余命一年の彼女に贈る習作

 新月の夜、真っ暗な病室で私は一人泣いていた。
 目を覚ますと顔全体がべっとり濡れていた。袖で拭い、体を起き上がらせる。デジタル時計で時間を確認すると午前四時。また微妙な時間に起きてしまった。体を起こしているのも辛いのでもう一度、横になる。眠れない。残った涙まで出てくる。
 仕方なく、私は天井を見つめた。
 天井の闇が段々と私に近付いているように見えて、やっぱり目を瞑った。楽しいことだけを思い浮かべることにした。
「……歩夢くん」
 歩夢くんがいてくれたら手でも握ってくれただろうか。
 私から離れておきながら、歩夢くんのことばかり考えている。泣かないと決めても、歩夢くんの夢を見るときはいつも涙を流している。
「会いたい、な」
 身勝手な言葉だとわかっている。それでも思わずにはいられない。
 今頃、何してるのかな。
 私のことなんて忘れて、もう恋人とか作ったのかな。
 それがいい。それが一番いい。
 連絡もせずに転院した時はすごく怒っただろうな。
 でも、せめて最後は嫌われたくなかった。
 好きな人に嫌われるって、覚悟してたけど辛い。
 生まれてきてから今までけど歩夢くんと過ごした日々だけは私の人生で最高の日々だった。簡単に手放したくなかった。
 未来の薄い私が振り返るのは過去ばかりだった。
 
 七年前、小学生の時に両親が離婚した。陽平が生まれたばかりの頃だった。
 父親との思い出は薄い。仕事で忙しい父は昔から私に構ってくれず、恭平が生まれた後も私と母が面倒を見ていた。あまり愛されていなかったのだと思う。幼いながら理解していたから、私も父を愛することはなかった。
 離婚すると聞いても何も思わなかった。父親と離れることが嬉しくも寂しくもなかった。
「……ばいばい、緋夏」
 父親のことで記憶に残っているのは、去る直前、私が寝ている時に額にキスしてくれたことだった。寝たふりをしていたけど意外に思っていた。多少なりとも娘への愛はあったのだと思う。
 一方、当時の私が愛していたのは飼い犬のペペだけだった。私の手をぺろぺろ舐めるからぺぺ。何をするにも一緒だった。外に出る時も私は友達にペペを自慢した。一緒に成長して、勝手に一緒に死ぬものだと思っていた。
 中学生になって、ペペは病気で亡くなった。その日は一晩中、泣いた。ペペのことが大好きだったから辛かった。
 最後、ペペはそんな私に夢を与えてくれた。
 病気の犬を救いたい、そんな感情が芽生え始めた。
 進路選択の時期になると、獣医の国家資格が取れる大学に入って獣医になるという夢ができていた。私は高校受験から大学進学のことを見据えて、第一志望を考えた。受験には失敗しても、私の夢は揺らがなかった。
 高校に上がって、私はすぐに勉学に励んだ。部活は入らず、獣医学部に入るという目標を掲げて勉強していた。努力すれば夢に近づくと信じて疑わなかった。金銭的な負担を減らそうと母の知り合いの喫茶店でバイトも始めた。忙しい毎日でも夢を追う日々は充実していた。
 そんな矢先のことだった。私たちの養育費を払っていた父が亡くなった。母は死因を私に伝えなかった。私の病気が遺伝性のものである以上、病死だと思っている。
 元々、裕福ではなかった上に未成年の子供が三人。獣医になるにはお金がかかる。養育費を払ってくれる人がいなくなり、私は夢を諦めざるをえなかった。行きたければ行ってもいいと母は言っていた。でも毎晩、家計簿をつけながら頭を悩ませている母をもう見たくなかった。働いたほうが楽だと思った。私は夢を捨てて、家族を選んだ。選択は正解だったと思う。どちらにせよ、私は夢を諦めることになっていたから。
 高校在学中に企業から内定をもらった。四月から社会人。夢は諦めても新しい生活に期待を寄せていた時だった。
「余命一年といったところでしょうか……」
