『ずっと』一緒にいる約束を。

*

 慶が置いて行った空になったシャンプーをゴミ箱に向かって投げる。しかし、シャンプーボトルは、ゴミ箱の淵に当たるだけで床に弾かれていった。中身はほとんどなかったから使い切るまでにそう時間は掛からなかった。
 ——一週間くらいか。
 できるものならもう一度、慶に振り向いてほしい。
 怖がりで情けない部分を言えなかったってなんだよ。
 本当は俺がなんでも聞くから、呆れてしまったのだろう。どうすればいいか、悶々と考えても答えが出なくて苦しい。

 ふいと時計を見やる。
 ——十六時半。
 まだ夕方だが、バイトが急遽なくなったせいで風呂まで入った。
 ——毎年、慶のケーキで祝ってきた俺の誕生日を、ひとりで過ごすのが嫌だったからシフト入れたのに。
 それを知ったとある人物が、俺の家に行くと言って聞かなかった。
 そろそろ来るか。チャイムの音に、垂れる水滴を無視してインターホンへ駆け寄る。カメラに映ったのは——夏衣くんだ。

「本当に来るんだ」
「そりゃそうでしょー」

 俺が夏衣くんを家に入れるのは初めてではない。
 慶と別れてから一日もしないで、大学生になった夏衣くんがやってきたのだ。どこから住所を知ったのか、わざわざ東京の俺の家に来る理由がなんなのか。聞いたところで、なんでわかんないの? と、苦笑いされるだけだ。
 住所は、慶から聞いたと考えるのは妥当だ。しかし、片道二千円近い交通費を払ってまで俺のところへ来る意味はいつまでも理解できない。

「もう風呂ったの? 兄貴の匂いがする」

 今日で使い切ったのに、鼻を利かせた夏衣くんに改めて言われ俺は奥歯を噛み締めた。
 ——二十一の誕生日に使わなければよかった。
 きっとこれからの誕生日に毎回思い出すのはケーキを食べた思い出ではなく、元カレのシャンプーを使い切ったことだろう。
 俺が、小さくため息をこぼす横でマイペースに人の家の冷蔵庫を勝手に開ける夏衣くんが、「シュークリーム買ってきたから置いとくね」と、開けなくてもいい冷凍庫まで開いた。

「そんなとこまで見ないでよ」
「……ひとり暮らしなんだからちゃんと食べてるか確認しないとー!」

 夏衣くんに観察されているという感覚は、俺の中でなくならない。
 ——気にしても仕方ない。
 俺はゴミ箱に入らなかったシャンプーボトルを拾い上げ歩いて、今度はしっかりとゴミ箱に入れ込んだ。

「夏衣くん」
「なにー?」
「なんでここに来るの?」

 決して安くない交通費。元カレの弟。理解できないんだ。夏衣くんは、キッチンからゆっくり帰ってきて、棒立ちする俺の前に立った。大学生になった夏衣くんの身長は、高一のときから伸び続け俺よりも、慶よりも十センチは高い。

「兄貴が優しかったのは、渚生くんがいたからなんだ。自分から振っておいて、無愛想な兄貴に戻っちゃった」
「でも、それが素なんだろ? 俺に対して無理してたんだから」

 慶は、俺に嫌われるのが怖くて無理をしていた。夏衣くんは、眉を八の字にして困り笑いをする。

「本当にそう思ってる?」
「え?」
「確かに、無理はしてた。だけど、家でまで無理する理由はなかったはずなんだよ」
「家でも?」
「そう。ずっとうれしそうだった。渚生くんの前での姿が全部嘘だなんて思わないであげてよ。本当に一途で、後悔してるはずなんだ」
「後悔……」
「お節介なのは分かってる。というか、俺が同じ立場だったら、こんなことされたくないし……」

 静かなワンルームにはスマホのバイブ音さえも大きく聞こえる。夏衣くんのスマホだ。
 スマホをポケットから出そうとしないまま、俺に向き合う夏衣くんに「取りなよ」と言い放った。しかし夏衣くんがゆっくりと、机に腰をかけて話を続ける。

「兄貴に聞いたんだ。『なんで別れたの?』って」
「……俺が全部聞いちゃうからでしょ」

 夏衣くんが首を横に振る。

「『釣り合わないから』だって」

 ——は?
 釣り合いってなんだよ。
 どっちが? 何が?

