したように背中から顔を出す明日川に問う。
「好きってなんだ?」
「恋バナ?」
ある意味そうか。
俺は、コクリと頷いた。
「好きな人でもできた、の?」
「どうだろうな。好きかどうか判断するために好きな人がいる慶に聞いたんだけど」
「好きって判断いるの、渚生らしいね。好きになったら他の誰かといる姿を見たくなくて想像するだけで、辛くて。誰にも取られたくないって思う。でも話せるだけでうれしくて嫉妬が消える。ま、完全には消えないけどね」
にわかに笑う慶は意外にも冷静で、俺の好きになるかもしれない人のことを問いただしてこない。
「誰か聞かないんだ」
「聞いていいなら、全然聞く」
「でも俺以外だったら、このまま離さない」と言う慶は何か確信しているようだった。本人が確信するくらいには、慶の方へ気持ちが揺らいでいるのかもしれない。
「慶のことだから離して」
「……ほんっとに……」
慶が途中で止めた言葉が気になる。
「ほんとに、何?」
「俺が好きだって知ってて言ってるの?」
「そりゃそうだろ」
何回も言われてんだから、知ってるわ。
「……天然ものこわ……」
「は?」
その後は、夕飯の時間があるからと俺は慶の家を出た。
結局、答えには辿り着いた感じはしない。
——じゃあ、好きではないのか。
好きではないかもしれないと思うと、心のどこかで落胆した。気持ちがなんで落ちたのかは分からないけど、そのとき思い出したのは慶が呼ぶ俺の名前。帰りの電車で、慶に呼ばれた『渚生』という声が耳から離れなかった。
いつしか俺らの口癖になっていた。
『————って分かんない?』
確かめるみたいに、分かってることまで聞く。
「このアイスって半分こにできて青春してる感あるよね」
「そうか? 誰かと分けたことない」
「学校帰りのド定番だろー」
「帰りのアイスに定番なんてあるのか。食べたことないわ」
明日川が会話に出したアイスを手に取らずに、俺は別のものに目を向ける。
——学校帰りのド定番、ね。
すると、明日川がアイスを指さして言う。
「……食べたいって言ってるの分かんない?」
「分かってた」
食べたいから会話に出したんだろうなと分かってて、わざと目線をそらしたのは明日川にバレていて「紛らわしい真似しないでよ」と軽く肩をぶつけられた。
あれ以来、キスはしていない。
まぁ、当然なのだが、キスのあと明日川は慌てるかと思ったのに、落ち着いていた。
唇を離したとき愛おしそうな顔で頭を撫でられた俺は、自分の無理やりな答えではなく明日川から答えがほしくて「なんでキス?」と問うと、「なんとなく」と返事された。
——『なんとなく』ってなんだよ。
俺のこと好きだから、とか。二人きりだから、とか。
明日川が俺にキスする理由はあるはずなのに、『好き』の二文字も言われなかったことになぜかイラッとした。
——いっつも好きって言うくせに。
増える疑問からなる複雑な気持ちは、答えの出る勉強をすることで解消して、後回しにしている。
帰り道、駅までは同じだが、電車はバラバラ。本当なら改札の手前で一緒にいる時間は終わる。俺は家に帰って勉強……するだけ。
俺は改札に入る手前で足を止めた。
「図書館でテスト勉強する」
なんとなく、また一緒に勉強すると言ってくれる気がしたんだ。
勉強くらいひとりでできるのに、なんでそんなことを気にしているのか、やっぱり自分の思考が理解できない。
「そっか。頑張って」
——え? 一緒に勉強は?
いや、いいのか。それでいいんだ。
暗示をかけても、効かなかった。口が勝手に開く。
「なんで? 『頑張って』って何?」
「え?」
「一緒に来てくれないの?」
外では、もさっとした明日川の髪の毛の間から覗かせている大きな目がより大きくなる。
——え? 来てくれるんじゃないの?
「行く」
短い言葉に、俺は安堵した。
すると、明日川が改札の方へ向かおうしながら言う。
「図書館もいいけどさ」
「うん?」
「俺ん家の方が声の大きさ、気にしなくていいんじゃない?」
——明日川の家?