 体調の悪い日が続いていたある日、病院に行って検査を受けると、医者から余命宣告を受けた。病気のせいで内定も取り消しになった。
 これからという時期にどうして。
 私はやりようのない感情をどこにも向けることができなかった。投げやりな気持ちでバイトばかりしていた。
 余命宣告を受けて、辛いのは私だけではなかった。夜、母がリビングで泣いているところを見た。私は家族のことが大好きなのだと気付かされた。好きじゃなかったら、母の涙を見て胸が苦しくなるわけがない。残りの人生は家族のために使おうと思った。
『死ぬまでにすることリスト』を作って、大好きな弟たちのために、大好きなお母さんのために、何かしてあげたいと思った。
「姉ちゃん、クリスマスプレゼント、違うのとどいた……俺が悪い子にしてたからサンタさんはいじわるしたの……?」
「そんなことない。恭平が良い子だったから意地悪したくなちゃっただけで」
「じゃあサンタさんなんて嫌い……」
 クリスマスの朝、恭平が涙ぐみながら私に抱きついてきた時があった。まだ何もしてあげられない自分が嫌だった。
 弟たちにプレゼントを好きなだけ買ってあげることもリストに入れた。
 困ったことに、してあげたいことには大体、お金が絡んできた。私は喫茶店でのバイトに勤しんだ。土日もバイトをするようになった。
 稼いで、稼いで、死のうと思った。
「私の人生、こんなものだよね」
 感情を無にして、死を受け入れていた。
 歩夢くんに出会うまでは。
 去年の初夏、若い男性が珍しく来店してくれた。ボサっとした髪にしわしわのシャツとジーンズ。正直、印象は薄かった。
「いらっしゃいませ。お席、ご案内しますね」
 
 二つ、三つ、上かな。
 考えながら席に案内しようとすると、男性は私の方を見つめていた。
「あの、何か?」
「い、いえ、すみません……」
 第一印象は、不思議な人、だった。
 男性は席に着くなり、すぐに勉強を始めた。格好いいなと思った。私は夢を追えず、勉強を諦めたからか、応援したくなった。
 それからも喫茶店が気に入ったのか、男性は頻繁に足を運んでくれるようになった。ミルクティーを頼んで、勉強をしたり、たまに絵も描いていた。
 私は彼のことが気になり始めていた。話しかけようか迷った。でも勇気がなかった。もうすぐ死ぬ人間だからと諦めていた。すると彼の方から連絡先を交換したいと伝えてくれた。嬉しかった。胸がいっぱいになった。
「加賀美 歩夢です。夢に歩くって書いて、歩夢です」
「夢に歩く……そっか、いい名前」
 仲良くなって、私はようやく彼の名前を知ることができた。加賀美歩夢くん。夢に歩くで、歩夢くん。素敵な名前だなと思った。
 それから歩夢くんとの交流が始まった。歩夢くんは弟たちとも仲良くしてくれた。からかった時の困った顔が私は好きだった。不意に見せる笑顔が好きだった。それが恋愛的な意味に変わるまでそう時間は掛からなかった。
 私はなんでもない時でも歩夢くんのことを目で追うようになっていた。目が合うだけでドキドキして、胸が満たされるような感覚になる。
 会いたい、もっと話したい。
 デートに誘われた時は内心で飛び上がるほど喜んでいた。そこでやっと、私は歩夢くんのことが好きなんだなって気が付いた。
 念入りに準備して、歩夢くんにまた可愛いって言ってもらいたかった。
 でも、デートには行けなかった。
 病気が私の邪魔をした。申し訳なかった。泣きたくなった。それでも歩夢くんは病気の私を受け入れてくれた。出会えてよかったと心の底から思えた。
 紆余曲折あったけど、付き合ってほしいと言われた時は本当に嬉しかったな。その時は先延ばしにしたけど、返事は告白された時から決まっていた。
 歩夢くんのおかげで私はもっと生きたいと思うようになった。自分を大切にして、病気にも向き合うようになった。もっと笑えるようになった。
