『ずっと』一緒にいる約束を。

 隣の席の女子に、チラチラとこちらを見られる。
 無視しよう。
 体育のあとで体力を使い切り、興味のない人と話すことなどできるはずもなかった。
 ——明日川に興味があるとかではないのだけど。
 心の中の言い訳のような言葉に、自分が動揺しかけた。
 あの後、ダブルスで卓球しているうちに授業が終わってしまった。思ったよりも明日川とは息が合い、点を取るのは容易かった。点を取るたびに、明日川は犬のように跳んで喜んだと思ったら、対戦相手のいつもの二人に舌を出してドヤ顔していた。
 授業に適用されなかったスポーツマンシップは、対戦相手を焚き付けるには充分でそれに振り回されたせいでクタクタだ。
 その上、授業が始まっているのに隣の女子に見られストレスになっている。
 ——あぁ、面倒だ。
 目線だけで彼女の机を見やると、ノートの切れ端と筆記用具しか置いていない。授業で使う教科書も資料集も出す気はなさそうだ。
 ——あ、俺に見せてもらいたいのか。

「忘れたフリって楽しい?」
「えっ……と」

 女子のことを横目で見ながら口を開くと、青ざめた。
 ——図星か。

「いつも絶対持って来るのにおかしいと思った」
「いつもって……」

 なぜかここで女子が、顔を赤くする。

「何?」
「な、なんでもない!」

 ——なんでもない?
 机の上にカラフルな教科書類がないまま、黒板に向き直す女子は、悪目立ちしている。先生に気づかれて、授業が止まったら面倒だから、見せてあげるしかないか。と思った矢先だった。

「そこ、どうしたんだ?」

 早速、俺らが話していることと教科書が机にないことが重なり、先生に見つかったときにはクラスメイトの視線が集中する。
 ——最悪。

「教科書ないみたいなんで、今日だけ机つけていいですか」

 俺が忘れたわけではないのに先生の了承を得るなんてどうかしている。しかも頼まれてはないのに、だ。机に手をかけて女子の方へ動かそうとすると、この期に及んでまだ俺と話そうとする。

「あ、ありが……」
「これ以上授業止めるの迷惑だと思わないの?」

 乱暴に机をくっつけて、その間に教科書を置いた。
 初めからこうすれば良かったんだ。さっさと見せれば、授業止めるとか変に考えなくて済んだ。
 ——やっぱり思ってるだけじゃなくて言葉は口にしないといけないな。
 数年前のあの時(・・・)のことが頭をよぎったが、授業に意識を戻した。
 授業が終わった瞬間に、離した机。わざと面倒くさそうな態度を取ったのに、女子は構わず話しかけてきた。

「飛鷹くん、ありがとう。今日、本当に忘れちゃったからすごく助かった」

 声はちょっと震えていたと思う。
 ——本当に忘れてたんだ。
 
 一軍男子の元へ行ってしまったから、決めつけたことを謝る時間はなかった。
 
 すると、非難ではなく嬉しそうな声が聞こえてくる。
 ——いくら本当に忘れてたとしても、教科書くらいで嬉しそうにして単純すぎるだろ。
 いつもより長く感じた学校がようやく終わると思うと清清して、帰る支度を進める。
 ——家帰って勉強しなきゃ。

「『いつも見ててくれたんだ』って嬉しそうだったよ」
「は?」

 席の前に来た明日川がこちらを見下ろしていた。
 ——『いつも見てた』?
 意味の理解に時間がかかり、あやうく思考を放棄するところだった。というか、理解できたときには、放棄してもいい思考だったとちょっと後悔した。
 ——いつもって、意識して見てないわ。

「どういう解釈されてんだよ」
「女の子ってそういうもんなのかもね」

 授業は持ってきていない方が目立つんだから、記憶にないってことは持ってきていたってことだろ。
 ——誰がひとりのことを見るんだ。しかも名前も知らない女子のことを。

「めんどくさ。もう話すのやめようかな」
「かわいそー」

 まったく可哀想じゃなさそうに言う明日川は少し笑っているようにも伺える。
 ——友達じゃないのか?

「おまえ、何考えてんの?」
「えー。俺と話すのも嫌になったかなー? って」

 絶対嘘。確信しているのに、女子のことを可哀想だと本気で思っていなかったことが“誰とでも仲良く”している明日川の看板を微量に剥がしている。それが、俺の興味を誘っていた。
 ——なんだコイツ。
 露骨に目細めて見せる。