「……そうやって女子を落としてきたと」
自分で言っておいて、明日川が女子とふ二人きりになる姿を思い浮かべたらイライラした。
「違げーよ。彼女いたことないから」
否定されて、ホッとする。
——なんでだ。
彼女できたことないって、うん。知ってたじゃん。
「いじわるー」とブツブツ言う明日川に「行こう」と、道も分からないのに前を歩いた。
隣の駅にある明日川の家は一軒家。
「デカい家だな」と漏れた声に「田舎だから土地だけはある」と笑って反応された。
玄関の靴を見た明日川が「あ」と小さな声を出した。
「どした」
「あー……弟いるわ」
——弟、いたんだ。
玄関には、大きなローファーが雑に脱ぎ捨てられていた。
「ダメそう?」
「大丈夫だけど大丈夫じゃない」
——それは大丈夫か?
「いいよ。入って」
玄関を上がったすぐ横にある階段を登ろうとしたとき、近くのリビングにつながると思われるドアが開いた。
部屋着姿で出てきた顔は明日川慶によく似ている丸い目を持っていて、どこか幼く見える。ただ、さらさらとした黒髪で髪質は違うようだ。
——身長は俺と同じくらいか。
でも、かなり幼く見えるな。
「誰ですか……」
警戒心を露わにされるのも無理はない。が、俺も誰か分からず明日川の家にいる以上家の人だろうと、挨拶だけする。
「お邪魔します」
俺の挨拶に続けて明日川が手短に言う。
「弟の夏衣」
この人が弟か。明日川に似てるのも当然だ。
あ、どっちも明日川か。となると、弟の方は夏衣くんだな。と勝手に心の中で夏衣くんと呼ぶことにした。
「中学生?」
「高一だよ! 兄貴誰この人!」
——高校生だったのか。
初対面でありながら盛大に間違えてしまい、俺の名前も知らない夏衣くんが頬を膨らませる。
兄である明日川に質問していたが、普通に自己紹介を俺がすればいいだろ、と口を開いたときだった。明日川が答えた俺の名前ひとつで空気の流れが変わった。気がした程度だ。
「……飛鷹」
そして夏衣くんが、またもや俺ではなく明日川に対して聞く。
「下の名前は?」
「渚生」
無愛想に名前を呼ばれ、もう少し愛想よくできるだろ。と思ったが、兄弟というのはこんなもんなのかもしれない。
ひとりっ子の俺には感じたことのない空気感が、不思議だ。
ぼうっとしていると、夏衣くんに一歩近づかれる。
「渚生くん遊ぼうよ」
「え? いや、無理」
——勉強しにきただけだし。
「残念」
初対面の人と遊べるくらいフットワークが軽いのは、兄譲りなのか。兄弟だな、と思う。
ずっと玄関付近で立ち話になっていたためか、明日川から俺に視線が送られる。
「俺の部屋行こ」
「俺も行こっかなー?」
——すっごいな。この子……
夏衣くんは明日川とは別の何かを感じる。明日川もフットワークは軽いし遠慮もないけど、夏衣くんは素直に見えて素直じゃない感じ。ずっと反応を観察されているような感覚になる。
俺が何も答えずにいると、明日川が斜め下を向きながら言う。
「勉強するからやめて」
「……兄貴、今日はよく返事してくれるね」
『やめて』と、軽い注意をする明日川は、なんとなく不機嫌に見える。
てか、返事するってなんだ? コイツは“一”言ったら、“十”返してくるだろ。
「あ、渚生くんがいるからか」
「夏衣」
初対面なのに俺のことを知った口ぶりで言われたことに加えて、下の名前に口を挟みそうになった。しかし言葉は出てこなかった。
糸がピンと張ってるみたいな空気。それに、俺には兄弟が分からないから、これが普通なのかもしれない。
俺が二人の会話が終わるのを待とうとしたとき、夏衣くんがニンマリと笑う。
「好きな人の前だと無理かー。本当は兄貴が……」
「夏衣!」
明日川が声を荒げた。どんなに小声でも届きそうな空間に響いたその声に、俺は一瞬息を止めかけた。
それでも俺の疑問は、口から出ていく。
「明日川? なんで怒鳴ってんの?」
「……っなんでもない」
ろくな返事をされず、意味がわからない。この会話を振り切るように明日川は二階へ向かっていく。
——なんだ? 聞いただけなのに俺まで怒られた気分だ。