 付き合ってわかったけど、やっぱり歩夢くんは素敵な人だった。私だけに留まらず、母までも笑顔にさせてしまった。会わせて正解だったなと思ったし、この人と付き合ってよかったなと改めて思った。
 病気で体が蝕まれていくのが分かっても、歩夢くんがいたから耐えられた。
 大好きで、大切な私の彼氏。
 だから、私に隠し事をしていた時は本当に悲しかった。
『長期留学に行く』
 張り紙にするほど目指していて、亡くなった母との約束。留学の案内用紙に大きくバツマークがつけられたのを見て、嫌な予感がしていた。
「ねえ、歩夢くん、留学は行かないの?」
 案の定、歩夢くんは留学を諦めていた。私のせいだった。
 歩夢くんは優しいから。でも、私は歩夢くんに夢を諦めてほしくなかった。夢を諦める悔しさは私もよく分かる。
 私を捨てれば、歩夢くんは夢を選べる。
 別れ話を切り出してまで、私は歩夢くんに留学を取らせた。余命も縮んだ。正解の選択だと思った。
「あなたのことが嫌いですって、面と向かって言った方がいい?」
 嫌な言葉をたくさん言った。私から振ったのに、一人で泣いた。
 でも歩夢くんは最後に、私を選んでくれた。
 私を選ぶなんて馬鹿だと思った。
「大馬鹿だと思うよ。自分でも大馬鹿だと思うくらい、緋夏のことが好きなんだ」
 ロマンチックなセリフを言われて、私はやっと歩夢くんの胸の中で泣いた。歩夢くんが思っているより、私は歩夢くんのことが好きだ。でも歩夢くんも私が思っていたより、私のことが好きだった。嫌いになるわけがなかった。
 ファーストキスもして、幸せだった。幸せな毎日が続いた。ずっと続けばいいのにと思った。生きたいと思った。死にたくないと思った。
 年を越す前、そんな私に悪くない話が飛び込んでくる。
「……転院した方がいいかと思われます。関東の大学病院で最新の手術を受けられる場所が一箇所あります。命が助かるかもしれません」
 生きたい私に生きる方法が提示された。でもそれは歩夢くんがいない世界での話になった。
 転院の話を聞いて、真っ先に考えたことは歩夢くんと一緒にいられる方法だった。
 歩夢くんに一緒に行こうとお願いする。お願いしたら来そうだから、ダメ。大学もあるのに、歩夢くんの人生に消えない傷がついてしまう。
 歩夢くんと話をしてお別れする。拒否しても来そうだから、ダメ。
 転院しない。歩夢くんも、お母さんも、弟たちも悲しませたくないから、ダメ。
 残った選択肢は歩夢くんに話をせずに転院してしまうことだった。
 何度も、何度も、考えた。
 結局、お互いにとってベストな選択は最後の選択肢しかなかった。私は生きて、歩夢くんは留学に行く。案内用紙を見た時、募集は一月までだったから間に合う。
 去る前日に歩夢くんと出かけたのはあんまりだったかもしれない。もう終わると思うと辛くて、最後に思い出を作りたかった。でも後悔している。
 書いたメッセージは渡さないことにして、担当の看護師さんに伝言を渡してもらうことにした。
『さようなら』
 私たちの積み上げてきた関係はたった五文字で終わった。連絡先も消した。
 好きだった。
 ううん、今でも大好き。
 去る直前、荷物をまとめていた時、トートバッグにつけた犬のキーホルダーが見えた。
 気づけば、私は家族の前で泣いていた。もう歩夢くんには会えないんだって思うと、辛かった。キーホルダーを握りしめて、私は声を上げて泣いた。
「辛い……辛いよ。もっと、ずっと……私は……」
 私は歩夢くんといることより生きることを選んだ。その代償はあまりにも大きかった。
 私はいつかの再会を想像する。
 生きていれば、その先で会えるから。
 なんて、そんなわけないのにね。

 昼過ぎ、すっかり明るくなった病室で私は目を覚ました。随分と眠っていた感覚があった。朝、看護師に起こされた記憶がない。横を見ると、母が私の手を握っている。
「ああ、起きた……よかった」