「そんな嫌な顔しないでよ。傷つくじゃん」

 特に嫌な顔をしたつもりはないが、明日川はいつも能天気なんだから傷つくなんてあり得ないだろ。

「傷つく? 明日川が?」
「……飛鷹この野郎‼︎」

 飛びかかってきたと思ったら、身体ごと明日川の方へ持って行かれる。
 ——うわ。
 明日川の硬い胸板に背中を打ちつける。

「おい、あすか……」

 俺が抵抗しようとしたところで、女子の声が聞こえすべての力が抜けた。

「え、ヤバ。距離ちか」
「今日が来たことに感謝するしかない」

 こちらをチラチラ見られ、気分が悪い。

「どいて」

 軽い力で明日川を押し返し、腕から脱する。
 ——明日川といるのは嫌いじゃない。けど、これだけはダルいし嫌気がさす。

「おーい。けーーい! 行くぞー」

 ようやく来た助け舟に俺はホッと胸を撫で下ろした。

「呼ばれてるぞ」
「そうだね」

 なかなか動こうとしない明日川の近くまで、助け舟たちが集まってくる。

「おい、みんな待ってる……ってまた飛鷹かよ」

 最近、明日川が俺にご執心なのは、クラス中が知る事実だ。どうでもいいと思っていたけど、明日川を取り巻く人たちに突っかかれるのは厄介すぎる。
 さっさと教室を出ようと、思った時だった。
 席を立ち上がった俺のカバンを掴まれる。
 明日川が俺にとっての助け舟に向かって「うん。そうだよ」とニコリと笑い、落ち着いた口調で言った。
 ——目、笑ってねぇじゃん。
 何事もなかったかのようにこちらへ向き直した明日川は、俺に問う。

「今日の帰り、タピオカ行く?」

 このタイミングで聞かれる意味も、わざわざ愛想笑いをした意味も理解できないけど、とにかくこの場を離れたい。

「行かない」
「えー! なんでー?」
「勉強に決まってんだろ」
「飛鷹はえらいなぁ」

 俺を褒める明日川に返事はせず、他の人たちを無視して教室を出た。この性格で、いざこざが起こってこなかったわけではない。明日川みたいな人は本当に稀だ。
 俺の言葉を素直に受け取る。
 ——勉強するのはもちろん事実だが、それ以上に断りたいだけなのに。
 駅のコンコースを歩きながら、小さな欠伸が出た。
 ——こんな体力削られた学校は初めてだ……
 すると、元気な声が背後から飛んでくる。

「飛鷹っ!」

 振り向くまでもない。声とほぼ同時に、俺の隣まで来たのは明日川だ。
 しかも黒縁メガネに、前髪のピンを外したぼさっとしている方の明日川。
 ——なんで外にいると、この姿なんだ?

「かっこわる」
「ん? 俺に言った?」

 「他に誰がいんの?」と、首を傾けると、空気の含んだ笑いをされた。

「ふっ。あはは……!」
「何がおもしろいんだ。なんでメガネなんかしてんの?」
「いやー、飛鷹のそういうとこが好き」
「答えになってなさすぎる」

 ため息をこぼすと、肩をぶつけてきてもったいぶるように言う。

「……俺って人気すぎちゃうから、隠してんの」

 ——なんだコイツ。
 てか、遊ぶ約束あったんじゃないのかよ。なんでこっちに来てるんだ。

「タピオカは?」
「断った」

 あっさりとした口調で言われ面食らう。
 明日川が断れることなんてあるんだ。
 ——だって、明日川がいなかったらあのグループは……主に女子たちは不満を言うだろう。
 遊びに行くわけでもない俺の横をくっついて歩く明日川に言い放つ。

「俺は帰るだけだ。着いてくんな」
「え? 勉強するんじゃないの?」

 疑いもしない表情をされ、困惑する。

「……家でやるけど?」
「まじかー、一緒にできると思ってきたのにー」

 ——なんで俺を優先するんだよ。

「お前、勉強する気なかっただろ」
「あるよー」

 抑揚のない声で返事され、やる気が感じられない。

「無理がある」
「飛鷹とならできそうだから来たんだよ」
「高三にもなってひとりで勉強ができないとか正気か?」

 明日川は、ムスっとした顔をする。
 ——やっぱり、コイツもみんなと同じで突き放したら結局は俺から離れるんだろう。
 それはそれで、俺が逃げなくてよくなるからいいか。隣を歩きながら、明日川が首を傾ける。

「誰かとやろうって気持ちにはならないの?」
「別にひとりでできるから」

 『ひとりでできないとか正気か』と聞いたのは俺なんだから、当たり前だろ。
 歩く速度を早めた俺に、明日川はすかさず着いてくる。
 ——なんで諦めないんだよ。

「誘ってるの分かんない?」
「分かんねぇよ」

 言葉にしてもらわないと分かんねぇよ。
 でも誘われるのは悪くないと思った。というか、ここまで諦めずに真剣に言われるのは新鮮だった。
 誰かとやるんだったら、図書館とかか? いや、学校に戻った方がいいのか?
 とりあえず、駅から一番近いのは図書館か。
 俺は、改札口ではなく東口と書かれた看板の方へ足の方向を切り替える。

 横を歩いていたはずの明日川がピタリと止まる。
 本当は帰りたかっただけか。
 ——勉強するなんて嘘だったんだな。
 残念な気持ちになるとは思ってなかったけど、なぜか心が重くなった。
 黙ったまま、東口へ向かう。と、すぐに横から明日川に顔を覗き込まれた。