明日川の背を追い階段を上る途中あたりで、「今度遊んでねー!」と、階下から声が飛んできた。
「お前の弟、敬語って知らないの?」
「ごめんごめん。後でちゃんと言っとくわ」
振り返りもせずに放たれた言葉は、気持ちなど何もこもっていなさそうだ。
明日川の部屋に着くと、機嫌は直っているのか無理しているのか、いつも通りに戻っていた。
特に何もない明日川の部屋。
イメージだけで言えば音楽雑誌とかギターが置かれている部屋だった。
勉強をしにきただけなので、どんな部屋でもいいのだけれど、全く気になっていなかったといえば嘘になる。
——勝手に集中できなさそうなくらいものが多い部屋だと思ってた。
俺たちはローテーブルの前に向かい合って座る。そして、ワークに取り掛かった。
程なくすると、明日川のシャーペンの音が消えたのを耳が拾う。集中力を切らした明日川の視線がささりまくっていた。
——いや、今日の明日川はずっと集中していなかったな。
俺は無視し決め込み、自分の勉強に没頭した。
何か分からない問題でもあったのか知らないが、『教えて』と言われるまでは教えるつもりはなかったし、言われなかった。
ただ、ずっとこちらを見てくる。
——なんだコイツ。
キリの良いところまで終わらせ、顔を上げる。
「なんだよ」
ひと言、声をかけると机に頬杖をつける。
「飛鷹って、下の名前で呼ばれることないの?」
「ないな。大体飛鷹くんだろ」
「……ふーん」
そういえば、渚生なんて明日川の弟、夏衣くんに呼ばれたのが久々だったと思い出す。
「あぁ、夏衣くんが呼んでるわ」
明日川が向くれた顔を見せる。
——なんだ?
「俺は、みんなに慶って呼ばれてる」
「さすがに知ってるけど……」
——あ、俺が夏衣くんのこと下の名前で呼んでるのが嫌なのか?
どっちも明日川なんだから仕方のないことだ。
「慶って呼んでって。わかんない?」
「分かってた」
「じゃあ……!」
「でも呼ばない。明日川で困ってないし」
分かればいいだろ。学校で明日川と呼んで振り向くのはひとりなんだし。
——それに、明日川だって俺のこと下の名前で呼んでないんだからいいだろ。
「夏衣は呼ばれてるし、飛鷹のこと気軽に名前で呼んでてずるい」
「ん? 明日川が俺を下の名前で呼ぶの躊躇ってんの?」
渚生と呼ぶのを、やめろと言った覚えはない。
——だからって、呼ばれたいかと聞かれたら「別に」と答えるだろうけど。
「いいの?」
「俺が分かればなんでもいい」
——呼び方なんて、変わったところで……
明日川は名前なんて気になるんだな、とシャーペンを握り直し勉強に戻る。しかし目の前にいる明日川は全く手を動かす気配がない。
勉強しに来たのに、何やってんだ。
「おい、あすか……」
「渚生」
ドキッと胸が鳴る。
明日川がはっきりと発音させた名前は、俺が生まれたときからあるものなのに、一回言われただけでもう一回呼んでほしいと思った。
——夏衣くんに言われたときは何も思わなかったのに。
呼び方が変わっただけ。
それなのに、なんで、心臓の音が早くなってんだ。
俺の指からポロッとシャーペンが抜け落ちた。
「明日川……」
「ん? 何? 呼んだの俺なんだけど……」
苦笑いされてムカつくのに、何も言い返せない。
胸の辺りがジワッと集中する感覚。
——なに、これ……
俺の違和感を察され、もう一度呼ばれる。
「こっちきて。渚生」
俺は、大きく息を吐きなんとか平静を取り戻してから、言われるがままに明日川の隣に座った。
「なんか変な感じだ」
「え?」
「なんでもない」
明日川に聞いたところで解決しなそうな感情を割り切る。隣に座る明日川が何も言わずに、俺へ視線を送り続けられている。
——明日川が呼んだのに……って、俺もさっき呼んだ気がするけど……
俺は、自分のことを棚に上げて話す。
「呼んでおいてなんだよ」
「うん」
「渚生って呼びたかったのか?」
「うん」
返事だけで急に静かにされ、俺は明日川の顔を覗き込んだ。明日川の耳が真っ赤に染め上がっていて名前を呼んだだけで、恥ずかしがっているのだ。
——いつも俺といるときは元気だって言われてるけど……みんなの言う静かってこんな感じなのか?