 母は今にも泣きそうな顔で自身の額を私の手の甲に当てる。
「朝は状態が危なかったの……目を覚ましてよかった」
「……そっか」
 私はため息をついた。いつ死んでもおかしくない体になっている。起き上がるのも億劫で顔だけを窓の外に向けた。絵になりそうな広大な空、と心の中でつぶやいてみる。
 明日に控えた手術。
 成功しなければ私は死んでしまう。
 生きなければいけないとは思う。大好きな家族を泣かせたくない。でも生きた先の未来で歩夢くんはいない。体が辛いのも重なって、生きたい、より、解放されたいという気持ちの方が強かった。
「お母さん」
「……どうしたの?」
「なんでそんなに震えてるの?」
 母の手から私の手に振動が伝わってくる。
「恭平と陽平がね……起きたら、家からいなくなってたの」
「……そっか」
 内心では驚いていた。
「大丈夫。あの子たちは戻ってくるよ」
「……そうね」
 私は心配させたお詫びに笑顔を作ってみせる。母は笑ってくれなかった。
 恭平と陽平が家出。よっぽどの事情があったか、家が嫌になったか。
 私は力を振り絞って手を握り返した。
 結局、二人が帰ってきたのは夜遅くのことだった。母からの連絡で知った。
『二人が戻ってきた』
 その一文にどれだけ母の感情が含まれていたことか、想像もできない。
『どうか怒らないであげて』
 私は返信して、スマホを閉じた。
 手術前、二人に会えるのは今日が実質、最後だった。明日になると、二人の顔を見れるのは病室から手術室へ移動する時だけ。
 午後十時。部屋の電気はすでに消えている。個室だからか、暗闇が怖い。
 あと十二時間後には手術。
 明日、私は生きるか死ぬかが決まる。失敗してもすぐに死ぬわけではない。ただ、生きる道は閉ざされる。成功すればこれからも生きられる可能性が高くなる。手術の成功例が少ないせいで、それも絶対とは言い切れない。
 緊張はしていなかった。
 生きるも死ぬも、内心ではどっちでも良いのかもしれない。
 考えながら、私は目を瞑った。

 朝、起きてから手術開始までの時間の流れは早かった。軽い検査や確認をされて、緑の手術衣に着替えて、担当医や若い看護師と話した。笑いも生まれた。緊張をほぐそうとしてくれたのだろう。
 緊張はなかった。ただ、歩夢くんを振った後悔が今更ながら生まれた。
 もう一度、歩夢くんに会いたい。
「死にたく……ないな」
 気づけば、私はそう呟いていた。看護師さんが私の手を取る。
「やっぱり怖い?」
「……いえ、そういうわけじゃないんです」
「いいのよ。怖いと思って、当然だもの」
 私は数秒間だけ間を置いて、歩夢くんのことを考えた。
「看護師さんは、好きな人っていますか?」
 私が聞くと、看護師さんは顔を赤くした。隣の医者をチラッと見た後、首を横に振る。
「べ、別にいないです。突然ね」
「ふふ、そうですか」
 私は思わず笑ってしまった。わかりやすい看護師だ。
「私も……好きな人がいるんです。もう会えない。でも、やっぱり会いたくて、会いたくて仕方がないんです」
 歩夢くんは元気かな。立ち直ったかな。もう留学に行ってるのかな。夢を叶えたのかな。そうだと、いいな。
 最後くらいは歩夢くんに嫌われたくなかったな。
 そうして手術室まで移動する時間になった。医者は立ち上がって、言った。
「生きていれば、また会える。生き続けていれば」
「……そう、ですね」
 言葉での励ましに私の心は少しだけ救われた気がした。
 歩くことさえままならない私は車椅子に乗って手術室まで移動する。病室の扉から出たところに、母と弟たちが待機していた。
「っ……姉ちゃん!」
 恭平は今にも泣きそうな顔で私の横を歩く。
「おはよう。お母さんのこと、あんまり困らせちゃダメだよ」
 私は恭平に笑顔を見せる。一方、恭平も母も不安と心配が顔に出ていた。陽平は無表情で俯いていた。
