*
《今日家行く》
バイト終わり真っ先に開いたスマホにひと言だけのメッセージが届いていて、顔がにやける。
ひとり暮らしをしているマンションの一室。八畳ほどの広くはない部屋には机と椅子が無機質に設置され、壁沿いにセミダブルのベッドが置かれているだけの部屋。机はダイニングテーブルだが、二人で軽い食事をとるのがギリギリな程度のものだ。俺はそこに指紋ひとつないワイングラスをふたつ置いた。
この部屋には、仕事終わりの慶が来ることは多い。
慶は二年間の製菓学校を終え、この春に実家のケーキ屋に就職した。実家だからといって甘くないらしく、来るたびに文句を垂れている。もちろん、文句だけではない。
バイクの免許をとった慶は、配達もしている。そのため、目の前でケーキを受け渡す時の笑顔を見たいからパティシエとしての仕事もできるんだと言っていた。その度に、頑張っているんだなと、俺まで気が締まる思いで話を聞いていた。加えて、うれしそうに話す慶の笑顔が好きだ。
——今日はどんな話をしてくれるのだろうか。
慶が来るなら、少し良いワインでも開けながらケーキでも食べれる。
少し良いと言っても、バイト代で払える程度はたかが知れていた。ぶどうの味がハッキリしているのに、舌に残る渋さ。そんなワインを慶は一番おいしいと毎回言ってくれる。
チャイムの音に、俺は自分の身なりを玄関近くの洗面台で最終確認して扉を開け放った。
長かった前髪は相変わらず、不器用に頭頂部で留められている慶の変わらない姿がいる。
「お邪魔します」
慶は、ワインのつまみになるものをいくつか持ってきてくれていて、それを小さなダイニングテーブルに置いて椅子に腰掛けた。
普段なら来た瞬間から話し出すのにワインを、ふたつのワイングラスに注いでチミチミと飲み出す。そして静かに「飲も」と、俺を椅子へ促した。俺の家なのに、家主が慶だと勘違いしそうになるくらいスマートで苦笑いする。
「どうしたの?」
しかしその苦笑いを、一瞬にして消し去ることを慶は言い放つ。
「……店を継がなくていいんだって」
「え?」
確か、実家に就職する過程で店に入りたいんだったら応募からしろと言われて、慶は素直にそれに応じた。
家業の知識とかはまったくない俺は、しっかりしてるんだなーくらいにしか思っていなかったが、もとより継がせる気がなかったとは考えもしなかった。
「雇用は普通に従業員扱いだから特別な待遇とかない。今日で研修終わりだったから正式に雇われたんだ。その時に数人の同期と同じように入社書類を書いた。もっと早く気づくべきだったよね」
四月の入社初日に五人ほどいたと聞いた時に驚いた。代々継がれてきた店が、突然何人も雇うということは事業を拡大しようとしているのだろう。少数精鋭の個人店だったら新入社員がひとりいるだけでも驚く。
「気づくって……継がないんだったらやりたくないのか?」
「……そんなわけないだろ」
「慶……どうして継ぐって言わなかったんだ?」
純粋の疑問だった。
高校生の頃の慶は、ケーキ屋を仕方なく継ぐという印象。今の慶は継ぎたいのに継がせてもらえないことに焦っているように見える。
慶は、ワイングラスに入った微量の赤ワインを静かに飲み干す。
「話して、こんな慶嫌だって言われたらどうしようか」
「は? 継ぐという意思を嫌ってなんだよ」
「だよね。でも、俺は話す時とき、怖くて仕方ないんだ……」
話すのが怖い?
なんの話だ?
「好きって言ってただろ」
「そうだね。話せてたから」
「でも」
「渚生は、俺があの日……自販機の前で会ったうちの不良の方だって言ったらどうする?」
「どうするって……どういうことだよ」
慶から発せられるありのままを疑った。
あれは兄弟喧嘩だったこと。話すのが好きじゃなかったこと……俺のひと言が、救いになったこと。そのあとから話すのが大丈夫になったけど、俺に嫌われるのが怖くて慶は愛嬌を作っていたこと。
「俺の前では無理してたってこと?」
「……」
「しゃべってよ!」
「俺、言葉使えないから」
慶が救われたはずの言葉が今度は呪いになって返ってきた。ズンと、胸が重くなる。
——痛い。
慶はいつも俺の前では愛嬌を作り、みんなの前でも自分を押し殺してきた。
素を見せられないくらい信頼されていなかったってこと?
