Q.親友のブラコン兄弟から敵意を向けられています。どうすれば助かりますか?

「じゃあ、最初は話してた通りさっさと宿題終わらせちゃおっか!」

「う、うん、そうだな……早く終わらせような……」

 自室の中、ラグの上に座り、上機嫌でノートとテキストを机に広げる楓真。固い声で答える俺。
 楓真の部屋の中とはいえ、背中に冷たい緊張が走っている。それは、強い警戒心だけからではない。

 部屋の中に、弟の陽真くんが居るからだった。椅子に腰かけ、何か難しそうな本を読んでいる。

 なんで。どうして。俺が嫌だから自室に逃げ込むものじゃないのか。ああいや、あれか。絶好の監視チャンスだからか。可愛い兄にどんな不埒な考えを持っているか、向こうは危機感を抱いているのだろう。

 俺、そんなことしないよ。信じて。頼むから。

 切実な想いを視線に乗せて、弟くんをちらりと見る。瞬間、こちらを見ていたらしい彼と、ばちりと視線が合った。何故か慌てたように口が開かれる。

「いつも楓真兄さんの部屋にいるので!」

「あっうんはい! ごめんなさい!!」

 なにが!? いきなりなんでそれ言われたの!?

 混乱する頭で反射的に謝罪すれば、陽真くんはまたどこか焦りを含んだ様子で口を開いた。

「別に貴方に会いに来たわけじゃないですからね!!」

「わかってます!!」

 なるほど、不愉快な勘違いをされたと思われたらしい。してないから許してください。

 今だけは、運動部並みの声量が出た自信がある。サッカー部でも入ろうかな。やっぱやめよう、運動は平凡どころかむしろちょっと下レベルだし。

「あはは、元気だね!」

 楓真があどけなく笑う。確かに今日は元気かもしれない。それくらい必死なんだよ。

「じゃ、がんばろー!」

「お、おー……」

 なんとか絞り出した自分の声は、酷く情けなく聞こえた。

 ***


「うーーーーーん……わかんない……」


「……俺も、わかんねー……」


 無理。本当に無理。毎度のことだが、数学は答えを見てもなにも道筋が理解できない。魂がもう拒否しているのがわかる。俺は生粋の文系なんだ。
 だが、来週の授業までに問題集を解かないと教師に嫌ってほど怒られるだろう。なにより、テストが近づいている。今のうちに課題を解いて理解しておかないと──とは思いつつ。

「もうやだー……終わらない……」

「……もう無理だ。答え写すしか……」

 呻きにも似た声をふたりで出して。だらりと揃って机に突っ伏して。なんだか間抜けな姿に笑いが漏れる。
 諦めて赤ペンを持ち、解答集を手にしたときだった。

「──ここ、違います」

「へ」

 横から伸びた、すらりとした指。ノートに書かれた数式を指さす。俺の大嫌いな数学IIの三角関数。うろ覚えの知識で書いたそこは、やはり最初の段階で間違っていたらしい。

 いつの間にやら、傍で見ていたらしい。突然の助け舟に呆けていれば、彼は楓真の方も見て唇を開いた。

「楓真兄さんはここ。ケアレスミスだから、見直せば大丈夫ですよ」

「っわ、ほんとだ! ありがとう、陽真!」

 打って変わって表情を明るくさせて、問題を解き進めていく。
 くるり、とこちらへ改めて向き直った陽真くんは、考え込むように顎に手を当ててからまたそこを指さした。

「茂部さんのは……うーん、図を描いたほうがわかりやすいですよ。θの範囲が0から2分のπですよね。だから……ああ、テキストが──」

 教科書の該当ページを開きながら、すらすらと解説を進めていく。しかし早すぎて俺が追いつけない、なんてことはなく、適度なスピードで。スポンジが水を吸うように、知識が頭へ入るのがわかる。……なんてわかりやすいんだろう。
 学校の先生すら匙を投げるだろう理解力の無さを誇る俺に音を上げず、「ね?」と時折こちらを見上げ、確認しながら進めてくれて。

「……俺が、問題を解けた……!?」

 優秀な陽真くんの力を借りたうえで、だけれど。それでも、偉大な一歩だ。しかも多少、理屈を理解出来た感覚が残っている。確かにこれは、解けたら気持ちが良い。
 感動に震えていると、楓真が笑い声をあげる。

「あはは、大袈裟。でも茂部くん、数学苦手だもんね」

「大袈裟じゃないって! うわ、陽真くんすげー!」

「っふふ。なんなら他のところも──」

 伏せられた睫毛が、ゆっくりと瞼とともに動いて。猫のような、大きなつり目がちの瞳がこちらを見上げた。そこで気づく。俺たちは、随分距離が近づいていたらしい。

 彼が、猛烈な勢いで後ずさる。目を見開いたまま、矢継ぎ早に言葉を繋いだ。

「っ、別に! 少し勉強してたところってだけで!」

「はい!!」

 反射的に大きな声で返事していた。どうも俺は調子に乗りすぎていたらしい。

 でも、だけど。学習範囲でないところを、他人にわかりやすく説明するなんて。自分の得意教科ですら俺はそんなことできない。
 本当に感謝しないといけない。彼の努力と、時間を割いてくれたことに。そうでなければ、俺の気が済まないのだ。

「……でも、すごいよ。だってここ、陽真くんたちからしたら相当先の分野でしょ? 頑張ってるんだね。俺も頑張らないと」


 ありがとう。


 目を見つめて、感謝を述べる。

 すごい。本当に。俺の年下とは思えないくらい。むしろ年上なのではないかと思うほど勉強ができるし、落ち着いている。
 彼の前では背筋が伸びるのは、楓真のことがある緊張からだけではない。陽真くんの凛とした、自分よりしっかりとした人であるというオーラがそうさせるのだ。

 すると。

「……っ、ど、どういたしまして。たいしたことないです、けど。……僕ができるところでいいなら、いつでも……教えます」


 え。


 その頬は、少しだけ色づいているように見えた。部屋が暑い、わけではない、と思う。
 それになにより、今。勉強を教えてくれると、そう言ったのか。しかも、いつでも?

 いつにない態度に心が震える。

「そうだ、陽真。もうちょっと教えてよ、他の課題もあるんだ」

「もちろん、兄さん。……茂部さんも、わからないところがあったら教えてください」

 その口角は、僅かに緩んでいる、ように見えて。

「っ、う、うん……!」

 ちょっとだけ、開いた距離が近づいた、気がした。
 この後、せっかく優秀な陽真くんに教えて貰えるのなら。という動機から、なんならテスト範囲も──と、勉強にかなり時間を費やすことになるのだった。