チョコレートの香りが鼻先をかすめる。
香りの源はチョコレートではなく、花瓶に活けられた臙脂色の花だ。
花の名前はチョコレートコスモス。
名前のとおり、この花はチョコレートみたいな香りを淡く放つ。オレンジを焦がしたような花瓣の色も、チョコレートに少し似ている。
七塚緑は、花瓶に活けたばかりの花をながめた。
教室の入り口に小さな棚がおかれている。花瓶はその上に飾られている。埃をかぶったままになっていたのを緑が洗い、家から持ってきたチョコレートコスモスを活けたのだ。
いつもはうるさいくらいににぎやかな2―Aの教室は、しん……と静まり返っている。教室にいるのは緑ひとりだ。
いつもより四十分も早く登校してきた甲斐があった。おかげで誰にも見られずに花を飾ることができた。
緑は、花をながめながら満足げに微笑んだ。
クラスメートの誰ひとりとして目にしたことのない笑顔。見ているのはチョコレートコスモスだけ。
緑の笑顔は笑顔に見えないらしく、笑っているのに怖いとよく言われる。人前で笑うのをやめたのは、まだ小学生だったころだ。
緑が笑顔を向けるのは、家族と植物だけだった。
家の庭に咲き始めたチョコレートコスモスを見ていたら、教室に花瓶があるのに花を活けないのはもったいない、と思ってしまった。
花を飾ればクラスメートたちも喜んでくれるのでは、とも。
だからといって、花を持っている姿をクラスメートには見られたくない。緑が花を抱えて登校し、おまけに放りっぱなしになっていた教室の花瓶に活けたりしたら、クラスメートたちは仰天してひっくり返るだろう。
緑はいわゆる不良だった。
不良になりたくてなったわけじゃない。
三白眼と逆八の字の眉のせいで、中学生のころには不良のレッテルを貼られていた。口下手なのも原因のひとつだったかもしれない。
万引き、カツアゲ、サボリ、喫煙、飲酒、校舎の窓を割ったり、教師や生徒に暴力を振るったり、そんな真似は一度だってしたことがないのに。
どちらかと言わずとも、真面目に生きてきたつもりなのに。
しかたがない。呪うのなら己の目つきの悪さを呪うしかない。
クラスメートの誰も知らないが、緑は不良からほど遠い性格をしている。
内気で、小心者で、いたって大人しい。おまけに趣味といえばお菓子作りとガーデニングだ。このチョコレートコスモスも、緑が種から育てたものだった。
実は僕は不良ではなく、内気で大人しい、女の子みたいな趣味を持った男なんです、とクラスメートにぶちまけてしまいたくなるときがある。
しかし、緑は不良を装い続けている。制服のネクタイを外し、シャツのボタンは上からふたつ目までは止めないで、髪はワックスで逆立てるようにして整えている。
こんなのはちっとも緑の趣味ではなかったが、不良としては校則をしっかり守るわけにはいかなかった。
できあがったイメージを覆して、クラスメートたちを驚かせるのは申し訳ないと思ってしまう。
それに、クラスメートたちが緑の実態を知ったらどう思うか。
きっとドン引きされる。
気持ち悪いって言われる。
後ろ指をさされてくすくす笑われる。
だったら、不良だと誤解されているほうがまだマシだ。
緑は教室の時計を見上げた。時刻は七時半。始業までまだ一時間もある。
屋上かどこかで時間をつぶそう。そう思って爪先をドアに向けたときだった。教室のドアががらりと開いた。
どくっと心臓が跳ねる。
こんな時間にいったい誰だ――
入ってきたのは長身の緑よりも更に背の高い少年――高落靖介(たかむら せいすけ)だった。
「七塚――どうしたんだよ、こんな時間に学校にくるなんて」
靖介はびっくりした顔で緑を見つめた。
それはそうだろう。部活に入っているわけでもないのに、こんな時間に登校してくる生徒はいない。