「意味、分かんないよね。俺も意味わかんなくて『どういうこと?』って聞いた」
「なんて……?」

 聞くのが怖いけど、慶のことは聞きたかった。

「『渚生って素直で、素直になれない俺にはもったいない』って」

 俺に嫌われるのが嫌なだけじゃなかったんだ。もちろん、それもあるだろうけど。
 おかしいと思ったんだ。俺だってハッキリ言う性格だ。嫌うとかありえない。多分、俺の性格がぶつかることを分かっていたから、愛嬌で隠してたんだと思う。その結果、慶の言う、怖がりで情けない部分を言ってもらうことができず素直になれなかったということか。
 ——俺は高校生のときに……いや、ずっと慶に我慢し続けさせてしまった?
 ハッキリ言い合っても慶の明るさが緩衝材のような役割になっていた。いや、色んな言葉を飲み込んでいたのかもしれない。
 ——それを自分のせいとか……俺のせいだろ。

 すると、また夏衣くんのポケットに入れられたままのスマホがバイブする。
 今度は、夏衣くんが腰をかけていることで、机を伝い、より大きな音がした。

「出なよ」

 今は渚生くんといるのに、と渋々スマホを取り出す。
 夏衣くんの生唾を吞み込む音が聞こえた。

「誰?」

 聞いていいか悪いか夏衣くんの表情の曇り方で、悪い方だというのが察せれた。
——嫌な予感がする。
夏衣くんが唇を振るわせながら、小さくこぼす。

「……総合病院…………」

 ——は?

「早く出て‼︎」

 咄嗟に俺が応答ボタンを勝手に押し、夏衣くんの耳にスマホを押し付けた。
 ——緊急以外でかかってくるはずがない。

「はい……そうです……緊急連絡先に?」

 ところどころ、会話の断片を耳が拾う。

「……兄です」

 ——兄? ……慶…………?
 慶がどうしたの?
 鼓動が早くなり続ける。
 それは、夏衣くんが電話を切ってからさらに増した。

「渚生くん、兄貴が……! にいちゃんが‼︎」

 取り乱す夏衣くんが、脱力して地べたにへたり込む。
 俺の支える手も震える。電話の声までは聞こえなかったが、慶が病院にいるという事実。
 落ち着け。
 身体を揺らすほどの爆音で心臓がバクバクと鳴っている。
 ——落ち着けるわけないだろ。
 俺はもう彼氏じゃない。だけど、俺にとって、慶は誰よりも大切なひと。

「病院どこ? 車出すから、行こう」

 病院は、車を走らせて十五分もしない場所にあった。
 道中、助手席でわずかな声をさせながら夏衣くんが電話の内容を話してくれた。
 慶がバイクの配達中に事故にあったらしい。意識はハッキリしているが、搬送されたため、病院側から電話がかかってきたと言う。
 受付で、名前を言ったらあっさり通される。
 ——ほんとうに……
 夏衣くんは足早に先を行く。逆に俺は、どこまでついて行っていいのかわからず、少し足が重い。
 勢いをつけて扉を開けた夏衣くんを見つけた慶が口を開いた。

「夏衣きたん……渚生……」
「黙って兄貴。渚生くんが送ってくれたから俺が来れたんだから」
「そ」

 無愛想になる慶に対して、なんで俺が来たらダメなの? と。少し前の俺だったら言っていた。でも、もう言わない。

「夏衣くん。俺、外で待ってるね」

 本当なら、ここで慶に問い詰めたい。なんで? どうして? って。
 でも、ずっと後悔してた。
 慶が無理して話すくらいだったら、静かに俺は待つ。待つ……待てると思っているのに、心の奥底では慶と話したいと騒いで仕方ない。
 程なくして出てきた夏衣くんが、入っても大丈夫だよと、声をかけてくれる。俺は遠慮ができなかった。
 ——話し方は他にあるはずだ。
 俺は慶しかいない部屋へ、入って行った。上半身を起こしている慶は、俺を一瞥した。拳をキュッと握り締め、慶をまっすぐに見る。

「配達の途中だって聞いた」
「うん」
「配達って……東京は対象区域なわけないだろ」
「うん」

 結局、俺の口調は強くて、責め立てるような言い方しかできていない。
 ——違う。もっと伝えたいことがあるはずなのに。
 どうして東京まで配達してたの?
 それでも思考は俺の疑問ばかり浮かぶ。俺が疑問いっぱいになっていることは慶にバレていると思う。だから続けて声を発したのは慶だった。

「それだけ?」
「……っ」

 俺が口を結ぶと、慶は目を細めてこちらへ向いた。

「今更何?」

 ——今更?
 聞き返しそうになった。『今』だからだよ。事故って聞いて、焦りまくって配達なんてなければって思った。だけど俺が言える立場ではないし、仮に恋人でも言えない。
 ——慶が配達したときのお客さんの笑顔が好きだとうれしそうにしている姿が好き。
 俺には、他人の笑顔を見たいと思ったことない。でも、慶の笑顔は見たい。
 ——好きだから。