——嫌うわけないだろ。
「ハッキリ言うのは嘘じゃないよね?」
「うん。それが俺の性格だ」
「俺は嫌わない。むしろそういうところが好きって……」
「そうだって言ってたね。でも話すよりももっと根っこの部分には、話したら『こんな慶が嫌だ』とか嫌われるのが怖くって、感情に身体が動かされてしまうくらい怖がりで情けないものが眠っているんだ。それを言えなかった俺のせいだ」
「慶のせい? な、に言ってるの?」
「……好きだよ。渚生」
目線が合わないまま慶が、クローゼットの中にあった衣装ケースを開け俺の家で着ていたスウェットを引っ張り出す。
「何してんの?」
「持って帰る」
「なんで?」
俺の問いに答えない慶が答えてくれない。
「……別れよ」
「な、んで……?」
人の気持ちは考えても答えがなくて、聞けば早い。そう思っていた。慶のハッキリと言ってくれるところもしつこいところも好き。というか、慶だから好きだった。他の人は、俺の性格を知ってすぐ離れるから。でも慶は違ったんだ。
パタンと閉まった扉から俺が追いかけることはなかった。
「慶…………」
扉の前でうずくまる。
——『慶のせい』ってなんだよ。
《今日家行く》
バイト終わり真っ先に開いたスマホにひと言だけのメッセージが届いていて、顔がにやける。
ひとり暮らしをしているマンションの一室。八畳ほどの広くはない部屋には机と椅子が無機質に設置され、壁沿いにセミダブルのベッドが置かれているだけの部屋。机はダイニングテーブルだが、二人で軽い食事をとるのがギリギリな程度のものだ。俺はそこに指紋ひとつないワイングラスをふたつ置いた。
この部屋には、仕事終わりの慶が来ることは多い。
慶は二年間の製菓学校を終え、この春に実家のケーキ屋に就職した。実家だからといって甘くないらしく、来るたびに文句を垂れている。もちろん、文句だけではない。
バイクの免許をとった慶は、配達もしている。そのため、目の前でケーキを受け渡す時の笑顔を見たいからパティシエとしての仕事もできるんだと言っていた。その度に、頑張っているんだなと、俺まで気が締まる思いで話を聞いていた。加えて、うれしそうに話す慶の笑顔が好きだ。
——今日はどんな話をしてくれるのだろうか。
慶が来るなら、少し良いワインでも開けながらケーキでも食べれる。
少し良いと言っても、バイト代で払える程度はたかが知れていた。ぶどうの味がハッキリしているのに、舌に残る渋さ。そんなワインを慶は一番おいしいと毎回言ってくれる。
チャイムの音に、俺は自分の身なりを玄関近くの洗面台で最終確認して扉を開け放った。
長かった前髪は相変わらず、不器用に頭頂部で留められている慶の変わらない姿がいる。
「お邪魔します」
慶は、ワインのつまみになるものをいくつか持ってきてくれていて、それを小さなダイニングテーブルに置いて椅子に腰掛けた。
普段なら来た瞬間から話し出すのにワインを、ふたつのワイングラスに注いでチミチミと飲み出す。そして静かに「飲も」と、俺を椅子へ促した。俺の家なのに、家主が慶だと勘違いしそうになるくらいスマートで苦笑いする。
「どうしたの?」
しかしその苦笑いを、一瞬にして消し去ることを慶は言い放つ。
「……店を継がなくていいんだって」
「え?」
確か、実家に就職する過程で店に入りたいんだったら応募からしろと言われて、慶は素直にそれに応じた。
家業の知識とかはまったくない俺は、しっかりしてるんだなーくらいにしか思っていなかったが、もとより継がせる気がなかったとは考えもしなかった。
「雇用は普通に従業員扱いだから特別な待遇とかない。今日で研修終わりだったから正式に雇われたんだ。その時に数人の同期と同じように入社書類を書いた。もっと早く気づくべきだったよね」
四月の入社初日に五人ほどいたと聞いた時に驚いた。代々継がれてきた店が、突然何人も雇うということは事業を拡大しようとしているのだろう。少数精鋭の個人店だったら新入社員がひとりいるだけでも驚く。
「気づくって……継がないんだったらやりたくないのか?」
「……そんなわけないだろ」
「慶……どうして継ぐって言わなかったんだ?」
純粋の疑問だった。
高校生の頃の慶は、ケーキ屋を仕方なく継ぐという印象。今の慶は継ぎたいのに継がせてもらえないことに焦っているように見える。
慶は、ワイングラスに入った微量の赤ワインを静かに飲み干す。
「話して、こんな慶嫌だって言われたらどうしようか」
「は? 継ぐという意思を嫌ってなんだよ」
「だよね。でも、俺は話す時とき、怖くて仕方ないんだ……」
話すのが怖い?
なんの話だ?
「好きって言ってただろ」
「そうだね。話せてたから」
「でも」
「渚生は、俺があの日……自販機の前で会ったうちの不良の方だって言ったらどうする?」
「どうするって……どういうことだよ」
慶から発せられるありのままを疑った。
あれは兄弟喧嘩だったこと。話すのが好きじゃなかったこと……俺のひと言が、救いになったこと。そのあとから話すのが大丈夫になったけど、俺に嫌われるのが怖くて慶は愛嬌を作っていたこと。
「俺の前では無理してたってこと?」
「……」
「しゃべってよ!」
「俺、言葉使えないから」
慶が救われたはずの言葉が今度は呪いになって返ってきた。ズンと、胸が重くなる。
——痛い。
慶はいつも俺の前では愛嬌を作り、みんなの前でも自分を押し殺してきた。
素を見せられないくらい信頼されていなかったってこと?
——嫌うわけないだろ。
「ハッキリ言うのは嘘じゃないよね?」
「うん。それが俺の性格だ」
「俺は嫌わない。むしろそういうところが好きって……」
「そうだって言ってたね。でも話すよりももっと根っこの部分には、話したら『こんな慶が嫌だ』とか嫌われるのが怖くって、感情に身体が動かされてしまうくらい怖がりで情けないものが眠っているんだ。それを言えなかった俺のせいだ」
「慶のせい? な、に言ってるの?」
「……好きだよ。渚生」
目線が合わないまま慶が、クローゼットの中にあった衣装ケースを開け俺の家で着ていたスウェットを引っ張り出す。
「何してんの?」
「持って帰る」
「なんで?」
俺の問いに答えない慶が答えてくれない。
「……別れよ」
「な、んで……?」
人の気持ちは考えても答えがなくて、聞けば早い。そう思っていた。慶のハッキリと言ってくれるところもしつこいところも好き。というか、慶だから好きだった。他の人は、俺の性格を知ってすぐ離れるから。でも慶は違ったんだ。
パタンと閉まった扉から俺が追いかけることはなかった。
「慶…………」
扉の前でうずくまる。
——『慶のせい』ってなんだよ。