「飛鷹? どこ行くの?」

 ——いたんだ。
 いたんだ……諦めてなかったんだ。
 どこ行くって……そっか。俺、図書館行くって言ってなかった。

「図書館。一緒に勉強するんじゃねーの?」
「……うん!」

 
 図書館の自習室は、非常に静かで言葉通り『一緒に勉強する』だけになっている。もちろんそのつもりだったから良かったのだが、明日川が話しかけないことに拍子抜けした。
 ——茶化しに来たとかではないのなら、まあいい。
 友達とやらと勉強をすると、勉強するつもりだったのに、遊んでしまったというのをよく聞いていたから、そんなことにならなくて良かった。
 自身の勉強と向き合ってしばらくすると、隣に座る明日川のシャーペンが音をなくす。

「飛鷹ぁ。これ分かんない」

 耳元に話しかけてくる明日川に、思わず身体ごと引いた。

「そんなとこでしゃべんな」
「うるさくしたら怒られちゃうでしょ?」

 当たり前なことを明日川に言われるのがちょっとムカついた。

「じゃあ図書館で勉強すんじゃねーよ」
「違うって」

 明日川は机に置かれていた注意書きを指差す。注意書きには『静かにしましょう』『通話はお控えください』と、何の変哲もない紙。しかし、その最下部には、『教え合いは小声でお願いします』と記載されている。
 静かにする場所で小声は大丈夫とか、矛盾してるだろ。とツッコミたくなったが大丈夫と施設側が言っている以上、断る理由はなかった。

「このくらいの音量なら大丈夫でしょ?」
「……何がわかんない?」

 覗き込んだワークノートには、物理の公式が明日川の筆跡だと思われる文字で所狭しと書かれてある。

「何これ……」
「覚え、きれなくて……」
「覚えきれないからって……っ」

 初めて見る勉強法に言葉を失った。さすがに、このやり方は理解しきれないだろ。
 ——ひとつひとつ確認していくしかないか。

「この問題で使う公式どれか分かってんの?」
「ん? これ?」

 指さした公式は、全く別の問題に使うものだった。その上、俺が提示した問いは基礎問題であり、一年生で習った範囲だ。

「……授業で何聞いてんの?」

 開いた口が塞がらない。
 俺は一年生のときに習った範囲である基礎の基礎を教えた。自習室という空間で話し続けている感覚は、後ろめたさがあったものの、教え合うのは大丈夫ということを盾にした。

「はい、正解」

 一問、俺の助言なしで答えまで辿りついたうれしそうにする明日川の表情になぜか、心がくすぐられる。
 よく女子にも勉強を教えてほしいと、せがまれることはあった。面倒だとは思いながら、教えるのも自分の勉強のうちだと何度かは教えた。
 しかし途中から無駄な質問をされ、嬉しそうに俺しか見てないことに気づいてからは誰かに教えることはしなくなったのを覚えている。
 今回だって、教えても一問だけのつもりだった。
 ——すぐに根を上げると思ってたのに真剣に考えてくれるし飲み込みも早い。
 だから、見開き分の量を教えていたのに気づいたのは五時のチャイムが鳴ってからだった。

「ごめん、邪魔したよね? でもめっちゃ助かった!」
「いや、いいよ」
「ありがとう。飛鷹」

 それよりも、俺は睡魔に襲われていた。
 ——やば、眠い……
 人に教えるのって、ひとりで勉強するより体力使うんだな……。それに本当は家でやろうと思ってたから、いつでも横になれると思って油断していた。
 俺の頭が、上下にゆらゆらと揺れる。

「飛鷹? 眠い?」
「……ねっむい」
「今なら俺が起こしてあげられるよ」
「いや。寝ないからいい」

 強気になったが、普通に眠い。
 俺は「やっぱ寝るわ。十分したら起こして」と、ひと言だけ言い残して即座に顔を伏せた。

「チッ……ほんとに意識してねーの」

 ——え?
 今なんて言った?
 俺は頭を起こさず声だけ出す。

「舌打ちとか似合わねーな……」
「起きてんだ?」

 ——そんなすぐ寝れるわけ……ない。
 それでも目を全開にすることはできず、薄目を開けた。視界に映ったにっこりと笑う明日川は、それ以上のことは話してくれない。
 俺の眠気も限界で、眠ってしまった。

「飛鷹。十分経ったよ」

 ほんの十分で完全に寝れた自分に驚いた。そして、寝起きに出てきた自分の言葉にも驚かされる。

「……んで、舌打ち、したんだ……?」

 ——気にしなくて良いはずなのに、なんで聞いてるんだ。

「気のせいでしょ」

 あからさまな嘘をつかれても、問い詰める気にはなれない。俺が返事をせず勉強に戻ると、明日川は解散するまでひと言も話さなかった。
 ——なんだコイツ。
 俺の中で、単純なやつという印象から遠ざかってく明日川から『なんだコイツ』と、間違い探しをしている気分になり始めていた。