「ケーキ屋としての使命なんて知らないよ」
「やめろって? 彼氏でもないのに傲慢だね」

 傲慢だよ。俺が傲慢なのは、こんなとき隣にいたいと思ってること。緊急時に一番最初に電話がかかってこなかったこと。
 ——きっと、夏衣くんがいなかったら、ここに来れてないし知らないままだった。
 ただ、シャンプーの香りに俺の引きずってる思いを絡ませるだけだった。

「うん。彼氏じゃないし血縁関係もないし……傲慢なんて分かってる! だから、やめろなんて言わない。それに、喜んでる顔が好きだって言ったのに、やめろなんて言うわけないだろ? 耳まで悪くなったのかよ」

 一気に放った言葉に息を切らす。

「……じゃあ、何?」

 本当に俺は傲慢なんだと思う。
 小さな深呼吸のあとに、震えそうになりながら声を絞り出した。

「緊急連絡先、俺にして」

 慶が目を見開く。今日、俺の前で初めて表情を変えて言う。

「なんで」
「電話はすぐに取るし、駆けつける。かかってこないことが理想だけど、ね」

 俺は、短い深呼吸をして声を絞り出す。

「どんなことがあっても一緒にいたい。冷たい慶が嫌だなんて、どこの誰が言ったのか知るわけない。けど、俺は言ってない‼︎‼︎」

 慶がまた瞳を大きくする。

「俺は、慶だから好きになれた。ハッキリ言葉にする慶が……俺に嫌われたくなくて頑張っちゃう慶が好き。でも、我慢はさせたくない。素直に言ってほしい……もう一度俺と恋人になってほしい」

 にわかに笑った慶に思わずキスをした。
 ——好き。
 一瞬口を離したその刹那も逃さない。

「しょ……!」

 名前を呼びかけられても、俺の熱は冷め切らず、首の傾きを変えてもう一度、半ば強引にキスをすると慶のゴツゴツとした手に引き剥がされる。

「付き合うのは保留」
「えっ」

 情けない声が出た。
 ここまでしといて? 付き合う流れじゃん。
「好きじゃなくなったとは言ってないんだけど」と言う声は、俺の耳に届いていた。恋人という糸が解けたままでは不安でたまらない。
——保留するくらいなら……

「まだ怖いから」
「……うん」
「大丈夫。俺らしく話せるときまで待ってよ」

 慶は静かに口角をあげる。
 きっと、高校生の慶なら無理やり笑っていた。二年とちょっと付き合って初めて知るなんて、最低かもしれないが、それでもありのままの慶を前にして俺は腹の奥がむず痒い。
 ——俺がもう一回、恋してる感覚だ。

「渚生は我慢するな」
「してな……」
「さっきから、飲み込んでる言葉あるだろ」

 ある。あるけど、言ったら慶とぶつかるだけで良いことなんて……それを分かっていたから慶が無理したんだろ。

「喧嘩してもいいかもね。多分俺の性格と渚生の性格だと衝突しかしない」
「うん……」
「ちゃんと、話をしよう。俺は渚生と、ずっと色んな話がしたい」

 ——好きって言われてるみたいだ。
 未来のことを考えてくれている慶にキュウと胸が鳴った。

「話す。たくさん」
「うん」

 高校生のときに我慢し続けていた慶が素直に言葉をこぼす。

「渚生」
「うん?」
「教室でもっと渚生とすごしたかった」
「……うん」
「文化祭、一緒に回りたかった」
「うん」
「勉強だけじゃなくて、通学路っていう狭い範囲で寄り道をしてみたかった」
「……ごめん」
「あの時しかできなかった未来の話はうれしかったけど、高校生でしかできなかったその一瞬の話ももっとしたかった」
「うん……」

 ——本当に、高校生という短くて長い期間に、無理させていた自分が情けない。
 でも、素直に言ってくれていることがうれしかった。
 俺が、慶に謝るために口を開いた瞬間だ。
 慶の人差し指がツンと、俺の唇を触れる。

「謝るの禁止」
「慶……」

 ふわりと笑顔になり柔らかい空気を纏った慶が言う。

「渚生。ずっと一緒にいたいから言ったって分かんない?」
「……分かってる」

 最初で最後の失恋のはずだったのに、最初の文字が掠れていく。
 『ずっと』一緒にいる約束から再開した俺たちの恋は始まったばかりらしい。
 ぶつかりあっても高校生のときにやりきれなかった青春を。もう一度————