「俺が何時にこようが、俺の勝手だろうが」
不良っぽく乱暴に言い放つ。
不良めいた口調もこのごろではすっかり板についてきたが、いつになっても気持ちのいいものじゃない。
もっと普通に話せたらいいのに。
おはよう、高落。そっちこそ早いじゃないか。とか、そんなふうに。
「そりゃそうだけど……」
「だいたい、そっちだって似たような時間に登校してるじゃねえか」
「俺は、生徒会の用事があるからだよ」
靖介は、今年の選挙で生徒会副会長に選ばれた。
生徒会役員に推薦されるだけあって、靖介は優秀な生徒だ。
勉強はもちろん運動も得意で、クラスメートや教師から厚い信頼をおかれている。かといって、優等生ぶったところは少しもなく、気さくで明るい少年だった。
緑は整ったネクタイのノットをちらりと見た。
靖介は、ネイビーブルーのネクタイを歪みひとつなく結んでいる。だらしのないところはひとつもない。
エンブレムのついたダークブルーのジャケットとブルーグレーのスラックスをきちんと、しかし、堅苦しさを感じさせずに着こなしている。
俺も高落みたいに制服を正しく着たいのに、と羨ましく思ったが、今さら不良のイメージを覆す勇気はない。
噂によると、靖介は長身を活かして、中学校まではバスケットボール部に所属していたらしい。
整った顔立ちは、繊細でいて凛々しく男らしい。が、緑のような険しさは少しも感じさせない。
靖介は当たり前のように女子の人気も高かった。
見た目も性格もいい上に、勉強も運動もできるのだ。非の打ち所がないとは、靖介のような少年を差していうんだろう。
靖介の目がすっと花瓶に向いた。
「あれ、花が活けてある。七塚が持ってきたのか?」
「…………!」
心臓が竦み上がった。
「お、俺のわけないだろ。昨日の放課後にでも、誰かが活けたんじゃないのか」
「いや、俺、昨日の六時ごろに教室に寄ったけど、そのときは花なんてなかったよ。あれば気づいたはずだから」
「とにかく、俺じゃねえから」
緑は靖介の前をすっと横切り、教室を後にした。
屋上のドアには立入禁止の札がかかっているが、緑はかまわずにドアを開けて屋上へ出た。鍵はとっくの昔に壊れている。誰かが屋上へ出るために壊したのかもしれない。
九月中旬。夏の熱気を残している風が、緑の髪をなぶった。
フェンスに近づくと見咎められるかもしれないので、緑はいつもの位置に腰を下ろすと、塔屋に背中を預けた。
「……びっくりした」
まだ心臓がどきどきいっている。こんな時間に教室をおとずれる生徒がいるなんて思わなかった。しかも、それが靖介だなんて。
緑は先ほどの会話を反芻した。
感じの悪い態度しか取れなかったのが切ないが、しかたがない。なにしろ緑は不良ということになっているのだ。
「高落、普通に喋ってくれた……」
クラスメートたちは、誰も緑に話しかけてこようとしない。目をあわせようとすらしない。中学校のころからずっとそうだ。
悲しくないわけじゃないが、さすがにもう慣れてしまった。
でも、高落は違う。朝、顔をあわせれば「おはよう」と言ってくれるし、帰り際には「もう帰るのか? また明日な」と声をかけてくれる。
でも、会話らしい会話をしたのは、同じクラスになってから初めてだ。
いい奴だ。わかっていたけど改めて実感した。
高落靖介は緑の憧れだった。友人が多くて、みんなから信頼されている。緑みたいな異端児が相手でも態度を変えない。頼りがいがあって、穏やかで、でも、決して甘くない。
靖介みたいな人間になりたい。
それが無理なのはわかっているから、せめて友だちになりたい。
緑はずっとそう思っていた。
それも無理だということもやっぱりわかっていたのだが。