もし、照れてて静かとか、そういう顔を見せているのだったらなんか、嫌だ。
「……みんなといるときは、こんな感じなの?」
「そうかも。俺も分かんない」
ふいと目を流され、ムカついた俺は明日川の目線の先を追った。目に付いた卒業アルバム。俺は自然と身体が動き、誘われるように卒業アルバムの元へ向かおうとする。
「渚生?」
「いいもんあんじゃん」
四つん這いになって、棚の最下部に手を伸ばす。
——同じ学校の背表紙あんだけど。
あ、そっか。不良から助けた時同じ制服着てたから、中学同じなのか。
すると、俺に覆い被さり脇の下から腕を回され、伸ばした右腕だけじゃなく身体ごと動きを静止させられる。
「ダメ」
押し殺したような声に、俺の興味がそそられ「なんで?」と聞きたくなった。
でもその前に、俺の胸の音が大きすぎることが気になって仕方ない。いや、明日川のか? とにかく、くっつかれたからということだけ理解した。
——明日川の距離ちか……
「……分かったから、どいて」
俺が腕を下ろしても、どく気配がない。
「おい。あすか……」
「慶」
どんだけ呼んで欲しいんだ。俺は腰を下ろし床に座る。
それでも明日川は腕の位置を変えず、後ろから抱きつかれる形になっている。
——何してんだ……
俺の背中に顔をくっつける明日川の吐息が熱い。
「呼んだらどいてくれんの?」
多分どきたくないんだろうし、どかないだろう、
「うん」と言いながら、背中では首を左右に振っていて顔がぐりぐりと押し付けられていたのは理解できていた。
——くすぐった。
どかないと分かっていたはずなのに、俺は名前を口にしたくなった。
「慶」
名前を呼んだ瞬間、腕の力が強まるのを感じとった。俺のことを好きという感情を思い出させる。
変なやつ。どんなに冷たくしても諦めなくて、変なやつだ。
俺のいいところは、誰に聞いても顔だと答えるだろうし、むしろ悪口の方が多く出てきそうだ。しかし、慶は俺のことを好きだと言う。
——じゃあ、俺は?
慶のことは嫌いじゃない。俺のことを顔以外で見ててくれて、距離を置こうとしてたときが嘘みみたいに思えるほど、隣にいる。
名前を呼ばれただけで感じる特別感も、他の人からはないものだ。
——他と違うから好き?
そんな単純でいいのだろうか。
答えがあって、確認できればいいのに。
——答え……
慶が俺のことが好きなんだから、好きの答えを知っているかもしれない。と、できる限り首を曲げ、慶の方を見る。
「なぁ」
「名前」
「……慶」
「うん。何?」
満足したように背中から顔を出す明日川に問う。
「好きってなんだ?」
「恋バナ?」
ある意味そうか。
俺は、コクリと頷いた。
「好きな人でもできた、の?」
「どうだろうな。好きかどうか判断するために好きな人がいる慶に聞いたんだけど」
「好きって判断いるの、渚生らしいね。好きになったら他の誰かといる姿を見たくなくて想像するだけで、辛くて。誰にも取られたくないって思う。でも話せるだけでうれしくて嫉妬が消える。ま、完全には消えないけどね」
にわかに笑う慶は意外にも冷静で、俺の好きになるかもしれない人のことを問いただしてこない。
「誰か聞かないんだ」
「聞いていいなら、全然聞く」
「でも俺以外だったら、このまま離さない」と言う慶は何か確信しているようだった。本人が確信するくらいには、慶の方へ気持ちが揺らいでいるのかもしれない。
「慶のことだから離して」
「……ほんっとに……」
慶が途中で止めた言葉が気になる。
「ほんとに、何?」
「俺が好きだって知ってて言ってるの?」
「そりゃそうだろ」
何回も言われてんだから、知ってるわ。
「……天然ものこわ……」
「は?」
その後は、夕飯の時間があるからと俺は慶の家を出た。
結局、答えには辿り着いた感じはしない。
——じゃあ、好きではないのか。
好きではないかもしれないと思うと、心のどこかで落胆した。気持ちがなんで落ちたのかは分からないけど、そのとき思い出したのは慶が呼ぶ俺の名前。帰りの電車で、慶に呼ばれた『渚生』という声が耳から離れなかった。