「大丈夫だよ。私、昔からしぶといから」
「……緋夏」
 母が私の名前を呼んだ。ちょうどエレベーターの前に着いた。これでお別れだ。看護師が車椅子を反転させて、私と家族が向き合う。
「何? お母さん」
「二人から緋夏に渡したいものがあるんだって」
 恭平は涙いっぱいの目を拭う。そして先ほどから抱えていたスケッチブックを私に手渡した。
「……これは?」
 問いかけるも返事は返ってこない。恐る恐る、私はスケッチブックを開けた。
 そこには私が、私の姿が描かれていた。
 一ページ目、折れがついている。
『誕生日』
 カフェで働く私の様子が描かれている。絵の上手さからして陽平が描いたものとは思えない。一見、絵がタイトルと重なる要素はない。でも、こんな絵が描けて、こんなタイトルをつけられる人物を私は一人、知っていた。
 二ページ目からも私が描かれていた。全てのページにタイトルがつけられている。
 四ページ目。
『可愛い店員さん』
 七ページ目。
『笑顔』
 十二ページ目。
『出会い』
 十三ページ目。
『頑張り屋さん』
 十五ページ目、折れつき。
『おどろき』
 十七ページ目、折れつき。
『めざめ』
 十八ページ目、折れつき
『でーと』
 二十ページ目、折れつき。
『ともに』
 二十四ページ目、折れつき。
『うりみっつ』『。』
 最後のページにだけ私はいなかった。代わりに左側に恭平と陽平、そして右側に歩夢くんが描かれていた。右側だけ不格好だが歩夢くんだとわかる。眺めていると、陽平が落ち着かない様子で私を見ていた。陽平が描いたのだろう。
 私は二人を抱きしめようとした。その前に視界が歪んだ。目が熱くなって、頬が濡れる。気づけば、スケッチブックを抱えながら、私は泣いていた。
「歩夢……くん……」
 歩夢くんは私が言ったことを覚えていた。ううん、最初からずっと実行していた。
『いつかさ、私の絵も描いてよ』
 ずっと歩夢くんに私の絵を描いて欲しかった。最初は何となくだった。でも後から、好きな人にずっと忘れて欲しくなくて、歩夢くんに私のことを忘れて欲しくなくて、描いて欲しかった。それぐらい、私は、歩夢くんのことが大好きだった。
 歩夢くんは私が言ったことをしっかり覚えてくれていた。歩夢くんは、このスケッチブックに、私のことを描いてくれていた。
「姉ちゃん」
 恭平は私に近づき、再びスケッチブックを開いた。
 一ページ目。最初のページで、折れのあるページだった。
「頭文字」
「……どういうこと?」
「いいから」
 私は折れのあるページの頭文字に注目して読み上げた。
「……誕生日おめでとう。」
 二月、私の誕生日。本当はこれを渡そうとしてくれたのだろう。私は歩夢くんと離れたことを後悔した。同時に、いい選択だったのかもしれないと思った。
「昨日、兄ちゃんに会ってきた」
「……私に何か言ってた?」
 恭平は首を横に振った。
「……そっか」
「会おうって誘った。でも兄ちゃん、留学に行くって言ってたから……」
「っ……そっか、そっか……よかった」
「姉ちゃん、何で笑ってるの?」
「だって……歩夢くんが夢を叶えてくれたから」
 私は目に焼き付けようともう一度、スケッチブックを見る。一週して、ふと、最後のページをめくった時だった。
『習作―世界で一番好きな人―』
 タイトルが、綴られていた。
 私はスケッチブックを閉じて、恭平に返す。
 もう泣かない、今は後悔もしない。
「ありがとう。恭平、陽平」
 泣き出しそうな弟たちに、私は笑う。
「お母さん、いつもありがとう」
 心配性の母に、私は笑う。
「私、頑張るから。信じて待ってて」
 もう一度会えると信じて、私は生きる。
 後ろは振り返らない。
 看護師さんが車椅子を動かす。大好きな家族に手を振り、私は業務用エレベーターに乗り込んだ。
 わずかな緊張を取り払うかのように、私は笑ってみせた。